第13話 この世の肥溜めみたいな場所 その2

 流し台にはすでに、半分の深さまで水が張られていた。

 定則が中に残っていたコップを引き上げると、真理がノッカーを水面に浸した。


「じゃあいくよ」

 真理はそう前置きすると、とあるリングを選んでノックした。

 流し台の水が濁り、輝く白に変色していく。そう時間を経てずに水面が渦を巻き始め、波紋が広がっていき、唐突に犬の前脚が飛び出した。

 定則は今更ながら、その脚の大きさにおののいた。人一人は楽に握りしめれそうだ。


「給料払えェェェ!」

 脚は絶叫と共に、見境なく爪を振り回した。とにかく何かを傷つけることが出来ればいい。少しでも召喚者に手傷を負わせたい。そんな負の感情が、ひしひしと伝わって来る。

 前脚は家の壁を引っ掻き、凶悪な爪痕を遺しつつ壁紙を引き剥がす。勢いは止まることなく、キッチンの調理用具を轢き倒して撒き散らした。

 真理はノッカーを流し台に浸したまま、屈んで隠れている。

 定則は余りの激しさに棒立ちのままだ。

 一方でイエナは強敵の出現に、うれしそうに鼻を鳴らした。


 デタラメに振り回された前脚が、定則を横なぎに払おうとする。爪がその身体を切り裂く寸前、イエナが身体を張って受け止めた。

 イエナは力強いだけではなく、器用でもあった。前脚の肉球に片手を当てて、爪に触れることなく防いでいた。


「抵抗するか小童がぁぁぁ!」

 前脚は絶叫すると、渾身の力を振り絞って小刻みに震えだした。

 イエナは最初こそ余裕の表情だったが、すぐに苦渋を滲ませた。すぐに肉球に当てていた手を、一本から二本に増やした。最終的には肩を当てて、身体全体を使って脚を抑えようとした。


 イエナと前脚の力比べが始まる。

 前脚が生えている流し台が、拮抗する力に耐えられずに歪みだした。イエナが踏ん張るリビングの床も、軋んだ音を立て始める。

 定則は呆然と勝負の行方を眺めていたが、ふと我に返って頭を下げた。

「お願いします! 話を聴いて下さい! お願いします!」

 前脚の動きがぴたりと止まる。イエナは急に力を抜かれて支えを失くし、地面にうつ伏せに倒れこんだ。


「ム……今何と申した!? つまらぬことを言ったら引き裂いて肉片にしてくれるぞ!」

「話しです! 話しを聴いて下さい! あなたにとっては下らぬ戯言に過ぎないかもしれません! ですがお願いです! 今一度俺にチャンスを下さい!」

 定則は何度も深いお辞儀を繰り返した。すると前脚は暴れるのをやめて、ヒタリと居間の床を踏みしめた。

「で……では話を聴こうか?」

 願ってもない返事に、定則は聞き返す。

「き! 聞いて頂けるのですか!?」

「むしろしてもらえるのか?」

「え?」

「うぬぅ?」

 しばらく気の抜けた沈黙が、辺りを支配した。


 定則と前脚は互いの出方を窺うように、固まったまま向かい合った。

 居間の時計の音が、嫌に大きく聞こえた。場の空気が徐々に気まずくなっていく。

 定則は何を言っていいのか分からない。そもそも目の前にある前脚が、一体何なのかすら分からないのだ。

 知っている人物と言えば——


「真理? 話しをしてもらえるってよ?」

 定則は洗面台の影に隠れている真理に声をかけた。

 真理は洗面台に張り付いたまま、こちらも振り向かず首だけを振った。

「え~、でも私契約の現場にいなかったから、何が何だか分からないよ~。とにかく執事の話を聴いて。そしたらそいつもクビにするから」

「テメッ……コノ! お前の問題だぞ!」

「話す気があるのかないのか!?」

 定則たちの煮え切らない態度に、前脚が苛立しそうに床に爪を立てた。


 定則は仕方なく、少し迷った後、言葉を選んで聞いた。

「あの……大変失礼なのですが、私は貴方の身に何が起こったか良く分かんないのです。しかし何とか問題を解決したいと思っています。腹が立つでしょうけど、どうにか一から話して頂けませんか?」

 前脚は戸惑うように、指を蠢かせた。それから考えをまとめるように、爪先で床をコツコツと鳴らした。


「まぁ話をすると言ったからには、論を交わさねばなァ。しかし儂が責を問いたいのは貴様らではないのだが……まぁいずれにしろ儂の身の振りを定めるなら、今の契約を終わらせるのが先決か。儂の名はエニスクじゃ」

「あ。常盤定則です」

 前脚――エニスクは床を爪で叩くのをやめると、注目を促すように人差し指を立てた。

「儂は契約者と十年契約を交わした。月に一度、一トンの食糧を賜る代わりに、呼べば馳せ参じ力を貸すという契約じゃ。しかしその契約が守られたるは七年のみ。残り三年分。つまり四十二トンの食糧が未払いなのじゃ」


 定則は数字に混乱して、指で空に文字をかいて計算した。

「えと……俺の次元と違ってそっちの一年は十四カ月なんですね……それはいけませんね……」

「お主……まともじゃな……こちらの状況を推測するわ……同情するわ……」

「いや……それが普通ですよ……つかぬ事を窺いますが、その食料が届かなくなった三年前に、一体何があったんです――」

「よう聴いてくれた!」

 エニスクは定則の声を遮り、歓喜の声を張り上げた。拳を握り締めると、怒りをぶちまけるように床を殴りつける。床はついにその力に負けて、砕けて木っ端を撒き散らした。


「まず最初から話さにゃなるまいて。契約当時、儂は召喚獣に成り立てでな、とかく名高き者に仕える事だけを切に願っておった。勇者に使役され、賢者の探究を助け、王家を守るのが儂らの誇りだからじゃ。じゃがそれらは人気職で、なかなか求人が見つからん。そんな中、一つだけ避けられるように残っている、王家の求人を見つけたのじゃ」

 定則はそこで察して、真顔になった。丁度一か月前の自分を見ているようだ。

「やらかしましたね」

「やらかしたわ。思えば面接の際、妙に威厳のない親父を目にした時点で、おかしいと思うべきじゃった。せめていきなり隣の執事をビンタしたところで帰るべきじゃった……」

 エニスクの脚は、後悔に苛まされる様に小刻みに震えていた。


「その時の儂はまだ新人。契約は前金ボーナスナシの完全月給。恒久資産である宝玉石ではなく、腐る食品の報酬。自分を投げ売りするような物じゃが、王家での職務経験を得るためと割り切り、儂は取り決めを交わした。そしてあの地獄のような日々が始まったのじゃ!」

 エニスクは再び握り拳を作り、天に向かって掲げた。それは憤怒と恥辱に強張りつつ、拭えきれぬ恐怖に戦慄いていた。


「仕事と言えば、畜生のひれた糞を掴むような物ばかり。不名誉極まりない、あのド腐れ共の尻拭いじゃ。原因の分からぬ争いの仲介や、後始末に引きずり出され、儂の神経は削れていった。そして肝心の報酬すら、良く分からん魚の様な有機体で支払われたのだ!」

「うわぁ~……それって多分日本の近代歴史に詳しい出世魚じゃないですか……? 苦手な人もいるんですね……」


「儂はそれでも我慢した。ただ食料とだけ記し、その仔細を聞かなかった儂に落ち度があったのじゃからの。故に契約の満期まで耐うる覚悟をした。したら今度は、ゴミが放られるようになったのじゃ。奴らあんな腐った供物を捨てておるせいか、儂の次元をごみ捨て場か何かと勘違いしおったのじゃろう! 儂も流石に堪忍袋の緒が切れた! だからゲートが開く度に前脚を振り回すことにしたのじゃ!」

「そんなんじゃあ、腕の一つ二つ振り回したくもなりますよね」

「すると今度は何じゃ!? 開けば切り裂かれる危ないゲートとでも思われたんじゃろ! 一切合切連絡がつかなくなり、儂への給料も払われなくなった! それが三年じゃ!」


 エニスクはそこまで言い切ると、満足したように脱力して床に伸びた。それから弱気になって、爪の先で床をほじくり始めた。

「それから契約次元であるゲートの中で、細々と生きておったのじゃが……さすがに疲れた……とっとと話を終わらせて、儂は次に進みたいのじゃ……」

「あ~……それで未払い分の四十二トン。受け取りたいわけですね? すいませんちょっと待って下さい。真理! ちょっと来てくれ」

 真理はエターナルノッカーを流し台に残して、定則とひそひそ話しを始めた。


「俺は四十二トンも食料用意出来ねぇよ。お前ツテはないのか?」

「え? スーパーとかコンビニとかあるじゃん」

「誰が金払うと思ってんだ! 間違ってもノッカーを使うんじゃねぇぞお前ェ! れっきとした犯罪だからなぁ! お前王家だろ! 財力とか権力とかないのかよ?」

「ゆうてボーダーランド王家って、権力者とかじゃなくてミーム汚染力の高いシンボル的な存在だから。国民の理解と興味とその場のノリが無ければ滅多なことできないし。どうしよう? 魚のいる次元でも探す?」


 真理の発した言葉に、定則の腰が引けた。視線を脇にやると、密談する二人をイエナが睨んでいる。異世界冒険の末に手に入れてしまった、一生の呪いだった。

「バッカいわば俺は針で、お前は餌みたいなもんだよ! 下手したらまた変なもん釣り上げちまうかもしれないだろ! これ以上は俺死んじゃうよ!?」

「そうだ。私みたいなアタリがかかる事なんて、まずありえないんだぞ」

 定則と真理の距離が、あまりに近すぎたせいだろうか。イエナが二人の間に割って入ると、奪い取るように定則を腕に抱いた。


 定則は乾いた笑いを浮かべることしかできなかった。

「ああ。大当たりだ。イッキリーで我慢しとけばよかったんだ」

 真理は困ったように唇を尖らせた。

「じゃあ執事は諦めて、他のお世話する人探そうか?」

「それなんだよなぁ……待てよ。そもそも執事はどうしてるんだろ」

 定則は流し台を振り返る。

 エニスクは定則たちが話している間、ずっといじけていたようだ。床を爪でほじくり返し、板を剥がしてしまっていた。


「あのエニスクさん? 以前腕を振り回した時に、人間を引っ掛けませんでしたか?」

 定則が聞くと、真理はそれに情報を付け加えた。

「見た目はジジィで、中身は子供の様な、燕尾服を着た奴だけど」

 エニスクは思い出したように腕をぴくりとさせる。そして境界の中に引っ込み、一人の男を摘まんで再び姿を現した。

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