第12話 この世の肥溜めみたいな場所 その1
早朝、起きた定則がする事。
熱いシャワーを浴びる事。
今日から新しい一日が始まる。
良い一日か、悪い一日かはわからない。それでも今日の自分は、それらを乗り越えなければならないのだ。
定則はそのために毎朝、昨日までの自分をシャワーで洗い流すことにしていた。
服を脱ぎ、風呂場の戸を開ける。そして鼻をついた異臭に顔をしかめた。
湯船には濁った水が張られていて、水面に藻やら蓮の葉が浮いていた。水面下には何かが潜んでいるらしく、ざわざわと波が立っている。
定則が一歩引くと、水面を割ってひょっこりと魚が頭を出した。ごつごつした歯と、紫の腫瘍を鱗として持った魚だ。それは魚眼を定則に向けると、口を動かした。
「固より狂で良い。我らが地に塗れるようになれば誰ぞ――」
定則は無言でドアを閉めた。先ほどまで胸に満ち溢れていた、朝の清々しさはもうどこにもない。胸中には換気が不可能なほどの、暗い空気が充満していた。
重くなった気分を引きずりつつ、衣服を着直す。そして鈍い足取りで真理を探すことにした。
真理は廊下を挟んで風呂場の向かいにある居間にいた。今日は日曜部で学校は休みであるが、それでもセーラー服姿のままだ。よほど気に入ったらしい。
真理はエターナルノッカーを握り、水が張られた流し台の前で顎に手を当てていた。
「真理。風呂場の出世魚をどこかに移してくれ。育てるのはいいけど家の中ではヤメロ」
「あっ。ごめん戻し忘れてた。でもちょっと待ってねぇ、こっちが上手くいかないと、そっちもむずかしいから」
真理は振り返らず、声だけで答える。いつもと異なる対応に、定則は気を引かれた。様子を窺うため真理の顔を覗き込むと、いつもの笑顔ではなく深刻そうなしかめっ面をしていた。
「真理……どうしたんだ?」
真理はエターナルノッカーの柄で、シンクをコツコツと鳴らした。
「ん~? えとね、クソビッチのロインを、ボルゴランドに置いてきたよね」
定則は複雑そうに、口をいの字に広げた。クビになったと思っていたが、置き去りにされたらしい。ロインがあの世界で生きていくのは難しいが、それでも助けに行く気になれない。それが複雑たる由縁だった。
「ああ。道理であれから見ねぇと思ったよ。それで? 助けたいのか?」
「やだよ。あの駄犬、差し伸べた手に絶対噛み付くもん。そうじゃなくて、私の身の回りの世話をする人がいなくなったから、異界に引きずり込まれた執事を呼び戻そうと思ってさ。だけど給料払ってないから、えらい事になりそうで、二の足を踏んでるの」
定則は不意に襲った頭痛に、額を手で押さえる。ただでさえ理解しがたい事が起こっているのに、知らない情報がどんどん出て来るから処理が追いつかない。
「一から詳しく話せ。まずその杖を置こうか?」
定則は真理の腕を掴んで、間違っても流し台に浸せないようにした。
*
定則は真理から話を聴き終えると、深い首肯を繰り返した。
「成程、よ~く分かった」
定則は机を指で叩き、真理の話の確認を始める。
「要するにこの次元に来る前に、あるドアノッカーで異界を開いたら、そこから手が出て来て執事を引きずり込んだと。それで真理の言うことをきく執事は、ロインとそいつしかいないから、引き上げる必要があると。だけどそのノッカーのコントラクターには給料を払ってなくて、下手したらイッキリーみたいにブッ叩かれる。だから足踏みしているという訳だな?」
真理は浅く頷いて見せる。そして気まずそうに頭を掻いた。
「やっぱダメかな?」
「とんでもねぇ。今すぐ行くぞ、その人を助けにな」
定則は机に身を乗り出して、力を込めて言った。真理はほっとしたように胸を撫で下ろしたが、笑顔には陰りがあった。
「でも私さぁ、そいつ嫌いなんだよねぇ。だからできるだけ使いたくないんだけどねぇ」
定則は戒めるように、机を拳で叩いた。
「好き嫌いの話じゃないだろ。命がかかってんだぞ。そうだ! これはお前だけの問題じゃない。王家の問題だろ。給料を払ってないのはお前の親なんだから。両親を頼ったらどうだ?」
「お父さん次元超越者協定違反で逮捕されたよ。今アークランド矯正施設にいるよ」
真理のあっさりした言葉に定則は固まる。やがて意味を理解すると、机に両手をついて絶叫した。
「なんでぇぇぇ!?」
「イッキリーがもっていたノッカーね、あれお父さんの物だったんだ」
「親父ィィィ! そして真理ごめんなァァァ! あんな事言ってェェェ! ていうかお前大丈夫なのォォォ! 国に戻らなくてェェェ!」
真理はさして気にしていないようで、先程淹れたお茶を啜って一息ついた。
「どーせ初めての事じゃないし、執る政治もないし、お母さんがいるし、それは大丈夫なんだけど……そうなるとお母さんはお父さんがいなくなって忙しいから、手を貸せないって言うだろうね。自分で何とかするしかないんだよねぇ」
定則はやけ飲みするようにお茶を煽り、叩き付けるようにしてカップを置いた。
「新しい執事を探すのはめんどいんだ。次元超越者協定の定める資格取らないと駄目だから。それといい人材はいるけど、あれ定則の言う事しか聞かないでしょ?」
真理はそう言って、背後を親指で差した。釣られて定則も真理の肩越しに、家の中央を走る廊下を見た。そこではイエナが洗濯籠を手に、玄関へ出ようとしているところだった。定則の母から拝借したタンクトップと、タイトジーンズを身に纏っている。
ボルゴ族特有の輝く金糸と、燃える赤い瞳、よく焼けた肌、そして服の上に羽織る毛皮以外は、この世界に上手く溶け込んでいた。
イエナはあれから定則の家で、お手伝いとして働いている。真理のミーム汚染のおかげか、定則の両親とイエナの対面はすんなりと進んだ。両親はイエナを客人としてもてなし、イエナは照れながらそれを受けた。
問題はその後だった。
イエナが定則と添い遂げるため、家に住み込みで働くと言い出すと、両親は二の返事で受けたのだ。真理のミーム汚染に橋渡しされ、イエナの文化も常識として受け入れられてしまったのだろう。定則の必死の抵抗も虚しく、今では真理の隣の部屋で床についている。
「旦那。どうかしたか? 何か困ってるか?」
イエナは定則の視線に気付くと、洗濯籠を放り出して居間に入って来た。
定則はそっと真理に顔を近づけて囁いた。
「手伝ってもらうか? 強いしあの犬の手とも渡り合えるだろう」
「心強いからその方がいいね」
イエナはひそひそ話をする定則と真理を、面白くなさそうに見つめている。
定則はコホンと咳払いをすると、イエナに手を合わせた。
「ちょっとお願いがあるんだけどいいか?」
「旦那の言うことなら何でも聞くぞ」
イエナは満面の笑みで答えた。それはイッキリーを否定した定則には重かった。
「旦那じゃなくて……友達としてお願いしたいんだけど」
「? 何言っている。旦那は旦那だぞ」
定則はがっくりと肩を落とした。何を言っても無駄な用である。
「何でもない……洗濯物俺がやっとくから、たまには遊びにいけよ……」
定則はイエナに背を向けて席に戻る。すぐに真理が机越しに、上半身を寄せてきた。
「なんでだよぉ。頼めばいいじゃんかよぉ」
「ほっといてくれ。それより速いとこ済ませちまおう」
定則はぶっきらぼうに言うと、流し台を顎でしゃくった。一連の流れを見ていたイエナは、仲間外れにされまいと躍起になったようである。ムキになって顔を赤くし、定則の隣に並んだ。
「いんや。何かあるだろ。私は良妻だからな。腐った肉だろうと一枚噛むぞ」
定則は両手で頭を掻き乱す。そして涙目になりながらイエナの両肩を掴み、眼の前まで引き寄せた。
「イエナ! この際ハッキリ言うけど、俺はお前の事好きでも嫌いでも何でもないんだよ! それどころか怖い! 怖いよ! 毎晩枕を濡らしてるけど、このままだと股間もグッチョグッチョになるよ! もう何べんも言って耳ダコかもしれないけど、俺は弱いしお前の事好きじゃないの! だからボルゴランドに帰って他の相手を探してくれないか!」
必死の訴えである。しかしイエナは『そんな事』と、微笑を浮かべて聞き流した。
「そんなこと知ってるし、別に気にしていないぞ。旦那はいくらでも他の雌を好きになればいい。それと戦い、真に一番の雌は誰か証明するのが、私の仕事だ。旦那が私の価値に気付くまで、私はずっと添い遂げる心積もりだ。だから気にするな」
定則の世界とボルゴランドでは、愛の価値と意味がかなり違うようである。定則はボルゴの愛し方を理解したくはないし、イエナもここでの人の愛し方を理解するつもりはなさそうだ。
どん詰まりになって、定則は机に拳を振り下ろした。
「気にするに決まってんだろ! 俺が恋するたびにガラスのマインドの如く相手をクラッシュされたら堪らんわボケェ! 止めろ止めろ止めろ俺が恋するたび血で幕を引くのは止めろ! 何が文化交流だ! 首輪は外れたが人生の墓場に叩き込まれたぞマンマンマァァァン!」
定則は拳をトンカチのように振り回し、机を殴打し続ける。やがて肩で息をするようになると、イエナに見切りをつけて一人先に流し台に向かった。とにかく何かをして、現実から逃げたかった。
定則の暴れっぷりを、真理とイエナは遠巻きに眺めていた。やがてイエナが、真理の尻を叩いて詰問した。
「何で旦那の機嫌が悪いんだ? お前なんかしたのか?」
「さぁ? ここの文化を学んだら分かるかもよ。私は分かんない。だってせっかくいいキープが出来たのにさ、定則はちょっと意味わかんないよね」
「だよなァ……おかしい話ではないはずだなァ」
真理はエターナルノッカーを抱えて流し台へと走った。イエナも考えるように口元でぶつぶつと呟きながら、その後ろに続いた。
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