第8話 俺の最強の勇者 その3

 視界に飛び込んできた世界は、定則が欠片も知らないものだった。

 空は鈍雲が立ち込めており、陽の光を受けて朱色に輝いていた。

 辺り一帯には、荒れ果てた大地が広がっている。草木は申し訳程度に枯草が点在するだけで、他に眼につくのは大地を隆起してできた棘の様な岩だけだ。土は赤茶けており、岩も赤黒い色をしている。空の朱も相まって、この世界は終焉を迎えたように、黄昏の中に沈んでいた。


 定則はこの荒んだ世界の、巨大な池で泳いでいるのだ。池の縁では、真理が一足先に泳ぎ着いている。定則は警戒心から周囲に視線を配りつつ、真理の元まで水をかいた。

「ここって……もしかして……」

 池のほとりに来た定則に、真理が手を貸して陸へと上がるのを手伝った。

「そうだよ。別の次元だよ。ここなら大丈夫でしょ。さすがに追って来れないはずだから」

「た……確かにそうだな……だけど俺の家にキ○ガイが二人もいるんだけど!? 嫌だよ俺! 家に帰ったら廃墟になってたら!」

 定則は喚きながら、衣服が吸った水を絞る。乾いた大地は水を吸わず、その上に緑の水溜まりを創り上げた。


「じゃあこうしよう。この池を使って、一回定則の家をこの次元にもってくるの。それから元に戻せば、キ○ガイがこの世界に残るよ」

「家が水浸しになるだろーがコンチクショー! ていうかあいつは一体何なんだ!? マジでお前知らないのか!? お前また変な事したんじゃないだろうな!」

 定則が真理に掴みかかる。真理は頭に来たようで、笑顔を硬くして定則の手を振り払った。

「私は何もしていないじゃん。最近は勝手にノッカー使ってないし、きちんと文化学習してるよぉ。定則こそこっそりノッカー使って勝手に何か呼んだんじゃないの!」

「俺のせいにすんじゃねーよ! 言っとくがよぉ、俺はロインがお前の杖使って異界の代物仕入れてんの、見たことがあるんだからな! テメェさてはロインとあのキ○ガイとグルで、俺の世界をどうにかしようって魂胆か!?」

「は? 私それ知らないよ。何でそれを教えてくれなかったのよ!? それってソーセージがフライパンを炒めるような物じゃん立派な反逆だよ! っていうか定則こそロインの黙ったげるかわりに、見返り求めたんじゃないの? 体とか体とか体とか!」

「あれはロインが勝手にやったんだよ! 大体部下の不始末は主の不始末だろ! お前そうやって自分の失態を、俺に押し付けるのを止めろよ! お前がチャンチャラしてるからこうなったんだぞ!」


 定則の暴言に、真理は拗ねたように唇を尖らせた。

「ちょっとそれは酷すぎるんじゃないかな? そもそも定則がロインの事チクらなかったのも関わり合いになりたくないからじゃないの? ホームステイ受け入れた癖に無責任なんだよ!」

「何だとォ……」

 定則は険しい顔になり、真理は笑顔のまま眼つきを厳しくする。二人はそのまま睨みあった。

 その時、定則たちの脇で水面が揺らぎ始めた。

 二人の注意はお互いから、変化する池の方に移る。やがて水の色が濁った緑から薄い紫へと変わったかと思うと、渦を巻いて異世界への境界と姿を変えた。


 水面の中央で水柱が立つ。そして巻き立つ飛沫を雨の様に受けながら、イッキリーとロインが姿を現した。彼らは特殊な術を用いているのか、水に浸かることなくその上に立っている。

「逃がすと思ったのか……君らが悪意をばら撒く前に、この僕が仕留めてやる」

 イッキリーはゆったりとした足取りで、定則たちに迫って来る。その挙動からは、絶対強者の余裕がありありと滲み出ていた。

 ロインはその後ろを静々と付いて行く。だが池のほとりまで来ると立ち止まり、屈みこんでエプロンの裾を水につけた。

 池が見る見るうちにエプロンの中に吸い込まれていき、そこには大穴だけが残った。


「この池は封鎖させて頂きます。ああ。イッキリー様。素敵な殿方。早く下郎を始末してしまいましょう。最後のリミテッドノッカーを使ってしまいました。ここで逃す訳にはいきません」

「当然だ」

 イッキリーはほくそ笑み、屠殺を愉しむように、剣をぶらぶらさせて距離を詰めていく。


 定則と真理は踵を返すと、一目散に駆けだした。だが二人が向かう方向は、バラバラだった。

 定則はもう真理と関わり合いになりたくなかった。だから真理とは違う方向で、身を隠すものが多そうな山の方に走っていった。

 真理も定則と関わり合いになりたくなかった。自分だけで解決し、気兼ねない日常に戻りたかった。だから定則とは違う方向で、イッキリーを引きつけやすい見晴らしのいい方に走っていった。


 定則はとにかく必死だった。ひび割れた大地を蹴って後塵を散らし、十数分走り続けて山のふもとに辿り着く。彼は入り組むように交差する、山の畝を踏み越えて奥へと足を踏み入れた。そして池のある荒地が、山の畝に完全に隠れると、足を緩めて歩き出した。

「ここまで来れば大丈夫だろ……そもそもあのキ○ガイ、真理の方に行ったから問題ねぇな」

 定則は余裕を取り戻すとともに、周囲を見渡してみた。


 山は荒地とは違って、多少は草木の類が見られた。しかし枯木がほとんどで、定則でも折れそうな程細かった。山肌も土が剥き出しで、クレヴァスのようにあちこちに深い亀裂が走っている。

 異様な環境の中、定則は一人取り残されて身震いする。そして元の世界に帰ろうと思ったが、そこであることに気付いた。


「って大丈夫じゃねーよ! 俺どうやって元の世界に帰ればいいんだよ! 真理のノッカーが無いと帰れないぞ!」

 今まで逃げて来た荒野を振り返る。イッキリーが追ってきている気配はない。生き物の気配が無く、しんと静まり返った禿げた大地には、薄ら寒い風が吹きすさんでいた。定則は猛烈に心細くなり、その場で身震いした。

「くそ……結局助けなきゃなんねぇのか……くそったれめ……」

 定則は悪態をついて、地面を蹴りつけた。そして真理が逃げた方角に視線をやる。しかし胸中には理不尽な怒りと、それを和らげるための悪罵しか湧かない。定則は動くことを渋るように、その場でぶつぶつとこぼしながら立ち尽くした。


 しばらくして定則は、山肌を走る亀裂に、光を反射する何かがあるのを見つけた。小走りで近寄り、中を覗き込むと、そこには少しの水が溜まっていた。

「へ……そう言えば喉が渇いたな……こんなんでもないよりマシか」

 定則は亀裂の中を滑り下りていき、水溜まりの縁に屈みこんだ。そして軽く呻き声を上げた。

 水は薄紫色をしており、不純物を含んでいるのか濃淡が激しかった。とても飲めそうなものではない。それでも定則は渇きに喉を鳴らし、未練がましく水面を見つめていた。


 そして気付いた。


「え……これって……もしかして……」

 そっと水面に手を入れる。水を掻く冷たい感触はしない。手は境界を通るように水面の下へ抜け、その向こうの世界の空をかいだ。

 定則は確信に、水面に頭を突っ込む。彼の目の前には、見慣れた街並みが広がっていた。

 コンクリートで舗装された道路に、それを縁取る家の垣根。木の代わりに電柱が立ち並び、あちこちから車の排気音が聞こえている。目の前には定則の家がある。どうやら定則が頭を出しているのは、家の前にある水溜りの様だった。

「何でこんな所に、俺ン家に続くゲートがあるんだ……」


 しかしそれは些細なことだ。これで帰れる。定則は安堵のため息をつくと、境界の中に飛び込もうとする。しかし真理の存在が、定則の後ろ髪を引いた。今真理は、キ○ガイに追われている。ロインも寝返った今、彼女の味方は定則しかいない。

 しかし彼女も非力ではない。何らかの境界を見つけて、別の次元に逃れたり、応援を呼べば問題ないだろう。だがそれを見届けず一人で帰ってしまうことは、定則には出来なかった。何故なら――


「こんなことが出来るのは……真理しかいねぇよな……」

 定則はふっと緊張を解いて、柔らかい笑みを浮かべた。

 ここ数日共に過ごした。

 家を勝手に増改築したり、喋るウサギとお茶会したり、定則の布団を訳の分からない羽毛生物にすり替えたりした。腹が立つことが多かった。忘れ去りたい醜悪な思い出ばかりだ。

「あれ……助けない方が良い気がしてきた……」

 定則の顔に苦笑いが浮かぶ。

 それでも。


「文化が……ちょっと違うだけなんだよなァ……後味悪いのは嫌だし……しゃあねぇなチクショー!」

 定則は自らを鼓舞するように絶叫する。そして両腕をしゃにむに振り回しながら、真理の後を追って荒野を駆けた。



 定則が去った後も、水溜まりはゲートとしての役割を保っていた。やがて境界が揺れ、一人の女性が顔を覗かせる。彼女は遠くに駆けていく定則の背中を見送りながら、小さな溜息をついた。

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