第6話 俺は最強の勇者 その1

 ここはウェズドランド。

 魔法則によって支配された、精神文化が発展する世界である。

 しかし一人の勇者の到来により、その様相は一変していた。


 その勇者――イッキリーは、王城の塔にある物見台で佇んでいた。吹き付ける風が純白のマントを揺らし、その下に隠れた荘厳な金の鎧を垣間見せている。

 腰には美しい装飾の施された両刃の剣を吊るしているが、彼が頼るように手にしているのは、ドアノッカーが二つ括られた奇妙な形をした杖だった。


 彼は眼下の景色を眺める。

 石造りの王城は、そびえる城壁に囲まれており、膝元には城下町が広がっている。そして地平線には豊かな森が延々と続いていた。

 つい一月前までは、城には兵達が訓練をする裂帛の声が空を裂き、城下町は活気で溢れ、森では恵みを得ることが出来た。

 しかし現在、城は混沌とした悲鳴が空を裂き、城下町では戦乱の火が溢れ、森は枯れて異形の住処と成り果てていた。


「潮時だな……」

 イッキリーは身を翻すと、物見台から塔内へと戻った。

 入ってすぐに、彼の奴隷たちが出迎える。

 十数人ほどの奴隷はその全てが女性だ。淫靡な服を纏い、どれもが芸術品の様に美しかった。彼女らは深々とお辞儀をした後、心酔で曇りのない瞳をイッキリーに注いだ。

「ご主人様。先ほど王家の者共が見えました。しかしご主人様が『まだ慌てる段階ではない』と仰っていた事をお伝えし、お引き取り願いました」

「そうか。ご苦労」

 イッキリーがねぎらうと、たったそれだけで奴隷たちは至福に表情を蕩けさせる。そして彼に取り入るためか、各々が陰口を零し始めた。


「この小事にあの慌てぶり。あれで王家が務まるのでしょうかね。いっそのことご主人様が愚王を討ち滅ぼし、民を導いては如何でしょうか」

「そうですよ。ご主人様は不思議な文明の利器を産み出す力をお持ちです。それだけではなく、武勇も兼ね備えてもおられます。その智と力を以って、人の上に立つべきです」

「そうですよ。それにこの世界では珍しい、特殊能力も有しているではないですか。これはもう天によってそう言う生まれと定められているのですよ」


 奴隷たちがイッキリーを誉めそやす。しかし彼は、首を振って謙遜した。

「いや。僕にはそこまでの器はないよ。それに僕の望みは偉くなる事じゃない。多くの人を助ける事なんだ。余り目立つとそれだけで反感を買って、救える人も救えなくなるからね」

 イッキリーの言葉に、奴隷たちは感涙し身を震わせる。その隙にイッキリーは、そそくさと塔の奥の部屋に身を滑らせた。


「諸君。何があってもここに人を通してはならないよ。一仕事してくるよ」

『はい。ご主人様』

 イッキリーは後ろ手に分厚い鉄扉を閉める。そしてふぅっと一息をついて、周囲を見渡した。

 部屋の壁には本と標本の入った瓶がうず高く積まれている。そこからは強烈な、紙と埃の匂いが漂っており、部屋の空気を陰気なものにしていた。

 それはイッキリーの前任者の物で、彼は触れた事はない。

 彼がもっぱら使うのは、部屋の中央にある占星術用の水溜場だった。


 イッキリーは丸い水溜場の縁に立つと、水面に映る自らの顔を見て、深いため息をついた。

「せっかく僕が物質文明の利器を授けたというのに……ここの住民は欲に眼を眩ませ、私欲のために使い、戦乱を巻き起こしてしまった。この次元は僕の故郷となるには野蛮過ぎるようだ」

 イッキリーは手に持つ杖を、水溜場の中に浸した。その杖は先端が大きな輪となっており、二つのドアノッカーが取り付けられている。そして輪とドアノッカーの大きさの比較から、本来ドアノッカーが十数個はあった事を推測させた。


 イッキリーは杖の中央に、一つのドアノッカーを持って行く。そして軽くぼやいた。

「残り二回か……リミテッドノッカーが、そろそろ使えなくなるな。この杖を使い切るまでに、僕の安住の地が見つかると思ったが――今しばらく時間がかかりそうだ。ここはエターナルノッカーを奪うのが良さそうだ」


 奴隷たちのいる部屋が、にわかに騒々しくなる。それは非難の声を上げる奴隷を押し退けて、イッキリーのいる部屋の戸をガンガン叩いた。

「イッキリー殿。イッキリー殿が持ち込まれた文明の利器の製造法が、他国に知れ渡ってしまいました! このままでは我王国は死に絶えてしまいまする!」

「イッキリー殿。イッキリー殿が持ち込まれた人を喰う植物ですが、その生息域を戦域から我が王国側に伸ばしておりまする。このままでは我が国の方が被害を受けてしまいまする!」

「イッキリー殿。イッキリー殿が授けて下さったスキルですが、敵の熟練度の向上により、無効化されてしまいました! 何卒新しいスキルを!」


 イッキリーは冷や汗を浮かべながら、びくりと背後を振り返った。戸は破れんばかりに、ガンガンと叩かれ続けている。彼は急いで、泉に浸したドアノッカーを叩いた。

「ボーダーランド外で、エターナルノッカーのある場所!」

 イッキリーが行先を叫ぶと、ドアノッカーが灰と散って、彼が望む場所へと繋がるように水質を変化させた。見る見る内に、水は緑に着色されていき、その透明さを失する。やがて渦を巻きだすと、異次元へと繋がる境界と化した。

「リミテッドはノッカーが水質を調整してくれる利点があるからな……一つはとっておかねば」

 イッキリーの背後で、戸が破られる音がする。だが彼は焦らない。目の前には、新たな希望が広がっているのだ。境界の中に身を躍らせると、触れた場所から順に、むずかゆい様な感覚が走る。それが全身を通過すると、イッキリーは新たな世界に辿り着いた。


 飛び散る水飛沫、ぶつかり合う食器、そして新世界原住民の悲鳴が上がる。

 イッキリーはとある民家の、流しの水の中に立っていた。

 洗い物の途中らしく、流しの水には食器が浮いている。正面には食卓があり、それを挟んで原住民の少年が、呆然とイッキリーを見つめていた。


 イッキリーは不躾に原住民の様相を見た。薄い布製の服を身に纏い、武器を携帯していない。代わりに小さなブラシの様なもので、歯を擦っている。

 清潔で血色と肉付きはいいが、鍛えている訳でもない。大方愛玩奴隷だろうと、イッキリーは当たりをつけた。

「この世界の奴隷のようだな。これならいい労働力になりそうだ。ただ余り賢そうに見えないのがな……まぁペットなんてそんなものか」


 原住民――もとい常盤定則は、不愉快そうに口元を歪めた。

「お前心の声がだだっもれだぞこの野郎……なんだ? 意思疎通が出来るってことは、ミーム汚染されているって事だよな……真理の友達か?」

 普通に話しかけて来る定則に、イッキリーは瞠目する。

 彼は自らが翻訳するまで、言葉が通じないものと思っていたのだ。そして定則がこぼした名にも聞き覚えがあり、その驚きを加速させた。


「真理……と言うことはボーダーランド王家の雁木真理か……年齢的にもしきたりを受ける頃だし、間違いはないな。早速次元の平和の為に、交渉を行わなくては」

 イッキリーは一歩を踏み出し、流し台から降りようとする。その時バランスを崩し、床へと倒れ込んだ。彼は脚に力を入れて立ち上がろうとするが、体の芯に力が入らないのか、のそりと蠢くだけに終わった。やがて室内に、大きな腹の音が響き渡った。


 イッキリーは顔だけを動かして、遠巻きに様子を窺う定則を見上げた。

「すまないが、何か食べものをもらえないか? ゆえあって一週間何も食べていないんだ……」

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