第2話 エブリデイマジック その2

 定則家の居間で、常盤一家と雁木真理は、食卓を隔てて向かい合っていた。


 ちなみに居間の隅には、真理が出したつまらないものが転がっている。それは紫の色の腫瘍を、鱗として持った魚だった。


 魚の口からは、肉を挽けそうなほど太い歯が覗いている。幸い陸に上がると碌な力が出せなくなるのか、食いつかれた忠則の首には、赤い歯型が付いただけだった。しかし下手をすれば、ミンチになっていたのかもしれない。忠則はそのショックで、未だ混乱しているようだった。


 沈黙する一家の長に代わり、定則が真理に聞いた。


「それでお前は一体何なんだ?」


「さっきも言ったでしょ。雁木真理っていうの。生まれも育ちもボーダーランド、しきたりに従ってこの次元の文化を学びに来たの。これからよろしくね!」


「がんぎまり!? ああ! ガンギマリだよ! ガンギマリだとも! それに何だよこれからよろしくって!? 何一つよろしくねぇよ! お前が何だか分からねぇけど、今すぐ元いた場所に帰れェ!」


 定則はそういって、真理が出て来た流し台を指した。そこで彼の表情は固まる。流し台の水が盛り上がり、新たな人影が這い出ようと蠢いているのだ。


 まず黒のピンとした袖が伸びて、流しの縁を掴む。その腕が本体を引き上げるようにして、メイドが飛び出して来た。


 彼女は黒い髪をボブカットに切り揃え、人形のような整った無表情をしていた。身に纏うエプロンドレスは撥水性が高く、身体にかかる水を全て雫と散らしている。


 メイドは顔についた水をエプロンの裾で拭ったあと、身体を揺らして水滴を振るい落とす。そして定則たちに一礼して、真理にそっと耳打ちした。


「お嬢様……そう自分の意志を押し付けてばかりでは、文化を学ぶという旅の本懐を遂げる事もままなりませんよ……」

「増えるんじゃねぇぇぇ! 今すぐ元いた場所に帰れぇぇぇ!」


 メイドは叫ぶ定則を無視して、忠則に向かって紙片を差し出した。そこには訳の分からない、のたくった文字のような線が綴られている。どうやら名刺らしい。


「申し遅れました。わたくし、代々雁木家にメイドとして仕えている、ロイン・セルシアと申します。以後、お見知りおきを」


 忠則は抵抗なく、社会人特有の洗練された動作で、差し出された紙片を受け取った。そして入れ替わりに自分の名刺を差し出した。


「こりゃ……ご丁寧にどうも。私は常盤忠則と申します。隣にいるのが妻の清美。さっきからやかましいのが息子の定則です――」


 定則は真理たちと『まともにやり取りを交わす』という、父親の奇行に驚愕した。だから忠則が受け取った名刺を、その腕ごと横に払った。


「父さんそれは名刺じゃねぇ! 地獄への片道切符だ。受け取るんじゃねぇよ!」


 定則はそれで忠則が、ショックの混乱から正気に戻ると思っていた。だが忠則は叱るように、目を細めて定則を睨んだ。


「何をする定則。社会人としての、礼節の邪魔をするんじゃない」


 今度は定則がショックに陥る番だった。定則は混乱した心を表現するため、激しく身振り手振りをした。


「父さんどうした!? 魚に噛まれた時、頭でも打ったのか!? あまり寝ぼけたことほざいてると、老人ホームに叩きこむぞ! こいつら明らかにおかしいだろ! 関わっちゃいけないヤツだよ!」


 忠則は説教をする時の癖である、両腕を組む仕草をした。


「定則。親にする口の利き方じゃないな。それにお客さんの前で、恥ずかしいと思わないのか?」


「そ……それは……謝るよ。だけど父さんのそれも、このイカれた奴らに対する口の利き方じゃないよ!」


 定則は父の正論に一瞬流されたが、なおも食い下がった。明らかにこの状況は異常だ。あの常識的な父親が、流し台から飛び出してきた訳の分からない連中に、社会人の礼節をもって接するなんて考えられない。


 定則は必死に父を説得しようとする。しかし忠則は、むしろ定則の方がおかしいと言わんばかりに、表情を険しくするだけだ。愕然とする定則に、ロインが気付いて話しかけた。


「あら……あなた様。珍しいですね。ボーダーランド人特有の気に中てられていないようです」


「何ィ……? 特有の気って……どういう事だよ……! お前ら父さんに一体何をした!?」


 ロインは顎に手を当てると、少し考えこんだ。それから指を教鞭のように振って、説明を始めた。


「ミーム汚染って……御存じでしょうか?」


「おいおいおいおい……人様の流し台から湧き出て来て、何汚染してくれてるんだこの野郎。何汚染だって? お前ら一体何をしたんだ!?」


「ミームとは人から人へ受け継がれる、文化の遺伝子と言えるものです。文化という生き物の、構成単位でもあります。真理様ボーダーランド人は、文化を吸収して成長するという、種族的特性を持っております。それが次第に強化され、真理様はミームの影響を受けるだけではなく、ミームに影響を及ぼすようになったのです。お父様は真理様のミームに支配されつつあるのですよ」


「へぇ~何やらヤバそうだな~ふざけんなよ~つまりどういう事だってばよ~」


「簡単に申せば――常識が書き換わる、ということですね。真理様の周囲にいる人間は、そのミームを一時的に受け入れてしまうのですよ。ですからお父様は、真理様の存在を常識として受け入れているのです」


「そんな歩く放射能みたいな奴が家に来たのか! ふざけてんじゃねぇぞ!? 今すぐ帰れ!」


 定則が真理の方を見ると、清美と何か話し合っていた。きっとホームステイの段取りを進めているに違いない。真理は定則の視線に気付くと、あの異様な魚を抱えて走ってきた。


「今日から私たちお友達ね。これどうぞ!」


 定則は魚を押し付けられる。腕の中に、ヘドロが爆発したような悪臭が広がった。


「こんな魚いらねぇよ! そもそも何なんだこの魚! ざらざらごつごつしていて――なんか喋ってるぞコイツ……」


 定則はそっと、魚の口元に耳を近づけた。「板垣死すとも自由は死せず」と、魚は小声で繰り返している。彼は気が狂ったように、首をぶんぶん振り回した。


「このイカれた魚から! 文明開化の音がする! 何だこれヤベェ! ヤヴァイぞ!」


 玄関のチャイムが鳴った。続いてドアが開き、朗らかな声が響いてきた。


「定則~? どうしたの? 先に学校行っちゃうわよ」


 隣に住んでいる幼馴染の真智だ。定則は縋る想いで、魚を抱えたまま玄関に向かっていった。


「真智!? 今すぐ行くから、ちょっと待っててくれよ! このイカれた現実から俺を助け出してくれ!」


「うわぉガッコウ!? 何それ面白そう! 私も行く!」


「お前は来るんじゃねぇぇぇ!」


 定則の両手は魚で塞がっている。

 だから彼はついてくる真理に向かって、足で追い払う仕草をした。その時、運悪く定則は足を滑らせて、玄関に続く廊下へと倒れこんだ。


 滑った事で振り上げられた脚が、駆け寄ってくる真理の腹に当たった。そのまま巴投げの要領で、真理の身体が宙を舞う。そして結果的に――定則の顔は真理の尻の下に、敷かれてしまったのだった。


 最後に魚が、断末魔の叫びをあげた。


「わしは一介の武弁である」


 定則が真理のスカートを払いのけて玄関を見ると、真智が呆然と見つめていた。


 さらりとした黒のロングヘアーに、伊達眼鏡が良く似合う少女だ。彼女は現実の象徴である学生服を身に纏い、正気の証である困惑顔をしていた。


 真智は最初驚きに眼を見開いていたが、それは徐々に白けた三白眼になっていく。明らかに関わり合いになりたくなさそうだ。


 定則はこの状況を、何と表現していいのか分からない。今では真理に乗っかられて、動く事すらままならない。ただ唯一動く腕を、助けを求めるように玄関に伸ばした。


「真智……これは違う……俺にも何が何だか、頼む行かないでくれ! お前が俺の、唯一の希望への架け橋なんだよ! 独りにしないで――」


 真智はすっと一歩引いて、玄関を出てドアを閉めた。


「独りにしないでぇぇぇ!」


 定則は死力を振り絞り飛び起きる。そして脇に魚を放り投げて、真理の胸倉に掴みかかった。


 真理は文化が分からなくとも、感情は分かるらしい。気まずそうに頬を掻いた。


「あれ定則のお友達なんだね。ちょっと嫌そうな顔してたね。悪い事するつもりはなかったんだ。仲良くしたいし、何があるか知りたいけど、定則に迷惑かけるつもりはなかったんだ……ごめんね」


 定則は毒気を抜かれて固まった。真理をどこまでも常識の通じない、徹底したサイコ野郎だと思っていた。しかし彼女は感情を持ち、それを理解し、そして尊重しているようだった。


 定則は雁木真理が違う文化を持ち、そして真面目に交流しようとしているのは分かった。だが真理は依然得体の知れない存在で、それが怖かった。


 定則は真理の胸倉から手を離すと、頭痛を堪えるために額に手をやった。


「悪気が無いのは分かったけど……俺はえれー迷惑している。余所を当たってくれ」


「でもでもでも」


 真理は食い下がろうとする。しかしロインがそっと彼女を宥めた。


「お嬢様。これ以上はボーダーランド人の文化でも、押しかけになってしまいます」


「へー、今までやってたことはてめぇらの国では押しかけにならないんだ。とっととどっかに行ってくれませんか!? そろそろ警察を呼ぶぞ!?」


 真理は不服そうに俯いて、ドレスの裾を握りしめる。その顔は悔し気に歪んでいたが、彼女は吹っ切ったのか、いつもの笑顔を浮かべて杖を振り回した。


「ダメってんならしょうがないね。諦めるけど代わりの家を紹介してもらえると助かるかな。文化を学びたいもの。ねぇねぇねぇどこかにいい場所はない?」


「あらぁ真理ちゃん。家にホームステイしてくれればいいのよ」


 清美が居間から廊下に出て来て言った。定則は彼女を居間に押し戻した。


「ふざけんな母さん! 今母さんは洗脳されている状態なんだ! 黙ってくれ!」


「頭のおかしい息子がいても、良ければだけど……」

 清美は責めるような眼つきで、定則に流し目を送る。だが真理はふるふると首を振った。


「定則は悪くない、むしろ私からお願いしたいの。ミームで汚染されにくい人なら、より文化を学ぶことが出来るから。だけど第一に仲良くなきゃね。だから仲良く出来る人を探すよ!」


 忠則が清美に続いて廊下に出て来る。彼は考えるように、まだ剃っていない無精ひげをさすっていた。そして妙案が浮かんだのか、その手をピタリと止めて定則を見た。


「定則……お前これから学校だろ。お前が嫌だって言ったんだから、責任とって代わりの家を探してあげなさい」


 定則は何を言われたのか分からない様に、ぽかんとしていた。やがて脳がじわじわと言葉を理解すると、人間が追い詰められたときにする、引きつった笑顔を浮かべた。


「今……殺意が沸いたよ……ふざけんなよ! 俺と同じ学区にこんなのが来たらたまったもんじゃねーよ! 毎朝登校するたびに、超常現象の嵐が吹き荒れたらどうするんだ!? 嫌だぞバカ! そう言うのはテレビで見るからおもしれーんだよ!」


「では仕方がありませんのでこの家に――」


 ロインが忠則に握手を求めようとする。定則はそれを叩いた。


「参りましょうか雁木真理さま! 生贄のおわす学校に案内してやる!」

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