示談

「今の生活に未練はないですか? 」

「ある、とは言えませんね。仕事はきついし、職場はぎすぎすしてるし、彼女なんて存在は高校生のときに一週間あったっきりです」

 あっちが関心をもってきて、すぐに別れを切り出されたのだから、数にいれるのも悲しい。関心だって、別人と間違えたせいだってんだからたまんない。

「じゃ、うちにきてください。すばらしい生活を約束しますよ」

 俺をひき殺そうとした女神はキャップを脱いで髪をふりほどいた。芸能人かと思うような美女だ。それが俺を熱っぽく見つめている。

 さっきひき殺されるところだったってことさえなかったら、二つ返事だったかもしれない。

「小職の勤め上、公正のためもうしますが、こちらに比べると水洗便所もお湯のでる風呂も、娯楽もほとんどない世界のようです。一度いったら帰ってこれませんがいいですか」

「余計なこといわないでください」

 女神は警官をきっとにらんだ。

「あの、質問が」

 質問の相手は警官だ。

「なんでしょう」

「さっき、誘拐と窃盗といいましたよね。誘拐はわかりましたが、窃盗って? 」

「ああ、人を世界間移動させると、はしょっていえば相手の世界の可能性が非常に大きく増えますし、こちらの世界のそれが減ります」

 ああ、それで窃盗と。

「なるほど。さっきゴミ捨てといいましたが、それでは増えないんですか」

「神の管理の失敗、さきほどの窃盗行為など原因はいろいろありますが、負の存在ができることがあります。ほうっておくと、世界を食いつぶしてしまうのでどうにかしないといけません。それをどこかに押し付ける神もいるのです。もちろん違法です」

「でも、取り締まるだけで、押し付けられたゴミは結局自分でなんとかしないといけないってほんとなんとかしてほしいわ」

 女神の文句は本当ならもっともだった。

「犯人がわかれば引き取らせますが、わかんないんですよね」

 いま、舌打ち聞こえた。この女神、ちょっと柄悪い。

「無理やりつれていこうとしたのはごめんなさい。助けてほしいの」

 そんなのが上目遣いに媚びまるだしてお願いしてくる。地雷丸出しにしか見えないよ。

「といっても、こちらより不便でしかも魔王だか混沌だか、危なそうなものがいるし、帰れないのが一番だめかな? 仕事も人間関係もクソだけど、娯楽とごはんには未練があるんだよね」

「娯楽も美食もあなたが作ればいいだけじゃない。ほら、そういう本がいっぱいあるでしょ」

「あるものを楽しめるのが一番だからなぁ」

 ないから代用品を頑張って作ってるのがあのへんのお話だ。面倒くさい。

「では、示談は成立しないということでよいですか」

 警官が手錠を出す。なんかうれしそうだな。あ、そうなると今の記憶消されるのか。それはそれでちょっと面白くはない。

「まって、なんでも! なんでも便宜はかるから。死なない、俺TUEE、ハーレム、なんでもできる限り実現するから」

 よく読んでるなこの駄女神。美人なぶん、必死すぎて残念感マシマシ。

 でもなんか信頼できないんだよね。いろいろ詰めがあますぎる。

「そうですね」

 ここで大家さんがやっと口を開いた。

「中村さん、いくつか質問いいですか」

 俺の名だ。ダメっていう理由もない。

「お仕事、嫌いですか」

「きついくせに月給少な目でいやですね。転職一度してこれですから、もう一回やるのもちょっと考えちゃいます」

「人間関係、だめですか? 」

「職場のは最悪です。母親はわずらわしいけど、絶縁したいとは思いません。趣味趣向の合うネットのゆるいやつが一番いいいですね」

「でも、トイレは基本地面ほって落とすやつで、野営なら野獣や虫を警戒しなきゃいけないとか、建物でも臭いのあがってくる踏み外したらえらいことになる肥溜めの上か、そんな世界はまっぴらですか」

「ぞっとしませんね」

「わかりました。では、あなたに確認です」

 大家さんの質問相手が女神にかわった。

「便宜は可能な限りはかってくれるのですよね」

「え、ええ」

「なら話は早い」

 大家さんはぱんと手を打った。柏手のようだ。なんかあたりの空気が澄み渡ったような気がする。

「中村さん、今のお仕事をやめて、彼女の世界に通いの勇者として赴くつもりはありませんか? もちろん、先ほど彼女のいった便宜は可能な限りかなえますし、あちらでの実績がこちらでの現金収入になるよう便宜を図りましょう。基本給はいまの勤めと同じでいいですね? あと勤務時間は午前九時から午後五時。状況により残業は任意でとれるとしますが、手当は実績報酬の形のみとなります」

「ちょっと、それじゃ全然足りないじゃない」

 この駄女神、立場わかってないな。

「一気にたくさんは得られませんが、うまい特異点があったのでこれを利用すれば時間さえかければお互い得になります」

 大家さんは空中に燃える文字でなにか数式のようなものを書きだした。警官が感心したようにうなずいている。

「いやなら、示談は今度こそおしまいになりますが」

 女神は承諾するしかなかった。あとは俺か。

「あす、会社辞めてくる」

 心は決まってた。

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