第30話 塔

 

『クリオールさん、良い本が入りました。ちょっとまとめて買って頂けませんか? ロスウェルの本を持ってくるのは中々大変なんですから……』

 塔の扉を潜ったところで、初老の商人が大きな木箱を置いた。汗を拭いながら一息つく間もなく蓋を開けると、紫色の髪を垂らしながら一人の男が覗き込む。木箱の中には所狭しと本が積めてあった。

『さすがは大陸一の密売人。悪名高いロスウェルの本を良くもこんなにたくさん取り寄せましたね』

『あ、量はね、活版印刷が発展してきたとかいって、どうにでもできるみたいなの。だから手当たり次第もってこれたんだけど、どの本に需要がどれだけあるかは解らないのよ。そこんとこはクリオールさんにご教授頂かないといけなくて……』

『この前の革命家の本はよく売れたそうですよ? エストスに至っては検問所にもファンがいて、取り締まる振りをして毎回買っていくそうです』

『あ~やっぱりね。ああいう民族戦争ばっかの国ほど、他の国の本が売れるよね!』

 詳しく話しましょう、と言いながら紫色の髪の男は商人に椅子を勧めた。



 モイラは真っ白な光の中で、螺旋階段を上った。壁一面の本棚も、埃が取りきれなかった煉瓦の壁も其処にはなかった。ただ光の中にぼんやりと現れる白昼夢――おそらくは長男の記憶――を見ながら、不思議な霞の中を進んでいた。螺旋階段の手摺りに捕まりながら、頬に触れるゴールデンの毛皮に心細さを紛らしつつ、ようやく進む勇気を担保できていた。

「あ……」

 ふと壁が現れて、肖像画が目に入る。年季が入った古いものだが、描かれている男の顔は判別できる。紫色の髪に、金色の瞼、仕立ての良い白い礼服を着ている彼は、何度も夢うつつの中で現れた人だ。

「ベルホルト・クリオールさん……」

 もう遠い存在には感じられなかった。モイラは彼の筆跡も、声も、知っている。モイラと同じくして自由を求めた人だ。自由を求めて、……ここで何をしていたんだろう?

「貴方は、どうして自由を求めたんですか?」

 モイラの問いに答えることなく、肖像画は白い霞の中に消えていった。目の前に残されたのは螺旋階段だけ。モイラはまた踏み出した。



『クリオールさん、大きな書店に売ろうとしないのは、やっぱり民衆の手に渡らせる為ですか?』

『ええ、書店の本は売り上げ重視ですから、金の余裕がある者に向けて売られます。私が問題視しているのは、民衆が本に触れられない点です。恋愛小説でも冒険譚でも何でも、売れ残った本や、古い本をかき集めて露天商が売った方が、好きに読めて楽しいでしょう?』

『まぁ、そりゃぁそうですが……』

 ベルホルトが次に話しているのはあの初老の商人ではなかった。山羊の頭をした露天商の男で、家の前の通りで立ち話をしている。山羊頭の露天商は、荷台に本が入った木箱を詰め、本を覆い隠すように布を被せた。

『僕はたまに思うんですよ。露店で本を売っている時のお客さんは、どれも平凡な市民ばかりです。貧しくても本に没頭する理由は様々ですが、中には本の中で恋愛をしたり、英雄になった気分になれるなんて人もいて、そんな声を聞いているとね、……あの国はどれだけ不自由なのかと悲しくなります』

 エストスは聖魔の抗争が激しい。常に他の国からの侵略におびえ、敵対種族との戦いに明け暮れている。市民はおびえるばかりだ。

『本の中に自由があると思っているんでしょう』

『へ?』

『自分の世界に没頭できるという点では、誰にも侵略されない自由の世界があると言えるのでは?』

 ああそうか……と、山羊頭は手のひらを打った。

『僕も貴方様も、自由の密売人ですね』

 ベルホルトは穏やかに笑っていた。



 モイラも同じだと思った。本の中の自由な世界。結末が解らない活字の海を潜水する時、モイラは自由だった。主人公に寄り添う時も、展開が変わる時も、ドキドキしたりハラハラしたり、時にはじんわりと泣きたくなってみたり、読後感に酔っている時、モイラはとびきり遊び終えた時と同じ気持ちになれた。

「……そっか、だからお母さんが嫌いだったんだ」

 本を正しく読めと怒る母親。自分の解釈を押しつけてくる母親。彼女はモイラの自由な世界に土足で踏み込んで抑圧をした。親子でいるとき、いつまでも不自由だった。

「エストスの人たちも同じ気持ちだったのかなぁ……」

 もしそうなら、本が売れるのはよくわかる。ベルホルトもそれを知っていたのだろう。だから本を売ることを考えたのかもしれない。

 いつの間にか階段は途切れて、登り切るところまできていた。モイラが階段を上りきると、白い霞が晴れていく。そこは塔の頂上で、締め切られた窓が四方に填められていてほの暗かった。肩に乗っていたゴールデンがひょいと床におり、窓に飛びついた。

「んぎぎぎぎ……っ 鍵が錆びてやがるううう……っ」

 齧歯類特有の前歯に引っかけて鍵を捻り、ガチャンと音を鳴らした途端、ゴールデンはコロコロとモイラの足下に転がってきた。ゴールデンを拾い上げて肩に戻すと、モイラは重たい窓を力一杯押し出した。

 バカン! と大きな音と共に、目映い日差しが飛び込んでくる。山の風が一気に埃を巻き上げる中、モイラは目を見開いた。家の屋根を越えて、十重二十重と続く山を越えて、真っ青な海原が見えていた。

「うわぁ……っ! すごい! 海があんなに大きい!!」

 家の二階からでは頭の先しか見せてくれない海原が、どこまでも広がっている。世界の広さを目の当たりにしたような、美しい眺めだった。

 差し込む陽光が塔の中を照らす。あと三つある窓も順々に開けていくと、空気の入れ替わりと共に埃臭さも薄まった。塔の最上階はソファと小棚があるだけで、とても質素に思えた。望遠鏡らしきものが無造作に置かれていたり、ペンや本が乱雑に置かれていたりする中、モイラはなんとなく小棚の引き出しに目を奪われた。おもむろに引き出しの中を覗くと、小さな木箱が現れた。

「……なんだろう? アクセサリーケースかしら?」

 木箱を取り出して蓋を開けると、一対のペアリングが現れた。そして再び淡い光に包まれていった。



『主様、本当に私で良いのですか……。本家からたくさん縁談が来ています。私を選んで頂くのは、主様の為にならないのでは……』

 黒い服、首元に下がるタイ、扉の記憶の中で見た執事は、胸元で手を重ねて震えていた。ベルホルトはその手を取り上げ、白い手袋を外し、薬指に指輪を填めさせた。

『私は君がいい。その為に、身分と国を捨てて此処にきた。……君だって覚悟の上だったはずでは?』

『そうですが……本当に、本当によろしいのですね?』

『ああ、この地で幸せになろう。そしていつか、二人で堂々と愛し合える世界に行こう』

 互いの左手で指輪が光る。ベルホルトの手を取って幸せそうに涙をこぼすその人は、悪魔の羽を持った男であった。



「うわお……」

 モイラの肩で、両目を隠すゴールデンがいる。消えていく白昼夢を見届けながら、モイラはその場に座り込んだ。

「……ベルホルトさんは、好きな人の為に、家を出たの?」

 聖グリフォンの加護を有する聖なる一家の人間が、同性の悪魔に恋をする。到底、許されることではなかったのは、死んでも尚、塔の中に隠さなければならなかった事から推察できる。ベルホルトはこの境遇から脱却するために、何もかも捨ててこの地に逃げてきた。二人で生きていく為に、きっと、愛する人を守るための決断だった。

「自分のため……だけじゃなかったんだ」

 愛する人の為に国を出て、この地に越してきてからも本を通じて自由を密売する。束縛の強い境遇から解放された彼は、自分のため、誰かのために、生きていた。

 白昼夢で見たベルホルトの姿はいつも凜として、穏やかで、幸福に満ちている。あんな風に生きていけるのなら、どれだけ幸せだったことだろう。今の自分と一体、何が違うというのだろう……。

「ねぇゴールデン」

「うん?」

「アタシも、ベルホルトさんみたいになれるかな?」

 ゴールデンはモイラの肩から降り、ペアリングの入った木箱の上に飛び乗った。そうして指揮台に載るようにして向き合ったゴールデンに、モイラは尋ねた。

「アタシなんかじゃ、ベルホルトさんみたいな解説は書けないの。でも、例えば解ることなら書けるし、解らない言語もたくさん勉強して、翻訳できたりするかもしれないでしょ? そうしたら、ベルホルトさんみたいに、誰かの為に本を届けることに、なるかな?」

 自分でもこんなに必死になるとは思わなかった。ゴールデンが耳を立たせて、きょとんとしながら聞いている。

「ベルホルトさんと、アタシって、同じなんだと思っていたの。お互い自分が奔放になるために生きてるんだって思ってた。でもね、ベルホルトさんはもっと違うの、大事な人の為に自由であろうとしたの。そんなことが、できるんだって、思ったら……アタシも何か、できるかなって」

 二番膳じと呼ばれるのかもしれないけれど、そうでありたいと思える。嫌な過去から自分を守るように自由に執着していては、本当の自由とは言えない。誰かを意識するとき、この道ばたの家が大きな可能性の中にあるのではないかと思えて、もっと違う景色が見えるような気がして、胸が躍るのだ。

 ゴールデンは鼻先を短い手でこすり上げ「へへ!」と気前よく笑った。

「へ! お前さんは俺様が見込んだ女だぜい? なんだってやってみればいいじゃねぇか!」

 にんまりと笑ったゴールデンが久しぶりに顔に飛びついてきて、モイラは声を上げた。顔に張り付く毛玉を引き剥がし、肩に乗せてから立ち上がる。窓辺から外を覗くと、すがすがしい気分になれた。

「『無月』にどうして呼ばれたのかは、わかったのかい?」

 耳元でゴールデンが問う。階段を上るまで抱いていた暗い気持ちは、もうモイラの中にはなかった。

「なんか、どうでもよくなっちゃったわ」

 新しいことを知るとき、わくわくする。新しいことを始めようとするときも、わくわくする。そこに誰かが加わると、きっともっと楽しくなる。モイラは今、たくさんのキラキラした気持ちで満たされていた。

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道ばたのモイラ 領家るる @passionista

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