第24話 額縁
ホルトス村に学校ができると決まった時、母は大喜びだった。村長の手を取ってありがとうございますと何度も頭を下げていた。
「ありがとうございますだなんて、それはこちらの台詞です。村の子供達も長いこと文字を読み書きできずにいますから、良い機会になると思いますので」
よろしくお願いしますね。としわくちゃな顔で微笑んでいた村長は、頭を上げないモイラの母を宥めていた。その光景をモイラはソファに座って眺めていた。膝の上には二日も寝ずに作った作文が置いてある。一生懸命書いた初めての作文は、母の手直しがたくさん入って母の言葉しか書いていなかった。自分の気持ちを書けと言われているのに、母の言葉を代弁した文が見つからなければ、母は何度も書き直しをさせた。村長にたくさん褒められても何一つ嬉しくなかった。
そして母が何度も口走る「ありがとう」の意味も、モイラには分かっていた。
母は村の子供のことなんて、大して心配していないのだ。ただ、自分の居場所が欲しいだけ。リビアから嫁ぎ、夫は常に農園で働き、村の婦人とも仲良くなれず、娘と二人暮らしの毎日の中で、何年もかけて溜めた孤独とストレスを発散する為に、村の良くないところを正そうとしている。それが母にとっての『役目』であったり、『居場所』であったり、きっとプライドだったのだと思う。
だから『ありがとう』なのだ。これでやっていけると思えたことへの感謝。
そしてモイラは分かっていた。
学校ができて、モイラが徹夜で読み書きをする時間も終わった。けれど新たに”良くないこと”がたくさん起こる。だって母はモイラに『貴方はママの味方よね?』と言った。味方は最後まで一緒に居なければいけないのだ。
学校は広場の隅にある栗作業用の東屋を使うことになった。雨が降っても屋根があるし、何かと子供たちのたまり場になっていたからだ。学校は午前2時間、その間は母親たちが子供の仕事を肩代わりし、午後からは子供たちが精力的に働く。母は教師らしくしっかりと宿題も子供達に渡していた。
授業は紙芝居を読み聞かせること。紙芝居の台本を書き起こしていたものを人数分配布をして、手元で追わせたり、書かせたりする。紙芝居の台本を人数分写生して配布するのはかなりの重労働だったが、母とモイラの二人で毎晩夜なべをして拵えた。やがて宿題を出し始めれば、母親は宿題の添削、モイラは写生をするように分業した。モイラは自分の分の宿題もやらなければならず、雑用もたくさん降ってくる。毎日毎日、学校と栗作業と、授業のお手伝いで時間が潰れていった。
ある日の夕方、栗作業が終わり家に帰ると、母親がモイラにお使いを頼むと言い出した。
「これ、単語のリストを作ったの。皆のおうちに配ってきてくれない? 1単語を3回ずつ書いて覚えてくるようにって、伝えて頂戴ね」
紙類の束をモイラに渡し、母は家の扉を閉めてしまった。モイラはお腹がぐうと鳴っていたが仕方ないと思い、一軒一軒、子供がいる家の門戸を叩いてプリントを届けた。
「追加の宿題ってこと?」
数件目になって、プリントを受け取った婦人が眉を寄せた。じろじろとプリントを眺めた後、モイラにプリントを突き返した。
「悪いんだけどさ、その単語を書く紙は貰えないのかい?」
「え?」
「インクもさ、安くないんだよ? そんなものは仕事で大人が使うもんであって、子供が使うもんじゃないんだからさ」
インクが高いと言われて、たまにため息を漏らしている母の姿が目に浮かんだ。高いインクを子供のために使っているのは、モイラも母も同じだ。教材を作る為に毎日寝不足にもなっているのに、これ以上のことを求めるというのだろうか。
「てゆうか、午前中に子供達を連れて行かれるの、迷惑なんだよ。こっちはこっちの仕事があったのにさ、おかげで無駄に働かされて……こんなちんけな村で、読み書きできて何か意味あるのかい? そんなことよりもね、やることがあるんだよって、言っておきな!」
鬼のような剣幕で怒鳴りつけられ、ぴしゃりと扉が閉められた。モイラはしばらく呆然としていた。
それでもプリントはまだ残っていて、配らなければいけなかった。次の家も次の家も、怒鳴られることはなかったが、白い目で見られた。
「モイラちゃんのお母さん、あさっての織物会には出るように伝えてくれない?」
母がずっと村の婦人たちの仕事をすっぽかしている所為で、モイラに言づてを頼む女もいた。モイラは自分はどうしてこんな事をさせられているんだろうと思った。誰かの家に行く度に、温かな家庭の一時を目の当たりにする。それが眩しかった。
村の外れの路地に入り、最後の一枚を届けに行った。扉を開けて顔を出したのはホッパーだった。
「これ……」
モイラはプリントを差し出し、母親の言づてを伝えた。ホッパーは静かに頷きプリントを受け取った。
「ありがとう」
まだあどけなさの残る声で、きっと何の気もなくそう言ったのだろう。けれどモイラは涙があふれ出し、ホッパーの家の前で声を上げて泣いてしまった。
その時のことはよく覚えていない。ありがとうと言ってくれたホッパーの言葉にホッとして、張り詰めた糸が途切れてしまった。わんわん泣いている間、ホッパーは咎めも蔑みもしなかった。次の日も変わらず接してくれた。
季節が変わって春が来るころ、村長が学校を訪れた。その時、村長はモイラに額縁を渡してくれた。額縁の中には、綺麗な文字で『学級委員長』という文字が書かれており、それが称号なのだと教えてくれた。
「いつも頑張ってくれてありがとうね。モイラちゃんは頑張って偉い。ここに評します」
村長から称号を授与され、周りにいた子供達から拍手を貰った。一体なにが起こっているのかモイラには分からなかった。ただ上機嫌な母がモイラの背中を撫で、
「良かったわねモイラ、貴方が頑張っていたことを村長が見ていてくださったってことよ。これで皆をひっぱるリーダーとして、もっとたくさん働けるわね」
だって、称号の報酬は仕事だものね。母はそう言いながら笑っていた。モイラは何が嬉しいことなのかまるで理解ができなかった。
家に帰り、額縁を置く場所を探した。本棚に立てかけておこうと思い、母の部屋に行くと、モイラがいつも読んでいた本は埃を被っていた。
「読み書きできるようになったのに、本が読めないな」
一体、何のために頑張っているんだろうか。答えはすぐに出てくる、母の為だ。では母はモイラの為に何かしてくれているのだろうか。
モイラは額縁をゴミ箱に投げつけ、家を出た。もうこんな家にいたくなんてなかった。村から出て、どこまでも続く一本道をひたすら走った。母から逃げられればもう何処でも良かった。ひたすら走って、そのうち道ばたに空き家を見つけたのだった。
**
「あ、」
モイラは塔の掃除をしていた。ご長男の机とビューローの間に額縁が挟まっていて、思わず掴んで引き抜いてみた。洋紙がくすんで見にくくなっていたが、額縁の中には称号を授けるような文面と、王家の印が押されているのが見て取れた。
「主様にとっては、称号なんてどうでも良かったんだなぁ……」
机の端に飛び乗ったゴールデンが、額縁の中身を覗き込んで苦笑した。確かに、大事なものなら、家のどこかに飾るだろうに。それもしないで机の間に仕舞い込むなんて、扱いが雑過ぎる。
「でもアタシ、額縁を飾らない気持ち、分かる気がするわ……」
欲しくも無い称号も、不本意ながら評されることも、周りの熱量が高い分だけ、嫌になる。モイラは額縁を元にあった家具の隙間に戻してやりながら、ホルトス村に置いてきた額縁の存在を思い出していた。
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