第23話 ささくれ

 

 冬の入り口に立つ晴天の日、モイラが庭先で本の虫干しをしていると、ホッパーがやってきた。一週間と間を置かず再会の機会は訪れ、モイラは息を呑んだ。

 ホッパーが件のグリフォン像の前に差し掛かるところで、モイラは門から顔を出した。いつものように感情の起伏が見えない表情で立ち止まるホッパーに中々切り出せなかったが、勇気を出して後ろ手に隠している一冊を突き出した。

「…………この本、一緒に読まない?」

 突き出した本の影から顔を覗かせ、おっかなびっくりホッパーの顔色を窺った。ホッパーはきょとんと目を丸め、しばらくして小さく頷いた。



「これ、学校の教材で扱っていた童話だよね、最後まで読んでもらえなくて、すごく残念だったなって、思っていたの。懐かしいなぁ……」

 モイラはテラスにホッパーを招き、青銅製のテーブルの上に【笛吹き男】の童話を開いた。互いに腰を掛けて覗き込む本の中では、笛を吹いた男が動物を連れて歩くところが描かれている。学校の先生――モイラの母は、紙芝居を使って子供達に読み聞かせをしていた。物語の原文は毎晩、モイラがペンを握って写生を手伝い、自分が作った教材を授業の前に皆に配っていた。同じ本が大量に手に入れば楽だったのにと今更悔やむ。

「……どうして最後まで読めなかったんだっけ? ホッパー覚えてる?」

「ラスクがお漏らししたから」

 間髪入れずに返ってきた答えに、モイラは笑ってしまった。ラスクはホッパーとモイラよりもずっと年下の男の子で、お漏らししても堂々と紙芝居を眺めている強者だった。周りの女の子の悲鳴が上がっても「それがどうした」と言わんばかりに走り回り、授業は中断したまま時間を迎えてしまったのだ。

「あれ、面白かったねぇ! ラスクは昔からやんちゃだったもんね」

「いまはちゃんと働いてる」

「そうなの?」

「親父たちと一緒にリビアで商売してる」

 ホッパーよりもずっと年下、ということで大人たちに付いて学ぶことを選んだのだろうか。それぞれの役割を持って村の為に働いている村民を思うと、モイラの胸はちくりと痛んだ。


 心の痛みを朗読で紛らわせようとは浅はかな魂胆だったが、読み聞かせをしているとそれなりに童話の面白さが手伝い、気が紛れていった。読み終えてみるとクライマックスは恐ろしいもので、読後感が良いとは思えなかったが、いろいろなことを考えさせられた。モイラが乾ききった喉を紅茶で潤していると、ホッパーが笛吹き男の本を閉じた。

「…………やっぱりお金は大事」

 そう行き着いたか、とモイラは苦笑した。ホッパーの「きっちりお金で済ませる」というモットーを後押ししてしまったことは不本意だったが、商売人としてやっていくのであれば必要な心得なのかもしれないので、否定はできずにいる。

「まぁ、やってもらったことには、何かしらお返しが必要なのかもしれないよね。お金を払うでも良いけど、アタシは『ごちそうさま』とか『ありがとう』って言ってもらえたら、満足だったりしちゃうかなぁ……」

 遠回りに毎食金を置いていくホッパーを牽制したつもりだったが、ホッパーに『それは挨拶だから当たりまえ』と切り返され、逆に納得させられてしまった。

「世間はそうなの? アタシがお金に欲がないってことなのかなぁ」

「モイラはお金に困ってないから、そう思っているだけ」

「そ、そんなことないわよ! お金がないと、ロッジさんとお買い物できないもの!」

 多大なる誤解を生んでいる気がして、モイラは大きく首を振った。ホルトス村に金持ちなんかいないじゃないかと言いかけて、ホッパーの視線が家や庭にむいていることに気づく。

「この家は、村長が住んで良いよって言うから、住めただけなの。お金は関係ないから……」

「そうなんだ」

 どうやらホッパーは大きな家に住んでいるから、お金を持っていると誤解しているらしい。違うと訂正すると、不思議そうにあちこちを眺めていた。

「引っ越してみてどうなの」

「え?」

 思わず耳を疑ってしまった。ホッパーからそんな質問を受けるとは夢にも思わなかった。

「どうって……どうだろう?」

 夏の終わりから冬の入り口まで暦は進み、秋がまるっと過ぎていく。どう? と聞かれるととても困ってしまうのだが、たくさんのことを振り返って答えを探すうちに、モイラは自然と微笑んでいた。

「楽しいかな! うん。すごく楽しい」

 心の中から飛び出してきた感情を隠さず告げると、ホッパーはぱちりと瞬いた。

「毎日ブランチして、好きな本を読んでるのは最高だし、家の片付けとか、頼まれごととか、やりたくない事もたくさんしてるけど……不思議なの、全部楽しいの。一人で暮らすって大変だけど、ロッジさんもベリルも助けてくれるし、カナカレデスは五月蠅いけど何だかんだ構ってくれるっていうか、ゴールデンも可愛いし……」

 これまでの出来事は指を折るのでは足りなくて、そこに付随して経験したことはどれも楽しいと思えた。たくさんありすぎて言葉が足りず、話しきれなくても気持ちだけはホッパーに伝わってほしかった。

「なんか……どう、言って良いか分からないけど、嫌だなって思いながら始めた事も、最後には楽しかったなって思えてるの。ホルトス村にいる時よりも、開放感がすごくて……なんか、自由って、気がするの。全部、アタシが決めて生きてるから」

 自分で決めて、自分で考えて、自分でやる。その繰り返しの大変さが、楽しいと思える。


『しがらみから逃げたい人は此処に来るのかもしれないわね』


 いつかカナカレデスが言っていた。此処は逃げたい人がやってくる家なのかもしれない。自由を求めてここに家を建てたご長男がそうであったように、自由を手に入れる事ができる場所なのなら、モイラはここに来て良かったと思う。

「……モイラがたのしそうなのはわかる」

 終始黙って聞いていたホッパーがぽつりと漏らし、いたずらに「笛吹き男」の表紙を撫でた。

「学校の手伝いしてたモイラよりも、いまの方がたのしそう」

 学校で過ごした日々を思い出すように話すホッパーは俯いていて、モイラはぎょっとした。

「誤解しないでね? 学校も楽しかったよ? みんなで一緒に紙芝居見ている時間とか、すごく好きな時間だったの!」

 たしかに思い出したくもないことは多いが、子供達と一緒に学んだ時間が大好きだったのは本当だ。ラスクがお漏らしした時も、みんなで大笑いした。嫌な思い出もあるが学校はあって良かったのだと、モイラは本心から思っている。

「でも学校に通っていたときのモイラはいつも悲しそうだった」

 モイラははっとして顔を上げた。その点は図星なので否定ができないが、よもやホッパーに見透かされていたとは思わなかった。

「だから、ひさしぶりにこの家でモイラを見たとき、顔色が明るくなってて、たのしいんだなって思った」

 ホッパーがそんな事を言うことが意外で、モイラはなんだか恥ずかしくなってきた。端から見て自分はそんなに変化があったのだろうか。他人から見た方がわかりやすいということ? モイラは不思議だなと思い、おもむろにホッパーに視線を向けると、モイラの様子を窺うように顔を上げたホッパーと目が合った。バツが悪そうにすぐに視線をそらしてしまったホッパーは、「それだけ」と勝手に話題を切り上げた。


「ホッパーは? 商売どうなの?」

 自然とモイラの興味がホッパーに向く。今日も籠いっぱいの商品とミトンを背負ってやってきたこの商人は、三度目の冒険に出るはずだ。

「たのしいとおもう」

 ホッパーは本を撫でていた手で紅茶のカップを掴み、鼻先に引き寄せた。犬のようにくんくんと香りを楽しみながら、「たくさん売れるし」と付け足した。

「この前は籠の中身を空っぽにしてたもんね。ホッパーは商売の才能があるんじゃない?」

 初めての商売で籠を空にできるのだから、素直に才能があると思う。しかしホッパーは首を捻った。

「買いたい人がいるから売れるだけ。おれは店をだしているだけだから、才能とかない」

 淡々と答えると、ホッパーは紅茶を飲み干した。モイラはどうにか訂正しようと試みたが、うまく言えずにホッパーの言葉を鵜呑みにする形になってしまった。商売なんてしたこともないし、ロッジと自分のやりとりを思い出してもホッパーの理屈に当て嵌まってしまう。それでも才能に起因するものがないとも言えないだろうと言いたかったが、うまく言い表せられなかった。

「おれがたのしいのは、」

 モイラが言葉を探しているうちに、ホッパーは切り出した。

「ほかの村の人とはなしたり、ほかの国に行って知らないことを知れることだとおもう」

 そう話すホッパーの瞼が持ち上がり、家の前の通りへと向かった。大陸に続く一本道、その先にある場所を眺めているような眼差しは、小さな煌めきを孕んでいる。

「なんだか、冒険しているみたいだよね。知らない土地に出向いていくの」

 大陸に向かう背中を見て、モイラはいつも思っていた。瞼を輝かせて、籠を背負って歩いて行く少年の姿は、本の中で幾度となく出会ったアルケミストのようだ。そう言われて少し思うところがあったのか、ホッパーも小さく頷いた。

「うん。商売っていうより、冒険してるのかも。たのしい。わくわくする」

「あ、あ、わかる気がする! その気持ち!」

 例えばこの家に住み始めたとき、知らないことを知ろうとするとき、わくわくすることは何度もあった。小さなことから大きなことまで、不安に紛れて気づかなくても、わくわくが潜んでいるから踏み出すことだって出来た筈だ。ホッパーのように出歩くわけではないけれど、モイラだってご長男の残した塔は未曾有の地と言える。

「モイラもおれも自由なんだとおもう」

 ホッパーは相変わらず遠くを眺めながら、ぽつりと漏らした。

「親父たちとリビアに行ったら、たのしくなかったとおもう。たぶん、言われたことをひたすらやってるだけの旅になってた。こっちの大陸に一人で行ったから、たのしいっておもえてる気がする」

 ふとホッパーの視線が手元のカップに落ちた。残った茶葉が張りついたカップを、おもむろにソーサーに返す。

「でも一人だから自由になったわけじゃないとおもう。色んな人と関わってるし」

 珍しく話し続けるホッパーの言葉は核心を突こうとしているようで、まだふわふわとしていた。けれどモイラも深掘りをするには考えることが多くて、「そうだねぇ」と受容するしかできなかった。それがむず痒いけれど、言葉とは違った何かでホッパーの気持ちが感じ取れた嬉しさがある。

 きっとお互い、同じことを思っているのだ。自由の答えも、ありかたも。また霧の向こうにある答えをつかめるほど大人にはなれないだけで。


「自由ってむずかしい」

 ホッパーはそれだけ付言して腰を上げた。

「むずかしいけど、やりたいことを自分で決められるってことが、自由なんじゃないかな」

 モイラは首を傾げながら、吊られて腰を上げた。自由が何なのかよくわからないけれど、モイラもホッパーも、自分で決めた道を自分の足で進んで生きている。その点は唯一共通しているということで、ホッパーも頷いた。


 ホッパーがミトンや籠を背負ったりする間、時計に目をやると思ったよりもホッパーを引き留めてしまっていたことに気づいた。エストスまでの距離を考えたら長く引き留めない方が良いに決まっているので、「長く引き留めてごめんね」とモイラは謝意を添えた。

「時間がない時でもさ、家の前を通る時は挨拶くらいしてよね。前みたいにいきなり帰ってくると、結構びっくりするし」

「そっか」

 分かっているのかいないのか、ホッパーは短く返事をしただけだった。一方的なお願いをしたところで彼には彼なりの行動方針があるはずなので強要できないが、どうにも無視をされるようで心地よくなかった。

「てゆうか、用がなくても寄っていいんだからね? 疲れたーとか、眠いーとかあるだろうし……」

 長旅の途中にある家なのだから、休憩所のように気軽に使えば良いのに、と勧めるのは図々しいだろうか。気軽に立ち寄れるくらいになれば互いの距離も縮まるのではないかと思ってしまう。居づらくてたまらない距離感をいい加減どうにかしたかった。

「…………用がないと寄らない」

 願い届かず、ホッパーから返ってきた答えはモイラの気持ちをばっさり両断するものだった。ここまで取り付く島も無いとは思わなかった。じわじわと目頭が熱くなってきた。「そんなに私が嫌いなのか」と喉奥まで言葉がこみ上げてきたところで、ホッパーは口を尖らせた。

「……だから、用を作って、毎回、寄るようにする。用がないのに寄るとか、なにしていいかわかんない……」

 それだけ言うと、ホッパーは踵を返して通りに出て行ってしまった。

「はえ?」

 モイラは寸でのところで涙が引っ込んだ。彼の言葉を何度か反芻して、妙に納得してしまった。用がないのに立ち寄るのは、互いの溝が埋まらないうちはハードルが高いことだ。モイラは距離感を間違えたのだと気づいて、恥ずかしくなった。そうこうしているうちに勝手に出て行ってしまったホッパーを追いかけ、モイラは門の外に出た。大陸に向けて歩いて行くホッパーの背中が、まだ小さく見えていた。

 別れ際の挨拶もなしに行ってしまう姿に、やっぱり距離を感じてしまう。けれど口を尖らせていた彼の表情を思い出すと、モイラは少しだけ笑えた。あれはとても、優しい返事だ。ずっと取れずにいたささくれが取れたような気がした。


「ホッパー!! 気をつけてね! いってらっしゃい!!!」

 やまびこになって響くほど、大きな声で送り出した。聞こえているはずなのに振り返りもしないホッパーは、いきなり駆けだしてあっという間に見えなくなった。

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