第16話 モイラと鏡の本探し(後編)――無月
初めて家出をした時、なりふり構わず大陸に向けて走った。上り坂がきつくて辺りは暗くてすごくすごく怖かった。だけどお母さんに怒られる方がもっと怖くて、ひたすら走るうちに道ばたの一軒家を見つけた。
勝手に柵を乗り越えて庭に入っても、誰も咎めない。誰も居ない暗い家、のびっぱなしの雑草、裏手に回ると――塔があった。まるで海岸で光る灯台のようだと思った。疲れ果てたモイラは塔に寄りかかって一夜を過ごした。月が雲隠れした暗い夜だったけれど、暖かい季節なので安らかに眠れた。
陽が昇り、身体を揺すられた。目を開けると村長が心配そうな顔でモイラを見下ろしていた。「大丈夫か」「怪我はないか」「こんなところまで来て駄目じゃないか」たくさん心配されてたくさん怒られたけれど、お母さんの間に入ってあげるからと説得されて家路についた。
『このお家には、よく人が逃げ込むねぇ』
一度開けた門の錠前をきちんと閉じながら、村長はしみじみと空き家を見上げていた。
『アタシ、ここに住みたい。もうおうち帰りたくない』
俯いて弱音を漏らすモイラの頭を、村長のしわくちゃな手のひらが撫でた。
『このお家もどうにかしないといけないしねぇ……。きっとその時が来たら、この家がモイラちゃんを迎えてくれるよ』
村長は柔らかく笑った後、立ち上がり家に向かって恭しく一礼をした。そしてモイラの手を取りホルトス村へと踏み出した。
その日からずっと、モイラの心の中にはこの家があった。
**
「ほんじゃぁ、いっちょ開けてみるかい!」
樹洞で見つけた塔の”鍵”であるサー・ゴールデンは、言うなれば塔の施錠を任された番人のようなものだろう。塔の管理を前任の執事から任された錠前の化身である彼は、チンチラの姿を借りてモイラの肩に乗っていた。もふもふの毛皮の感触に病みつきになりつつあるモイラは、ゴールデンの承認が下りるまでは、彼を居候として家に通すことになった。そんな一幕を過ぎて休憩を挟んだ頃――陽が傾く前に、モイラとゴールデン、そしてロットの鏡に身を映したカナカレデスは、再び塔の扉の前にやってきた。
ゴールデンはヒョイとモイラの肩から飛び、空中で淡い光を纏うと、扉の取っ手の部分に吸い込まれていった。淡い光を纏ったゴールデンは扉の向こうに消え、変わりに中から『がちゃん』と金具が外れる音がした。
「開けてやったぜぇい! 扉を押してみな!」
モイラは言われるがままに扉を押すと、鉛を引きずるような重たい音と共に扉が開いていった。途端、ものすごい煙と埃が中から飛び出してきた。
「うわぁ!」
一体どれほどの月日を経ていたのか、空気の入れ換えが始まった途端にもうもうと錆び付いた匂いが返ってくる。モイラは鼻を押さえながらどうにか扉を開放し、しばらくは中に入らず空気の入れ換えをすることにした。その間に手持ちできるランプと、鼻を押さえる布巾のマスクを用意した。
「ほんっとにもう緊張感ないわねぇ! 埃なんかに参ってるんじゃないわよ!」
塔の傍で一休みしていると、胸元でカナカレデスが悪態をついていた。耳が痛いと思いつつも、埃にランプの火が移ると大変なことになるので致し方が無い。扉が開いたというのに前に進まない現状に、カナカレデスは気を揉んでいる。その様子を見ているうち、モイラはふと思うことがあった。
「カナカレデスって、ご長男に恋してたの?」
何気ない話のつもりだったが、モイラはうっかり地雷原に足を踏み入れていた。
「うるっさいわね!!!!」
ロットが宙に振り上がるほどの剣幕で怒鳴りつけられ、モイラは飛び跳ねて驚いた。カナカレデスは小さな鏡の中で鬼のような形相でモイラを睨んでいる。真っ赤な顔をしているので、まるで赤鬼だと思った。
「え、なんかごめん……。村にもいたからさ、好きな男の子が傍にいるとそわそわしちゃう子? なんか似てるなーって、思っちゃって……」
「子供扱いしてんじゃないわよ!! アンタたちみたいな子供の恋愛と一緒にしないでくれる!?」
「ご、ごめんなさい……」
日頃の仕返しのつもりでおちょくると万倍返しをされそうだ。モイラは引きつる頬をどうにか苦笑させながら、カナカレデスを宥めた。そして心の中でこっそりと『いつか詳しく聞こう』と決意した。
自給自足生活の極意その9 他人の恋愛トークは紐解くべし である。
何度か風に吹かれて埃が抜けたところで、モイラはランプを片手に塔へ踏み入った。見上げる塔の中は、外観と同じようにまるで筒であった。窓もない側面と、中央に通る柱が一本、そこに巻き付くように螺旋階段が伸び、その果ては薄暗くて見えない。煉瓦が填め込まれた壁の所々にはランプが引っかけてあり、中の油が古くなっているのでこれも交換が必要だった。扉から入ってくる夕陽が橙に染まる前に、モイラはランプを掲げて壁際を照らして歩くことにした。
「うわぁ……」
感嘆の声を上げてしまうほど、壁にはびっしりと本が埋まっていた。壁に本棚を填め込んでいるようで、棚はわずかに曲線を描き、大小様々な本が上手く填め込まれていた。それだけでは収納が足りないようで、床に積み上がった本の柱に何度も躓いた。
「すごい……カナカレデスの言っていた事って正しかったんだね!」
「疑ってるんじゃないわよ」
胸元から恨み深い声が聞こえてきたが、本に目を輝かせているモイラには届かない。そのままぐるりと側面を一周すると、作業用の机と棚が現れた。螺旋階段の傍に設置されたそれらは、蜘蛛の巣に守られている。インクやペン、引き出しには洋紙も入っていた。
「なんだか、すごいね。本当に秘密の部屋って感じ……」
モイラは早々に机からは手を引いた。他人の領域に土足で入るようで申し訳ないと思った。
「これ、上はどうなっているの?」
螺旋階段を見上げながら問うが、ゴールデンは「さてねぇ」と濁すだけの返事を寄越した。暗がりからひょいと姿を現したゴールデンは、螺旋階段の手すりの上で仁王立つ。
「自分で確かめて見ればいいやい。行きたくねぇのかい?」
「うーん……」
行きたくないかと問われると、複雑だった。カナカレデスの為にも登ってあげたいと思うでも無いが、不思議なことにあの暗がりに向かう気持ちが一向に沸いてこなかった。
「なんか、まだ良いかなって、思っちゃってる……。頭では登って全部見た方が良いような気がしているんだけど、そこに向かう燃料がないというか、着火できないというか……」
「そりゃぁ、”まだその時じゃない”って言われてるって事だな! お前さんが気にすることじゃねぇやい!」
ゴールデンはヒクヒクと髭を揺らしたり耳を動かしたりした後、うんうんと頷いた。その言われ方に不自然さを感じて、モイラは肩に移動してきたゴールデンに問うた。
「どういうこと? ”まだその時じゃない”って、誰が誰に言っているの?」
「そりゃぁお前、『無月』が『モイラ』に言っているのさ」
もう少し噛み砕いてくれないとモイラには理解が難しかった。ゴールデンはその名前の通り、ランプの明かりも借りずにうっすらと光っており、しきりに何かを聞いているように耳を立てている。モイラはその様子を眺めていれば詳細が聞けるかと思い、眉を寄せて見つめいた。するとゴールデンにはモイラの不満が通じたらしく、「そうだなぁ」と考える仕草をした。
「お前さんだって、腹が減ったら食べるし、本が読みたくなったら読むだろ? 『無月』は目的の為に、腹が減っていても減っていないと思わせたりするのさ。雲が月を隠すみてぇにな」
「……よくわかんないよ」
噛み砕かれてもやっぱり分からなかった。そんなモイラが可笑しかったのか、ゴールデンはモイラの肩の上でキャッキャと笑った。
「ま、登りたくなったら登ればいいってことよ! 塔は逃げねぇんだからよう。しばらくは此処にある本を読んで楽しめば良いじゃねぇか!」
楽に考えようぜ! と笑い飛ばすゴールデンが、初めて自分から毛皮をモイラの頬に擦り付けた。その暖かさともふもふさに宥められているうちに、モイラは「そうだね」と納得した。
「ゴールデンと同じような事を、昔、村長にも言われた気がする。”その時がきたら、塔が迎えてくれる”ってことだと思っておくわ」
この家がモイラを迎え入れてくれたように、時がくればいつか上に登ろうと思うのだろう。今は「塔」が許容する範囲がここまでなのだと理解をすることにした。
「あ、そうだ」
モイラはふと思い出したように手を打ち、首から提げていたロットのネックレスを外した。鏡の中で揺れているカナカレデスを覗き込むと、「なによ?」と首を傾げていた。
「あのね、塔の中にこのネックレスを置いておこうと思うの。ご長男の机の傍に引っかけておけば、カナカレデスはいつでもこの塔の中に入れるでしょ?」
鏡の中には道がある。自由にどの鏡にでも顔を出すことができるカナカレデスが、いつでもこの塔の中に入れるようにするには、鏡を置いておく必要があると思った。
「ね? いいでしょ、ゴールデン! カナカレデスは人じゃないんだから、貴方の監視下に置く必要はないよね?」
肩に乗るゴールデンに尋ねると、ぱちくりと開いた瞼がやれやれと呆れていた。
「勝手にしろやい! 俺様は何も聞かなかった事にしてやるぜい」
ヒクヒクと鼻を揺らした後、ゴールデンはモイラの肩から降りて闇に紛れてしまった。ロットについた鏡を覗くと、カナカレデスがむっすりと頬を膨らませてバツが悪そうな顔をしていた。
「アンタがどうしてもっていうなら、この塔に鏡を下げる事を許してあげてもいいわよ」
ツイ、とそっぽをむいて腕を組む自分の顔が鏡に映っていて、モイラは笑ってしまった。どうしてカナカレデスはこんなに意地を張るんだろう。
「あはは、じゃぁこの棚の所に掛けておくね」
「笑ってんじゃぁないわよ! 鏡を下げるってのはね、場所とか向きとか色々とあんのよ! アンタ分かってないでしょぉ!?」
小うるさい姑のように騒ぎ出した鏡は長男の机の小棚に掛けた。この机も近いうちに蜘蛛の巣を払って掃除をしなければなるまい。大量の本も、晴れた日が続く内に虫干ししなければ。
「えへへ、しばらくはお掃除頑張ろうっと」
何はともあれ本の所在を明らかにできたモイラは大満足だった。家にある分と合わせても一年以上本に困ることはない。まさに理想郷、自由のオアシスを見つけたように上機嫌だった。
橙色の西日が扉から差し込んで、木々の黒い影が風に揺れている。そろそろ帰ろうと手招いているようだ。モイラはすっかりおとなしくなった鏡に声を掛けなかった。気が済めばリビングの鏡の中に戻ってくるだろう。彼女は今、もういない彼の人との思い出に浸っている。
「風流でいいじゃねぇかい。それも無月と言うのさ」
扉の外で待つゴールデンを拾い上げ、モイラは『無月』って奥が深いね、と笑った。
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