第9話 一つ星 

『モイラ、早く起きなさい! お父さん達がもう仕事に行っちゃうんだから、皆で見送りしないといけないでしょ!!』


 母の金切り声がうるさくて布団を被る。頭に響いて大嫌いだ。二階にいてもどこにいてもキンキン響くし、無視をしていると次には地鳴りのような足音を連れてくる。それが嫌で朝が来る度に憂鬱だった。


『いつまで寝てるの! もう皆、広場に集まっているのよ! どうして皆と同じ事ができないの!!』


 足音が近づいてきて、布団を剥ぎ取られて、心臓がぎゅっとなった。布団を抱えて下の階に降りていく母親の背中も大嫌いだ。


 皆と同じ事ができないわけじゃない。人を駄目な人間に仕立てる言い方をしないで。


 皆と同じ事をすることに何か意味があるの? 誰にとって何の意味なの。





それは10年前、モイラが7歳の頃の話。





 大陸の東側、突き出た半島のさらに最端にはリビアという大国がある。四方八方を海に面した海運国家で、リビアに陸続きで向かうには半島を縦断する山々を越えなければならない。山の輪郭をなぞるように続くただ一つの道の途中には小さな村が点在し、どれも貧弱でロッジのような露天商の流通がなければ生きにくい場所にある。


 ホルトス村も例に漏れない人口200人程度の村である。一面を栗林に囲まれ、主食は栗を粉にして練り直したニョッキ、それなりの山菜、川魚、とにかく土が貧弱で農業には適さなかった。


「こんなところに住むのは山羊か羊だけよ」


 生意気盛りだった当時のモイラは父の横で悪態をついた。父はケラケラと笑い、「見渡してみろ、山羊も羊もいないじゃないか」と膝を打った。


 その父は半年以上も家を空ける。村中の男衆は隣の村まで仕事をもらいに行くためだ。一面の段々畑を持つ隣の村に行けば仕事と宿をもらえる。リビアとも取引がある隣の村はホルトス村よりも大分リビアに近いところにあり、往復で通える距離ではない。けれど村の存続の為には出稼ぎが必要だった。


 男達がいない間は女が仕切り、子供が働く。栗の収穫から、石臼で栗を挽いて粉にする作業まで子供が駆り出された。炊事洗濯薪割り……一丸となって村を守る村民達の協調性は高い。手を取り合って一日中働く人と人の輪の中に、脱落者は存在してはいけない。


 ある日、モイラは子供達と広場で栗の選別作業をしていた。栗の底をよく眺めて虫食い穴がないか確認していると、村長の家から母の声が聞こえた。何やら言い争っているようだった。


「モイラの母ちゃん、リビアから嫁いできたんだって?」


 隣で栗を剥いていたホッパーが漏らした。モイラは何を言われるのか少し怖かった。


「なんか、あんまり仕事してないよね。うちの母ちゃんが怒ってた」


 ホッパーは栗のとげとげした部分を指先で摘まんでくずかごに放った。それ以来、モイラはホッパーと話すのが怖くなった。


 すっかり日も暮れて暗くなった頃、誰かが空を見上げた。井戸を中央に据えた石段造りの広場は村の中でも標高が高く、空が澄んで見える。


「もう帰ろうよ。一つ星が見えたから、今日は終わりだよ」


 きらりと輝く一つ星が見えると子供は家に帰る。モイラはどうして作業を中断して良いのか解らなかったが、暗くて栗の底など見えないので、この号令のままに帰宅していた。


 家に着けば母が夕飯の支度をして待っていた。二人だけのご飯を食べたら順番にお風呂に入る。母が風呂からあがるまでの十数分は、モイラにとって本が読める掛け替えのない時間だった。母の部屋にある絵本をこっそり見るのが大好きだった。




「……ねぇモイラ、貴方は文字が読めるの?」


 その日の夜はなぜか母の入浴が短くて、こっそり絵本を見ているところを見つかってしまった。モイラはびっくりして本を落としてしまった。見開きいっぱいのイラストの上に、数行だけ文章が書かれた子供用の絵本には、母の字でふりがながしてあった。


「……ちょっとだけ読めるようになった」


 まだ小さかったモイラは素直にそう答えた。すると母は絵本を拾い上げ、モイラの傍に腰を下ろした。


「学校にも通わないのに、どうやって文字が読めるようになったの?」


「なんとなく、見ていると解るだけ」


 モイラは正直だった。大人達が文字を観ながら話していたり、本を眺めているうちになんとなく読めるようになっただけで、誰からも習ったわけではない。


 ホルトス村には学校がない。父や母がまだ小さかった頃は、近隣の村の子供を集めた学校が存在していたらしいが、廃校になってからは後任も現れず、教育の消失は識字率の低下を招いている。


「ねぇモイラ、もっと文字が読めるようになりたい?」


「え?」


 黙り込んで考えていた母は途端に口火を切った。モイラは戸惑い言いよどむ。


「読みたいわよね? 文字が読めると、便利よね??」


 まるで有無を言わさぬ母の剣幕はすごかった。


 文字が読めたら…もっと本が読めるかな?


 そう思えばモイラが否と答える理由はない。わくわくと楽しみが増えるなら、ぜひ学びたい。けれど母はモイラの気持ちなどまるで見えていないような圧迫感で『否』など言わせない形相だ。それがどうしてかわからなくて、モヤモヤする。

 結局、モイラは素直な返事もできないまま、なし崩しのように頷いたのだった。




 その日から母のレッスンが始まった。栗の作業が終わり、風呂に入って寝るまでの自由な時間は文字を学ぶ勉強をさせられた。後から知ったことだが、母は村の子供達を学校に通わせるべきだと村長に詰め寄っていたらしい。自分が教師になってせめて語学を学ばせることを許して欲しいと訴えていた。しかし共同体の在り方を変えることは難しく、ましてよそ者の女の意見など村長は耳を貸さなかった。


「文字が読めるって、すごく生産性が上がることなの。だって本を読めば自分で学ぶことだってできるでしょ? ねぇモイラ、貴方はママの味方よね?」


 母の指導は厳しく、間違えることを許さなかった。突然渡された活字だらけの本なんて当時のモイラには何の魅力もない。こんなものよりあのイラストがたくさん描かれた絵本が読みたい。





 ねぇママ、アタシは文字が読みたいんじゃないの。


 本が読みたいんだよ。


 本の中で知らない世界を知りたいだけなの。


 だから絵がたくさんある本だけで良いんだよ






 できるようになるまで、勉強は続いた。時には空が明るくなるまで、母にペンで指を弾かれながら。




「このテキストが終わったらね、作文を書きましょう? それを村長に持って行って、学校を作る必要性を解って貰うの。そしたら、パパがいなくても私たち家族はやっていけるわ。私が子供達に貢献できたら、きっと認めて貰えると想うの。ねぇモイラ、ママが先生だったら嬉しいでしょ?」




 時が経つにつれ解ってきた。母は肩身が狭かったのだろう。村の女たちと一緒に働くことが苦手で、外者だと後ろ指を指される。だから教師になることで自分の居場所を作ろうとしていたのかもしれない。けれどモイラは気づかないふりをした。母にはどう言葉をかけても届く気がしないし、そもそもかける言葉もわからない。たくさん言葉を知っていればこんな悔しい思いもしなくて良いのかもしれなかった。

 学校が母の幸せに繋がるなら、アタシも頑張ろう。

 そう思って踏ん張っても、熱が入るほど母は鬼に化けていく。



 どうしてこんなことになってしまったんだろう。モイラの心は擦り減っていた。


 けれど絵本についてくる文章の量は増えていき、絵がない本を読むこともできるようになった。徐々にどんな本も読めるようになったことは、たしかに喜びだと思えた。




「ねぇ違うでしょ? この小説の主人公の気持ちはどう解釈しているの?」


 けれど、物語の”正解”を押しつけてくる母はうるさくて大嫌いだった。文字が読めるようになるに連れて、次から次へと新たな問題が生まれ、母との衝突は増えていく。


「どうしてわからないの? 正しく文章を読みなさいよ、違うでしょ?」


 本の中にある世界。それが正しいかどうかなんて誰にも分からないはずなのに、母はモイラとはまったく違う解釈を押しつけ、すべてを否定する。



 正しいかどうかなんてどうでもいいのに。


 ただ、活字の中に広がる世界に浸っていたいだけなのに。


 逃げる場所はもう本の中にしか、ないのに。


 大好きな本とアタシの繋がりまで否定しないで



「……ママなんて大嫌い」


 モイラは本に顔を埋めて泣いた。くぐもった声で鼻を啜りながら、母にどんなに揺すられても動きたくなかった。このまま本に挟まれてしまいたかった。





 (いつか大人になったら、一日中好きな本を読んで、たくさん遊んで、好きなだけ寝るんだ。いつか、いつか……)




朝焼けの空にはいつも作業の終わりを教えてくれる一つ星が輝いていたけれど、誰も「止めていいよ」とは言ってくれなかった。

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