第8話 鏡の秘密(後編)――幸運

「私だって長いこと生きているし? 人を見る目だけはあるわけなのよ、鏡だけに。だからアンタがチェスをあんまり好きじゃぁないんだろうなってことはなんとなく解っていたわけ。解っていたわけなんだけど、チェスってなんて言うか、頭の体操? 身近で一番盛り上がる遊び? すなわち平民から貴族まで全階層に通じるお遊び? 的なところがあるのよね、そうそう。つまり何かって言うと、アンタは私からチェスを学んだ方が良いってわけ。嗜み的に? 女として? そこんところ、理解してくれる?」


 寝ぼけ眼に鏡の前に立ってしまったのが運の尽き。櫛で髪を引っ張っていた鏡の中のモイラがいきなり口端を引き上げて笑い、捲し立てるようにチェスを強要されたのだった。


 そんなわけで朝からげんなりしたモイラは読書とブランチの後、昼過ぎからチェスをする約束を取り付けられた。


 今日の読書はチェスの説明書に決定。説明書なんて読む機会がないと思い、ロッジに販売するようにとっておいたのが幸運である。1から10までカナカレデスに教わると何回怒鳴られるか知れたものではない。


 ルールを一読し基礎だけは頭に入れた午前中、残った時間で昨晩開いていた『秋は夕暮れ』の一文と向き合ってみたが、やはり最後の一節は思い出せなかった。


「あーぁ、アタシの頭が老化でもしてるのかしら。こんなんじゃぁチェスだって上手くできる自信ないなぁ」


 大きな溜息が日だまりに溶けていった。





**





「ねーぇ、アンタが駒を動かしてくれない?」


 リビングの小棚の前に椅子を移動して座り、モイラは鏡の前のチェス盤に向き合った。カナカレデスはやはり読み駒になるようで、モイラがどちらの駒も動かしながらゲームを進める形である。チェス盤は相変わらずやりっぱなしの戦況が続いていた。


「このゲーム、終えて良いの? 初めはどっちの駒も端っこに整頓するんでしょう?」


 新しくゲームを始めるには、一度盤上のリセットが必要だ。カナカレデスに判断を仰ぐと、頬杖を突いて穏やかに笑っていた。まるで懐かしんでいるように。


「いいわよ、このゲームの相手をしてくれた人はいないもの」


 カナカレデスはひらひらと手のひらを揺らして「とっととリセットして」とでも言いたげである。モイラは少しばかり迷った後、駒を摘まんで整え始めた。


「……まだゲームしてるんだと思ってたわ、勝手に動かしてたし」


 モイラは暗がりの中で鏡から手が伸びる光景を思い出した。直視したのはあれが初めてだが、駒が動いていると気づいた回数は複数あったのだから、カナカレデスは一人で継続的にチェスをしていたのだと思っていた。しかしカナカレデスは緩く首を横に振る。


「アンタには解らないかもしれないけど、もう詰んでるゲームだったのよ。喉元に刺突剣を突きつけられている様な戦況なの。だから当時、相手に”一回考えさせて”って頼み込んでね、長いこと頭を捻っていたんだけど、……気づけばこの家の中は空っぽになってたわ」


 カナカレデスは肩を竦めて自嘲した。


「まぁでも時間が経てば気づくものもあるでしょ? あそこをああしていたら、戦況は変わったかも知れないって。だからたまに動かして考えてたってわけ。何十年経っても、あの人には届かないけど」


 モイラは少しだけ納得できたように、チェス盤に視線を落とした。絶体絶命な戦況というのがどんなものかは読み取れないけれど、彼女が駒を動かしていた理由は他にもあるのではないかと思った。


 一人で、誰もいないこの家で……誰かの名残を惜しむようにチェスをする。それは寂しいな。


 ぽつんとモイラの中に芽生えた感情は、鏡映しのように彼女と同じものだろうか。


「……前の住人って、チェスが強かったんだね」


 モイラは駒の配置をする内に指に纏わり付く埃が気になり、ハンカチで拭ってから盤上に戻すことにした。埃まみれの駒たちは降雪の中を進むように埃を頭に乗せている。それが年月の厚みだというのなら、カナカレデスが一人で過ごした日々の厚さを慮る。


「すっごく強かったわよ。頭が良い御方でね、政治にも経済にも戦術にも長けていたし、語学も堪能だったわぁ……」


 うっとりとした瞼で思い出に浸るカナカレデスは、まるで恋する乙女のように見えた。ともあれモイラ自身の姿を使っているので、自分もそんな顔をすることがあるんだろうかと不思議に思う。


「……頭が良くて、インテリな聖職者ってこと?」


 ベリルが予想していた前住人の正体像。ずっと気になっていたその全貌が知れる気がして、モイラは切り込んだ。するとカナカレデスは今までのうっとりした雰囲気を一変して「はぁ?」と眉を寄せた。


「アンタ、この家に引っ越す時に何も聞いてないわけ?」


「う、」


 ぐっさりと核心を突かれてモイラは胸を押さえた。カナカレデスは遠慮を知らない。


「……聞いてないの。アタシ、ホルトス村から出たい一心で此処に引っ越してきたから」


 鏡からそっと視線を外し、モイラはぽそぽそと漏らした。カナカレデスを前にすると心苦しくなる。彼女の聖域に土足で入ってしまった気がして、申し訳なくて居たたまれないと思った。しかしカナカレデスは意外にも「あーそう?」とあっさりとしたものだった。


「そうやってね、しがらみから逃げたい人は此処に来るのかもしれないわね」


 カナカレデスに視線を戻すと、はぁとため息を漏らして頬杖をついていた。鏡の中の自分にじいっと見つめられながら、モイラは駒をぎゅっと握った。


「あのさ……ここに住んでいた人って、どんな人なの?」


 モイラは勇気を振り絞りずっと疑問だった事を尋ねた。


「半島の門」のこと、家の裏にある「塔」のこと、「グリフォン像」のこと、ベリルが教えてくれたこと。


「解らないことばっかりなの。それが不安なの。アタシ、自由になりたくてこの家に来たのに……結局よくわかんないことに縛られている気がして、すごく嫌なの」


 捲し立てるように不安をぶつけている間、カナカレデスは黙って聞いていた。鏡の中の自分に向かって話していると、具体的に内省できた感触だけが残る。けれどモイラが欲しい答えはモイラの中には無かった。


「う~~~ん……そうねぇ……アンタに何を話したら不安が払拭できるのかわからないけどぉ」


 カナカレデスは顎に手を添え思考を巡らせるようにぼやいた。モイラ自身も何を聞いたら良いのかわからなくて、手持ち無沙汰に駒を拭い、盤上に戻していた。


「……前に住んでいた人はね、リビアに住む伯爵家の長男坊で、わざわざこんなところに家を建てて、少数の執事と一緒に移住したのよ」


 リビア、という言葉を聞いてモイラは顔を上げた。リビアの伯爵家……それだけで確かな素性の者だと解る。


「どうして移住してきたの? 伯爵の長男なら、跡継ぎの御方でしょ?」


 村育ちで世間の習わしに疎いモイラでもそれくらいは解る。長男ともなれば家督を継ぐ、それはホルトス村でも同じことだ。まして貴族の話である。当然の疑問に対しカナカレデスは苦笑した。


「だぁから、逃げたかったのよ、あの御方もお家騒動から」


 ひらりと手のひらを翻し、カナカレデスはゆっくりとした口調で話し始めた。




 私はもともと伯爵様のお家に置かれていた鏡でね? ご長男が小さい頃からずっと成長を見守っていたわけ。伯爵家はその名をクリオール家と言って、聖グリフォンの加護を受ける由緒ある一族だった。ところがリビアっていう国は聖も魔もごった返すサラダボウルみたいな国でね、全てにおいて自由を掲げる海運国家には絶えず色んな種族や宗教が入ってくる。クリオール家みたいに聖なる一神教に偏り、慣習やしきたりに囚われる家ってのは、種族間の絆が強い分、頑固な一族だった。




「……もしかして、あのグリフォン像っていうのは、クリオール家に代々伝わるもの?」


「そうよぉ、グリフォンの加護を受け継ぐ大事なものなんだから。私ですら頭が上がらないわ」


 聖グリフォン……聖獣の加護。ベリルが前住人を”聖職者”と推察した理由が分かる。クリオール家の人間には聖なる加護が宿っているという事で、聖職者よりもずっとその聖性は強いのだろう。モイラはグリフォン像を郵便受けの上に放置したことを内心で詫びた。


「そっか……じゃぁ、あの像がある限り、本当に悪いものは入って来れないんだね」


「その聖性があるおかげで、ベリルみたいに聖性に頼らざるを得ない種族にとっては拠り所にもなるしね。まぁ、なくてはならない一族としてリビアの中でも突出している分、クリオール家はとんでもなく頭が固くて息苦しいおうちだったわよ。ご長男は”クリオール家”のそういう処が大嫌いだったみたい……」


 ”聖なる○○”や信仰と名が付くと、途端に戒律やら習わしが発生するような気がする。先日、ベリルが「家に入れない」と制約を体現した時、モイラはいまいち理解ができなかった。きっと見えない枷のようなものが聖性と言う物には付いているのだろう。モイラは「そっか」と呟き、知りもしない長男の苦労を想う。


「……ご長男の苦しさって、貴族じゃないアタシにはわからないな」


 貴族じゃない。こんなに大きな家を建てるお金もない。国の中でも確かな地位を持つ一族でもない。モイラはリビアとはかけ離れた小さい村で育った女の子だ。


「でもさ、おうちが息苦しいって部分は、分かる気がするんだ。アタシもホルトス村にいるのが苦しかったの。いつも親にああしろこうしろ、村の為に働け、勉強しろって。好きなことできたの、この家に来て初めてなの」


 モイラはサイドテーブルに置いていたチェスの説明書に手を伸ばし、膝の上に乗せた。やったこともないチェスの説明書、村にいる時、チェスは大人の遊戯であった。バーのカウンターで年寄りが弄るものだと思っていた。そういう”遊び”がたくさんあった。


「大人の言うこと聞かなくちゃいけないのは解るけどさ、なんか道具みたいに扱うの、ちょっと納得いかなかったな。長男もそうかな?」


 苦笑交じりに茶を濁して鏡を覗くと、なんとも言いにくい表情をした自分の顔があった。カナカレデスが模している筈なのに、不思議と自分がそんな顔をしている気がした。けれどすぐにカナカレデスは力なく笑う。


「そうかもね。彼が此処にいたら、共感してくれたと思うわぁ」


 力なく笑い、ふわふわと伸びる語尾が柔らかい。モイラの心にそっと寄り添われた気がして、ほうと安堵の吐息が漏れた。


「長男はこの家にきてどうだったの? 好きなことたくさんできた? 楽しかったかな?」


「どうかしらねぇ? 一筋縄ではいかない方だったから、何かと忙しく過ごしていたみたいだけど……」


 ああでも、とカナカレデスは思い出したように指を弾いた。


「一度、身支度をしている時にね、私に向かって言ってくれたことがあったわ」





『この地にやってきた私を縛るものは何もない。過去などこの世の何処にもありはしない、過去があると言うのなら、それは私が改竄しねつ造する妄想にすぎない。故に私を縛るものは何もなく、今此処にいる私は何の枷も持たない。私は今日という日を前進できる。それは紛れもない幸運ではないか』





「すごい暴論!」


 モイラは瞼を丸くし、思わず声を上げてしまった。慌てて口を塞いだが、時は遅し。てっきり怒るかと思ったカナカレデスはケラケラと笑っていた。


「でっしょう? 流石の私も驚きすぎて割れるかと思ったわぁ!」


 涙を拭いながら高笑いをするカナカレデスにつられてモイラも少しだけ笑った。そのくらい思い切れる人だからこそ、立場を捨ててこの家に逃げることができたのかもしれない。


「鏡に向かって……自分に向かって、言ったのよね。自分を鼓舞する為に、自分に言い聞かせたのよ、きっと」


 カナカレデスは穏やかに笑っていた。懐かしむように、彼女の中には彼の人がまだ生きているのだろう。




「安心しなさいよ、ご長男は自由を求めて此処に住んで、大義も成した。幸せだったと思うわよ」


「そっか……」




 しがらみを捨てた前主人クリオール家の長男か。自由を求めてこの地に赴いた貴方も、あのテラスでブランチをしたり、読書をしたりしたのかな。




「……チェスを始めようか。早くしないと日が暮れちゃう」


 すっかり埃を払って綺麗になった駒の隊列を見渡しながら、モイラは微笑んだのだった。

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