第6話 鏡の秘密(中編) ――双子




「ぎぃゃああああああああああああああああっっっ!!!!!」




 大絶叫は十重二十重と続く山林の向こうまでも響き、とんでもない地響きを錯覚する。驚愕のあまり木の枝から落下したベリルはその足で転がり落ちるように駆け出した。こんな品のない絶叫をするのは野生のガチョウかモイラしかいないと即座に思い立ったのである。




「ど、ど、ど、どうされましたか!?」


 1分も経たずにモイラの家の庭先に転がり込むと、テラスの大窓の向こう……リビングらしき部屋の中で暴れているモイラの姿が見えた。


 一体なんだというのだ? チェス駒の話が解決した舌の根も乾かないうちにこの荒れようは。ベリルはどうにかリビングの大窓を開けられないか引き戸に手を掛けると、意外にもあっさりと開いた。


「モイラ様!! なにごとですか!?」


「べ、ベリル~~~~~~!!!」


 大窓を開けた途端、涙で顔面を濡らしたモイラが飛び込んできた。ベリルの胸にがっしりと抱きついたモイラの細い身体を受け止めた瞬間、今度はベリルが飛び上がった。


「わ――!! いけません! 乙女がそうやすやすと男に身体を預けては!!」


 ベリルは尖り耳の先まで真っ赤に染まり、モイラに触れぬように両手を持ち上げた。そんなことに構っていられないのか、モイラはぎゅーっとベリルに抱きついて離れる素振りを見せない。


「モ、モイラ様……! 一体なにが……」


 先ほどまでの勢いならば喚き散らしても可笑しくなかろうに、覗き込むモイラの顔はぐずぐずに泣いていた。これはもう赤面している場合でもないと悟ったベリルはモイラの肩にそっと両手を添え、膝をついて彼女の顔を覗き込む。モイラはよほど怖い思いをしたのか小さく震えていた。


「う……っベリル……」


 モイラの瞼から大粒の涙がこぼれる姿はあまりに痛々しく、ベリルまでもらい泣きしそうになった。


その時




「ベリル、の、嘘つきバカ嘘つきーーーー!!!」


「へぶんっ!??」




 モイラの手のひらが遠心力に任せて風を切り、ベリルの頬を殴打した。癇癪玉が破裂したようなとんでもない殴打音は、夕暮れの道ばたに響いたのだった。





**





「鏡から手が伸びて、チェス駒を動かしていた……と……」


 モイラのビンタを喰らい庭先に尻餅をついたベリルは、そのまま胡座を掻いて考え込んでいた。ランプを片手に大窓の縁に座り込むモイラも幾分落ち着いたとはいえ、まだ鼻紙を濡らしている。ランプの明かりを頼りに、窓際で会議が始まっていた。


「ねぇ、ゴーストじゃないのよね? 悪いものじゃないって言ってたわよね??」


 腕を組みながら眉を寄せるベリルにどれだけ言い寄っても、モイラが聞きたい答えが返ってこない。それどころか、ベリルは困り果てたように顔を上げた。


「モイラ様……、申し訳ございません。わたくしにはわかりません」


「えええ!?」


 モイラは自身の身体を抱きしめて竦み上がった。ベリルは苦笑するしかできず、頬についたもみじマークを摩りながら言葉を選ぶようにまごつく。


「ゴーストは鏡の中を移動することができますから、わたくしが来ていた時には別の鏡の中に移動していたのかもしれません。それならわたくしが感知できなかったのも頷けます。……しかし、グリフォン様のご加護があるこの家に外から入り込めるゴーストがいるのなら、それはかなり高貴な身分であることでしょう。事実、わたくしでも家の中には入れないので」


 精霊族というのは人間とは立ち位置が違うらしい。そんな説明はとにかく後にしてあの鏡の正体を催促すると、ベリルはやはり首を横に振った。それどころか申し訳なさそうにモイラを覗き込むと、


「……モイラ様、あの鏡をここまで持ってきて頂けませんか?」


「え!??」


 まさかの注文を投げてきた。


「わたくしは家の中に入れませんし。こうなったら直接、鏡と対話をしましょう。モイラ様もわたくしがいた方が幾分安心できますでしょ?」


 それはそうだけど……と、今度はモイラがまごつく番になる。


 鏡をここまで持ってくるの? 壁から外して? その時、どうしたって自分の顔を映すことになるのに?? 鏡から手が出てきて捕まれたら……、


「無理無理無理無理!!! 怖いわよそんなの!! 暗くなってきたし!!」


「大丈夫です! わたくしが此処で見ていてあげますから!」


「見ているだけで何の役に立つのよ! アタシが鏡に襲われたって、家の中に入って来れないんでしょ!? どうやって助けてくれるのよ!?」


「モイラ様がこちらに走ってきてくだされば、わたくしが引き受けます!」


 ギャーギャーとああ言えばこう言うを繰り返す不毛な言い争いが始まった。結論は見えているのにちょっとの勇気がモイラには足りず、だからといって種族特性をどうにもできないベリルも引くに引けない。終着点に行き着けない口論は騒がしいばかりで、ベリルは頭を抱えるし、モイラは再び涙腺の蛇口が緩んできていた。




『うるっさいわね!!! 何にもしないからとっとと私を外しなさい!!!』




 突如、裂くような甲高い声が響いた。


 それはまるで怒り任せに陶器を床に叩きつけるような、鼓膜を突く声だった。キンとした冷たい波紋が夜の空気を震わせる。後追いの静寂を感じながらモイラもベリルも身を固くして黙り込んだ。




「…………え? 今の、なに……?」


「……頭に直接入ってきましたね……」


 ベリルのように言葉と共に木枯らしが吹くのとは違う。頭の中に直接語りかけられた、という見解が確かにしっくりする。モイラは恐る恐る振り返り、鏡に視線を向けた。鏡面は小石を投げられた水面のように揺れている。


「モイラ様……怒らせると何をするかわかりません。今のうちにこちらに持ってきて下さい……」


 ここぞとばかりに背中を押すベリルを忌ま忌ましげに睨み付けた後、モイラは泣く泣く鏡を取り外したのだった。





**





「ほんっとに、うるさい。あー、うるさい。久しぶりに人が住んだと思ったら、ほんっとにうるさいんだから、近所迷惑って言葉、知ってるわけぇ? アンタたち、此処で人が寝てるって、思わなかったの?」


 壁から外した鏡の中に映るのは間違いなくモイラであった。しかし鏡の中のモイラは、実際のモイラの”鏡映し”として同じ動作を取ること無く、好き勝手に動き、そしてネチネチと文句を続けている。こうなると、”鏡に映った人間を模った全く違う人格”にすら思える。一体この物体(生き物?)は何なのか理解が全く追いつかず、ベリルもモイラも呆気にとられていた。


「あ、思わないんだ? そうだよね、普通、鏡の中で誰か寝てるなんて、思わないよね。あー、うん、そうね、はいはい、解る解る、100歩譲って理解理解。でもさ、もう私がここにいるって、アンタたち解っちゃったわけじゃん? だったらせめて、何か言うことあるわよねぇ?」


 鏡の中のモイラは肘を突き、指先をしきりにモイラとベリルの間で揺らしながら横柄な態度で喋っている。呆気にとられたモイラとベリルの態度が気に入らないのか、煽るような事を言ってみたり……、かと思えば勝手に納得をしてみたり、コロコロと態度と表情が変わっていく。その芝居がかる姿を見ていると、初めこそぽかんとしていたモイラも徐々にイライラを感じていた。


「ええと、……お休みのところ、お邪魔をしてしまい申し訳ございませんでした……」


 変わってベリルは苦笑しながら胸に手を添えて頭を下げた。すると鏡の中のモイラはフンと鼻を鳴らして顎を突き出し「解ればいいわよ」と付け足した。


「アンタ、精霊族ね? 鏡に映らないし?」


「いかにも。わたくしは精霊族のベリルと申します。こちらは今の家主のモイラ様です。貴方様はなんとお呼びすれば良いでしょうか?」


 ベリルがそっとモイラの背を押して挨拶を促してくる。モイラは鼻持ちならない鏡面を眺めながら、「よろしく」とつぶやいた。鏡面の女は横目にモイラを睨め付けると、頬杖をついて瞼を細めた。


「私はカナカレデス。永く生き過ぎていつの間にか生き始めた”鏡”よ」


 モイラはさらに首を傾げた。つまりどういう種族なのかよくわからなかったが、隣で顎を撫でているベリルが「ははぁ」と指を立てて切り込んだ。


「付喪神様ということですか? 大切にされた道具は100年を過ぎると意思を持つと言いますね。鏡ともなれば尚更、その役割も大きいことでしょう?」


「そーよ、ご名答。精霊族って長生きだから博識でいいわぁ~」


 カナカレデスは口端を持ち上げて満足げに笑い、困惑してばかりのモイラに再び向き直った。鏡の中の自分の顔に睨み付けられるというあり得ない現実に、モイラの背筋は震えた。


「私は自分の姿を持てないから、こうやって私に映った子の姿を借りて好き勝手するしかないの。どーぉ? 双子みたいで変な感じ?」


 震え上がるモイラを余所に、カナカレデスは右を向いたり左を向いたり、自分の姿の精巧さを解らせるようにあらゆる角度を見せてくる。双子、と言われれば確かにしっくりこないわけでもなかった。自分の意思とはまるで違う動きをする同じ顔なんて、一卵性の双子みたいだ。問題は、双子の姉妹が鏡の中から悪さをするのかどうかということで。


「あ、あのさ……カナカレデスが何時から此処に住んでるのか知らないけど、アタシは今の住人なの。脅かすような真似しないで欲しいんだけど……」


 話すにつれて語尾が小さくなっていく。モイラはなんとなくこの鏡に強く出られずにいた。


「驚かしてないわよぉ 失っ礼ね! 鏡の中から腕を伸ばすってすっごく大変なのよぉ? それにチェスは私の趣味なんだから、今度からアンタが付き合いなさいよね」


「ええ??」


 あまりにも自然にチェスの相手を取り付けられた。今、そんな話をしていただろうか? モイラのお願いをしれっと突っぱねた上に、チェスに付き合えとは横暴ではないのか。


「は、話をそらさないでよ! アタシはチェスをするためにこの家にきたんじゃ……」


「アンタ以外、誰が私の相手になれるのよ!!」


 話し終えぬうちにぴしゃりと怒鳴られて、モイラはぐっと言葉を詰まらせた。


 なんなのこの鏡!? 自己中にもほどがない!? 


 カチンとくると、溜め込んでいたイライラの導火線に火が付く。強く出られない分だけ抑圧した文句が怒りの炎を燃やす薪になる。


 なにがチェスよ、こんなの酷い、トバッチリだ!


「絶対いや!! アタシは本を読むためにこの家に引っ越してきたの!! チェスなんかしてる暇ないんだから!!!」


 モイラは堪忍袋の緒がぶちんと切れて牙を剥いた。どうにか我慢するにも限界というものがやってきた。誰にだって譲れないものはあるのだ。


「あっそう? じゃぁいいわよ、他の相手を探すわぁ」


 息巻いたモイラを余所に、カナカレデスは意外にもあっさりと承諾をした。ぷいとそっぽを向いて腕を組む姿がまた勘に触れる。モイラ以外家の中に入れないのに、ここにきて強がりまで見せられるとは。


「言っておくけど、ベリルは家の中に入れないんだからね! アタシが招かない限り、誰も家の中に入れないんだから! 相手なんていないわよ!!」


「そーねぇ、生きている人間は玄関から入ってくるものねぇ……」


 カナカレデスは指先に髪を巻きながら遊んでいる。その姿が実にふてぶてしく、モイラは青筋を浮かべた。


「生きている人間ってなによ、そんなのあたりま……」


 言いかけて、モイラははっとした。横に立っているベリルに視線を送ると、ベリルは苦笑を浮かべている。


「鏡の中ってねぇ、ゴーストの通り道なのよねぇ……」


 さぁ、と血の気が引いていく肌寒さを感じながら、モイラは鏡に視線を戻した。カナカレデスはさも独り言を装うように続けた。


「この家は外からは入りにくいみたいだけど、鏡の中から入ってこようとする悪霊、怨霊、浮遊霊の類いはすっごく多いのよねぇ……やっぱり? 女の子の一人暮らしだから? 助平心とかで? お風呂とか覗きたいみたいねぇ?」


 モイラの頭の中でめくるめく霊障とストーカーゴーストとの恐ろしくもお色気なやりとりが駆け巡る。あらゆる嫌なイメージが詰め込まれた走馬灯に取り込まれ真っ青になっていると、カナカレデスがにんまり笑った。


「まぁ別に、私はチェスができれば相手がゴーストでも良いのよねぇ……。チェスが出来れば、どんなスケベでもきったないオッサンでも……」


 走馬灯の映像の中にパンツ一枚のきったないオッサンの映像が映り込んだところで、モイラは震え上がった。そういうのは生理的に無理というやつである。




 


「やる……チェス……少しくらいなら……がんばる……」


 言いたいことはあふれるほどあるが、モイラはぐっと堪えることを選んだ。ゴーストときったないオッサンは選べない。


「やったぁ!! 嬉しい~~! わざわざ起きて良かった! 女二人で仲良く同居生活楽しみましょうね!?」


 カナカレデスはモイラの葛藤など全く見えていないのか、パチンと指を弾いて満面の笑顔を浮かべて喜んだ。さもしてやったりと言わんばかりで、モイラがどんなにげんなりと項垂れていても気にしないらしい。




 最悪だ……アタシの読書&ブランチのスローライフにまたもや暗雲だわ……


 でもこういうタイプの女には逆らわない方がいい。絶対あとで面倒くさい。




 自給自足生活の極意その6 面倒くさい女は敵にしてはならない である。


  




 モイラはかっくり肩を落とす。陽気な鏡の中のモイラと陰気な現実のモイラ、対照的な二人を眺めながら、ベリルは「こういう双子、いますよね」と苦笑していた。

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