第5話 鏡の秘密(前編) ――チェス

  アタシ、気づいているのよ





 暖炉の火に当たるとき

 本棚の前で本を選ぶとき

 視界の端に入る、鏡の前の小棚

 アタシの胸くらいまでの高さしかなくて、本を詰めるにも微妙な大きさだったから、収納からあふれたなんでもないものを詰めるだけの片付け用の棚になっているんだけど、……その小棚の上にはチェス盤を置いてある。

 アタシが置いたんじゃないの。ただ、アタシがこの家に入ったときにはすでに置いてあって、おそらくは前の住人が遊んでいて途中で放棄したものだと思う。

 やりかけのチェス盤。黒と白の兵たちがずっと戦っている。長い間、決着のつかない盤上を鏡が見下ろしている。



 正直にいえば、アタシはあまりチェスがわからない。村にいるときもほとんど遊んだことがない。だから黒と白の駒で対戦するゲームだってこと以外は解らないんだけど、


 そんなアタシでも気づいているのよ。

 

 あのチェスの駒は、にわかに動いている。





**



「絶対、ベリルが家の中に入っているんだわ。家の中に入るなって言ったのに!」

 ある日の午後、読書とブランチを終えたモイラは庭先のテラスで怒り散らしていた。その原因且つ証拠になっているのはあのチェス盤である。駒の位置が日ごとに異なっているのだ。

 髪を整える時、着替える時、一日に一度だけあの鏡を使うが、なんとなく見下ろしたところにあるチェス盤の変化に気づいたのは二日前であった。それまではあまり気にも留めていなかったが、見慣れている風景でも変化が起きれば気づくものだと仮定するなら、原因はなんだ? ということになる。ここ最近に起きた大きな変化といえば、ベリルがやってきたこと以外にない。


 当のベリルといえば、彼自身の宣言通り、モイラが寝ているうちに菜園の世話と参拝をして帰って行くようだ。モイラは日の入りと共に起きるから、ベリルは日暮れから深夜にかけて動いているということになる。生活リズムが全く違うので、ベリルが家の周辺で何をしているのかモイラには全くわからない。モイラが当初から懸念していた”お邪魔虫”にはなっていないので、油断していた。


「許せないわ! とんだ嘘つきじゃない! きっとアタシが寝入った後に勝手にリビングに入って快適に暮らしているんだわ!」

 普通に考えれば野宿生活を継続できるわけがないのだ。モイラはいきり立って腰を上げ、裏山の方角に向き直り大きく息を吸い込んだ。

「ベリルーーーー!!! ちょっといらっしゃい!!!」



**



「へ? わたくしはおうちにお邪魔しておりませんが」

 5分も立たずに下山してきたベリルは、きょとんと目を丸めて首を傾げた。強要されるがままに芝生で正座をしたベリルは、それでも仁王立ちするモイラの顎辺りに顔があった。

「嘘よ! だってベリル以外に誰があのチェスの駒を触るのよ! この辺りに住んでいるのはアタシと貴方だけなのよ!?」

「そうは申されましても、わたくしはおうちに入る術がございませんし」

 ベリルは指先でぽりぽりと頬を引っ掻きながら眉を垂らした。その姿からは困っている様子が伝わってくるが、モイラは納得がいかない。

「確かに、アタシだって戸締まりはしっかりしてるし、貴方が忍び込んだ形跡を見つけた訳でもないけど、それでも説明がつかないじゃない! 誰かが動かしているのは間違いないんだから!」

 モイラはぷくっと頬を膨らませてベリルに詰め寄った。じーっとベリルを睨み付けて白状を迫るけれど、ベリルは次第にしょぼくれ項垂れてしまった。

「モイラ様がわたくしをお疑いだとは……なんて悲しい。精霊族は信仰と共に生きる種、乙女の家に不法侵入するような野蛮な生き物だと思われているのですか……」

「まぁ、勝手に庭に入ってきた前科があるしね」

「ああ! そういうことでしたか! 思い立ったら吉日がわたくしの悪い癖でして」

 先日、勝手に庭の菜園の土を弄っていたことを引き合いにすると、ようやくその点には反省が向けられたらしい。ずいぶん遠回りをしたが、モイラは胸のつかえが一つ取れた気がした。「申し訳ございませんでした……」と項垂れるベリルの顔を見下ろしていると、モイラはため息が溢れた。素直に謝る姿を見ていると、本当に誤解かもしれない。

「ベリルじゃないなら、なんで勝手に駒が動くの……? そっちの方が怖いわ」

「まぁ、そういう場合は大抵がゴーストの仕業……」

「ちょっと止めてよ!!」

 モイラは手を伸ばし、ベリルの口元を勢い任せに塞いだ。

「ゴーストなんて冗談じゃ無いわ! ここに住んで3週間経ったけど一度も遭遇してないわよ! ゴーストの所為なら初日から出てくるはずでしょ!?」

 モイラは顔面蒼白しながら頭を抱えた。お化けの類いは昔から大っ嫌いだ。まして此処には独りで住んでいるのに、そんな同居人は全くごめんである。

「ベリルは精霊族なんでしょ!? ゴーストを追い出すことってできないの!?」

 モイラはベリルの肩を揺すりながら食い下がる。がくがくと揺れるベリルの表情は困惑しきっていた。

「いない者を追い出すことはできません。見たところ、このおうちにはゴーストの類いはおりませんから、ご安心下さい」

「うそつき! じゃぁなんでチェスの駒が動くのよ!!」

「この地はグリフォン様が守っておられますから、不浄なものは入り込めないのです!」

 ベリルの両手がモイラの肩を掴んだ途端、木枯らしのような冷たい痛みが耳に走った。初めてベリルと話した時もそうだ、ベリルは声を張り上げたりすると木枯らしを起こす。それがダイレクトに鼓膜を震わせてくるものだから、モイラは身体の芯から震え上がり縮こまってしまう。ベリルは意図的にそうしているのか、モイラの肩をぽんぽんと撫で、落ち着きましょうね、となだめた。

「ゴーストの気配はしませんし、悪いものも入ることができません。怖くないですよ」

 木枯らしを吹かせるくせに、ベリルの声色は柔らかくなった。大きな手のひらからじんわりと温もりを感じるほど強く肩を握られていると、妙に懐かしく思えて鼻の奥がツンとする。モイラが何も言えないでいると、ベリルはへらりと緩い微笑みを浮かべた。その表情を見下ろしているうちに、モイラも何度か呼気を逃して落ち着きを取り戻すことができた。


「チェス駒が動くのは、もしかしたら妖精族の仕業かもしれません。彼らは悪戯が大好きですし、隙間があれば何処からでも入ってきますから」

 モイラが胸をなで下ろした処を見計らうように、ベリルは指先を立てて推察した。思ってもいない答えが出てきて、モイラは目を丸くする。

「妖精族って、小さいの?」

「小さいものもおります。種によっては大小様々悪い妖精もおりますが、虫や枯れ葉のように好き勝手に入ってくる妖精は無害なものばかりです」

 ベリルの言う妖精像はさながらティンカーベルを思い起こす。童話に出てくる空飛ぶ妖精ならチェス駒を動かしていても怖さは半減だ。それに戸締まりをしても入ってくる姿もイメージしやすい。

「そっか……じゃぁ、そういうことにしておくわ」

 モイラは大きく頷いた。正体を探るよりも妖精の仕業にしておく方が住みやすい。何より不浄なものではないなら安心できる。ベリルもうんうんと頷いて「解決ですね」と笑った。

「小さい妖精なら、チェス駒を仲間だと思って遊びに来ているのかもしれません。まぁ放っておいてよいでしょう」

 気が済んだら、そのうち来なくなりますから。そう告げた後、ベリルは大きく欠伸をした。普段寝ている時間に呼びつけてしまったからか、眠そうに瞼を擦っている。

「ああ、もう日が暮れてきました……わたくしもそろそろお暇を。それではモイラ様、良い夜を」

「うん、ありがとうベリル」

 空は橙に染まり、家屋の影が黒く染まる。細長いベリルの背中が去って行くのを見送って、モイラも家に戻った。西日が差し込むうちにランプに灯りを付けないといけない。リビングに足を運ぶと、屋内は橙と黒のコントラストに照らされていた。ふと視線を小棚に向けると、ほの暗い部屋の陰にチェス盤と鏡が浮かび上がる。


 妖精が動かすチェス盤か。鏡相手にチェスをしているティンカーベルなら、可愛いかもしれない。

 モイラはくすりと笑い、ランプの横で火口箱を開いた。


――コトン


 


 背後で何かが転がる音がする。モイラはもしかしてと期待を秘めて振り返った。



 黒い影に浮かび上がる鏡、その鏡面から陰鬱に伸びた右腕が、チェス駒を拾い上げていた。

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