第2話 人間やめてみませんか?
白い部屋であった。純粋という言葉が形となしたような清廉な白い部屋だ。
俺はそこのベッドで寝ていた。
横を見ると、女がいた。あれほど泣いていた目もいまは瞑り、静かに寝息を立てている。
どうしてこうなったのか。
浮かんでくる疑問への回答はなかった。もはやどうでもよいことのように思えた。
髪を撫でると、女はすぐに目を開けた。
そしてもう目に涙を溜めながらじっとみると、起き上がって、俺の手を取った。
女はベッドから離れる。手を取られた俺はついていく。
風呂にでもいくのかと思ったが、向かった先は玄関だった。
女はドアの前に立って、俺を見つめている。泣いている目で、ここを開けろと訴えている。
何がなんだか分からなかったが、言われるがままにドアノブを回して、ドアを開けた。
――そこは黒とピンクと黄色と青の光がぐちゃぐちゃに混ざり合った世界であった。
脳髄をミキサーでかき混ぜるような不協和音が爆発し続けている。
中心の台にスポットライトが当たり、そこに群がる男女はみな奇抜な服装で熱狂したように声を荒げている。
そこかしこで喧嘩が発生する。犯している男と、犯されている女も幾人か見える。殴り合いも接合も、この割れる音に合わせて行われているようである。
台には二人のギタリストと一人のドラムがいて、コラボレーションやセッションという言葉に反逆するように、むちゃくちゃに音をかき鳴らしている。あ、いま、ギタリストが目の前の観客の頭をギターで割った。
そして台のさらに中心、複数のスポットライトに照らされたそこでは、俺が汚い口を開けて怒鳴り散らしていた。
……え? 俺?
「――! ――! ――――!」
誰かが叫んでいる。いや、俺が喚いていた。
脳に無数の蟲が這うのを感じる。
ゴミムシ共が這う。記憶をむしゃむしゃと食い荒らす。
タバコを吸う俺を見るクラスメイトの蔑んだ視線。つまらない国語の授業。机に突っ伏していたら、注意されることなく盛大にため息をつかれた。蟲が喰ってゆく。
ため息は母と父からもだった。俺の顔をみる度につかれた。もう俺の存在を気にしてくれる人はいない。
ぞっとする勢いで、蟲が喰う。
記憶が細切れになり、溶けて消えてゆく。
ああああ、ああああ。
それはなんと、それはなんという……解放感か!
「――――!!!!!」
叫んだ、もはや言葉ではない。え? 日本語ってなんだっけ?
脳天をつーーーーんと、忘却の槍が襲う。忘却とは即ち、救い。挙句その代わりに、快楽を注入するのだ。
胎内に蠢いたときに感じた万能感と安心感の、その何倍もの形容しがたい悦が、全身を痺れさせる。
景色がぐるんと回転した。
突然、俺は空高く放り出された。見事なまでの青空である。
きゅんきゅんきゅーん、と下へ落ちていき、あわあわと慌てたが、やがて、自分が空を飛べることに気が付いた。
景色は俺の住む町そのものである。
薄緑色の俺の家の屋根や、高校の校舎が見える。じっと目を凝らすと、山の上にある俺が行っていた小学校の一部が見えた。
俺は音速で町中を飛び回った。
空は青から赤に変わり、紫に変わり、オレンジ代わり、黒に変わり。。。この世のありとあらゆる色が列に並んで順々に出てきているようだ。それも、色どもはどれも気が強く、はやく俺の出番を寄越せと、すぐに前の色を押しのけて出張っている。
見ているこっちは大変だ。色彩の移り変わりに脳がショートしそうで、ぽーと、こめかみが痛くなる。
だが、ここは心地よい。
これまで俺の手足を縛っていせ世事の諸々を一編に見下せたみたいだ。……世事? なんのことだ? うーん、いや! それもどうでもいい。とにかく、何かとても気持ち良い!!
ふと下に、見知った顔があった。そいつは阿保な顔をして俺を見ている。
狂気の世界の中で、そいつだけが正常な顔をしているようで、俺は笑った。正常な顔とはつまり、この世で最もつまらない諸々に囚われている沈鬱なそれである。
俺がそいつのところまで降りていくと、そいつは小動物のようにびくっとした。
「――。――」
「――――。――!」
何を話したのか覚えていない。ただ、可笑しかったのは覚えている。
俺は抑えきれなくて途中から腹を抱えて笑っていた。あー、一度笑いだすと止まらない。笑う自分が笑えてきて、笑っている間は少なくとも解放の極致にいるようで、俺は懸命に笑いを続ける努力すらしていた。
数十分、数時間か、ようやく”ひと笑い”が終わると、そいつはいなくなっていた。
なんと薄情な奴だろうか。
いや、よくよくと見ると、景色が先ほどまでとは違っている。グラデーションの爆発が起きていた空は黒一色に変わり、否、俺の右も左も下も、一面闇に覆われている。
そして、すぐに壁にぶつかって体も自由に動かすことができない。狭い檻に入れられている気分だ。
視線の先に、小さい小さい、穴がある。そこから微かに漏れている光以外は、全てが閉ざされている。
――しくしくと、泣く声が聞こえた。
目の前に女がいた。その時になって俺は自分が横になっていることに気づいた。だって、女は俺の上に乗って泣いているから。
見捨てられた狭い洞穴の中で、この女と二人きりでいるのだと思った。思ったということは即ち、事実だ。
俺は女の涙を舐めた。とても密やかな、父から盗んで呷った、カナディアンクラブという、甘いウィスキーを連想させた。
女をかき抱いた。女も強く俺を抱いた。俺たちの舌は、まるで別物のように動く。互いに押し合って引っ付いて、のたれて突いて
森林の奥地にいる猛毒をもつ赤々とした蟲のよう。どう動くのか想像がつかない怖さと、面白さ。
永遠にこの時が続けばよい。女と二人きりでひしと抱き合ったまま、骨になる。なんと幸福な生であろうか。
そう、永遠に。。。永遠に。。。
突然射した強烈な光に、目を開けることができなかった。
何か、音が聞こえる。そして振動も。どこかに連れて行かれているのか。
目が開けられるようになってまず見えたものは、空であった。夜と昼と夕焼けを混ぜ、その混ぜている途中で飽きて放り出したような渦巻き状の形をしていた。
予想どおり、俺は連れて行かれていた。予想と違ったのは乗り物に乗ってではなく、地面に引き摺られながらであったことだ。俺を引くのは馬車で、先端に縄が付けられており、それは俺の両手首をきつく縛っている。
ここは、俺が暮らしてきた町だ。
信号は全て赤色であるが、馬車はそんなものお構いなしに進む。そもそも車もバイクも走っていない。
馬車の周囲には見物の野次馬で埋め尽くされている。何か罵声を、俺に浴びせている。
俺は逃れようともがいた。だがきつく縛られた縄はびくともせず、無駄に自分を傷つけただけだった。
馬車は俺の家から出たようで、信号を渡り、右に曲がって、真っすぐと。やがて見えてきた商店街に入っていた。
ずっと野次馬どもがついてくる。
商店街の中では見知った顔があった。母親、父親、小学校まで仲の良かったやつ。どいつもこいつも、俺を憎悪の目で見て石を投げつけてくる。痛い! 痛い痛い!!
「――!」
助けて! そう叫んだつもりだった。だが出てきたのは言葉にならない音であった。ああ、助けてって、どう言えばいいんだっけ。
やがて馬車は商店街を抜け、高校の校門を潜った。
グラウンドに、地獄の門の如く、黒く天に聳える装置が置かれている。
シュる、シュる、シュる。担任の教師が装置の横で縄を引いている。むかし唾を吐きかけてやった陰気なメガネやろうだ。縄に引くに合わせて、斜めに形成された鋭い刃が上がってゆく。
ギロチンだ。
「――!」
俺はまた何か叫んだ。嘲笑が場に生まれただけだった。
30人のクラスメイトどもがやってきて俺をタコ殴りにした。ぐったりとした俺は、ギロチンの処刑の穴に入れられた。
シュる、シュる、シュる。担任が楽しそうに縄を引く。他のやつらも、わくわくとした顔で次の未来を待っている。
その時、俺はあの女を見つけた。
野次馬どもの最前列で俯いている。
「――!」
俺は全力で叫んだ。
この言葉にならぬ声も、女なら分かってくれると信じていた。
「――! ■●■◆▲◆!!!!!!!!!」
願いが通じたのか、女はゆっくりと顔を上げて俺をみた。
――ニヤニヤと、蛇のような気持ちの悪い顔で俺を嗤っていた。
生気のない顔。いや、元から死んでいる顔。生きたことがない、青白さの頬に、形だけで機能していない目と鼻と口。
マネキンのような人工的なものが、非常に人間的にケタケタと嗤っている。
ギロチンの刃は落とされた。
重力に従ってスライドが示す道のままに落ちてきた鋭利なそれは、俺の首を簡単に裁断した。
俺は死んだ。
笑い声が地に満ちて、天に昇った。
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