第6話 窓際おばちゃんとパワハランと疫病
おばちゃんの頬にはちょっと目立つシミがあります。遠い昔、ニキビを潰してしまったその跡がたくさん残っているのです。でも、そもそもお顔立ちが美しくなく、子供の頃から悪ガキに「ブス」と呼ばれていたおばちゃん、シミを全く気にしていません。むしろブサイクな自分の個性としてちょうどいいくらいに思っています。
「あそこにいる、顔にシミのあるブサイクが窓際さんだよ。」と紹介してくれたら、覚えてもらいやすい。他人も自分も外見で判断しないスタンスでそんな風に考えていました。なので、数年前に「顔のシミが見苦しいので、対処してください。」と突然パワハランから通達された時には、開いた口が塞がりませんでした。今まで、ブスだのブサイクだのとは言われて生きてきましたが、「見苦しい」と言われたのは長い人生の中でも初めてのことです。
「私自身は全く気にしていないので、対応を考えていなかったのですが、シミを取る費用は負担していただけるのですか?」試しに尋ねると、返ってきたのは「は?」という一文字だけでした。だいたい、倉庫でほとんど誰とも接することなく働いているのに、今さらなぜ外見の指摘が入るのでしょう。腑に落ちないことばかりです。おばちゃんは、顔にシミこそありますが、スキンケアは念入りです。肌はぷにぷに、ほとんどシワもありません。そんな大切なたった一つの顔に、パワハランの命令で、ゴテゴテとファンデーションを塗りたくったり、まして美容整形をしたりするなんてまっぴらごめんです。でも、何かしなければならない、おばちゃんはマスクで顔を隠すことにしました。暑い日も毎日マスク出勤です。初めの頃は不思議そうにしていた事情を知らないパワハランズも、特に何か聞いてくるわけでもなく、いつの間にかおばちゃんとマスクはセットで認識されていきました。
お気に入りの帽子を目深に被り、マスクをしたおばちゃんは通勤電車の中でもちょっと異質でたくさんの視線を感じます。それでも仕事の時は顔を隠し続けました。それはやがて大きなストレスとなり、外見を「見苦しい」と言わない人達と過ごすいつもの週末が、パワハランのおかげで大きな幸せになりました。
ある日のこと。年に一度の社内面談の日。おばちゃんの順番がやってきて、会議室に呼ばれました。業務内容で話すことがないのだから、すぐに終わるだろうとお気楽にパワハラン達の前に着席したおばちゃんに事務員さんから質問が投げかけられます。「どうしていつもマスクをしているのですか?花粉症ならちゃんと治療をしてください。実際、来客からも窓際さんはいつもマスクをしているのはどうして?と尋ねられるんです。」
「は?」今度はおばちゃんが一文字で返事をする番でした。
「私は会社の指示でこうしています。顔のシミが見苦しいから何とかしろと言われたので、マスクで隠す事にしました。次回来客に何か聞かれたらそのようにお答えください。」
ことの経緯を知らなかった事務員さんは言葉を失います。お客さんに「顔が見苦しいので隠すように指導しています。」なんて言える訳がありません。仕事の話はなく、面談はマスクの話で終わりました。なぜと聞かれただけで、謝罪もなく、マスクを外してもいいという展開にもなりませんでした。
おばちゃんがなぜマスクをしているのか、それが社内に周知されたことで、もう遠慮する必要がありません。時々「風邪ですか?」と尋ねてくる来客に対して、「違うんですよ。私ね、顔にシミがあって見苦しいから、何か対処しろって会社に言われてマスクで隠しているんです。」と、マスク越しでも分かる笑顔で元気に答えます。それは来客にというよりは、社内にいるパワハラン達への言葉でした。受け答えに困る来客を見て、「今、そんな話しなくていいから。」とパワハランがすっ飛んできて応接へ通そうとします。「え?でも本当のことですよ?」と後ろ姿に追い打ちをかけ、社内をひんやりとさせました。
自分達で言い出したことに責任を持てない人なんか知ったこっちゃない。おばちゃんが、マスクの内側で舌を出している頃、お隣の国で疫病が流行り始め、やがてそれは日本にも上陸しました。原因も治療法も分からず、世間は翻弄されます。お国の決めたルールが正しいのかすら分からず、日本国民全員がマスクをして右往左往する事態になりました。
「マスクは息苦しい。」そんなパワハランの発言が聞こえると、「あんた達も顔を隠しておきなさい。」と心の中でつぶやきます。やがて、疫病は会社にもやってきました。一人休み、二人目が休み、その期間も長く、職場は人員不足になりました。倉庫の片づけしかさせてもらえないおばちゃんは、どんなに人手が足りていなくても、戦力外とみなされ、重要な仕事が回ってくることはありません。そして、長きにわたりマスク生活をしていたからなのか、もともと免疫力が高いのか、一人で倉庫にいるからなのか、幸い疫病に襲われずに済んでいました。会社があたふたしていても、おばちゃんだけはいつもの元気な生活です。
疲れ果てたパワハランがついに悲鳴を上げ、乱暴に受話器を取り、誰かと話しているのを耳にしました。その翌日、体調不良で休んでいたパワハランズが全員復活したのです。社長は、「少しでも回復した者は即出勤するように。」そんな電話をしていました。疫病と共に出社したパワハランズはそれを隠して営業に出かけます。やがてそれは取引先への置き土産となり、あちこちで新たな感染者を出しました。会社を休業させたくない、そんな目先の損得ばかりを考えて浅はかな決断をした結果、たくさんの信用を失いました。
「コロコロ商事は疫病を隠して営業を続け、感染を拡大させた。」
壁に耳あり障子に目ありとは上手く言った物です。嘘偽りのない事実はあっという間に業界に知れ渡り、全員完治するまで会社は休業、その間も社長はお詫び行脚です。
元気いっぱいのおばちゃんは、急に長期休暇をもらったような状態になりました。一日かけて家の大掃除を済ませたら、お気に入りのキャンプ場に出かけます。普段は週末を利用して一泊しかできないのですが、平日のガラガラのキャンプ場に連泊し、自然を満喫しました。焚火で焼いた安納芋を食べると、つまはじきバーベキューを思い出します。嫌な思い出だけど、いい勉強になりました。人を攻撃することに喜びを感じるなんて、可哀そうな人たちです。そんな人達の言葉を真に受けて、翻弄する必要なんてありません。おばちゃんは、今のところ仕方なくコロコロ商事に勤めているだけなのですから。
夜は星を観ながら冷えた空気を胸にいっぱい吸い込み、ワインを楽しみます。朝は日の出とともに目覚めた鳥の声に気持ちよく起こされ、コーヒーを楽しみます。現実離れした空間で、時はゆっくりと流れました。いや、ゆっくりと流れたような気がしました。楽しい時間はあっという間に過ぎ去っていくのが世の常です。一週間の休業期間が終わり、再び会社が動き始めます。
やつれたパワハランズ、倒すなら今のような気がしましたが、おばちゃんは同じ土俵に上がることはしません。楽しかった春休みを思い出しながら、てんこ盛りの雑用を今日もマスク姿でこなすだけです。すっかり信用を失った会社には「ざまあみろ」と思っていましたが、同業他社に注文を取られ、売り上げが激減したことで、またおばちゃんの財布はダメージを喰らい、怒りがこみあげてきます。
「なんで、私がこんな目に・・・。」
この怒りも、次のキャンプで焚火にくべてしまえばいいだけのことです。
パワハラの定義:名誉棄損、侮辱
教訓:火のない所に煙は立たぬ 誰かが必ず見ています。
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