十字路にて

尾頭廡

十字路にて

 毎朝、必ず会うやつというのはいるものだ。俺はバレー部の朝練があるので、いつも6時には家を出る。学校までは、住宅街の道を通り、自転車でほんの10分ていどだが、一度だけ交差点を曲がるところで、あいつはいつも後ろにいた。

 俺は3年生、最後の大会に向けて練習にも気合が入っていた。自転車をこぐのも全力だ。たった10分とはいえ、自転車は良質な有酸素運動だ。ウオーミングアップ代わりにもなるので、俺は常に全力だった。

 ママチャリとはいえ、俺のこぐ自転車は結構速いと思っていた。しかし、やつはいつもそんな俺に迫ってくる。そして、俺が曲がるとやつは真っ直ぐ走ってゆく。薄暗いので顔はおろか制服すらはっきりと確認出来ず、どこの生徒かは分からない。しかし、その尋常ならざる脚力から、俺は只者ではないと確信していた。なにしろ、やつは自転車ではなく、自分の脚で走っていたのに、あのスピードだったのだから。

 さらには、日に日に、やつの走るスピードは上がっていた。初めの頃はかなり後ろの方を走っていたのに、最近ではもう曲がる直前には俺のすぐ後ろについていた。そして、つい3日前に気が付いた。


「お迎えに来たよ」


 俺が曲がる直前、やつが、そう言っていることに。

 小さな声だ。かなり近くまで来ないと聞き取れなかった声だろう。まさかこいつ、ずっと言っていたのだろうか? そう思い、昨日、一昨日と注意してみると、やはりやつは言っていた。


「お迎えに来たよ」と。


 お迎え、とはなんなのか? それは、俺に言っているのだろうか? 今朝あたり、おそらくやつはとうとう俺が曲がる前に追い抜いてゆくだろう。そう、今日の朝。今、この瞬間に!


 初秋の早朝、街には靄が立ち込めて、まだ消えない街灯の明かりを磨りガラスの向こう側のように見せている。囀る小鳥の声もなく、朝餉の支度をする音も一切無い。異常なまでの静寂が、返って俺の耳を痛めつけていた。


 聞こえるのは俺の鼓動、呼吸、ぎいこ、ぎいこと鳴る自転車だけだ。他には何も聞こえない。"俺には"何も聞こえない。だから、それがやけに煩くて、俺の胸はさざめき立った。


 ――来た。やつだ。


 そんな中、ペタペタとやつの足音が追ってくる。近付いて来ている。小さな小さなやつの足音が、静寂の中から浮き上がって迫ってくる。


 嫌な予感がした。こいつに抜かれると、何かとんでもない事が起きるような気がした。家を出る前に考えた。朝練を休むか? いや、3年の俺がこんな理由で休んでは、下級生に示しがつかない。歩くか? しかし、これは意味が無い気がする。こんな事で道を変え、さんざん遠回りして行くのも馬鹿馬鹿しい。気のせいだ。きっと何も起こりはしない。もしかすると、これが正常性バイアスというやつなのか? 違う。結局俺は、こいつの正体を知りたいだけだ。


 ぺたぺたぺたぺたぺたぺた。


 足音が、徐々に速くなっている。裸足の、濡れた素足でアスファルトの上を走っているような、耳にぬめぬめと纏わり付くような不快な音だ。胸がぞわぞわと騒ぎ、身の毛がよだつ。毛穴が開いて粘度の高そうな汗が額に頬に背中に噴き出す。


 いつも曲がる十字路には、いつものように赤茶けて萎れた花束が置かれている。それが妙に気になった。


 思えば今まで、一度も振り返った事が無かった。なぜなのか? 論理的な理由など無かった。ただ、妙な感じがしていたからだ。だいたい、この通学路で、他の誰かに会った例が無い。2年半、ずっとだ。おかしな話じゃないか。ここは住宅街、住宅密集地なのだから。朝、犬の散歩をさせている人や新聞を取りに家から出てくる人もない。俺のような朝練に向かう学生なんて、いくらでもいるはずだ。この住宅街から俺と同じ学校に通ってるやつだって知っている。

 おかしいだろう、こんなの? そうは思いつつ、俺は学校の誰にも、家族にもこれを相談した事は無かった。なぜなら、反応なんて知れている。笑い飛ばされて終わりだ。


 家族? 誰にも相談していない? あ、あれ? 家族って、誰だ? 変だ。友だちはおろか、家族の顔も思い出せなくなっている。父さんは? 母さんは? 兄弟は、いた、か? そんな馬鹿な。俺は一人で生きてきたわけじゃないはずだ。記憶が変だ。おかしい、これはおかしい。俺は、俺は。


 ――俺は、誰だ?


 とにかく俺は、こんなやつに興味が無いんだ。毎朝ほぼ同じ時間に、ほぼ同じ場所を通るやつの事なんて、はっきり言ってどうでもいい。俺のように規則正しい生活をしているやつなんて、世間にごまんといるはずだ。特に珍しいことでもない。俺は俺にそう言い聞かせていた。


 そうだ。言い聞かせていた。気にするな。考えるな。普通だ。何もおかしな事はない。だから。だから。


 ――振り返るな!


「お迎えに、来たよ」


 やつの顔は、自転車で走る俺の肩に乗っていた。振り返るなも何も無い。真横から、やつの顔がにょきりと生えているのだから!


 それにしても、なんて優しい微笑みだ。俺はその異常性に恐怖した。その顔は若者なのか老人なのかも分からない。服は制服なのか、そもそも着ているのかどうかさえもあやふやだ。なんだこいつは、なんなんだ。何もかもが分からない。人間なのかどうかすら分からない!


「うわ、うわああああああ! っひあ、ああっ、あああああああ!」


 俺は恐怖にかられてペダルを踏んだ。めちゃくちゃにがむしゃらにペダルを踏んだ。理由すら分からない恐怖。生まれて初めて感じる恐怖。


「怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い」


 やつの顔は、変わらず俺の右肩にある。手で振り払おうとしたが、まるで手応えが無い。ハンドルから離した左手で何度も何度も叩いたり殴ったりもしたが、やつはそれでも優しい微笑みのままだった。


「ぎゃ、ぎゃああああああ! なんだお前、おま、なんだよお! 離れろ、おお、離れっ!」


 俺は半狂乱となってペダルを踏み込んだが、自転車はのろりのろりとカタツムリよりものんびりと進むだけだ。急勾配の坂道を、止まる寸前の速度で、ふらふらと必死に登っている時のように。しかし、この道は平坦だ。早く速度を上げて逃げたいのに、自転車はまるで思い通りに走らない。

 そう言えば、たまにこんな悪夢を見ていた気がする。俺の一番嫌いな夢だ。後ろから包丁を振りかぶった殺人鬼が追いかけてきているのに、まるで水中にいるかのように体が重くて動かない夢。追いつかれる直前に目覚めるが、いつも汗びっしょりになっていた。これは、あの夢に似ている。そうか、これも夢なのかも知れない。


「違うよ。お迎えに、来たんだよ」

「ひいいいあああううわああああ!」


 やつは肩からそう言ってきた。俺の希望が口に出ていた? いや、そんな事を話せる余裕なんてない!


「さあ、行こう」


 連れて行かれる。そう思った。どこに、という疑問すら湧かない。しかし、行きたくないという強烈な感情だけが、俺を支配していた。


 キキーッ!


「はっ!?」


 いつもは曲がる、信号機の無いなんの変哲も無い交差点に、耳を劈くブレーキ音が響き渡った。それは巨大な鋼鉄の塊、ダンプカーだった。俺は十字路に飛び出していた。


 避けられない。止まれない。相手はダンプ。撥ねられれば死ぬかもしれない。なんでこんな道をダンプが走っているのか。真っ先に浮かんだ疑問に、俺はつい笑っていた。


「どうだっていいじゃないか」


 そう思った刹那、ダンプは俺をすり抜け、走り去って行った。

 いや、違う。

 俺が、ダンプをすり抜けたんだ。と言うより、透き通った? 衝突したはずのダンプカーは、もうどこにもいなかった。


「気が済んだかい?」


 自転車は消えていた。何もかもが分からないあいつが、俺の肩に手を置いた。瞬間、全てを理解した。俺は振り返り、頷いた。


「そうか。俺は、もう死んでいるんだな」


 思い出した。俺は、この交差点で撥ねられた。そして、頭を強く打って死んだんだ。あまりにも急に。あまりにも、あっけなく。

 だから、最後の大会には出られなかった。あんなに練習したのに。あんなに頑張ったのに。今度はレギュラーとして、スターティングメンバーとして出られるはずだったのに。


「行こうか。お迎えに来たんだ」


 やつが手を差し出した。

 そうか。今日は、俺が死んでから、49日目、だったっけ――


 昇り始めた朝陽に照らされた交差点は、宙から見ると、白い十字架のようだった。


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十字路にて 尾頭廡 @miruto9216

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