刹那、石段の上から、びゅっと強い風に吹かれ、バランスを崩した佑香はぺたりとその場に尻もちをつく。


 一気に下へと吹き抜けた風が、両脇の木々を押し退け、佑香の眼前で真っ直ぐに視界が開けていった。


「——!?」


 下の道路で倒れている三人の姿を、佑香は目撃する。もう、冗談や悪戯ではない。なぜなら――


「あ……ああっ!」


 佑香は立ち上がると、のぼってきた石段を慌てて駆け下りた。すると、下では。


「みんなっ!」


 道路の上で、ぐったりと倒れているのは、陽菜と晃、そして宏樹の姿もある。輪をなすように倒れる三人の身体から流れ出した血が、辺り一面を真っ赤に染め上げようとしていた。


 道路には色濃くブレーキ痕が残り、タイヤの焦げつく匂いが辺りに漂う。


「……な、んで?」


 佑香は途方に暮れて、その場に立ち尽くす。その間にも、三人から流れるおびただしい量の血液が、佑香の足元までも、びちゃりと濡らした。


「だっ……誰か」


 か細い声を発しても、誰かが助けてくれるわけではない。


「け、警察……? きゅっ、救急車……?」


 佑香は動転していた。やらなければならないことを頭に浮かべながらも、身体がいうことをきいてくれない。


 そして目の前では、刻一刻と三人の命が終わろうとしている。深刻な状況にあるのは、一目瞭然だ。その時、脳裏では宏樹の言葉がリフレインされる。


「振り向いたら、取り返しのつかないことになる」


 私が、振り返ったせい?


「そ、それなら……!」


 佑香は倒れている三人に背を向けた。そして――


「いち……、にい……、さん……」


 佑香は再び、石段を上がる。今度は口に出して、数えはじめた。どうしてそうしようと思ったのか、自分でもよくわからない。


 私のせいなら、取り返さなくちゃ……。


 根拠はなくとも、その強い衝動に突き動かされていた。今の最悪な現実を覆すには、こうするしかないと信じて。


 そうして、さっきのぼった辺りまで到達した時だった。


「佑香、どうしたんだよ?」


 背後からの声に、佑香の背筋が凍る。


「ひ、宏ちゃん……?」


 宏樹なら、血の海となった道路に倒れていたはず。それがどうして、自分の背後にいるのか。


 思わず振り向きそうになるのを、佑香はぐっと堪えた。


「そうだよ。ちょっと脅かしただけだって。血もただの絵の具だし。陽菜と晃だって、もちろんピンピンしてる。だから安心して後ろを向けよ」


「ほ、ほんとに?」


「ああ、それと、話は全部でたらめだ。お前なら、わかってるだろ。石段数えたくらいで、願い事が叶うわけないってことぐらい」


「……」


 佑香はもう、なにが現実かわからなかった。言葉を信用して、振り返りたい気持ちは山々である。早く、胸を撫で下ろしたかった。


 それでも、さっき見た地獄絵図のような光景は頭の中から消すことはできない。三人は、たぶん死んでいた。


 宏ちゃんだって……じゃあ私は今、誰と?


「佑香、悪かったな。この通り謝るから、もう振り返って、俺の方を見てくれよ」


 宏樹の言葉は、いつになく優しい。聞いていると心地よくて、でもそう感じている事実が、裏腹に佑香を心底ぞっとさせるのだ。


 だめ……ここで私が振り向いたら、きっと、もっと酷いことに……。


「ろ……六十一、六十二」


 佑香は必死になって、石段を数え続けた。


「なーんだ。まだ、のぼる気か」


「六十八、六十九、七十」


 七十段目に立ち、視線をぐっと上に上げる。すると、なんとなくだが最上段を見渡せた気がした。


 もうすぐだ。佑香がのぼり続けると、背後からの声も続く。


「だから、俺たちなら平気だって言ってるだろ」


 嘘だ……!


「七十三、七十四、七十五」


「上まで行っても、なにもいいことなんてないぜ」


 それでも、昇る!


「八十二、八十三、八十四」


「……」


 突然、背後からの声が止んだ。そう感じた、次の瞬間である。


「なんだい? お前さんは」


「——!?」


 口調が変わる。声も甲高く、宏樹とは似ても似つかない。


「友達があんなことになってるのに、ほっておくなんて薄情じゃないか」


「う……ああ……」


 自分の背後には、ぴたりと寄り添うように、何者かの気配を感じる。当然、宏樹ではない。否、ずっと宏樹ではなかったのだ。


 得体の知れない、なにか。背筋をぞっとさせながらも、佑香は必死に先を急いだ。


 そうするしか、なかった。


「きゅ、九十一、九十二」


「そうまでして、まだ自分の願いを叶えたいのかい?」


 違う……違う!


「やれやれ。人間とは、いつでも自分勝手で、欲の深い生き物だねえ」


 そうじゃ……ない。


 佑香の頬を涙が止めどなく流れていく。それを拭う余裕もなく、佑香は震える足を動かし、石段を数えた。そうして――


「百六、百七、……ひゃ、百八!」


 ついに最後の一段をのぼり切り、その数を告げた時、背中に感じていた気配がすっと消え、代わりに目の前では〝なにか〟が蠢いた。


「な、なに……?」


 表れたのは、真っ白な子狐だった。


「……」


 子狐は微動だにせず、深紅の眼差しを佑香に向ける。その姿は、どこか神々しいものに映った。


 それでいて、その背後には、どんよりとした黒い影を纏っているように、佑香には感じられた。


 だが――


「お、お願い……」


 佑香は子狐の前にひれ伏し、涙ながらに訴える。


 相手が怨霊であっても、最早そうすることを迷ってはいられなかった。


「み、みんなを助けて……全部、元に戻してください!」


 願いを告げた時、子狐の小さな身体が眩く輝いた。そして、鋭く紅い双眸そうぼうに操られるようにして、佑香の意識が遠のいていった――。



    ◆    ◆    ◆



「あれ……?」


 やかましい蝉の鳴き声に、意識を呼び覚まされた感覚だ。佑香は自分が、いつもの帰り道を歩いていることを認識する。


 私、なにかしてなかったっけ?


 まだ茫然とする思考では、その答えを導けそうになかった。


「佑香、どうかしたか?」


 隣には宏樹がいる。その後ろには、陽菜と晃の姿もあった。みんなが元気だとわかり、ホッと胸を撫で下ろす。そんな自分が、少しだけ妙だった。


「ううん、なんでもない」


 きっと気のせいだろう。佑香は気を取り直し、みんなとの会話に戻っていく。


「で、なんの話だっけ?」


「やっぱり聞いてなかったのかよ。ほら、ここ」


「これって?」


「石段があるだろ? あれを振り向かずにのぼると――」


 宏樹の話を聞くと、佑香は。


「ふふ、なんだか都市伝説みたい。都市じゃなくてド田舎だけど」


 突拍子のない話に半ば呆れながら、石段の方を見つめている。だから、まだ佑香は気づいていなかった。


 それは、佑香の背後で。


 宏樹と陽菜と晃が、にたりと笑ったこと。そして三人の鼻先がにゅっと伸び、左右に数本の髭が伸びたこと。


 その顔は、まるで狐のようだった。




【了】


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かぞえてみよう 中内イヌ @kei-87

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