思い出にとらわれる

白と黒のパーカー

第1話 思い出にとらわれる

 十一月も半ば、バイトを終えて疲れ切った僕の頬をなでる風は当然のように冷たい。

 身を切るような冷たさとは正にこのことだと、脳裏に刻み込んでくる寒波には全く参る。コンビニから漂ってくるおでんの匂いに胃袋が空腹を訴えてきているが、今月はすでにピンチなのだ。

 誘惑を何とか断ち切って二、三度身震いしてから両手をこすり、手のひらに息を吹きかけると、白いもやとともに鬱屈した感情が寒空の中へと溶け込んでいく。

 心の中の膿が立ち昇るのをじっと眺めていると、ふと胸が疼く。特に意味もなく動悸がし始めて、とうとう夜更かしのツケが来たかと思うがどうやらこれは違う。

 胸に手を当ててよく自問自答してみればどうやら、今日は家に帰りたくないらしい。仕方ない、心がそういうならばこのまま一直線に帰るわけにもいくまい。

 確か、カバンの中に自転車のキーを入れっぱなしにしていたはずだと、ごそごそ探れば紙屑に紛れて硬い感触を感じる。

 「みっけ」と独りごちながらカギについているボールチェーンに指をひっかけくるりと回す。

 

 自宅からバイト先までは徒歩で十分ほど、だから基本的には自転車は家でお留守番サービスなわけだけど、今日は活躍の機会を与えてやる。

 少し前に事故にあって五年来の相棒が逝ってしまってから、少し奮発して良い自転車を買ったはいいもののなかなか乗る機会に恵まれずにいたのだ。

 乗った記憶といえば、事故の後体の調子を確認するために病院に行くときに少し乗った程度だったと思う。

 宝の持ち腐れという言葉が僕の心をキリキリさせ、今更ながら少し反省する。でもそういうことって往々にしてあるんじゃないかと、誰にともなく言い訳する。

 買う前まではとても魅力的に見えていたものがいざ手に入ってしまうと、執着心がなくなるってこと。これは人間のかるまというやつだろう。知らないけど。

 

 さて、いつまでもぼーっとバイト先の出口で突っ立っているわけにもいかない、このままでは完全に不審者だ。向かいに立っている女子高生二人組に怪訝な目で見られていることには少し前から気付いている。

 そそくさとその場から離れ、ひとまず自宅へと向かう。

 思ったよりも冷える、手先は氷のように冷たくなっておりいまなら氷結魔法でも撃ち放せそうなほどである。だから駐輪場に向かうついでに部屋から手袋をとってくることにする。

 ほんとは部屋にも上がりたくはなかったがここ最近の急な気温の変化では仕方がない。なかなかに僕の心を折りに来ていると思う。

 

 十分かけて坂道を下りきり、自宅の前へとたどり着く。イヤホンからはお気に入りの曲が流れてきており、無意識に体が跳ねる。特に踊るのが好きというわけでもないが、ノリノリにリズムに乗って体を適当に動かすのはまあ、そんなに嫌いじゃない。

 とは言え、そんなところを他の通行人にみられるのはさすがに恥ずかしいから前後をさりげなく確認しながらというこの状態は、やはりなんとも格好がつかないわけだが、こればっかりはしょうがないだろう。

 さて、そんなことは置いといてエレベーターを昇り切り、玄関前へとたどり着く。

 インターフォンは押さずにポケットから出した鍵を取り出し右へと回す。ガチャリと音がなってドアの取っ手を引けば自動認識ライトが僕の顔を照らす。

 フローリングの床に光が反射して夜に帰ってくればあまり目に良くない気がするが、そんなことを気にしている場合ではない。さっさと自分の部屋へと向かい手袋をとってくるのだ。

 玄関からの廊下を渡り突き当りに行く手前、右のドアをくぐれば散らかりまくった部屋。個性たっぷりで他人からは片付けろだのなんだのとごちゃごちゃ言われるが自分にとってはこれが一番過ごしやすいのだから放っておいてほしい。

 タンスを開け乱雑に詰め込まれた冬物の服と秋物の服、一度夏物に衣替えしてしまえば入れ替わりの時期を見失って常にこんな感じであるが、意外とお目当てのものはすぐに見つかる。

 去年の十月ごろだったろうか、友人とお気に入りのデパートの中に入っている適当な服飾屋で購入したグレーと黒のチェック柄の手袋。これがなかなかに暖かく、さらにはそこまで分厚さもないため自転車を運転するときでも動きを阻害しにくく愛用しているのだ。

 これで準備は整った。リビングからは見なくなってから久しいテレビの音が聞こえてくるが、気にしないふりをして再び玄関をくぐる。

 暖房はついていなかったとはいえ、風はシャットアウトされていたため再びの外気に少しだけ面を食らう。

 ほーっと一息吐いてから一度頬をパンと鳴らし、意識を外へとむける。

 今日の旅は僕をどこまで連れて行ってくれるのだろうか。

 

 自転車にまたがり、外すのを忘れていたイヤホンをケースの中へとしまう。自転車の運転中に音楽を聴くのは危ないからやめておいたほうがいい。と言うかこれは絶対のマナーだしそもそも道交法的にもアウトである。

 なによりも、自転車を走らせるうえでの楽しみの一つである風を切る音を感じることができない。これは大きな損失だろうと個人的に思う。

 そんなまじめな話がぐるぐると頭に回ってくるが、そろそろ思考を今日の目的地へと切り替え始める。

 うんうんと数分考えこんだところで、少し前に友達が有名な滝に遊びに行った話をしていたことを思い出す。確かここからでもそこまで遠くなかったはず。

 そう思って大まかな方向とある程度の到着時間を知るためにスマートフォンを取り出し地名を打ち込むと、数秒で画面に情報が羅列される。これぞ文明の利器、最高である。

 下へ下へとスクロールしていけば、どうやらここから三時間ほどで着くらしい、今から行けば確実に深夜帯だろう。本当はそんな時間に行くのは安全性の面でもやめるべきなのだろうが、今日は少しアウトローな気分に浸りたいのだ。怖ければそこで引き返してくればいい。

 そう自分で言い訳をして、想像よりも少しだけ重たかったペダルを漕ぎ始める。


 体に触れる風が冷たい。まあ、十一月なのだからよくよく考えなくとも当たり前なのだが、寒いものは寒いと愚痴りたくなるのが人間の性だ。防寒具は手袋と薄っぺらい黒のロングパーカー。下にはバイト用のカッターシャツなのでこの時期にふさわしい恰好かといわれると違うと言わざるを得ない。

 それでも我慢して漕ぎ続ける。どうせしばらくすれば汗ばんできて着込んできたことを後悔すること請け合いなのだ。ならばこのままの薄着は結果的に正解だろう。

 体を右へ左へと小刻みに揺らしながら夜風に吹かれて闇を突き抜ける。文字に起こせばそれなりのカッコよさがあるが、要はただのナイトサイクリング。

 体と同時に視線も左右に向ければ昼間とは違う顔を見せてくれるので、慣れた道も退屈はしない。

 ガタガタと道路整備の甘い道を走っているので正直あまり気持ちのいい走り心地ではないが、夜にぶらり一人旅という非日常感に浸っている今の興奮状態にはそんな問題あってないようなものだ。

 右手に流れていく市役所一つとっても、人のいない今の時間帯ではゴーストタウンの中に紛れ込んでしまったようでドキドキする。建物を囲む街灯なんかはもちろん点いているから完全に怖いわけではないけど、そのアクセントがオシャレさのお化けとなって僕自身を飲み込んでしまいそうに感じて胸が痛い。

 いつの間にか漕ぐ足は止まっており、建物に目を奪われ続けていたことに今更ながらに気づく。

 寒さに凍えた足が意思に反して動くことを拒否してくるが、何とか無理やり足をペダルへと運ぶと、再び前に進みだす。

 夜の街はまるで魔物のようで、僕みたいな人間はきっと矮小な存在でしかないのだと思う。だからこそ簡単に取り込んでしまって骨の髄までしゃぶりつくされてしまうのかもしれない。

 それは多分恐ろしいことで、現に今もそれなりに体が震えているのだけれど不思議と高揚感もあって、これが夜の世界なんだと胸の高鳴りがうるさいほどに僕の鼓膜に訴えかける。

 目的地までの距離を考えたらまだ一割も過ぎていない場所での出来事に圧倒されている事実に先行きが思いやられるが、どうしても滝が見たい。そう一層強い決意に満ちる心も感じている。


 あれから一時間ほど経つと流石に辺りの景色は普段通らない場所もちらほらと見せてくる。

 ここを右折してみればどこへと繋がっているのだろうと無駄な好奇心が湧いてくるが、そういう場所に限って一寸先は闇。まったく街灯がない完全なブラックボックスになっているのだ。

 きっとここも昼間に来ればなんでもない、よく見る大通りなんかに繋がっているのだろうが、それは先が見える明るい時間帯だからそういう希望的観測ができるわけで、今は違う。

 まるでじっと見つめていると、いつの間にやら立場は逆転して見つめられているかのような錯覚に陥る。有名な言葉に「こちらが深淵を覗いているとき、また深淵もこちらを覗いているのだ」というものがあるが、まさにそれが今の状況にぴったりとあてはまるだろう。

 実際になにがあるかはさほど重要ではないのだ。そう感じてしまうことこそが本当に危険だということ。人間の危機察知能力をなめてはいけない。

 立ち止まるのもほどほどに先へ進むことを優先すると、しばらくして後ろのほうか小さく舌打ちのような音が聞こえたような気もするが、無視した。


 更にあれから十数分後、景色は不思議と田んぼだらけになる。

 僕の住んでいる市は確かに都会というほどに栄えているわけでもないが、それでも少なくともコンビニが二十四時間営業していないほどの田舎ではない。

 それでも探せば田んぼなんかはあるもので、実際小学校の友達のおばあちゃんなんかは田んぼを持っている人もいた。ちなみにその友達のあだ名は「金持ち」。

 だけれども、まさかこんな辺り一面が田んぼに塗れるほどに存在するのは初めて見た。この道を確かに通ることは少ないけど、果たして本当にこんなに田んぼにまみれていただろうか。しばらく考えてみるが確かな記憶を掘り起こせないために、そうだったのだろうと半ば無理やり自分を納得させあぜ道をゆっくりと走る。

 ここ数日は特に雨も降っていないため、ぬかるんでいるはずもないのだけど、微妙に走り辛い。なんなのだろうかと地面のほうに目をやればそこにはカエル。

 一瞬微妙な空気が漂い、しれっと目を逸らすがそちらにもカエル。

 気づけばあたり一面にはカエル。カエル。カエルの大合唱である。ゲロ ゲロ ゲロ ゲロ グワッ グワッ グワッ。

 自転車を漕ぐことに疲れじっとりと汗ばんでいた体が一瞬で冷えあがり歯がガチガチと鳴り響いて煩い。

 蛇に睨まれた蛙ならぬ蛙に睨まれた人間。タイヤの下を見てみれば、Tシャツに張り付くことのできなかったど根性ガエルが相当数。

 地に落ちた蛙は大海を知らねども天国は知れただろう。良かったね。

 そろそろカエルを使った言葉遊びも尽きてきて、気持ちを逸らす手立てがなくなってきた。俗にいうピンチというやつである。

 ピンチはチャンス? ふざけたことを言わないでほしい。ピンチは普通にピンチである。誰か助けてほしい。

 そう心から思ったところで、後ろからけたたましい音が僕の耳を通って鼓膜をつんざき心臓を貫いた。

 恐らくクラクションである。急いで振り向くとそこには絵にかいたような珍走団。

 失礼......言葉が些か下品だった。

 急いで振り向くとそこには絵にかいたような暴走族。あれ? そこまで印象は変わっていないかもしれない。

 とにかくそれは置いておき、喧しい爆音を鳴らしながら後ろから走ってくるバイクは、地面にひしめくカエルたちをケロケロと吹き飛ばしていく。

 その光景はそこそこ面白かったのだが、このままここで他人事のように笑っていると僕自身もど根性ガエルになることに気づき慌てて自転車を漕ぎ始める。

 やばいやばいやばいやばい、死ぬ。


 いやあ、なんというか人間死ぬ気になればなんとかなるもので必死に漕ぎ続けてやっと田んぼ群とカエル軍を抜け出ることが出来た。あとついでに暴走族ももう追いかけては来ていない。

 もしかしたらあの人たちは僕を助けるためにでてきてくれた妖精さんだったのかもしれないな。だったとしてもあんな物騒な妖精さんは要請していないが......。

 あ、別に今のは妖精と要請をかけたナイスなおやじギャグというわけではない。ナイスなギャグではあったと思うけどね。

 くだらないことを考えているうちに、滝への道はあと少し。今さっきの大爆走が効いたようで既に三分の二ほどは過ぎているようだ。

 それにしても久々にナイトサイクリングに来たけど、こんなに世の中って奇々怪々としていただろうか。気づかないふりをしていたものの流石にここまで露骨に奇妙な状況を作り出されると認識せざるを得なくなってくる。

 それはそれでなんだか相手の思うつぼのような気がして癪に障るけども、だからと言ってこのまま訳のわからない状況が続いて帰ることができなくなるというのも嫌だ。

 それならばどうするかと考えたところで、確か滝の近くに大きなお寺があったことを思い出す。今の時間は午後十一時半、普通に考えれば開いていないだろうが何とか必死に頼み込めば簡単なお祓いのようなものくらいはやってくれるかもしれない。

 まあ、物は試しである。最終目標が決まったならさっさとラストスパートをかけて滝を見に行ってしまおう。


 時間に換算すればあれから三十分ほど。目的地が近くなるにつれて何となくわくわく感というか逸る気持ちが出てくるもので、滝から最寄りにある駅が見えてくればそこからは一気に駆け抜けた。

 観光地とはいえさすがに深夜十二時、人通りはすでに少なく、あるのは千鳥足で肩を組み合い大声で歌うサラリーマン風の男と観光で来たのであろう浴衣の男の二人だけ。

 恐らくこの近くにある居酒屋で気が合い仲良くなったのだろう。なんとも微笑ましいものではあるが、あまりにも足元がおぼつかなさ過ぎて若干怖い。近寄ってくるな。

 そろりそろりと危なげなく二人の脇を通り抜けると、あとは駐輪場まで一直線。

 そこからまだ更に三十分ほど山道を歩いて登らなければならないが、そこはそれ行ってから考えるのが行き当たりばったり旅の醍醐味である。

 とは言ってもやはり夜道、駐輪場について自転車を停めたは良いものの行き先は暗い闇。ハンドルのバー部分から取り外したライトで照らしてみるが正直焼け石に水にもなっていないのはあからさま。

 だが、一度行くと決めた以上......と言うかここまで折角来たのだからという貧乏性な考え方が踵を返すのを許さない。

 ええいままよと、腹をくくりにじりにじりと歩いていけば、存外大丈夫なものでハードなさっきまでの運動により汗ばんでいた体を山間から通り抜けてくる冷たい風が冷やしてくれる。

 「涼しいな」もう冬の時期だというのにまだしぶとく生き残っている秋の虫たちの声が耳を楽しませてくれるのもまた一興というやつだ。

 闇の中、一人じゃりじゃりと豪快に音を鳴らして坂道を上る。マイナスイオンのおかげかは知らないが、夜の山道の空気はとても澄んでおり深呼吸一つするだけでなんとなく気持ちがいい。

 歩けども歩けどもやはり人はいない。以前明るい時間帯に来たときは時期もあるのだろうが鬱陶しいぐらいに人がいたことを思い出す。

 人間とは面倒なもので、その時はそれがストレスにしか感じないが、いざ無くなってみると少しだけ寂しさのようなものを感じるのだ。俗にいう寂寥感というやつである。

 我ながらに我儘なものだと、口角を上げながらスイスイと歩みは早まっていた。

 

 辺りが暗いため正確なことはわからないが、中腹ほどまで来た頃だろうか、自分の周りが不自然に明るいことに気づく。

 ぼーっと歩いていたため、特に今まで気にしていなかったが確かに明るくなっている。特に街灯などがあるわけでもないし、自分の持つ懐中電灯の光量が急に上がるはずも当然ない。

 ではなんだと、右端にあるガードレールから少し身を乗り出して下にある川を覗いてみれば、そこには無数の黄緑色に光る粒。

 そんなまさかあり得ない。あり得ないとは思いつつ、数度目を擦ってみるが幻覚ではないことがよくわかるだけ。

 「蛍?」

 そう、このクソ寒い時期にいるはずのない蛍が川の上をふよふよと楽しそうに舞い踊っているのだ。季節外れにもほどがあるだろう。

 そんなことを言っても目の前に存在する事実は変わるわけではなく、蛍たちはこちらに気づいたようにチラチラと寄って来る。

 実にやめてほしい、僕は虫が苦手なのだ。外から離れて安全にみている分にはそれなりに綺麗だなとも思うが、近くで黒く細長いあの物体を見せられれば間違いなく卒倒する。

 そんな強固な意志が通じたのか、近づくのをやめて若干さみしそうに光の塊は僕の少し前を漂いだす。なんとなくではあるが、どうやら滝までの道を先導してくれるらしい。

 蛍たちの意外に健気な姿に少しだけ罪悪感を抱きつつも、お言葉に? でこの際正しいのかはわからないが、甘えてついていく。

 

 危なかった。目の前には大きな木が倒れこんでいる。おそらく蛍たちの光がなければ夜の闇でよく見えずに怪我をしていただろう。

 彼らは先の道がこうなっていたことを知っていたのだろうか。それは定かではないが、光の塊が「来ないの?」とでもいうようにふよふよと倒木を超えた先で待っている。なんだろうか、若干かわいい。

 そんなこんなで危なげなく夜の簡易登山は、季節外れの蛍によって安全に進む。

 さっきまでの不気味な現象は完全に僕を危険にさらすものだったけど、今の目の前にいるこれからは何だかあったかいような不思議な気持ちを感じる。

 お祓いに行こうかとも思っていたけど悪い奴ばかりじゃないならもう少しこの状況を楽しんでみてもいいかもしれないな。

 少し考えを改めていると、先の方からザーッという音が聞こえる。滝の音だ。

 やっとここまでたどり着いたという安堵感と達成感で走り出す。

 急に走り出した僕に驚いたような反応をする光の塊たちだが、すぐに速度を上げて僕の視界を照らしてくれる。

 あともう少しで、目的地へとたどり着く。


 木々に囲まれた道を抜けて開けた場所に出る。

 そこには天高く地を照らす月の光が差し込み、ある種の神々しさを湛えていた。

 実に三時間ほどかけてたどり着いたそこは、とても荘厳で綺麗な滝。

 美しさに見惚れていると、先を行っていた蛍たちが一斉に舞い上がり、月の指す滝をこれでもかというほどにイルミネートする。

 あまりの美しさに声が出ず、茫然と立ち尽くすことしかできない。

 この感情を口に出すことはあまりにも野暮なことの気がして、ひたすらに口を噤む。この日、この時、この瞬間にしか味わうことのできないであろう最高の演出。

 携帯で写真に残すことよりも、目でよく感じ心に残すことを選択するが、きっとそれは間違いではないだろう。

 この時を逃してはこれの本当の美しさを理解することなんてできない。なればこそ、今を噛み締めるのだ。

 恐らくこの瞬間はもうあと数分と持たないだろう。なぜだかわからないけれど、漠然とそんな気がする。だから少し寂しいけれど心の準備を始める。

 それと同時に舞い踊る蛍たちが今度は一斉にこちらに向かってくる。

 虫は確かに恐いし好きではないが、これが最後だと受け入れると、彼らは僕の周りをグルグルと三周ほどして四方へと一気に飛び散った。

 その際の途轍もない光量に思わず目をつぶってしまう。


 気づけば僕の姿は自転車の前にあり、手には一つのお土産が握らせられていた。

 「交通安全って」思わず笑ってしまう。それでもこれはきっと彼らなりによく考えて渡してくれたものなのだろう。

 多分どんな高名なお寺のお守りよりもよく効くに違いない。

 

「さて、帰るか」

 

 僕がたどり着いた滝は何だったのか、どこだったのかは今でもよくわからない。

 ただ、あそこは僕の知る滝とは違ったということと、もう二度と行くことはできないだろうという漠然とした、けれども強い確信を持って言える事実だけは胸の中にある。

 あれからの帰り道、特に変な怪現象にあうこともなく安全に家へと帰り着くことができた。

 一度、家に上がったにも関わらず何も言わず再び出ていき、しかも帰って来たのが深夜だったということで母親にめちゃくちゃ怒られたりはしたが、それだけだ。

 この時の体験は僕に強い衝撃を与え、きっとこれからも忘れることはないだろう。

 夏には蛍を見て思い出し、冬には寒さを通じて思い出す。

 それでも、思い出にとらわれるのもまあ、そんなに悪いことでもないだろう。


 

 

 

 


 

 

 


 

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