さよならアメフラシ

木船田ヒロマル

さよならアメフラシ


「例えば雨がそうね」


 彼女はやや気怠けだるい声色でそう言った。


「雨?」

「そう。空から降る雨。その一雫を捉えて、一つの宇宙だと考えてみて」

「雨粒が一つの宇宙」

「だとすると、そこにはそれこそ無数の可能性があって。真に無数の可能性がそこに存在するならば、何万個、何億個、何兆個の内の一つは私たちが今生きるこの宇宙にそっくりで、そこにも私とあなたがいる」

「……ロマンチストだね」

「言葉を選んだね。科学的じゃない、と言いたいんでしょ」


 僕は控え目に苦笑する。


「じゃあこういうのはどう? 宇宙は膨張し続けているけれど、いずれブラックホール化した恒星に満たされて、事象の地平面に沈み、収縮してゆくとする」

「充分な時間のその果てに?」

「そう。充分な時間のその果てに。通常空間を飲み込み切って、ブラックホールだけの世界になった宇宙では、今度はブラックホールが他のブラックホールを吸い込んで共食いし、たった一つの特異点に向けて全てのものが落ち込んでゆく。そう。宇宙はビックバン前の、高さも幅も厚みもない理論上の真点に回帰する」

「今のところは、有り得ない話じゃない」

「その先は?」

「誰にも分からない」

「私は、その状態では安定しないのだと思う」

「なぜ?」

「ビックバンは、あったから」

「成る程」

「宇宙は繰り返している。爆発と収縮を。だとすれば途方もない時間を想定すれば、それは無限の回数で、宇宙はあらゆる事象の無数の可能性の全てを網羅するだけ繰り返されている。もしくは、それ以上に」

「つまり?」

「永遠と言っていい時間の中で、過去にも私たちは出会っているし、これから先もどうせまた出会うだろうと言うこと」


 彼女がふと、窓に視線を移した。

 薄曇りだった雲はいつの間にか厚みを増し、パラパラと窓や軒を叩く滴の音は、外が雨だと教えてくれる。


「カーテンをもう少し開けて」

「でも」

「雨が見たいの」


 僕はカーテンを開ける。

 大雨とまでは行かないが、しっかりと降る秋の雨。


「だから、あんまり悲しまないで。私たちは今までも出会っていたし。これからも出会うんだから」


 それが、彼女の最後の言葉だった。


 彼女は小さく息を吐き、それが途中で途切れ、長い戦いを終えた。


 僕も小さく息を吐き、それを吐き切った。


 窓に目をやれば、彼女が降らせた無数の宇宙。


 この世界を遍く満たすあらゆる事象の全ての可能性。


 その内の一つが、僕の左の頬を伝って落ちた。



*** 了 ***

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さよならアメフラシ 木船田ヒロマル @hiromaru712

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