7話
「城に向かってくれ!」
リークテッドに辿り着くまでに駆けた速度よりもずっと速く、黒毛の魔物が街中を駆ける。その背中にしがみつくようにしながら、颯太は声を上げた。
「ねぇ、本当に、ゴーストは城にいるの?」
その颯太の背中にしがみついたクインが問いかける。その間にもリアの両足は石畳を砕きかねないほど強く叩き、まっすぐ城に向かって進められている。
「ゴースト同士惹かれあう……とかじゃ全然ないけど。あいつが考えそうなことはわかるよ」
顔に吹き付ける強い風に目を細めながら、ゴーストが残した被害の箇所を見据える。まるで、小学生が登下校中、手にした枝を振り回すかのような、そんな風に手にした力を適当に振り回したかのような破壊の跡。
「この国をめちゃくちゃにしようと思ったら、城に向かうはずだ」
すでに過去入り込み、消えない爪痕を残した場所だ。颯太の結論に、クインからもリアからも反論はない。
やがて颯太の目には、見覚えのある荘厳な建造物が映った。
「……初めて見てから、まだ一ヶ月経ってないんだよな」
行く宛もなく街を彷徨っていた頃。なんとなくやって来て見上げた城を再度見上げ、颯太は苦笑を浮かべる。
この城に来て、クインと出会った。色々なことがあったような気もするけど、過ぎた時間は一ヶ月ちょっとだ。たったそれぐらいの、小学生の頃の夏休み程度の時間しか、まだ経っていない。
ここに至るまで、後悔は一つもない。もっとうまくやれたという反省はあっても、起こした行動の何一つだって後悔はないし、同じことをするだろう。
だからきっと――これからにだって、後悔はない。
城門の周囲には目立った破壊の箇所はなく、これから街に救援に向かおうとする騎士の姿があるだけだ。その騎士たちの視線から隠れるように、リアも通常の亜人の姿へと戻り、颯太たちは身を隠した。
ひょっこりと顔だけ出したリアが、城門の様子を眺めて目を細める。
「……様子がおかしくないですか?」
「ああ。静か過ぎる……っていうか、出て行く騎士の方が多いよな」
すでにゴーストが城の中への侵入して暴れ回ってるかと気が気でなかったのに、城自体は目立った騒ぎにはなっていない。むしろ、次々と騎士や兵士が城下の混乱を治めに行くためか、装備を整えて出発していく。
「まだゴーストは来てない、ってことなのか?」
自信満々に言ってリアを走らせておいて、読み間違えたでは済まない話だ。焦りに下唇を嘘んで頭を掻く颯太を、クインが表情に不安を宿らせて見つめる。
「……ねぇ、大丈夫?」
「ちょっと待って……今どうするか考えてるから」
「そうじゃなくて、あなたのことよ」
クインの言葉も、視線も。颯太に向けられている。
「ソータは、大丈夫なの? 顔色も悪いし、さっきは大丈夫だって言ってくれたけど、今だって、まだ影響が残ってるんじゃ……」
クインの黒い瞳が、心配げに揺れる。その視線を受けて、颯太は苦笑を返す。
まるで、笑うしかないかのように。
「まぁ……大丈夫だよ。たぶん、最後まで」
「え……?」
颯太がなんと言ったのか。聞き漏らしたのか、聞き違えたのか。もう一度、ちゃんと聞こうと。クインが聞き返すよりも早く。
遠く、高いところで、何かが砕ける音がした。
まるで、豪奢な扉か。もしくは、そこに続く堅牢な壁が崩されたかのような、耳障りな雑音。
「リアっ!」
颯太が名を呼び終わる頃には、すでにリアの姿は黒毛の魔物へと変じていた。その背にクインを抱えて飛び乗り、未だ兵士たちが集まっている城門に向けて手をかざす。
「怪我をしたくなかったら、そこをどけ!」
未だ体内に余計なほど渦巻くマナを風に変え、解き放つ。突然の突風に驚いた兵士たちは後ずさり、その空いた隙間を黒い影が駆け抜ける。
「あの音は……たぶん玉座の間だ! 目の前のおっきい階段をひたすら上がってひたすらまっすぐ!」
「っ、はい!」
つい最近。そう、つい最近のことだ。高い調度品や鎧と、豪華な絨毯の上をアホ面晒しながら歩き回った時の記憶を頼りに、颯太はリアに指示を出す。
「あの野郎……警備が薄くなってから始めるとか、結局人の目気にしてるじゃねぇか!」
思うがまま気の向くまま、気まぐれに引き起こしたかのような暴力を街中では撒き散らし、城内にはまるで文字通り幽霊のように密かに入り込んだ。そして、城の多数の戦力を城下へと向かわせた後、本来ならば守護の厚い場所にてその存在を現した。
見えない体を十全に利用した、ゴーストらしい手だ。
絨毯を爪で抉り、黒毛の魔物が城を駆ける。
その背に乗った二人が、真夜中の暗闇の中、足音を忍ばせて歩いた廊下ですら過ぎ去って。騎士団長が開けた扉に身を滑らせることもなくとも、玉座までの道は抉じ開けられている。
「……よぉ、遅かったじゃねぇか」
玉座の間という荘厳な雰囲気にはまるで似つかわしくない存在が、ニタリと口角を上げて笑う。その男の垢まみれの汚らしい手は、この国の主の襟を掴み上げていた。
「お父様っ!」
自分の父親が空中に浮かび上がり、苦悶の表情を浮かべる姿を見て、クインは思わずそう叫んだ。
「でも、来てくれると思ってたぜ。これでようやく俺も本気出して暴れられるってもんだよ。なぁ?」
煽るようなゴーストの視線と言葉を努めて無視して、颯太は意識を落ち着ける。
突然の襲撃に関わらず、玉座の間には武装した騎士が数人、すでに剣を抜いて構えていた。その後ろには、クインと顔立ちがよく似た金髪の女性の姿が、顔面を蒼白にして、身を震わせている。
彼女こそが、今もなお下卑た笑みを浮かべるゴーストに汚された王妃であり、クインの母親なのだろう。顔立ちもよく似ていて、明確な違いは、髪と瞳の色だけだ。
目には映らない突然の来訪者。そして、その後にやってきた、目には映る来訪者たちに向けてこの空間にいる全ての人間の視線が向けられる。
「クイン、様……それに、君、は」
騎士団長アルフレルドは、剣を構えたまま颯太と目が合う。目が、合ってしまう。
「……まぁ、あんたは俺にそんな期待なんかしてないよな。実力、わかってるし」
向けられる視線に、期待に颯太の中のマナが応えようとする。渦巻く余分なマナを颯太は慣れた様子で体外へ放出し、
「とりあえず、これはこないだのお返しだ」
未だにニタニタと下卑た笑いを浮かべるゴーストの顔面に向けて、炸裂させる。
「――っ!」
「おまえが掴んでる人、この国の王様で偉い人だし、クインのお父さんなんだからな。もっと丁重に扱えよ」
空気の振動と颯太の言葉だけで、アルフレルドは咄嗟に王と見えない何者かがいる空間に剣を走らせる。颯太の目にだけはゴーストの腕が切り落とされる光景が映り、解放された王を抱えアルフレルドは颯太の元まで駆け抜けた。
「て、めぇ……!」
不意打ち極まりない颯太の挨拶に、ゴーストは怒りを露わに、殺意をその濁った黒い瞳に宿らせる。
「あー……おまえは後回しだ。あとでしっかりお話をしてやるからそこで待ってろ」
その強い感情を、颯太は軽い様子であしらう。
「お、おまえは……」
咳き込みながら、王は颯太に視線を向ける。当然のように向けられるその視線にも、颯太は小慣れた様子でため息を吐いて応じてみせる。
「……はじめまして、でいいのかな。どうも、一ヶ月前ぐらいに巷を騒がせたゴーストです」
場にそぐわない気の抜けた、それでいて聞き逃すことができない言葉の混じった自己紹介に、周囲に緊張が走る。
「まず先に言っておきたいのが、俺に期待なんてしないでくれ。確かに俺はあの姿の見えちゃいないゴーストを止めに来たんだけど、それは決してあんたらのためじゃない……勘違いするなよ。あと俺はめっちゃ無力だ」
善良な英雄が現れたと思ってもらっちゃ困る。それでは街の入り口でされた勘違いと一緒だ。
「俺はおまえらが今まで無視してきたクインのために来てるだけで、おまえらを助けに来たわけじゃない」
ここにいる水際颯太はどこまでも利己的な理由でやってきたのだと、わかってもらわなければいけない。
水際颯太に期待を向けるのは、クインただ一人だけでいい。
「俺は彼女の、彼女のためだけに来た、ただの――お節介なゴーストだ」
この場にいる誰にも聞こえるような宣言をして、颯太はクインへと振り返る。
「これ、持っててもらえる?」
自身の血に濡れた短剣。これまでは颯太の血も誰にも見えなかったからこそ、不可視の短剣として振るえていた。でも、今となっては、切れ味を失った使い勝手の悪い武器でしかない。
「あいつ相手なら、武器なんていらないから」
「ソータ……?」
言いようのない不安が。ずっと胸に巣食っていた漠然とした不安が、クインの喉を震わせる。
クインが知っている颯太は。水際颯太という人間は、こんな有事のときでも、落ち着いた声で、こんな穏やかな立ち振る舞いができただろうか。
いつだって、年相応で、怖いものに対して立ち向かうことはできても。浮かべる表情は不安げで。その不安感を隠すために浮かべたような引きつった笑みに、何度も救われてきたのに。
振り返り、ゴーストへと顔を向ける颯太。その背中に、クインは手を伸ばし、触れる。
「ねぇ、ソータ。何度も聞いてごめんなさい」
漠然とした不安が、これから質問を放とうとする唇を震わせる。
「大丈夫、なの?」
クインの質問に、颯太は振り返ることはない。
「……見てて。ちゃんと、見てて欲しい」
振り返ることなく、ゴーストに向けて一歩、踏み出す。
「君が見ていてくれるなら、俺はなんだってできるから」
聞かれたことに答えない、身勝手な応答をして、颯太はまた一歩前に。
誰よりも、不可視のゴーストの傍までやってきた。
「よぉ、待たせたな、おっさん」
「……ああ、ほんと、待ちくたびれたよ」
ひっ、ひっ、と。引きつった笑い声を浮かべ、ゴーストの濁った目が細められる。
「ノコノコやってきてくれて嬉しいよ。ようやく、ここから殺し回れるってもんだ」
「……ああ、今まで死人がいなかったのって、やっぱりそういうことか」
ゴーストに一握りの良心が残っていた。そんな淡い期待は、浅ましくも少しだけ思っていたけれど。
「殺しちまったら、おまえはすぐ俺を止めるだろ。それじゃあつまらねぇんだよ。安心しろよ。これからは、ちゃんとおまえが見ている前で、ここにいる全員ぶっ殺してやるからさぁ……!」
颯太が無視できない言葉を選んで、ゴーストが笑う。
「また前みたいに止めようとしてみせろよ。どうせ、おまえみたいなただのガキじゃこの俺を止められないだろうけどな」
落ちている瓦礫を拾い上げ、自身の力を誇示するかのように握り砕くゴーストの姿を、颯太はため息混じりに冷めた目で見つめる。
「俺がただのガキなら、あんただってただのおっさんだろ」
恐れも何も感じさせない、淡々とした口ぶりに、ゴーストの笑顔が消える。
「あんたは人知を超えた化け物でもなんでもない。向こうで自分でも気づかないまま死んで、運良く誰にも見えない体を手に入れて、好き勝手してきたただの糞野郎だろうが。違うか?」
ゴーストの濁った黒い目を見て、颯太は吐き捨てる。
「誰も自分を見てくれない、なんて被害者ぶってるけどな、そんなの当たり前だろ。誰が好き好んで、おまえみたいな汚らしい糞野郎を視界に収めたがるんだよ。少しは相手の目線に立って考えろ。まぁ、それができてないから、おまえは今もそうして糞野郎なんだけどさ」
心底呆れたように、物分りの悪い馬鹿に伝えるように、颯太の声色には嘲りが混じる。
「そのおまえの馬鹿力だって、おまえ自身の勘違いだ。おまえはただのクズで、底辺の糞野郎で」
ゴーストに、指を差す。
「育ちの悪い――穢れたゴーストだ」
「……言ってくれるじゃねぇか。この糞ガキがぁ!」
ゴーストが、声を上げる。獣が吼えるようなおぞましい音は、聞こえれば誰もが耳を塞ぐほど恐ろしく響いたであろう。
だが、その声を唯一聞く者は、決して怖気づくことはない。
こんなもの。いい年をしたおっさんが、物事が自分の思い通りにいかないからと、声を荒げて怒鳴り散らしているようなものなのだから。
「――っ!」
声を上げ、拳を振り上げ、ゴーストが颯太へと飛び込む。
街も、玉座の間に通じる扉も。何もかもを壊してきた拳が、ただの非力な人間の颯太に向けられる。それでも、颯太はその凶器から目を逸らさない。
いつだってこいつの拳は、姿が見えないという立場から振るわれてきた。だから、いつだって油断交じりで、覚悟なんて少しもこもっていない。
教会の戦闘員の短刀より、黒毛の魔物の爪より、野犬の大群の牙よりも、ずっと。
遅すぎて、恐れる必要なんてない。
振りかぶられる拳の奥、手首を払うように左の掌にマナを込め、放つ。使い慣れた風の魔法は、難なくゴーストの腕を弾き、
「――遅いんだよっ!」
がら空きのゴーストの顔面に、右の拳を叩き込んだ。
体格がずっと小さい少年の放った拳。それは、いとも簡単にゴーストの体を吹き飛ばした。
「……どうした自称化け物。さっさと立ち上がれよ」
殴り抜いた手を払いながら、尻餅をつくゴーストを見下ろす。
「なん、で……!」
「今まで、あんたは見えない体ってだけで好き勝手してこれた……ただそれだけだ。たったそれだけしかないのに、好き勝手やってきたんだよ。強くなんてない。透明人間になっていい気になって……何も関係のない人たちを傷つけてきたんだ」
口ではどれだけ自分を認めて欲しい。見て欲しいなど叫んだところで、やってきたことは最低極まりない悪辣な行いばかりだ。
「クインのお母さんを傷つけて、罪もない人を……殺して。たくさんの人の人生を壊してきて、まともに消えられると思うなよ」
拳を固め、依然として周囲からの期待を反映しようとするマナを無理矢理、自分が使いやすいように変換していく。
今の颯太は、周囲からの期待がマナとして向けられている状態だ。今もなお、姿が見えないゴーストを圧倒しているであろう颯太は、相当に美化された姿で周囲からは視認されている。
その視線を無視して、背後から向けてくれているクインの視線だけを意識して。
水際颯太を構成するには余分なものを、ゴーストにぶつける。
「――っ!」
颯太の身体能力は、一般的に見て平均より下回るほど。喧嘩慣れなどしていないし、腕っ節に自信など欠片もない。
ただ、それでも。目の前の糞野郎に負けるわけがないという自負がある。
「俺はこの世界に放り出されても、おまえみたいに腐らなかったぞ! たった一ヶ月だけでも、絶対におまえのようにはならなかった!」
意味も価値もなく彷徨い続けた一ヶ月間が、辛くなかったとは少しも思わない。いつかは、心が折れてしまうことだけは確かだっただろう。
それでも――目の前で自分程度の拳に負け、なすがままに殴られ続けるこいつとは違う。
絶対に、違う。
「おまえみたいに、誰かを傷つけるような振る舞いだけは、絶対にしなかった!」
誰かを傷つけるようなことはできなくて、自分を傷つけて、終わっていた。クインとも出会えずにいたら。そのうち心が限界を向かえて自壊するか、ゴーストの特性によって別の何かに成り代わって水際颯太は霧散していたはずだ。
運が良かった。それだけで片付けることはできない。
颯太自身の努力も、クインの優しさも、リアの懸命さも。
全部が、颯太が立ち向かうための骨子となっている。
「見えないなりに、おまえとは違って、頑張ってきたんだよ!」
向かってくる拳を風で叩き落とし、蹴り出した足に風を乗せて前へ。拳を、足を振り上げ、でたらめで不恰好に繰り出していく。
この世界において、颯太の攻撃など児戯に等しい。この場にいる騎士の誰もが難なく捌ききれるだろう。
それでも、ゴーストには通じる。颯太に視認され、意識され、人知を越えた力を持つ化け物ではないことを暴力で示され続けるゴーストには、抗いようがない。
いつだって見えない体で優位な立場を持ち続け、立ち向かわれることのなかったゴーストに。
見えない体でもいつだって立ち向かい続けてきた颯太が、負けることなどありえない。
意識を反映するマナによって構成される二人において、経験に裏打ちされた意識が何よりの武器となる。
「――いい加減にしろぉっ!」
颯太から吹き荒ぶ風を避け、ようやくゴーストの手が颯太の左腕を掴んだ。
「黙って聞いてりゃ好き放題言いやがって……! てめぇに何がわかる!? 突然こんな世界に放り出されて誰にも見向きされずに、何十年も無視されてきた俺の気持ちが――」
「――燃えろ」
短い命令に、マナが応える。
ゴーストが掴んだ颯太の腕から炎が吹き上がり、ゴーストの掌を燃焼させる。熱と痛みに思わずゴーストが腕を放したその瞬間には、
「遠く――吹き飛ばせ!」
拳と共に放たれた強い風が、ゴーストの体を遠く壁まで吹き飛ばした。
「……で、それがなんだって言うんだ?」
燃え盛ったマナは、颯太の腕をも容赦なく焦がす。その火傷を負った腕を空いた手で押さえながら、颯太はゴーストを睨み、前へ踏み出す。
「放り出された? 見向きもされなかった? だからなんだよ。それが、その程度のことが、他の誰かを傷つけていい理由になるとでも本気で思ってるのか?」
そんなものが免罪符に成りえるものか、と。颯太は吐き捨てる。
「まぁ、そうだよ。俺たちがこの世界に来た理由なんて理不尽もいいところだよ。そこは俺だって思ってる。だけどな、その後の振舞い方全部。あんたに正しいところなんて一つもないぞ」
見えない体でも、見えない体なりに、生き方はあったはずなんだ。それを、こいつは自分の欲望を優先させて好き勝手生きて、その末で嘆いているだけだ。
その身勝手な嘆きに、いったい誰が耳を傾けてくれるというのか。
「あんたの要望通り、見ててやるよ。このまま、あんたは消えてなくなれ」
ただ一人、ゴーストの存在を視認する颯太が、冷たく告げる。
「あんたはもうこれ以上、この世界にいちゃいけない存在だ」
「……くっ、ははっ」
颯太の言葉を聴き、ゴーストは低く笑う。
「すげぇな、おい。ソータ、おまえ、すげぇよ」
壁に手をつき、ゴーストが体を起こす。その引きつった笑みは、怒りや苦しみに彩られているかのようだ。
「やっと会えた同郷の人間に、よくもまぁそんなひどいことばっか言えるよなぁ」
「……どの口が言ってるんだ。あんただって俺に散々殺すだのなんだの言ってただろ」
言いたいことは言い切ったし、元より意思の疎通などする必要はない。颯太は油断なくゴーストに近づいていく。
手を後ろに回して、
「俺だって、この世界に来て色々頑張ってきたつもりなんだぜ? そういう頑張りも全部無視かよ、なぁ?」
「何も関係ない人を身勝手に殺してる時点で、そんなの全部台無しなんだよ!」
ゴーストを睨み、常にクインから向けられる視線のみに意識を割いていた颯太には気づかない。ゴーストの姿が、小汚く嫌らしい笑みを浮かべる醜悪な肉体が見えている颯太には気づけない。
玉座の間にいる誰もの視線が、ゴーストの背後に。
今も尚、独りでに刻まれる線に向けられていることに。
「――ちゃんと意思疎通ができるように、文字だって覚えたんだぜ?」
地球上の存在するどの文宇よりも奇怪に見え、覚えようともしなかった。クインやリアという識者がいるから、覚える必要もなかった。だからどの道、ゴーストの体に遮られていなくとも、颯太にはゴーストが書く文字の意味はわからない。
だが、この場にいる颯太以外の誰もが、ゴーストの見えない体を超え、その文字を読み取ることができた。
――最高の夜だったよな。
それが、この場にいる誰に宛てられたものか、恐怖に彩られた甲高い悲鳴が証明する。
「貴、様ぁ!」
王の怒りに塗れた声よりも早く、騎士団長が駆ける。瞬き一つにも満たない時間の後に、忌まわしい文面が刻まれた壁に向けて剣が振り下ろされる。
だが、その刃はゴーストに届くことはなく、
「――遅いんだよっ!」
意趣返しのようにそう叫び、ゴーストはすでに颯太へと肉薄し、拳を振りかぶっている。
「なっ――!?」
咄嗟に横に跳ねて魔法で生み出した風に乗って転がらなければ、ゴーストの拳によって脳天から地面へ押し潰されていただろう。常軌を逸した速度と威力で放たれた拳は、地面を粉々に打ち砕いている。
「そうだ! そうだよ! 俺は穢れた薄汚いゴーストだ! そう思ってくれた方が、俺だってありがてぇ!」
突然現れた救世主である少年に向けられていた意識は、壁に刻まれたたった一文によってゴーストに集められた。
単身で街を破壊し回れるほどの姿の見えない化け物であり、王妃を穢し王国に消えない汚点を作った張本人。
不可視の化け物、ゴーストを誰もが再認識してしまう。
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