5話
本来ならば披露宴も終わり、村全体を巻き込んだ宴が繰り広げられてはずの今。
日も落ち、すでに馴染み深くなった宿屋の一室は、重く沈んだ雰囲気となっていた。
「そうか……ゴーストはそんなことを」
颯太の話を聞いて、ベッドに腰掛けたオルヴァーが眩く。
宿の一室にいるのは颯太とオルヴァー、そして彼が座るべッドの傍で、泣き腫らした顔を手で覆い隠すヘレンだけだ。
彼の左膝にはきつく包帯が巻かれている。痛々しい有様が想像できるかのようで、常人ではありえないほどの力で肉ごと骨を、関節を砕かれた膝は……おそらくもう二度と、まともに動くことはない。
ゴーストが楽しげに語った計画。それを伝えた颯太は残されたオルヴァーの傷跡を見て、俯いた。
「ごめん、なさい」
「……どうしておまえが謝る」
颯太の謝罪は、オルヴァーにしか届いていない。
「……ソータ君、謝ってるの?」
一度颯太を別の存在として認識し、本来は目には見えない存在なのだと再認識してしまったヘレンには、颯太の姿は依然として見えておらず、謝罪の言葉も聞こえていない。
オルヴァーはヘレンの問いに、ため息を返すことで肯定した。
「いやいや、ソータ君が謝ることじゃないでしょ。悪いのは突然村に現れたゴーストで、君だって被害者なんだよ?」
幸せになると誓う予定だった式を台無しされ、愛する者の自由を奪われたはずの花嫁が、そう言ってくれる。
その気遣いが嬉しく。けれど、嬉しい分だけ、辛かった。
「ヘレン。おまえはちょっと黙っていろ」
「だ、黙ってろって、あんたね……さっきまで涙を流してた自分の花嫁にその言い方はなくない……?」
「……すまない。俺も言葉を間違えた」
ヘレンも努めて、今まで通りの自分を振舞おうとしているに過ぎない。普段は自分の発言の鋭さなど意も解さないオルヴァーも、反省するかのように口にした。
「こいつは今、慰めや気遣いを必要としていない。だから、その……」
『いいですよ、オルヴァーさん。というか、それも充分気遣いです』
ヘレンにも聞こえるように、マナを声に変換して響き渡らせる。
『俺がいなければ、あのゴーストはこの村に残ろうとはしなかっただろうし……俺に執着して、村にも手は出さなかったはずです。それは、確かなことですから』
「……だが、おまえがいなければ、人知れず誰かが犠牲になっていたかもしれない」
オルヴァーの言葉は、慰めではなく事実だ。
自分を目撃した颯太がいたからこそ、ゴーストは確認するために再度村にやってきた。それも事実だ。けれど、颯太がいなくとも、また何か別の理由でやってきてもおかしくない。
その時……村で幸せな披露宴が行われている時。いったい誰が、ゴーストの身勝手な欲望に巻き込まれるのか。
ゴーストの姿を唯一視認できる颯太がいなければ、未然に防ぐことすらできなかった。
「可能性の話をしても無駄だ。おまえは、おまえのできる限りの最善を尽くしてこの村を守った。それでいいだろう」
『でも、オルヴァーさんはそのせいで』
「俺の怪我は、俺の責任だ。おまえが気に病むべきものでもない」
振るわれる剣のような、鋭い言葉。
「クインから聞いているだろう。どの道、俺の体は魔導具の酷使で限界だった。だからこそ、狩猟者を辞め、リークテッドで別の仕事を探す予定で……いつかは、同じような結果になっていたはずだ。だから……」
気にするな、という言葉を、オルヴァーは最後まで言わない。結局のところ、その言葉だって颯太に対する気遣いなのだから、根っこの優しさが滲み出てしまっている。
「気に病むな、とは言わない。だが、おまえだけが必要以上に背負うべきではない」
……無茶言うなよ。と眩こうとしたが、もう今はオルヴァーにも自身の声が聞こえていることを思い出し、口ごもる。
責任を感じるな、と言われても無理な話なのだ。
人を傷つけることに、人を殺すことに一切の躊躇がない、颯太以外の目には映らない化け物。それが野放しになる状況を、焦らない方がどうかしている。
本当なら今すぐにでも、あいつを追いかけに走り出したくて仕方がない。どうすれば、あの化け物じみた存在を止められるのか。その答えは、末だ出なくても。
その颯太の葛藤は、目に映るオルヴァーはもちろん、目には映らないヘレンにだって、感じ取ることができていた。
もうあと十秒沈黙が続けば、颯太は立ち上がってこの部屋を出ようと思っていた。けれど、部屋の外からの足音と、扉を叩くノックの音が、響く。
「調子はどうですか、オルヴァーさん」
ローブのフードを外し、黒髪を表に出したクインとリアが扉を開いて部屋の中に入る。
「足を動かせはしないが、問題はない」
「いや、それ充分問題あるでしょ……」
極論過ぎるオルヴァーの返答に、ヘレンが呆れたように呟く。そのいつも通りの様子を見て、クインもリアも心配げな表情を少しは和らげることができた。
「問題はないが、魔導でどうにか骨を繋げるようにはできないか?」
「繋げるだけならできますけど……昨日、樹を魔導で操作したように、生命としての主導権を焦理矢理こちらで握ってしまうから、ご自分で動かせなくなりますし……マナの巡りどころか、血も魔導で操作しないと巡らなくなりますね」
「……それは困るな」
骨が繋がったところで、結局歩けないのならば意味がない。元よりそこまで期待していたわけではないのか、オルヴァーは短くため息を吐くだけで落ち込んだ様子もない。
「ねぇ、村の様子はどうだった?」
そう問いかけるヘレンの目元が赤くなっているのに気づき、クインは少しだけ口ごもるも、すぐに笑顔を作った。
「村の広場や壊れた家具などに関しては、魔導である程度ではありますが修繕してきました。村の皆さんも不安そうではありましたが……私の見た目や魔導がやっぱり珍しかったのか、関心がそっちに移ってよかったです」
もう一々隠している場合ではないと、村の中でもクインはフードを外して、魔導による修繕をしてきていた。リアもそれに手伝うように、さすがに幻獣としての能力は使ってはいないが、従順過ぎる馬として物の運搬をしていたらしい。
「全部ゴーストのせいにしてしまいましたけど、実際は私が魔導でメチャクチャにしてしまったのがほとんどだから、お礼を言われても複雑でしたね」
「ゴーストが現れなければ魔導を使うこともなかったんだ。事実だろう」
「そうだよ。それに、クインちゃんの魔導がなかったら、こいつだってもっとボコボコにされてただろうし」
負傷した片割れを指差して笑うヘレンに、オルヴァーの渋面が更に険を増していくが、本気で怒っているわけではないのはここまでの付き合いで全員がわかっている。
クインもリアも苦笑を浮かべる。でも颯太だけは、うまく笑うことはできていなかった。
「……クイン。あのゴーストは」
「まぁ……だいたい察しはついてるわ」
頬に手を当て、深々とため息を吐くクイン。
「ソータが誰かにあんなに怒ってるのなんて初めて見たし、だから、あのゴーストはきっと悪い人なんだってのはわかったもの……あのゴーストが、私の父親なのね」
クインの確信を込めた問いに、颯太は顔を背けながらも、頷いた。クインは短くため息を吐いて、自身の髪に触れる。
「あのゴーストの目的は、ソータの周りの人を害するとか、リークテッドに向かって……混乱を起こす……とか、かな」
「……なんでわかったの?」
「だって、ソータが怒るようなことだもの。あなた一人だけに危害を加えようとするのが目的なら、怒りはするだろうけど、そこまでじゃない」
合ってるでしょ? と言わんばかりの表情のクインに、横にいるリアも同意するように頷く。
「ソータさんの場合、自分だけが狙われてるって事態なら、もっと慌てるだけかなって……」
「冷静に分析されてその結論だと、ちょっと悲しくなるんだけど……」
反論したいところだが、あながち間違ってないなと自分でも思うので何も言えない。
「止めに、行くんでしょ?」
クインの黒い瞳は、まっすぐに颯太を見ている。聞いておきながら、答えはわかってるかのように、その瞳に迷いはない。
「……うん。できれば、今すぐにでも。だから、二人には村に残って――」
「置いていく、なんて言ったら今度こそ本気で怒るからね」
低く、すでに怒ってるかのような声色が、颯太の言葉を遮る。
「どうせ颯太のことだから危ないからだとかそんな理由で一人で行こうとしてるのかもしれないけど、私たちにはゴーストの姿が見えないのだから、どこにいたって危ないのは変わらないじゃない。それなら姿が見えるソータの傍にいる方が安心だし……第一、ソータはどうやって、あのゴーストを止めるつもりなの?」
「それは……」
答えに困る颯太に、更にクインは物理的にも精神的にも追い詰めるようににじり寄る。
「ほら、またそうやって解決方法もわかってないのに一人でなんとかしようとする。そういうところだからね。こないだはソータが一人でがんばってくれたから私たちも助かったけど、あの時だってもしソータが身動きもできない怪我とかしちゃってたら本当に危なかったんだからね? いっつもそうやってとりあえず自分が危険な目に合うことで周りから危険を遠ざけようとする発想がそもそも」
「ク、クインさん……とりあえずそのぐらいに」
クインのローブの裾を指先で摘みながら、リアが苦笑を浮かべる。
「……とにかく、一人でなんて絶対に行かせないんだから」
「でも、本当に危険で」
「危険なのはわかってるわ。でも、たぶん……だけど、あのゴーストに対抗できる手段は、今のところ私しか持ってないと思うの」
迷いながらもそうしっかりと口にするクインに、俯いたままでいた颯太は顔を上げる。
「対抗できる、手段? そんなの……あ」
ゴーストは高密度のマナの塊で、元となっている者の意思や周囲にいる者の意思を取り込んで形となる。
颯太はあのゴーストの不気味さと、持ち合わせていた邪悪を見て、同じ存在とは思えない異常性を感じ、認識した。それに追随するかのように、ゴースト自身も自分を化け物だと思い込んでしまった。
斬られ、焼かれようとも死に絶えない、不死身の怪物として、颯太もゴースト自身も認識してしまったからこそ、あの化け物は存在している。
言ってしまえば、マナという超常存在の作用によって生まれた化け物に他ならず。
「魔導が、通じる……?」
「……たぶん、としか言えないわ。ソータの話を聞く限り、ゴーストっていうのはマナの集合体って印象なのよね。元が純粋なマナだからこそ、幻獣と違って別の生き物の認識の影響を受けやすい」
幻獣がマナで構成された生き物であるならば、ゴーストは意思を持ったマナそのものじゃないかと、クインは語る。
「それでも、ソータやあのゴーストのように、一個人としての意思が元になってるから、触れてすぐに魔導が行使できる……とはいかないかも」
「だったら、そんなの……」
「でも、あなた一人で行かせてしまうよりは、ずっとマシよ」
危険過ぎる、と続けようとした颯太の口は、クインの毅然とした黒い瞳に黙らされる。
「私だって危ないことはしたくないわ。でも、何も手段を持たないあなたが一人で行くのは、ダメ。私やリアの安全を考えてくれるのは嬉しいけど、大事なのはそこじゃない」
颯太を見据えて口を開くのは、たとえ疎まれ、避けられながらも、一国の姫として生きてきた者の意思。
「リークテッドは私をこれまで育んでくれた故郷で、たくさんの善良な人が生きる大国よ。私にだって、守る理由があるもの」
胸に手を当て、そう語るクインの瞳には、颯太が何を言っても揺らぐような弱い意思は見当たらない。
「お二人が行くのなら、僕も絶対について行きますよ」
クインの横に立つリアの瞳もまた、しっかりと颯太を見て逸らさない。
「元より……僕はソータさんに救われた者です。なら、ソータさんがまた誰かのために傷つこうとするなら、そのときは僕も一緒です……というより、置いてなんて行かないでください」
最後だけ。ほんの少し、年端もいかぬ少女としての心細さを瞳に宿して、リアは言う。
「……決まりだな」
微笑みながら、オルヴァーは颯太を見据える。
「どのみち、お前がこれから単身でリークテッドに戻るよりも、今夜はしっかりと休み、明日の朝、リアに馬などの姿に変わり乗せてもらった方がまだマシだろう。気持ちはわかるが、今は休め」
「……はい」
この場にいる者の満場一致の意見に、颯太はこれ以上反論することもできず、頷く。
颯太にだって、自分がたった一人で立ち向かったところでどうにもならないのはわかっている。むしろ、そんなことは颯太が一番良くわかっていた。力量不足など、この世界に放り出されてから毎日のように痛感してきた。
それでも。颯人の心は、意識は逸る。
早く行け。立ち向かえ。おまえが、おまえだけが、立ち向かえるのだから。
まるで自分の中から湧き出てくるかのようで、でも、身に覚えのない焦燥感。
おまえはそれを、望まれている、と。誰でもない、颯太自身がそう思ってしまうほどに。
……人知れず握られ、震えている拳に、クインだけが気づいていた
*
もうすでにすっかりと颯太専用となっていた、宿の一室。
颯太はその部屋のベッドに横たわり、目を閉じていた。
「……寝れねぇ」
窓から淡い月明かりが薄っすらと差し込むだけの、仄暗い部屋の中。颯太のため息交じりの呟きだけが響く。
黙って目を瞑っていても、その数秒後には耐え切れず目を開く。脱力して柔らかいベッドに四眩を放り投げても、もう何度寝返りを打ったかわからない。
落ち着かない心境がいつまでも続き、眠れないでいる。そんな無駄な時間を、部屋に戻ってからずっと過ごしていた。
これなら、自分の足で夜通し歩いてリークテッドまで行った方がずっと良いのではないか? いや、むしろ今からそうしてしまおうか? などと、何度もそういった考えが頭を過ぎる。
誰かが起きているとも思えない静かな今なら、誰にも見つからずに村から出て行けるかもしれない。
「……行こう」
そう眩き、颯太はベッドから立ち上がる。
クインとリアのことを、蔑ろにするわけではない。むしろ逆だ。本当に大切だからこそ、あんな存在の傍に近づけたくない。
姿が見えない狂人など、存在してはいけない。それこそ本当に、何度も噂され耳に聞いてきた悪しきゴーストそのものだ。
そして、それを視認できるのは今のところ自分しかいない。他に誰も、止めようとすることすらできない。颯太にしかできないことだ。
だからこそ自分が、こんなにも
「ほら、言ったとおりだった」
「……え?」
そっと開けたドアの向こう。無人で、誰もいないはずだと思っていた通路に座る少女が二人。
クインとリアが枕を抱きかかえたまま、通路に座って白けた顔で颯太を見ていた。
「ソータさん……あれだけ言ったのに、一人で行こうとしたんですか?」
「え? あ……え?」
「はいはい、言い訳は部屋の中で聞いてあげるから。戻った戻った」
混乱する颯太をぐいぐいと押して、二人は一緒に寝室へと入り込む。
「リア。とりあえずソータをベッドに投げちゃって」
「わかりました」
頷いたリアの腕が、見覚えのある黒毛に覆われた魔物の腕へと変貌する。そしてその鋭利な爪が当たらないようにそっと颯太を抱きかかえ……投げた。
頭からべッドに戻され、ぐえ、と潰れた声を上げる颯太。その情けない様を気にも留めず、クインはてきぱきと自分とリアの枕をべットに置いていた。
「リアは扉側に寝てね。ソータが出ようとしたらまた放り投げてもらうから」
「わかりました」
「いや、わかりましたじゃなくて!」
ようやく状況を飲み込めてきた颯太が声を上げても、二人は澄ました顔を浮かべたまま、颯太を挟み込むようにベッドに横たわる。
左側にはクインが当然のような表情で堂々と寝転がり、右側にはリアが迷いなく寝転がる。
いつのまにやらすっかりと川の字になって同じベッドにいる状況を、飲み込めたとはいえ冷静でいられるかは別問題であり。
「なに!? なんなのこの状況! なんで二人して俺の横寝てるの!? え!? 怖い! めっちゃ良い匂いする!」
「もう、夜も遅いのだからそんな大声出さないで」
混乱しすぎて言わなくてもいいことを口走る颯太の口を、クインの指先が塞ぐ。
「夜遅くに一人でこっそり抜け出して行くんじゃないかと思って、部屋の前で待ってたの」
「僕は半信半疑だったんですけどね……」
リアにしては珍しく、目を細め不満を露にした表情で颯太を見る。その視線を避け、反対側を向けたクインの整った顔立ちと寝転がって広がった黒髪が目に飛び込んできてしまう。
颯太とて健康な青少年であり、この状況や展開に心臓を跳ねさせてしまうのも無理はない。が、あまりにも突柏子もなさ過ぎて、逆に恐怖すら感じる。
「でもだからって、なんで俺のベッドに?」
「床で寝ればいい?」
「そんなつもりもなくて、自分のベッドに戻るって発想はないですかね」
「それだと、ソータを止めることができないわ」
まるで、もう一度、単身で飛び出して行ってしまうことが確定しているかのように、クインは言う。
「いやいや、さすがにもう一人で行ったりはしないよ」
「今はそう言えるかもしれないね。でも、私たちがいなくなった後、独りになってからも、ずっとそうは思えないはず」
問いかけるまでもなく、クインは力強く断定する。
「ねぇ、あなたがゴーストを今すぐにでも追いかけたいって気持ちは、本当にあなたの気持ち?」
「……どういうこと?」
一瞬だけ、躊躇するように口を噤み、
「ゴーストは、周囲の人の意思を反映して、その姿を形作るのだとしたら……あなたは無意識の内に、村の人たちの願望を捉えて、それに引っ張られてしまっている……あなたの中に、その可能性は、ない?」
問いかける言葉。けれど、颯太を見るクインの瞳は、それ以外の理由は見ていない。
突然、何の前触れもなくゴーストが現れた村。そこに住む人々は、どうしたってその理不尽に対し助けを求めるだろう。
頼みの綱である、昔から懇意にしてきた狩猟者は倒れ、残るのは……得体が知れなくも、少なくとも自分たちの味方をしてくれていると聞いている、姿の見えぬゴーストだけ。
「私たちが部屋の外で待ってたのは、あなたを信じていなかったからだけじゃないの。もしかしたらそういう可能性もあるって思ったら、不安だった。普段のソータなら、いくらなんでもきっと一人で行こうとなんてしないはずだもの」
べッドに座るオルヴァーの痛々しい姿を見て、ずっと颯太は苦しげな感情を隠そうと振舞っていた。その様子が、クインに違和感を抱かせるのには充分だった。
颯太が自責に駆られる理由は、ある。あるけれど、それだけが彼の表情を曇らせている理由だとも思えなかったのだ。
「自覚は、ある?」
クインに問いかけられ、颯太はようやく、自分の内に渦巻く強い、強過ぎる焦燥感に気づく。
相対し、力及ばずに逃がしてしまった。そのことに対する責任感はあっても……理由など考えるまでもなく、自分がなんとかしないといけない、という使命感の方が強い。
その使命感が、自分の心の底から生まれたものなのか。その判断が、自分にもできない。
クインの問いに、颯太は静かに首を縦に振ることで答える。その颯太の素直な反応に、クインは微笑み、
「だから、ここに来たの」
颯太の左手を、両手で優しく包んだ。
「あなたが、ゴーストが周囲の意識を反映してしまうのならば、私たちが一番傍にいて、そんなことはないよって言ってあげる。あなたはミナギワソータ以外の何者でもなく、ちゃんと自分で、自分だけで何かを選ぶことができる一人の人間だって思ってあげる」
この世界で誰よりも颯太のことを知る人間が、一番傍にいて、その存在を肯定する。
幻獣の少女も、小さな手でゆっくりと颯太の腕に触れる。
「……どう、かな? 確証はないのだけど……それで、楽にはならない?」
不安げに自分を見る二人の瞳を見て、颯太は目を閉じ、ゆっくりと息を吐く。いつのまにか、頭の中を支配していた焦燥感はなくなっていた。
一切の焦りが全て消えてなくなったわけではない。取り逃がし、恩人に一生の傷を残したことへの後悔は依然として残っている。
でも、心境は違う。
「うん……楽になった、気がするよ」
やらなきゃ、ではなく、やろう、へと。何かに急き立てられて生じたものじゃない、自分の奥底から生まれた決意が、全身に満ちているかのような。
颯太が浮かべた笑顔を見て、ようやく、二人はほっとしたように顔を綻ばせた。
「もう、一人で行こうとしない?」
「たぶん……としか言えないかな。焦る気持ちがなくなったわけじゃないし……今でも、あいつが何か、誰かを傷つけたりしてるかと思うと、落ち着かないけど」
「それは私たちも同じよ」
クインの言葉に同意するかのように、リアも小さく頷いた。
「でも、それを考えるのはこの夜が明けてからにしましょう。今はしっかり眠って、明日に備える。せっかく、念願だった三人で同じベッドに寝れるのだもの」
「……うん。そうだね、同じベッドでね」
胸に渦巻く焦燥感が嗚りを潜め、状況を平常心のまま理解できるようになった颯太の脳内が、再度真っ白になる。
十七歳の青少年が、見目麗しい同じ年ごろの女の子と、年は離れていているとはいえ整った顔立ちをした少女を両端に置いて、すやすやと眠ることができるのか。
「……できるわけねぇだろ」
「え? どうしたんですか、ソータさん」
突然腹の底から染み出るような声色を吐き出した颯太を、リアが心配げに見てくる。
「なんでもないよ。気が急いて寝られるかわからないだけ」
クインのことだから、ただ本当に一緒に横並びで寝るだけで、他の他意はないだろう。落ち着いて目を瞑り、二人が傍にいてくれることへの安心感に身を委ねればいつかは眠りに落ちれるはずだ。
「あ、一緒に寝るとはいえ、エッチなことはダメだからね? リアもいるのだし」
という颯太の期待を、平然と粉々にするクイン。
「リアがいなければエッチなことしていいの……!?」と声に出さず目だけで叫ぶ颯太に、「僕がいなかったらエッチなことするんですか……!?」と表情で語り狼狽するリア。
爆弾を放り込んだ当の本人は、二人がどうしてそんな驚愕の表情を浮かべているのかすらわかっていない。
目を閉じて、颯太の手を末だにぎゅっと握っている。そうして颯太の手を握ったまま、そっと額に当てる。
「ただ、一緒にいましょう。眠れないのなら、ずっとお話をしましょう。これまでのこと。これからのこと。きっと、話題が尽きることなんてないわ」
それは、何気ない提案のような口ぶりで。でも、声色と、浮かべる表情は、まるで懇願のように。
このまま、ずっとこうしていたいと、祈りを捧げているかのようで。
「……うん。そうだね」
自然と、颯太の声色も優しくなる。
クインの発言にはいつも驚かされてばかりだけど、そのどれもが、紛れもない心からの言葉だ。彼女は嘘がうまくはないし、閉じられた環境で育てられても、心がどこまでも素直だから。
「あの、大丈夫ですか? 僕、お邪魔じゃないですか?」
「邪魔なわけないだろ」
どう考えてもいらぬ心配だし、余計な気遣いだ。クインが颯太に優しく微笑んでくれたように、颯太もリアに向けて笑う。
「むしろいてくれないと落ち着かない」
「み、見ていろってことですか……!? わかりました。小鳥にでもなってそこの窓枠のところで」
「そうじゃねぇよ」
生まれが生まれだから仕方ないが、年不相応に妙な賢さを持ってしまっている。それでも、慌てふためく姿は年相応の愛らしさを持っていて。
颯太は堪えることができずに、声を出して笑う。その笑顔が呼び水となって、横たわる二人の少女も笑った。
颯太が、颯太自身が、笑いたいと思って浮かべた笑顔には、曇りなんて一つもなかった。
そうして、三人はしばらくの間。クインの言葉通り、楽しげに話をした。これまでのことも、これからのことも。
クインに出会う前の辛かった一ヶ月も、出会ってからの色濃い日々も。もう戻ることのできない、日本での日々も。その全ての話を、颯太は笑顔で話をすることができた。
颯太がこの世界に単身で放り出されてから、まだ二ヵ月も経っていない。その間の半分以上は、ただひたすらに孤独と向き合うように過ごしていた。
でも、今こうしてふと思い返した時。頭の中に浮かぶ光景に、その一ヶ月はどこにも見当たらない。
クインと目が合い、リアと目が合った。届かなかった声が届けられるようになって、誰かに感謝してもらえるようになった。
身勝手でも重ねてきて誰にも受け入れてもらえなかった善行も、ちゃんと届いて、受け止めてもらっていた。
望んでいたことが叶い続けていた日々だ。その日々があまりにも色濃くて、いざ振り返ったときにその向こう側にあった無味乾燥な一ヶ月が見えなくなっていた。
いつまで、いったいどれだけの時間、そうして話をしていただろうか。ふと横を見ると、リアが静かに寝息を立てていた。寝ながらも、颯太の服の裾を摘み、離さない。
「リア、寝ちゃった?」
「うん。俺たちも、そろそろ寝ようか」
「……大丈夫? ちゃんと、寝れる?」
「たぶん……大丈夫」
明日には、これまでの生活の中で一番の悪意とぶつかる。その緊張は、どうしたってなくならない。
教会の手先も、魔物も大量の野犬も、颯太にとってはどれも二度と味わいたくないほどの命の危機だ。平々凡々と暮らしてきたから、そんなわかりやすい危険になど出くわしたこともない。
ただ、明日立ち向かう相手に関しては……きっとこの世界に来ることがなくとも、いつかは会っていたかもしれない、現実的な敵意だ。
言ってしまえば、街中でチンピラに絡まれたようなものだ。それが、こっちが必要以上にビビり過ぎたから、相手が調子に乗ってしまっているだけのこと。
颯太の浮かべた表情を見て、クインは微笑む。いつもの、慣れ親しんだ少年の笑顔だ。
クインはそっと手を伸ばし、彼の、自身と同じ黒い髪に触れる。
「ふふっ、いつも一緒にいるのに……なんだか、ドキドキしちゃう」
「……大丈夫? そっちこそ、ちゃんと眠れる?」
「もちろん。今まで生きてきて、一番安心して眠れそうな夜だわ」
そう言って、微笑む。大げさな口ぶりでも、彼女の黒い瞳はどこまでもまっすぐに颯太を見て、そこに一切の誇張がないのがわかった。
偶然を重ねた末にやってきた異世界で、自分がやるべきだと決めた目標。それを、颯太は忘れていない。
口にして、宣言しようとも思ったが、こんなにも近くにいると気恥ずかしさが募ってしまって。
「おやすみなさい、ソータ」
「……うん、おやすみ。クイン」
心に刻むだけで、言葉は飲み込んだ颯太は、彼女の笑顔にそう返す。
眠るとき。何よりも信頼している存在が、自分の傍にいてくれる。
そのことが何よりも、ただありがたいと思える、そんな夜だった。
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