4話

「謝らない。謝らないからな」


 罪悪感など、懐いている暇なんてない。決意を固めるには、十分過ぎるほどの理由がある。耳障りな笑い声が止み、濁った瞳が自身の胸に突き刺さった短剣の柄を見た。


「……いきなり、何だよ」

「おまえはここで死ね! ゴースト!」


 手に持った刃物から伝わる肉を切る感触は、人だろうが犬だろうが変わりはない。その嫌悪感すら無視できるほど、今の颯太には義務感に似た感情がある。

 リアと会った奴隸市場で見逃した、あの奴隸を思い出す。自分がするべきことではないと見ない振りをした結果が、あの火災だ。死者は出なかったにせよ、体に、心に傷を負った者はいただろう。

 その時と状況は変わらない。いや、それどころか、あの時よりもずっと、颯太に対する責任は重い。

 この男を野放しにしてしまえば、その比ではない数の人間の人生が狂う。

 もうすでに、何人もの人の人生が狂わされていること、誰よりも颯太は知っている。


「っ、ああぁ!」


 短剣を引き抜き、再度振りかぶる。心臓に突き刺すだけじゃまだ安心できない。次は、顔面へ、その濁った黒い瞳に向けて刃を――


「……あ、なんだこれ、全然痛くねぇな」


 平然とした顔で自分の胸元を見て、ゴーストはそう言った。


「なっ……?」

「おいおいなんだよ。そんなおもちゃで俺に何しようとしてたんだ」


 ゲラゲラと笑うゴーストの胸元には、刃一つ分の穴がある。そこに、確かに短剣の刃は突き刺さっていたという証拠であるかのように。

 血が吹き出るどころか、滲みすらしていない異常。

 傷があれば、血が出る。それが生き物の常識であり、生きている限りそういった現象が起こらなければおかしい。少なくとも、目の前のように、人の姿をした生命体ならば。

 災厄の前触れ。悪しき元凶の発端。理からの異端者。

 聞き慣れてしまった、自分と目の前の存在への蔑称。それが、一切の誤りを含まない、正しいものだったと証明されている。


「化け物……!」

「はぁ? ひでぇな。おまえだって俺と同じゴーストなんだろ?」

「一緒にするな!」


 同意を求めるゴーストの言葉を振り払うように、短剣を向ける。


「俺はおまえみたいに人間離れしてないし、心まで化け物になった覚えはない! おまえみたいな、人の命をなんとも思わない屑と一緒にするんじゃねぇよ!」

「おいおい……さっきからなんでそんなキレてるんだよ。別に、おまえは関係ないだろ? あ、もしかしてさっきの黒い髪のかわいい子を俺がどうにかしようとしたから怒ってるのか? だとしたら謝るよ。あれはおまえのなんだな」

「もう――喋るな!」


 再度ゴーストの眼前でマナを圧縮し、空気として爆ぜさせる。

 汚いうめき声を上げて仰け反るゴーストの顔に向け、颯太は短剣を突き出す。切っ先は間違いなくゴーストの両方の黒い瞳の間、眉間へと吸い込まれていく。

 何度だって、心変わることなく思う。こいつは、ここにいちゃいけない。この世界に、この在り様でいてはいけない。

 この化け物は、ここで殺さないといけない。

 ――そう、認識した。


「……さっきから、冗談のつもりじゃないんだな」


 目の前の光景を捉えた颯太の目が、見開かれる。


「さっきからおまえは、本気で俺を殺そうっていうんだな」


 短剣の刃かゴーストの顔面に深々と突き刺さっている。だというのに、その肉を断ち切る感触も伝わってこない。

 刃は、目の前のゴーストに届いていない。


「なぁおい。なんでそんな寂しいことすんだよ。せっかく俺を見てくれる奴に会えたと思ったのに。そいつが俺を殺そうとするなんて、あんまりじゃねぇか」


 何年。何十年と培ってきた妄執に震える黒い瞳が、颯太を睨みつける。


「なんで、なんでだよ。せっかく会えたのに。ようやく俺も誰かと会って、見てもらえる生活を送れるようになったと思ったのに。なんで、なんでだ。俺も、おまえみたいに。なんで、おまえだけが」


 呟くように、けれど聞く者を震え上がらせる呪詛のような声色が響く。ゴーストの手が颯太の腕に伸びていたことを気づかせないぐらいの、不気味な圧力。

 見た目は、何も変わっていない。脂ぎった黒い髪も濁った黒い瞳も、絶えず悪臭を放ち続ける大柄な肉体も変わらない。

 けれど、颯太が目の前の存在を許せないと、ここで殺さないといけないと決めたその時から。

 では、何かが決定的に変わった。


「なんで、おまえだけがああぁぁ!」


 腕を捕まれた。そう思った瞬間には視界が反転する。


「――っ!」


 抗うことすら許さない圧倒的な膂力が颯太を振り回し、扉近くの壁へと叩きつける。背中から打ち付けられた衝撃は、扉の傍で今にも飛び込みそうになるのを堪えていたクインにも届いた。


「ソータっ!」

「来る、なっ! 逃げろ! オルヴァーさんに伝えて、村の人たちも全員逃がせ!」


 部屋の外から響くクインの叫びに、颯太は体勢を正すよりも前に空っぽになった肺に空気を送りこみ、叫び返す。どの道、腕をそのまま握り潰されそうなほどに捕まれては、身動きすらできない。手から零れた血濡れの短剣を拾い上げる隙すらなかった。


「ソータは!? ソータはどうするの!?」

「いいから行け――」

「なんでおまえだけがそうやって話ができてるんだよクソがぁ!」


 罵倒よりも早く颯太の頬に拳が届く。脳が震えるような衝撃に呻き声を上げることすら間に合わず、今度は窓の方へと力任せに投げられる。


「がっ、ぁ……!」


 窓枠に肩からぶっかり、衝撃で窓ガラスが割れる音が響き渡る。落ちたガラス片が降り注いでこようが、より大きい脅威が拳を振りかぶっている姿が目に映れば、掌にガラスが食い込もうとも立ち上がるしかない。


「逃げるんじゃねえ!」


 拳は床へと向かい、ガラス片ごと木の板に叩きつけられる。ガラス片は当然のようにゴーストの拳に刺さっても、依然として出血はない。

 だが、無傷、という表現では正しくはない。本来なら傷が走っているような箇所には……そこだけ消しゴムをかけられたかのように削れている部分がある

 ゴーストは、元よりまともな生命とは言えない。けれど、同じようにマナから形作られた幻獣も、颯太自身も、傷つけば血を流し、痛みを感じる。

 そのどちらも持ち合わせない目の前の存在の、なんと不気味なことか。


「はぁ、はぁ、くっ……」


 生き物としての脅威は、迫力は、大型の魔物の方がずっと強かった。一撃でもまともに食らえば致命傷という状況は、心臓がいくつあっても足りないぐらいに恐ろしいものだった。

 でも。今この状況は、ただの大柄の男と相対してるだけの状況だというのに、体が震え上がるほどに恐ろしい。

 目と目が合い、向かい合い、殺意が、自分に向けられている。

 意識し合い、殺し合う。一方的ではない争いの恐ろしさを、初めて颯太は思い知っていた。


「なんで、なんでおまえだけが、楽しそうに、なんで、なんで、なんで、おまえだけ、おまえが、おまえの、おまえのせいか」


 ブツブツと繰り返し呟く様は、どう見たって気が狂っているようにしか見えなかった。それでも、爛々と血走った黒い目が颯太を捉え、離そうとはしない。


「っ、なんで、じゃねぇ!」


 飲まれてたまるかと、颯太は震える手に力をこめて、細く長く割れたガラス片を選んで握り締める。掌に傷がつこうが、構いやしない。


「俺が特別なんじゃない。おまえが、誰からも望まれない生き方しかしてこなかったからだ!」


 襲われる存在に、助けを求める人などいるわけがない。誰かを傷つけ、侵略しようとする限り、相手には不可視の敵にしか捉えられないのだから。


「おまえの今は、おまえのせいだ! それを無視して勝手に羨んでくるんじゃねぇよ!」

「うるせえええぇぇぇ!」


 激昂し、ゴーストが飛びかかる。力任せに掴み、颯太を殴り殺そうと向かってくる。


「よく吠えた、ミナギワソータ」


 その背後から、扉を蹴り開いて狩猟者が現れる。


「――っ!」


 部屋の中を大きくなぞるような剣閃は、見えない相手だろうと切り伏せる大振りの一撃だ。部屋を横断するかのような飛び込みざまの一線は、颯太の目にはゴーストの脇腹を深々と切り裂いたように見えた。

 だが、傷にはならない。一瞬だけ剣の軌道を示すかのように空洞が生まれるだけだ。

 一足で颯太の近くにきたオルヴァーがすばやく振り返り剣を構える頃には、その空洞すらも見えなくなっていた。


「手ごたえはないが、どうだ?」

「……斬れてはいます。けど、血も出ないですぐに塞がって……って、え?」


 言葉の途中で、颯太はオルヴァーの方に目を向ける。顔は部屋の中央、どこにいるかもわかっていないゴーストを油断なく向けられているが。

 横目で颯太を見据え、視線がぶつかる。


「見えて、いるんですか……?」

「……なるほど、確かに気の抜ける顔をしているが……良い目をしているじゃないか」


 姿を視認されても、記憶の混濁は起こらない。颯太は颯太のまま、依然として水際颯太として思考できている。


「てめぇ、他にも仲間がいやがるのかよ……!」


 呪詛じみた囁きが聞こえ、颯太はゴーストへと意識を戻す。

 どうして、なんで、と。疑問を解消したくても、今はそれどころではない。


「声も、聞こえてるんですね」

「ああ。だが、他のゴーストの姿は見えない。この部屋にいるんだろう?」

「……はい。ドアの傍にいます」


 元よりそこまで大きくもない部屋に男が三人いては、戦うスペースも限られる。一歩大きく詰められればそれだけで懐を許しかねない距離。


「外に出るぞ」

「え?――はぁ!?」


 同意を求めた言葉ではない。それを証明するかのように、オルヴァーは颯太が了解するよりも早く、腕を掴み割れた窓にめがけて放り投げる。

 それを可能とするオルヴァーの膂力に驚くべきか、自分の体がそれを可能とするほど軽いことを嘆くべきか、いやというかそれよりもここ二階――!


「っ、風よ!」


 窓の外には結婚式の会場がある広場があり、ところどころ飾り付けされた装飾等が見えた。体勢を立て直す猶予さえなく近づく地面に向け、颯太は咄嗟にマナを変換する。破裂させるでもなくただ愚直に空気を集め、肩からその空気の層へと飛び込んで、そのまま地面を転がっていく。

 殺しきれなかった衝撃と咄嗟の大回転の眩暈で意識を揺らす颯太の傍に、単身で二階の窓から飛び出したオルヴァーが軽やかに降り立つ。


「器用なことをするな。体勢を立て直して足から落ちればいいものを」

「咄嗟にそんな芸当できるか!」


 今は声も姿もオルヴァーに届いているのも忘れ、無意識に敬語抜きで叫ぶ颯太。


「いいから早く体を起こせ。おまえしか、あのゴーストの姿は見えないぞ」


 口を開こうとする前に、体を起こす。言いたいことはあるがオルヴァーの言葉通り、周囲を警戒する。


「……まだ、降りてきてないですね。そういえば、村の人は……クインたちは」

「無理を言って村から離れさせた。女子どもは率先して逃げている。まだ何人か村にいるが、俺に近づくなとは伝えさせてある。ヘレンたちは、その誘導だ」


 結婚式の用意も何もかも放り出し、村から逃げることはそう簡単なことではない。それを可能とした、狩猟者への信頼と、ゴーストという存在への恐れ。

 どちらにせよ、無関係な人を巻き込まないのならば御の字だ。


「追いかけてくると思うか?」

「……おそらく。あいつは今、俺への逆恨みで頭がいっぱいだろうから」


 颯太の言葉を肯定するかのように、割れた窓の傍に立つゴーストの血走った黒い瞳が視界に映る。ニタリと、嫌悪感を懐くには十分すぎるほどの気色の悪い笑顔を浮かべ、ゴーストは窓から飛び降りた。

 オルヴァーには遠く及ばない無様な着地する姿も、隣に立つ狩猟者には見えていない。


「降りて、きました。俺たちを……俺を、まっすぐ見ています」

「何か武器のような物は持っているか?」

「いえ……何か持ってくれたら、オルヴァーさんでもどこにいるか把握できたのに」

「ゴーストもそこまで馬鹿ではないのだろう」


 姿は見えずとも、広場には小石が転がる地面があり、少なからず雑草も茂っている。颯太という不可視の存在に慣れたオルヴァーならば、少なくとも位置を把握することはできる。


「ここで、あいつを止めないと……」


 斬りつけても刺しても傷にすらならず、血も出ない。だが、無敵……死なない存在だとは思えない。

 今でこそ錯乱したゴーストは颯太にばかり敵意を向けているが、その敵意が他の誰かに向けられたら。

 そうすれば、誰にも抗いようがない、最悪の化け物に成り代わる。


「……確認だが、あのゴーストが、城に進入し、王妃を襲ったゴーストで相違ないな」


 オルヴァーの質問に、無言で頷く。これまで不可能だった意思疎通の方法は、しっかりと彼に伝わった。


「そうか……」


 剣を構え、柄が軋むほど強く握る。


「あの夜の借りを返してもらうぞ、薄汚いゴースト」

「さっきからなんなんだてめえらぁぁ!」


 激昂に声を震わせるゴーストの叫びは、颯太以外に届くことはない。


「なんで、なんでおまえだけなんだ! 俺を誰か見てくれないのか! 俺だってそこにいるガキと一緒だろうが! なんで俺だけが誰にも見てもらえない! なんで、なんでだ! あああぁぁ!」


 ただひたすらになんでと、疑問を紛糾に変えて吼え続けるゴースト。その耳障りな叫びに顔をしかめ、何度でも反論を返してやろうと口を開こうとする前に。


「なんだ、あれ……」


 ゴーストの周囲を渦巻く、不可視の何か。見えなくともそこにがあると思わせるには十分過ぎるほどの濃密な気配。


「おいソータ、何が起きている」


 オルヴァーの声も固く、低くなる。依然としてオルヴァーの視界ゴーストは映らなくとも、颯太と同様に何かが変わりつつあることを察していた。


「おまえには、何か見えているか?」

「……見えてはいないです。でも、見えていないってことは」


 周囲のマナを、取り込んでいる……?

 颯太と同じ見解に至ったのか、オルヴァーも続きの言葉を促すことなく、更に目を細め映らない存在を睨みつける。

 高密度のマナの塊であるゴーストが、更にマナを集めている。その方法はわからなくても、理由は想像できた。

 自己の強化か変化。どちらにせよ、こっちにとって不利に働く要素しかありえない。


「殺せると思うか?」

「……わかりません。致命傷は与えたはずなのに、傷はすぐに塞がったし……」


 風の炸裂の衝撃に呻いたのだから、痛みを感じていないわけではないだろう。だが、短剣でゴーストの胸を、顔を突き刺しても、感触がないと思うほど空虚な手応えしかなかった。


「確認するが、俺の剣で斬れてはいたんだな?」

「はい。すぐに塞がったし、痛がりもしていなかったようですけど」

「なら次は、細切れにしたらどうなるかだな」


 姿勢を低く。絞られた弓を思わせる緊張感。


「援護を頼むぞ、ソータ」


 断れることなど微塵も考えず、そして信頼を持って、オルヴァーは駆け出す。


「っ!」


 その信頼を嬉しく思いながら、颯太も続けて足を前に踏み出した。先に駆け出し近づいてくる剣を持ったオルヴァーに視線を向けることもなく、ゴーストの濁った黒い瞳は颯太をじっと見つめている。

 斬られることを、刃を向けられることを脅威とは欠片も思っていないような、迷いなく狂った黒い瞳。その双眸を睨み返す。

 折れてたまるか。心が、負けてたまるか。

 ――こいつが正しくて、俺が間違っている部分なんて、一つだってありえない。


「風よ……!」


 誘導でも脅しでもない、痛みを伴うほどに圧縮した空気の塊を、ゴーストの眼前へと集め、破裂させる。

 すでに二度受けている衝撃を察してか、ゴーストは不可視の空気の塊が見えたかのごとく、姿勢を低く右側へと体を倒す。


「右に避けました!」

「――っ!」


 颯太の声に反応して、すでに剣を振りかぶっていたオルヴァーは剣閃を伸ばす。踏み込みをより深く、より遠くへ届くように振り抜かれた剣先はゴーストの右腕を切り裂いた。

 宙に舞うゴーストの右腕。自身の体の一部が切り裂かれたゴーストは、本来ありえるはずの激痛に苛まれることなく、それどころか、自分を攻撃してきたオルヴァーを一瞥すらしない。


「おまえがああぁぁ!」


 妄執に囚われた黒い瞳は、瞬きすらせずに颯太を睨む。

 最早、目の前にて相対するゴーストは、これまで見てきた魔物と変わらない敵だ。違うのは、颯太を見て、颯太を殺そうとしてくるということ。

 颯太以外に、こいつを止めることはできないということ。


「風よ」


 向かい来る殺意に対する恐怖を噛み殺し、マナを紡ぐ。


「っ、火よ」


 続け、紡ぐ。初めて見て、初めて使った魔法。一度ボヤ騒ぎを起こしてから、不必要に使うまいと決めていた、影響の大きい超常現象。

 ゴーストとの間、向かってくる血走った黒い瞳を見据え、叫ぶ。


「――爆発しろ!」


 颯太の声に呼応するようにマナが変質し、ゴーストを吹き飛ばすかのよう破裂する。頭で描いたとおりの魔法の再現は、今までにない以上の威力を、相手を傷つけるという覚悟を持って放たれた。

 破裂する風が高温の炎を伴って吹き荒れる。その渦中に、ゴーストは成す術もなく自ら飛び込んだ。

 声にならない叫びが、ゴーストの喉を振るわせる。焼ける痛みと衝撃はゴーストにも確実に届いていて、


「――っ!」


 拳を固く握り締め、颯太は踏み出す。未だ熱が残る空間を走り抜け、ゴーストまで辿り着く。


「さっきの、お返しだ!」


 まだ火に煽られた熱を保つゴーストの顔に、拳を突き刺した。これ以上ないほどに勢いの乗った一撃は、ゴーストを仰け反らせ、隙を生む。

 その隙を、狩猟者は見逃さない。

 颯太の目には確かに。オルヴァーの剣が、頭部から縦にゴーストを真っ二つにした光景が映った。

 広場の地面にドサリと音を立てて落ちる、両断されたゴーストの肉体。切断面には何も映らず、黒色に近い霧が集合しているように見えた。

 血が噴出すことすらない、非現実的な塊。

 殺した、と。確信できる光景。頭部から両断されて尚生存する生命など……少なくとも、人の形をしている生命で存在してはいけない。

 ――もし、そのような存在するならば、それは、本当の化け物に他ならない。


「なん、で……」


 切断面に渦巻く黒い霧のような物体が範囲を伸ばし、形となっていく。すでに二つに分かたれたはずの両端の体を繋ぐように、薄く、不気味に。


「こんなの、本当に化け物じゃないか……!」


 その不気味さは、ありえないはずの超常現象を目にできていないオルヴァーにも伝わる。


「……ははっ、すげぇな。どうなってんだ俺の体」


 何事もなかったかのように。刃物で縦から二つに裂かれたはずのゴーストは立ち上がり、自分の両手を見て笑う。


「何がどうなっている! ソータ!」


 剣を油断なく構えるオルヴァーに目配せすることすらできない。颯太は今にも震えそうな手足に力を込め、目の前の異常を睨みつける。


「なんなんだよ、おまえは!」

「知らねぇよ俺が知りてぇよ。でもま、なんか、斬られすぎて、きた」


 自身の長く乱雑に伸びた髪を握り締め、ブチブチと引き抜く。脂でぎらついた髪の束は地面にボトリと落ちた。

 落ちた。落ちたはずだ。でも、地面に落ちた髪の束から視線を戻せば、依然変わりなく淀んだ黒髪はそこにある。


「どうやら、俺って、無敵っぽいな」


 そう言って笑って、ゴーストは自分の存在を認識した。


「――違うっ!」

「違わねぇだろ!? 斬られても刺されてもなんともなかったじゃねえか! すげぇなおい! なんでもやれる! 死ぬことすらねぇのかよ! はっ、はははははっ!」


 ゴーストは、他者と自分の認識によって成り立つマナの集合体だ。

 颯太の懐いてしまった認識が、颯太の思ってしまった化け物というイメージが、ゴーストの体に影響を与えた。そのたった一回の認識が、ゴーストの自意識にまで深く、証と成るほどに。


「いいぜわかったよ! 俺は化け物だ! 薄汚いゴーストだ! だったら、もうそうやっていつまでも生きてやるよ! 全部ぶっ壊して、めちゃくちゃにしてやるよ!」


 ゴーストの喜色に満ちた笑顔と笑い声が、颯太にだけ聞こえる。


「なぁソータ! おまえはそれを見ていろ! おまえだけが俺を見ていてられるなら、それを特等席で見せてやるよ!」


 まるで天啓に導かれるように、ゴーストは笑う。空を仰ぎながら声を上げる。足取りは軽やかで、そこに一切の迷いもない。

 並べられた椅子とテーブル。村の子どもが一生懸命に飾りつけた装飾。これから待つ幸せの舞台に、誰よりも早く似つかわしくない存在が到達する。


「この世界が俺を認めてくれないなら、そんなもの俺がぶっ壊してやる!」


 持ち上げられた椅子が、音を立てて叩きつけられる。


「こんな村も! どんな国だって! めちゃくちゃにしてやるよ!」

「そこかっ!」


 狩猟者の剣がゴーストまで届く。自身の肩先に吸い込まれる刃すら、ゴーストは笑って見ていた。


「さっきからうっとおしいんだよっ!」


 体が斜めに両断されようと、ゴーストの姿勢は崩れない。斬られた事実などなかったかのようにゴーストの腕は狩猟者へと伸びる。

 斬り分けられているはずなのに、ゴーストの体は少しの影響すらもないかのように動く。決して小さくない、それどころか大柄のオルヴァーを、ゴーストは片手で首を掴み持ち上げた。


「あの夜の借り? いつの夜のことだかわからねぇよ。もう憶えてられないぐらい、色々と借りを作ってきたからなぁ!」


 嘲笑うかのような言葉はオルヴァーには届かない。目には映らない存在だというのに、振り解けないほどの力がオルヴァーの喉に。

 空いた片方の手が、オルヴァーの膝を掴む。


「俺は悪くねぇよ。おまえらだって逆の立場ならやるだろ?」


 当然のことのように口にして、笑顔を浮かべたまま膝を掴んだ手が握り締められる。

 ゴキリ、と。響いてはならない音が、オルヴァーの膝の中から響いた。


「――っ!」

「オルヴァーさんっ!」

「俺が悪いんじゃなくて、俺に気づかなかったおまえらが悪いんだよ!」

「――勝手なこと言ってんじゃねぇ!」


 あまりにも身勝手な言い分に、声を荒げ走り出す颯太よりも早く。



「吹き飛ばして!」



 凛として、けれど力強い命令が響き渡る。

 吊り上げられたオルヴァーの体。その前に見えなくとも存在しているであろう何かに向けて、周囲の土が、石が、砂が一斉に加速する。

 さながら真横に滑る土石流が、ゴーストを巻き込んで流れていく。


「クイン……」


 駆け寄ってくる黒髪の少女。その傍には、黒毛の魔物に変じたリアの姿も見えた。


「リアはオルヴァーさんを連れてきて! ソータっ、大丈夫!?」

「な、なんで、村の人たちはっ」

「ヘレンさんが街道まで誘導してくれてるわ。二人が戻ってくるのが遅かったから、リアと一緒に様子を見に来たの、そしたら、オルヴァーさんが……」

「すまない、助けられたな……」


 掴まれていた喉と膝を苦しそうに押さえるオルヴァーが、魔物の姿をしたリアに背負われながら颯太たちの元へやってくる。


「オルヴァーさん、膝が……」

「気にしなくていい。それより、あいつはさっきから何を言って、何をしようとしているんだ」

「それは……」

「おいおいすげぇな! なんだよ今の! 死んだかと思ったわ!」


 颯太が言い淀む間に、何事もなかったかのような平気な顔をしてゴーストが声を上げる。


「なんだよ、いつの間にか人が増えてるな。魔物もいるし、さっきの女もいるじゃねぇか。おいソータ、すげぇな、おまえの周り。俺と同じゴーストのくせによぉ」


 羨望、妬み、怒り。それらがぐちゃぐちゃに混ざって淀んだ黒い瞳が、颯太を映す。


「そういやさっきさ、そこの女がもしかして俺の娘かもなって言ったら、おまえ怒ったよな? なに、もしかしてマジなのか? おいおい、俺って子ども作れたんだな。だいたい後は殺してたから知らなかったわ! もしかしたら他にもいるのか? 誰も見てくれねぇのに、ガキだけは作れるのかよ。今度から放っておくとするかな」

「いい、加減に……!」


 どこまでも下衆な思考で吐き散らすゴースト。その言葉も、卑しい笑顔も、颯太にしか届いていない。


「ってことは、だいたい絞りこめるんだよな。殺さずに放置してたのってあんまりいないし……ああ、あの城にいた女か。美人だったし良い暮らししてそうな部屋だったからよく憶えてるよ。そういやよく見りゃ面影あるな。ははっ、よかったなぁ、俺に似なくて。髪と目の色ぐらいで済んでよかったなぁ」


 それぐらいで、と。ゴーストが口にする。颯太にしか聞こえない声で。それぐらいで済んでよかったなどと。

 それぐらいで、その程度で、それだけで、彼女がどれほど傷ついて苦しんできたかもわかっていないのに。

 怒りに震える唇が、言葉を吐こうと開かれる前に。颯太の手を、クインの指先が触れた。


「ソータ、どうしたの? 何を言われたの?」


 彼を心配して伺う少女の黒い瞳。血の繋がりなど欠片も信じられない澄んだ瞳を見て、颯太は言葉を深いため息に変えて吐き出した。


「なんでも、ない」


 怒りに目が眩んで駆け出したところで、今の颯太に何ができるのか。それすら見極められてもないのだから、目を曇らせている場合じゃない。


「引くぞ、ソータ。今の俺たちでは、手に負えない相手だ」


 斬ろうと燃やそうと、一切の怪我もたちまちなかったかのように振舞う存在。それでいて姿はたった一人しか視認できない。状況を並べるだけであまりにも絶望的で、オルヴァーは冷静に判断した結果を口にしただけだ。

 ゴーストがやろうとしていることは、颯太にしか聞こえてない。


「駄目です。あいつをこの場で逃がせば、取り返しのつかないことになる……!」

「そうだな。取り返しのつかないことをしちゃうかもな。たとえば、ここにいる人間、ソータ以外全員殺しちゃったりするかもな」


 ニタニタと笑いながら口にするゴーストを、颯太は唇を噛みながら睨みつける。刺し違えてでも、ここでこいつはどうにかしないといけない。

 いけないのに、その刺し違え方すらわからない。

 刺しても斬っても焼いても死なない存在を、いったいどうすれば――


「冗談冗談。そんなマジになるなよ」

「……何が冗談だ。さっきから、おまえの言ってることは全部、最低なことばっかで聞き流せねぇんだよ!」

「ここで殺してやる、ってのは冗談だってことだよ」


 殺意を否定せず、ゴーストは笑う。


「おまえの周りを殺すのは最後にしてやるよ。俺は好きなものは残しておいて最後に食べるタイプなんだ。だから壊すのは遠くからだ。まずは人の多い国から。でけぇところからめちゃくちゃにして壊してやる。そうやって壊して壊して壊して、おまえを最後に殺してやる」


 淀んだ黒い瞳は、狂気に滲んでいて。


「だから、最後まで見ててくれよ。その目で、俺を唯一見てくれるその目で、最後まで俺がやることを見ててくれよ」


 まるで脅迫。けれど必死の懇願をするかのような、鎚るような表情を浮かべ、ゴーストは語る。


「ふざ、けんな! 誰がそんなことをっ」

「じゃあ――理由を作ってやるよ」


 笑顔のまま駆け出すゴースト。その足取りは、迷いなく颯太へと。

 颯太の傍に立つ、クインへと向かっていた。


「――っ、くそっ!」


 その走り寄るおぞましい姿を見ているのは颯太だけだ。だから、当然それに反応できるのは颯太だけとなる。

 咄嗟に練り上げたマナを風に、火に変換させて前方に範囲など考えず展開させる。衝撃の余波を強く受けるほどの炸裂すら、ゴーストの進行を妨げることはできない。

 前に出て、自らが楯になろうと立ち塞がることしかできない。


「――これこそが騎士の誇り」


 宣言にも似た言葉が紡がれ、颯太の背後に立つ狩猟者が、折れた足で、騎士として立ち上がる。


「ソータっ、そこをどけ!」


 言葉を聞き、振り向きもせず飛び退いた颯太がいた場所。そこに走り来るゴーストに向け、剣が振り下ろされる。

 剣先は風を生み、地面へと叩きつけられて衝撃と化す。ゴーストを殺すことは叶わずとも、退けるには十分過ぎるほどの衝撃。


「命じるっ!」


 クインの両手が地に触れる。すでにマナの掌握は済んでいるのだから、あとはそこに命令を流し込むだけ。


「また、吹き飛ばしてっ!」


 盛り上がり、吹き上がる土砂。少女の命令に従うのが当然かのような現象は、目に映らなかろうが関係ないほどの範囲に広がっていき。

 再度、ゴーストを遠くへと追いやった。


「くっ、ひ、ひゃははは」


 颯太にだけ、遠くで土砂に巻き込まれながらも平然と立ち上がるゴーストの姿が見える。何がおかしいのか、肩を震わせて笑うゴーストの姿が。


「いいぜ、そうやって、たくさん邪魔してくれよ。ソータがいなかったら、一方的過ぎてつまらねぇよ、これ」


 楽しさという、あまりにもそぐわない感情を求めて、ゴーストは笑う。


「ちゃんと追いかけてきてくれよ? じゃないと……次は、女だけじゃなくて、もっと誰でも――殺してやる」


 そう言い残し、ゴーストは背を向ける。


「待てっ!」


 行かせるわけにはいかない。追いかけ、その背に向けて魔法でも拳でもなんでも叩きつけてでも止めないといけない。


「ソータさんっ!」


 リアの声に呼び止められ、振り返る。


「オルヴァーさん、大丈夫ですか!? 魔導具はもう使用しちゃいけないって、言ったのに……!」

「そんな、悠長なことを言っていられる状況じゃ、なかっただろう……」


 地面へと横たわり、胸を押さえ蹲るオルヴァー。咄嗟に颯太もリアとクインのように彼の傍に駆け寄ろうとして、


「――っ!」


 でも、と。去ろうとするゴーストを見過ごすわけにはいかないと、振り返ったその先には。


「……くそっ」


 すでに、異端者の姿はなく。

 焼けて煤けた草木や装飾が土砂に塗れた、無残な光景だけが残っていた。

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