9話
近隣の村の資源とも言える森の動物のほとんどが、マナによって大量発生された野犬に食い荒らされたとあっては、村にとっては大打撃どころの騒ぎではない。
異変の解決を依頼された狩猟者の二人は、村に戻るや否やその事実を報告。大規模な捜索及び回収隊を率いて夜にも関わらず森へと戻っていった。
「……宴会で犬の肉とか出たら、ちょっと嫌だな」
月も沈もうとする遅い時間。颯太は宿の屋根の上に登り、遠くの森を眺めながら一人眩く。
森から帰ってきた颯太はこっそりと村の宿の空き部屋に運ばれ、クインの魔導による治療……というよりも応急処置を受けた。その間、気を失うように眠っていたせいで何も憶えていないが、右足の傷に巻かれた包帯には少しも血が滲んでいない。何度か包帯を取り換えてくれた丁寧さが伺えた。
目が覚めて、誰もいない寝室に心底不安がり、痛む足を引きずって別の部屋を覗いてみると、同じベットでクインとリアがスヤスヤと眠っていた。その姿を見て一安心して、宿を出て、森に入っていった者たちを待ち侘びる村人の話を聞いて状況を理解し、今に至る。
屋根の上などの高いところに登るのは、単純に落ち着くからだ。リークテッドにいた頃も、何かと馬車の上などの高いところから俯瞰して眺めていた。
周囲と同じ目線の高さにいると、どうしたって自分が視認されていない事実を突きつけられる。高いところから俯瞰していれば、その事実から目を背けられた。それに、高い位置に登って周囲を見下ろせば、低身長気味な自分への慰めにもなるという理由もあるがそこは意識しないようにしてる。
村には篝火が灯されて、夜だというのに村の全域を目視できるほどに明るい。それに加え、月の光も届いていて、どこか神秘的な光景のようにも思えた。
「ゴースト、か……」
自分がいったいどういう存在なのか。白昼夢、といえば意外としっくりくるあのどこにでもありそうな部屋の一室で告げられたことを、もう一度頭の中で反芻してみる。
「自分が死んだ事実すら憶えてないって、忘れん坊にも程があるよな」
とはいえ、自分か死んだという事実を認識してしまっていたら、この世界に来ることはなかったと考えると、意外とファインプレーだったのではないかと自画自賛する余裕がある。それぐらい、颯太の中で現状は納得いくもので。
「……やっぱり。こんなところにいた」
気の抜けた顔で村の景色を眺めていると、その景色の中にひょっこりと生首が現れる。
「もう。怪我してるんだから、無理しないでしっかり休んでないとダメじゃない」
どこか怒ったような声色と尖らせた唇をして、クインは屋根をよじ登り颯太の傍にやってきた。
「今の今まで寝てて、さっき起きたところなんだって。充分休んだよ」
「一応言っておくけど、さっきまでのソータはマナの枯渇と体力の限界で、気絶してた、が正しいからね? そういうの、休んだって言わないと思うの」
呆れた様子でため息を吐いて、クインは颯太の横に腰を下ろす。肩が触れるか触れないかギリギリの近さ。村の様子を見ている颯太の視界に、夜風でフワリと広がった彼女の黒髪が映った。
一人でいるのが嫌だっただけ。灯りや、別の人の姿を見たかっただけなのだ。体調の問題は、現状感じられない。もちろん足の傷は痛むし、マナも充分回復したとは言い難いが、暗闇の中でじっと目を瞑っていられるほど、精神は落ち着いていない。
「また、助けてもらっちゃったね」
「……あんまり、助けたって憶えないんだけど」
むしろ助けられたのは颯太の方だ。野犬から逃げる動物の群れに救われたのも何もかも、クインの魔導あってこその結果だ。
その点、颯太がやったことはただひたすらに野犬の群れに突貫して、短剣を振り回しただけ。どれだけ野犬の注目を集められたのかわからないし、成し遂げた実感としては薄いものがあった。
「マナ溜まりを使って、リアの幻獣の力で別の野犬を増やすっていう方法、ソータの案だって聞いたけど?」
「……それも、別に俺が考えたわけでもないんだよな」
人から聞いた話を、悪く言えば妄信して伝えただけだ。確証はどこにもなかったし、あの状況においては博打以外の何ものでもない。どちらかと言えば、それを信じて動いてくれたヘレンやリアの功績だ。
「……ちょっとだけ、なんだけど。リアから聞いたよ。ソータが、どういう存在なのかって」
他者が望む形に、見たいと思う存在に成り代わろうとする、不安定なマナの塊。確証も、明確な肯定もない、けれど、きっとそういう存在なんだろうな、と納得できる。そんな、不明瞭で不確かな存在。
それが、水際颯太であり、この世に伝わるゴーストという現象。
「リアったら、私にまで泣きながら謝るのだもの。少しも怒ってなんかないのにね」
「まぁ……ずっと気にしてたんだと思うよ。自分だけ違う男の人の姿に見えてるのに、俺たちはまるで別人の姿が当然のように話してるんだもん。普通、もっと不気味がるよ」
「頼りになる男の人に見えてたんだってね。嬉しかった?」
「……いや、正直複雑」
「本当はこんなに可愛い顔してるのにね」
クインの指先が、苦笑いを浮かべる颯太の頬をつつく。その爪の硬さと、きっとニヤニヤと浮かべている笑顔に意識を払わず、颯太は澄ました顔を浮かべて平然を装う。
「……まぁ、そういうことだよ。本当の俺は、こんなに情けない姿してるのにさ」
「情けないなんて、思ったことないよ」
強い否定の言葉に、思わず颯太は顔を向ける。
クインの指先が強く頬に食い込んで痛いと思うよりも前に、彼女の黒い瞳が、少しだけ怒ったように細められているのに驚いた。
「確かにソータは女の子みたいな顔してるし体の線も細いし背も私とあまり変わらないし女の子の格好させてみたいなって何度も思ったことあるけど」
「言い過ぎでは」
「でも――情けないと思ったこと、一度だってない」
またしてもぶつけられる断定に、颯太は何も言えずに。
「だってそうでしょう? 全然争い事になんて向いてないはずのその見た目で、いっつも体を張って前に出て、私やリアや、誰かのために傷ついて、頑張ってくれて。そうやって、結果を出してきた。そんな人のことを、一瞬たりとも情けないなんて思うわけないわ」
黒い瞳が、颯太を真っ直ぐと見つめる。いや、最早見つめるというよりも、若干の怒気を含めて睨みつける。
「……なんで怒ってんのクインさん」
「怒ってないです。呆れてるだけ。ソータってば、まだそんなことで悩んでるのだもの……ま、いっか。それが、ソータなんだもんね」
痛くなってきた頬から指先が離れる。クインは混乱した様子の颯太を見て、また深々とため息を吐いて、微笑んだ。
「確かに、もっと優れてる人はたくさんいるのだと思う。でも、それでも。それでもって、あなたは立ち上がって、私たちを守ってくれる、素敵な男の子。それが、私の見てるソータなんだよ。そんなソータは、あなたが思うミナギワソータとは、違う?」
「……違わない。って、ことにしたい」
自分がどういう人間だなんて、そんなこと自分にだってよくわからない。自分で強く言い張れるようになるほど、颯太が日本で過ごしたこれまでに密度はない。
そこを、悲しく、情けなくも思うけれど。
「ねぇ。話してくれる? あなたが、ゴーストっていうのはどういうものなのか」
促されるまま、颯太は頷き、自分が聞いたことを話した。
自分が死んだことにも気づかないまま死んだということ。そのせいで、そのおかげで、この世界にやってきたこと。
最初に自分を見てくれたのが、君だったから。今もこうして存在できているということを。
「……俺を見つけてくれたのが、君でよかった」
もし。あの時、気まぐれに城に行こうとしなければどうなっていただろう。王とアルフレルドの話を聞いて満足せず、庭園に足を向けなければどうなっていただろう。
華やかで荘厳で、けれどどこか寂しげなあの庭園に、君がいなければどうなっていただろう。
水際颯太という一個人を求めたわけではない。クイン自身が、特定の人物を望まなかったという、言ってしまえば偶然の産物だ。けれど、クインじゃなければ、今の颯太は一瞬で霧散していただろう。
黒い髪と瞳を持ち、年相応ではない背丈や体躯と、女の子寄りの顔つきをコンプレックスに思う、水際颯太はいなかった。
クインがいなかったら、これまでも。そして、今も。
「そうね。あなたを最初に見つけたのが、私でよかったわ」
颯太の眩きを迷いなく肯定して、クインが笑う。
「……これは、例え話なんだけど」
頭を掻いて、これから口にすることの荒唐無稽さをごまかして、口を開く。
「もし……あの時、森で離れ離れになった時。あの時から、俺と一生会えなくなってたら、君はどうしてた?」
「探すわ」
欠片も逡巡もなく、クインは答えた。
「……会えなくなったらっていうより、俺があのまま消えてたら……ってことなんだけど」
「それでも探すわ。だって、そんなのあんまりだもの」
自分の口にした答えに少しも迷いがないのか、クインの声色には少しの躊躇もない。
「絶対に探して、見つけてみせるわ。どんなに時間がかかろうとも、私自身がどうなろうとも、絶対に探し出してみせる。リアも巻き込んじゃって、どれだけ途方もなくても、絶対」
そうするつもりだけど、何か問題あった? とでも言いたげな顔で、クインは答えを聞いて呆けた顔をする颯太を見る。
「……どうなんだろう。嬉しい、って思っていいのかね」
「そう思ってくれないと、私の立つ瀬がないわ。巻き込まれるリアも」
「リアを巻き込むことは確定なのな……」
「きっと嫌がらないと思うわよ。あの子も、あなたのことが好きだもの。急にいなくなってしまったら、心配にもなるわ」
「……そっか」
嬉しいやら、申し訳ないやら、心苦しいやら、悲しいやら。色々な感情が目まぐるしく渦巻いて、言葉にできない。
……ならば、きっと彼女は。今の言葉とおり、途方もないほどの年月をかけて。
「いや……方法とか、その辺りについてはツッコミどころ満載なんだけどさ」
「……何の話?」
「こっちの話……いや、そっちの話になるのか?」
颯太の要領を得ない言葉に、クインは首を傾げる。口にしている颯太自身、正直よくわかってないのでこの話を打ち切るように、立ち上がった。
自分の存在が、一人の人間をあそこまで変えてしまう。生きていることが、意思を持ち動いていることがおかしいと思えるまでの欠損と腐敗を抱えながらも、目的のために行動するようにさせてしまう。
そのことを、嬉しいと思う反面、途方もなく恐ろしいと思う。そして、それを恐ろしいと感じてしまう自分の底の浅さが、どうしても、不愉快に思えた。
だって、彼女はきっと。誰のためでもなく、ただ、水際颯太のために。あそこまで、
「……ねぇソータ。さっきからずっと、何を不安がってるのかわからないけど」
立ち上がった颯太の服の裾を、クインが指先で摘む。
「私は、あなたと出会えて本当によかったって、心から思ってるからね」
視界に映る篝火の光が、滲むような気がした。
「例えこの先どんな困難や身の危険があったとしても。私は、あの部屋で、あの森で。あなたの手を取ったことを後悔なんてしないから」
そんな言葉をかけられて滲む視界の中に、森の中から浮かび上がる松明の灯りが映る。オルヴァーを先頭に、森に野犬や他の動物の死体を回収に行った村人たちが帰ってきた。それを夜も遅いというのに、喜んで迎えに出る残っていた村人たちの姿も見えた。
「……うん。俺も、後悔はしてないよ」
後悔はない。一つだってない。あの夜の出来事に、悔いることなんて一つだってありえない。
だから、今この胸に覚えている感情は後悔などではなく。
反省よりも、ずっと強い誓いだ。
「約束する。もう二度と、君の前から姿を消さない」
滲んだ涙を拭い、颯太はクインの黒い瞳を見つめ返す。
「そりゃ、私生活的な面で姿を消すことは多々あるけど、そうじゃなくて。もう二度と、君を残してどこかに行ったりしない」
水際颯太を水際颯太として見てくれるのは、今この世界で、君だけなのだから。
それを抜きにしたって、颯太の心がもう離れたくないんだと叫びを上げる。
「俺は、君のお節介なゴーストだから」
君が俺のことをそう呼んでくれた、あの夜から、ずっと。
颯太が笑ってそう言うと、クインも笑顔を返す。
村の中には、深夜だというのに歓声が湧き上がる。マナ溜まりによる異変のせいで森の生き物はほぼ生き絶えた。けれど、獲りきれなかった生き物の死体は養分となり、それを始めとしてまた生き物も戻ってきてくれるだろう。
だから、村人に悲観の感情は見えない。一日中体を動かし続けて若干ナチュラルハイ気味になっているヘレンとオルヴァーの姿が見えて、二人はまた揃って笑顔を零す。
血と土に塗れることになろうとも、掴んだ末の平和な光景を見て。ようやく颯太は、やり遂げたという実感を得られた。
ずっと。視界には入っていた。
誰も彼もが喜び、このまま宴の準備にでも差し掛かりそうなほどの熱気の中。ただ一人だけ、その熱に触れていない者がいた。
汚れた衣服に身を包み、生気を感じさせない濁った瞳で、無事に帰ってきた村人たちの一番後方を歩く。大柄な体なのだが、背を曲げてふらつくように歩いているせいで、見た目よりも大きい印象を覚えない。
ずっと、視界には入っていたのだ。でも、遠く、かつ騒ぐ村人の暄騒に紛れていたせいで、そこまで目を引くことはなかった。森から出てきたのだから、身なりが汚れていても不思議ではないだろうと、勝手にもそう思っていた。
歓喜の渦中に似つかわしくない様相にも関わらず、誰一人としてその人物に視線を向けない。
その人物、男は、野犬や他の様々な動物の死体を積んだ荷車に近づき、無造作に一頭の鹿の角を掴み、荷車から引きずり落とした。ドサリと、一定の質量の物体が地面に落ちた音が響き、その音を聞いた一人の村人が、不思議に思い近づいていく。
村人の目に、男は映っていない。映っているのは、地面に落ちた鹿の体と。
――何かに、角だけが持ち上げられているかのように。頭部分だけが、浮いている光景。
「ひっ――」
無事に帰ってこられた喜びも吹き飛んで、村人は悲鳴を上げようとする。でも、それを、男は許さなかった。
村人の腹部に突然、見えもしない衝撃が突き刺さる。まるで何者かに蹴り飛ばされたかのように、村人はくの宇に折れ曲がり、その場に蹲る。
容赦もなく、一切の躊躇もなくただ近づいてきただけの村人を蹴りつけた男は、苛立たしげに舌を打つ。
その異常が、視界には入っていた。
「何、してんだ……?」
突然冷水を浴びせられたかのように、柔らかく和んでいた意識が冷める。明らかな暴力は行われているというのに、一部始終を目撃できたのは颯太しかいない。遠巻きで見ていたから気づいた、などではない。
颯太にしか、見えていなかった。颯太の目にしか、映ってなどいなかった。
その濁った瞳は、宿の屋根の上に立つ男女の姿を映していて。
確実に、目が、合った。
その一瞬を認めず、颯太は目を逸らす。視界から外す。いなかったと、心の中で何度も言い張り続ける。
目を合わせるべきじゃなかった。見るベきじゃなかった。あれとは、決して認識し合うべきじゃなかった。
男は、歓喜に震える。目が合った。何年、何十年と追い求めてきた瞬間に体が震えて、涙さえ浮かんできた。
泣きながらも、男の顔に浮かび上がる笑みを、颯太はしっかりとその目で見てしまう。夜の暗闇に薄っすらと浮かぶ、ボサボサに伸びた黒い髪と、濁った黒い瞳を視界に収めてしまう。
災厄の前触れ。悪しき元凶の発端。理からの異端者。
――ゴーストが、満面の笑みを浮かべて颯太を見ていた。
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