8話

「――命じる」


 地面に手をつき、クインは目を閉じる。大地に流れるマナの流れを掌握し、前方に見える野犬の群れに向け、


「死なない程度に、取り押さえて」


 地面にある土、砂、石。他にも枯れ葉や枝などがクインの命令に従い、覆い被さるように浮かび上がる。


「……見事なものだな」


 一瞬にして体の自由を奪われた野犬の群れを一瞥して、オルヴァーが感嘆する。周囲を警戒して、魔導から逃れた野犬がいないことを確認してから立ち上がり、手にした剣で吼えることすら許されていない野犬の喉を裂いていく。


「……すみません」

「謝るようなことじゃない。殺しておくのは、俺の都合だ。こうして援護してくれるだけで、随分と助かっている」


 やろうと思えば、魔導を用いて野犬の命を奪うような真似はできる。生きるか死ぬかの状況下で迷っているわけにはいかないと、最初はクインも覚悟を決めていたが、その覚悟はオルヴァーが宥めた。


「いざという時に迷わなければそれでいい。殺さなくて済むのならば、いらぬ心労を持たなくていいだろう」


 甘い意見だな、と思いつつも、オルヴァーは自分の言葉を撤回しない。元よりクインをこの調査に同行させたのは、マナ溜まりへの道案内のためだ。危険に対して、覚悟を伴わせることは望むものではないと、オルヴァーに残った騎士としての誇りがそれを許さない。


「……逃げるぞ」


 短く言い放ち、クインを担ぎ上げて岩陰に入り込む。最初は急にお腹を抱えて持ち上げられる、明らかにクインを女性として扱っていないことにびっくりしたものだが、三回目ともなるとクインも慣れた様子で成すがままだ。自分で動くよりもずっと早いのだから、文句も言えない。


「また、ですか」

「ああ。どうやら、何かが野犬をおびき寄せるようなことをしているらしい」


 クインの呟きに、野犬の群れをやり過ごしながらオルヴァーが応じる。獲物、もしくは外敵を認識している野犬の群れは、一目散にある方向に向けて駆け抜けていった。


「まあ、そのようなことをするのは、一人ぐらいしか思いつかないが」


 嘆息交じりのオルヴァーの言葉の後に、静かに森の中に響く音。


「……ソータ」


 パン、と。空気が弾けるような音がクインの耳にも静かに響いてくる。自分はここにいるぞ。かかってこい。などとでも言うような、狼煙のような音。


「た、助けにいかないと!」

「……その必要はないだろうな。むしろ、助けに入っては、あいつの邪魔をするだけだ」


 自ら危険を招くような真似をしている以上、傍にヘレンとリアはいないのだろう。

 姿が見えず、敵に牙を向けられることはない。身を挺して守ることはできないのならば、その術は限られる。


「俺たちがするべきは、別の二人との合流だ」

「でも……」


 オルヴァーの言葉に心が反論しようとしても、彼の言葉が正しいということが頭ではわかっていて、クインは二の句が継げない。

 それでも、と口にしようとするクインの鼻に、森の中で嗅いだことのない、強い刺激臭のようなものが飛び込んでくる。


「な、何この臭い……」

「獣避けの香だな。こいつを焚いてるのは……」

「――クインさん!」


 聞き馴染みのある声に驚き、見上げると同時に視界に飛び込んでくる黒い塊が降ってくる。


「魔物だとっ――!」


 硬く鋭い爪を地面に突き立て着地する魔物の姿に、オルヴァーは剣を抜き放つ。その迷いのない動作に、魔物の背後にいる人物が声を上げる。


「待った待った! あたし! あとこれリアちゃんだから!」

「よかった、無事だった……クインさん、怪我はないですか!?」


 魔物の姿のまま可愛らしい少女の声がすることに、オルヴァーは一度頭を振って混乱を沈めようとする。クインはリアの姿に動じることはなく、駆け寄って巨体のゴワゴワとした黒毛を撫でた。


「う、うん。大丈夫だけど……二人は、どうして」

「説明は後で! いいから二人とも乗って!」


 ヘレンが叫び、二人を魔物――リアに乗るように急かす。その有無を言わさない口ぶりに、混乱しながらも二人はリアの背によじ登る。


「さすがに三人はきついかな……しっかり捕まっていてください!」


 後ろ足の膂力を持って矢のように上へ放たれる。太い木々を選び、そこを飛び回るように進んでいくが、その背に乗っている三人はしがみつくのに必死の形相に成さざるおえない。


「おい! どこに向かうつもりだ!?」

「マナ溜まりです! そこに行けば、打開のための策があると!」

「誰がそんなことを言った!? そもそもマナ溜まりなど、もう――」

「ねぇ! ソータは大丈夫なの!?」


 リアの黒毛をぎゅっと握り締めるクイン。今もきっと、激しく音を立てて野犬を呼び寄せて、自ら囮となっているのだろう。その心配が、どうしても先走る。


「彼なら大丈夫……だと思うよ。自分でそう言ってたし、彼を助けるためにも、あたしたちは急がないといけない」

「さっきからおまえたちは何を根拠に言っているんだ。要領が掴めないからまずそこから説明しろ」


 憮然とした表情で口にするオルヴァーを、ヘレンは一瞥した後、深々とため息を吐いて首を振る。


「……うん、こういう物言いする奴だよね。さっきのオルヴァーも嫌いじゃないけど……こっちの方が落ち着くわ」

「なんの話をしている。いつも筋道立てて喋れと言っているだろう」

「……うん。やっぱ腹は立つけどね。というか、命の危機を脱して会えた相手にその口ぶりはどうなのよ……まぁいいや。とにかく、そっちに怪我はないね。オルヴァーも、さっき魔導具使ったけど、動ける?」

「問題ない」


 即答するオルヴァーを、クインは複雑そうな表情で見つめる。魔導具こそが彼の最大の武器である以上、使うなと厳しく戒めることはできない。


「一度降ります。口を閉じておいてくださいね」


 魔物の巨体が樹から飛び降り、地面へと着地する。ドシンという地鳴りに近い衝撃が辺りを走るが、それに釣られて寄ってくる野犬の姿は見当たらない


「クインさん。一度、マナ溜まりの方向を確認してもらえませんか。僕の場合だと感覚で、なんとなくでしかわからないので」

「……やってみる」


 リアの体から降りて、クインが地面に手を着いて集中を始める。


「それで、何がどうなっている」


 オルヴァーもリアから降り、剣を抜いて周囲を警戒しながらヘレンに問いかける。


「マナ溜まりを探していると言っていたな。おまえたちは知らないかもしれないが、すでにマナ溜まりは……」

「あの野犬の群れになって、もう残ってないって言いたいんでしょ? あたしも確証を持って言うわけじゃないけど、少しでも残っていれば大丈夫なんだって。それに、クインちゃんなら土壌さえあれば、マナを掻き集められるって言ってたわよ」

「……誰がそんなことを」

「ソータくんよ……何度も言うけど、あたしだって全部を全部信じて動いてるわけじゃないのよ。でも、作戦を言った当人が、一番辛い役を背負ってるんだから、あたしたちも全力で動くしかないじゃない」

「……確かに、ちょっとだけですけど、マナ溜まりが残っています」


 これまで進んできた方向を指差し、クインは顔を上げる。

 野犬に食い荒らされた動物たちの死骸から漏れているマナが、次第に集まっているのかもしれない。緩やかな坂をゆったりと転がるように、周囲一帯のマナが少しずつではあるが、着実にある一定の方向に向けて流れ込んでいるのを感じた。


「それで、説明してくれる? どうして、ソータが一人でそんな危ないことをしているの」

「……走りながら説明します。乗ってください」


 リアがその巨体を伏せて促す。三人が再度その黒い体毛に覆われた頼もしい体に乗ると、リアは今度は木々に飛び移ることはなく、地面を疾走していく。


「ソータさんが言うには、クインさんがマナ溜まりに再度マナを集めて、そこに僕がある動物の情報を流し込めば、この状況を打開できると言っていました」

「……ソータは、どこでそんなことを知ったの?」

「わかりません。クインさんたちと別れた後……急に頭を苦しみだして、かと思ったら急にケロっといつも通りになってそしたら、今言ったことでこの状況をなんとかできる、と」

「……聞けば聞くほど、確証がない戯言のようにしか聞こえないが」


 オルヴァーがボソリと口にした言葉に、誰もが目を背けて否定も肯定もできずに黙る。リア自身も、今の説明では確実に納得は得られないとわかっていながらも、事実そうだったのだから他に説明しようがない。


「でも現に、ソータさんは今一番危険な役目を背負ってくれています。それに、もしソータさんの言うことが本当なら、そろそろその証拠が……」


 駆けていたリアの四肢の動きが緩まり、開けた場所へと差し掛かる。木々の群生からちょうど外れて日が差していて、辺りには苔むした岩がごろごろと転がっている。


「……本当にいたよ」


 その岩が連なる隙間を見て、ヘレンが驚いたように声を上げる。


「あれは、野犬……か?」


 この森の中で嫌になるほどに見てきた野犬の姿。だが、見慣れた毛並みではなく、一目でこれまで襲い掛かってきた野犬とは違うとわかる。

 そして、腕や腹からの出血が、もう永くはないこと示していた。

 マナによって偶然生まれた、同一固体の野犬の群れ。その群れに襲われたのは、他の野生生物だけではない。同族の、別の野犬にすら、その牙は向けられていた。

 息もか細く、けれどクインたちの睨みつける目には、野生の誇りが失われてはいない。体は動かずとも、近寄れば食らいつこうと唸る。


「……とにかく、これで条件は揃いました」


 魔物の巨体から可憐な少女へと姿を変えて、リアはその野犬の傍に近寄っていく。突然近づいてきた白いワンピースを着る少女に、傷ついた野犬は渾身の力を振り絞って吼える。


「リア、危ないわ。何をする気なの」


 クインはリアに走り寄って、彼女の肩を掴む。リアはその手に自身の手を重ねて、大丈夫ですと微笑んで見せた。


「ソータさんが頑張ってくれているんです。僕だって、傷つく覚悟はできてます」


 クインの手を肩から離し、リアは服の裾をフワリと広げて野犬の傍にしゃがみ込んだ。そして、今もなお吼え、牙を向き出しにする野犬に向けて、手を伸ばす。


「――リアっ!」


 クインの静止の声よりも早く、野犬の牙がリアの小さな手に食い込む。肌を貫き、小さな手の骨を歪ませるほどの勢いに対して、リアが唇を強く噛んで悲鳴すら上げようとしない。


「……いいん、です。これぐらいされないと、想いなんて伝わってきません」


 手から流れる血を蒼い瞳で見つめ、リアはもう片方の手で野犬の額を撫でる。


「……あなたの無念。利用させてもらいます」





 次々と鮮血を吹いて絶えていく自分を、一頭の野犬は見ていた。

 牙を持つ獣として、雄として、ありとあらゆる自然界の競争から、その一頭は負け続けた。生命として特別劣っていたわけではない。体つきが他の個体に比べて小さかったわけでもない。ただ、覇を示すことができなかった。雄としての威厳を知らしめることができずに群れから外れ、孤立した。

 言ってしまえば、ただそれだけのことだ。

 自然界として何も珍しいことはない。群れで生きる野性のありふれた末路。

 だからこそ、群などいらないと。自分と同じようなものはいらないと考えた。ような、では駄目なのだ。まるで同じでなければ、この世界で自分は生きていけない。他を従える力がないのならば、従えずとも済む存在があればいい。

 自分以外の群れが数で押し寄せてくるのならば、自分だけの群れでそれを押し返そう。

 偶然で追いやられた先に、偶然。それを可能とできる存在が転がっていただけのこと。

 その偶然が、森に生きるありとあらゆる生き物を前にしても、揺らぐことのない覇を示すことを可能にした。

 群れで生きる同族には、それを上回る数で圧倒した。元より狩っていた弱者など相手にもならない。個で優れた獣ですら、圧倒的なまでの数の自分たちで襲いかかれば簡単なことだった。撫でるだけで肉を削ぐ爪も、無数の牙で押さえつければ恐れることなどなかった。

 妙な形をした、二足で走る鋭く長い爪を振るう獲物であろうとも。いくら斬られ屍を晒そうとも。いつかは自分の牙が届き、喉笛を食い破ることができただろう。

 怖いものなどなかった。恐れる理由など一つもなかった。

 この森の中で、大量の自分を持つ自分は、最強なのだと。疑う余地などどこにもなかった。

 ――だと、いうのに。

 音もなく透明な――牙が、一頭の野犬の首元を貫く。突然。どこからともなく、いくつもの自分の目がこの一帯を睨みつけているにも関わらず、その切っ先どころか、それを持つ外敵の姿が見えないのは、なぜだ。

 外敵――颯太はもう何度振るったかわからない短剣の持ち手を右手から左手に変え、深く息を吐く。


「百以上は数えてない……っていうこと、本当にあるんだなぁ」


 犬という見慣れた生き物を突き殺していく心労。相手の急所を狙い突き刺すだけの作業でも、積み重ねれば肉体は悲鳴を上げる。その上、使い慣れていない魔法を行使したまま動き回りもすれば、肉体的にも精神的にも限界が近づいてくる。

 近づいて、振り上げて、下ろす。ただそれだけの作業が、繰り返し続ければこんなにも苦しい。辺りに漂う夥しい血臭も、すでに鼻が麻痺して感じ入るものはないが、視界に入る赤色が平静な感覚を奪おうとしてくる。

 その中で音を遮断し続けるマナの膜を展開し続けていけば、どれだけ緊張の糸を張り巡らせていても、次第に緩み、いつかは切れる。

 覚悟はしている。決意が鈍ることなどない。けれど、体の機能に限界は存在した。


「こんなことになるなら、もうちょいちゃんと鍛えておけばよかったよなぁ」


 低身長気味で、決してたくましいとは言えない体。筋肉をつけると背が伸びない、というデマだったのか今となっては定かではない情報のせいで、鍛えるようなことはしてこなかった。

 異世界に放り出され、着の身着のまま生きていくには向かない、この厳しい世界で生きていくには、貧弱とも言える体。

 でもそれが、水際颯太の体だ。水際颯太という、一人の人間が持つ形なのだ。

 この形を許してもらえた、見据えてくれた人がいるから、今も水際颯太はそう在れる。


「絶対に、おまえらをクインたちに近づけさせないからな!」


 自らを鼓舞するように叫び、颯太は短剣の切っ先を野犬に向ける。何度も刺し貫いた命の、肉の感触を歯噛みして押し潰して、次の標的を見据える。

 肉体的疲労は限界だ。短剣を握る手には力もうまく入らない。命を散らす感触に吐き気を催しても、颯太の意思はマナを変質させて自身の音を掻き消す膜を生み出していく。

 体も心もボロボロになるまで繰り返した動作。だからこそ、噴出した野犬の鮮血が、自分の足に付着していることに、気づけなかった。

 一頭の野犬の目が、浮かび上がる不自然な赤色を睨みつける。そこに何かがいるはずだと、その現象を理解することなく鋭い牙で食らいついた。


「いっ――!」


 颯太の右足首に激痛が走り、喉奥から悲鳴のような声が漏れる。痛みで視界がチカチカと点滅するような現象は、脇腹に短刀を差し込まれた時を思い出させて、否応なく身が竦む。


「離、れろ!」


 食らいつく野犬に短剣を振り下ろし、颯太は急いでその場を離脱する。牙が食い込んでいた箇所からは痛みと血が溢れ出し、颯太の意思を震わせる。


「いっ、てぇ……くそ、これをオルヴァーさんは平然としてたのかよ……すげぇな」


 痛みは伴えど、動きはする。筋を絶たれたわけではない。それでも、血は溢れ、額からは脂汗が滲み涙腺も緩む。

 颯太は唇を噛みしめ、溢れ出る血を逆に塗りつける。付着した野犬の血を、自身の血で覆う。


「はいこれで見えなくなりました……と」


 颯太の血液も颯太の肉体同様、目に映ることはない。こうして覆ってしまえば、また目視されないようになる。


「同じ、血だ。赤い血だ。俺も、おまえらも、同じ」


 全身を巡る赤い液体は、生命が生きようとするために送られるものだ。

 たとえマナから生まれた歪な存在でも、溢れ出る赤い血は、それが生きていると叫んでいる。

 おまえが生きていると言うのなら、俺達だって生きているのだと。


「……お互い様だ。恨みもしないし、恨まれる筋合いもない。結局俺らは、ただ生きたいだけって話だ」


 言葉にして、短剣を握り締める理由を確かめる。生きたい。真っ当に生きていきたい。一度死んだ命だというのなら、尚更。

 何も成し遂げることなく死んだという事実が確かなのなら、この世界で形作れた今こそが、与えられたチャンスに他ならない。

 水際颯太として形作ることを許してくれた彼女のために、この命を使いたい。

 ただ、それだけのことなのだ。最初から、その気持ちに一切の曇りはない。

 前に、踏み出す。一歩目に魔法は間に合わなかった。地面を蛾る音が周囲に響き、野犬の群れが一斉にその血走った目を向ける。でも、痛みを堪えて踏み出した右足の二歩目に音は生じない。足から激痛を伴って流れようとする赤い血も、マナの膜で覆ってしまえばこれ以上流れることを許さない。


「弾、けろぉ!」


 痛みを吐き出すような叫びを上げ、颯太のマナが空気となって前方で音を立てて弾け飛ぶ。その破裂音に油断なく目を向けた野犬の額に刃を突き立てる。頭蓋を貫いた硬い感触を腕に覚え、息絶えたことを確認して次の標的に目を向ける。

 今はもう過去にしかない、自分が生きていた日本で、近所で飼われていた犬の頭を撫でた感触を思い出す。舌を出し、嬉しそうに尻尾を振っていたあどけない瞳を思い出す。

 その思い出を払うように短剣を振り上げ、血走った瞳へと突き刺した。吐き気を催す感触を振り切って、颯太は短剣を握る力を振り絞る。

 心だけは、決して折れることはないように。

 この一方的な殺戮が、彼女たちを助けるのだと信じて。





 血を流し、次々と倒れていく自分を、一頭の野犬が遠くから唸り声を上げて眺めている。彼の喉奥から震える音は、怨嗟の声に他ならない。

 なぜだ。なぜ、我々がこうも容易く減らされていく。この森において、敵などいなくなるほどの無数の自分を得たというのに。なぜこうも、姿が見えない相手というだけで、見えない牙を振るわれるというだけで、太刀打ちができなくなる。

 恐れ、怒りに反応して、一頭の野犬の中のマナが荒れ狂う。周囲一帯のマナを集めていたマナ溜りに触れ、それを取り込んだ野犬……すでに魔物とも呼べる存在の内に潜むマナが、殺意に反応する。

 野犬の影から這い出るように、次々と生まれてくる同一個体。無数の牙によって敵は容易く食い殺されるはずなのに、生み出した先から逆に殺されていく。

 なぜだ。なぜだ。なぜだ!

 牙を剥き出しにして唸る野犬の瞳には、敵の姿は映らない。ただひたすらに、自分が殺されていく光景が繰り広げられている。

 足りない。そうか、足りないのだ、と。この場を埋め尽くすほどまでに、牙を増やせばいい。見えなかろうと、口を開き喰らい続ければいつかは牙は肉に食い込むだろう。

 そのための牙を増やす。殺意に呼応したマナが新たな生命を作り出そうと湧き上がる。無数の牙を持つ自分に、誰も敵うわけがないのだから

 練り上げられたマナが形作るよりも早く――見覚えのある鋭い牙が、野犬の喉元に食らいついた。

 自分を退け、追い出した、牙が。





 じゃれ合いとは程遠い、牙を剥き出しにした殺し合いが始まっていた。


「間に合って、よかった……というか、マジでいてくれてよかった……」


 安堵のため息を吐きながら、颯太は木の幹に寄りかかり、そのままズルズルとへたり込んだ。

 目の前では、唸り声を上げながら同種の野犬がお互いの喉笛を噛み千切ろうとする、凄惨な光景が広がっている。

 争いに敗れた野犬が一匹、マナ溜まりの近くに生き残っている。その野犬の情報をリアに読み取らせ、マナ溜まりによって増殖させてぶつける。

 それが、颯太が教えられた森に跋扈する大量の野犬への対処法だった。

 その生き残りの野犬には、自らの群れを食い殺した野犬への恨みが募っている。故に、匂いを辿り一目散にその野犬へと喰らいつき、その喉笛を噛み切ろうとする。同種である以上、実力は同等だ。

 意図的に引き起こす同士討ちによって。程なくして、この森の異常は収拾する。


「マナ溜まりで起きた異常は、マナ溜まりで解決、か……あ、もうダメ。疲れた」


 口調だけは明るく努めようとも、体が言うことを聞かない。握り締めていた手から力が抜けて、短剣が落ちる。拾い上げようと思っても、腕を動かすことすらできそうになかった。体のどこにも力が入りそうになくて、四肢を投げ出して横たわる。


「体力切れか、マナ切れか……どっちにせよ、動けないな」


 同種の生き物が殺し合う姿など、見ていて気持ちの良いものではない。とはいえ、自分が引き起こした事態なのだから、目を背けたりはできなかった。たとえ命を狙われた相手でも、悪意を持って牙を向けられたわけでもないのだ。

 次第に、野犬同士の争いは終息していく。周囲には夥しい量の血と死体が転がり、見るに耐えない凄惨な光景が広がっていた。耳にはどこからか響く唸り声と悲鳴のような甲高い鳴き声が聞こえていたが、それも耳には届かなくなった。

 大半の生き物が死に絶えるか、瀕死となった森になるのだろう。死体となった肉が腐り、それを肥料とした植物が増え、動物が戻ってくるのはいつになるだろうか。どちらにせよ、この森は当分の間無音で、静かな場所となるのだろう。


「やりきった、ってことでいいのかな……」


 噛みつかれた足から血が流れているのをどうにかしないと、とは思いつつも、腕も足も動きそうにない。

 マナ溜まりによって増殖された野犬がいるのだから、リアとクインは無事だろう。オルヴァーとヘレンも無事だろうか。誰も欠けることはなかっただろうか。そんな心配が先立って、自分のことになど頭が回らない。


「……早く、会いたいな」


 弱音のような、そんな心細さから紡がれる言葉を吐く。一人でいるのは辛い。誰からも見向きもされない一ヶ月は二度とごめんだ。

 大きく、深く。颯太は息を吐く。そして空気とともに、なけなしの気力を胸いっぱいに吸い込んで、足の痛みを堪えて立ち上がる。

 目を、合わせたかった。誰かと、何かと。


「――ソータっ!」


 今、唯一。水際颯太を、水際颯太として目を合わしてくれる、彼女と。

 名を呼んだ彼女が、野犬の血の海に戸惑うことなく駆けてくる。颯太は、彼女をこんなところに来させるわけにはいかないと、どこからともなく湧いてきた気力で足を前に出す。

 血の海を離れ、近づいて、傍まで来て。クインが目に涙を浮かべて両手を広げ。

 ……颯太は足がもつれて前のめりになり、バランスを崩して彼女の肩に鼻をぶつけた。


「か、かっこつかねぇ……」

「だ、大丈夫!? 怪我してない!? というか今の痛くなった!? 鼻大丈夫!?」


 体の限界と、たった今迎えた心の限界に膝をつきそうになるのを堪えて、心配で矢継ぎ早に口を開くクインに向け、笑顔を作る。


「鼻は、大丈夫。体は……うん、けっこう限界だ」


 それでも笑って、颯太の手はクインの黒い瞳から流れる涙を拭おうとして、止まる。血と土で汚れたこんな手で、彼女には触れられない。

 でもその手を、クインはぎゅっと掴んだ。


「ソータのおかげで、みんな無事よ」


 遠巻きに二人を見る姿が見える。オルヴァーは周囲を警戒しつつ抜き身の剣を携えていて、少なくない怪我を影響を微塵も感じさせない。ヘレンと颯太の視線は合わず、もう彼女に颯太の姿は見えていないようだ。

 リアも、元気そうだ。颯太の姿を見て、涙を蒼い瞳に滲ませている。


「……そっか。それならまぁ……ここまで体を張った甲斐はあったかな」


 安心したせいか、ついに膝から力が抜けてしまう。その肩をクインに支えてもらって、颯太はなんとかリアに笑顔を返す。

 最後の最後まで格好つかないな、などと内心で苦笑を浮かべた。

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