7話

「ソータさん!? ソータさんってば!」


 ガクン、と。意識が元の体に落ちてくるような感覚がして、颯太は足から崩れ落ちた。


「戻ってきた、ってことでいいのか? これ……」


 両手を地面につけ、呆然と眩いた颯太が顔を上げると、瞳いっぱいに涙を溜めたリアの顔が見えた。


「だ、大丈夫ですかソータさん! あの、やっぱり僕、何か言ってはいけないのことを言ってしまったんじゃ……!」


 リアにとって今の状況は、颯太の姿は別の人間とも言えるほどかけ離れた造形をしていると伝えたせいで始まった、異状な事態に他ならない。自分の発言のせいで颯太が頭を抱えて唸っていたように誤解して、自分に責任を感じてしまうのも無理はない。

 今も、リアの青い瞳が自分を見ていることを意識すると、颯太にとって見覚えのない記憶がどこからともなく湧いてきては、思い出として居座ろうとしてくる。

 颯太は深く息を吐いて、リアの頭に手を乗せる。


「……大丈夫だよ」


 言葉にして、リアと自分に言い聞かせる。どこからともなく湧き立ってくる記憶を、それは違うと言い張れる水際颯太を自覚する。


「ちゃんと、見てくれてるってことだよな……」


 姿は元より見えず、そもそもどこからどうやって颯太を視認しているのかすら定かではないが、自分が自分としてこの場に立てていることが、何よりの証拠だ。


「ちょっと自分のアイデンティティとか、その辺りがうやむやになって頭痛くなっちゃっただけだから」


 心配そうな表情を浮かべるリアの頭を撫で、颯太は立ち上がって体の調子を確かめる。手足はちゃんと動くし、頭の中に際限なく浮かび上がってくる記憶も、落ち着いていれば意識的に無視することができた。

 考えないようにする……ではむしろ逆に意識してしまう。意識を向けるのを過去ではなく、今へ。

 これからするべきことへ、意識を向ける。


「……本当に大丈夫なの? えっと……ソータくん」


 リアほどではないが、ヘレンも同様に颯太を心配して近づいてくる。

 彼女の目線が自分に向けられていることを自覚した瞬間、頭の中にはオルヴァーという狩猟者としての記憶が浮かび上がる。


「っ……大丈夫です」


 颯太は頭を振って、その記憶から目を背ける。目に見える攻撃であれば避けるなり受け止め方を工夫できるように、湧き上がってくるとわかっている記憶ならば、なんとか頭痛ほどの衝撃を伴わないよう努めることもできた。


「……やっばり依然として君の姿はどう見てもオルヴァーなんだけど……これ、あたしがおかしくなっちゃったってことなのかな」

「いや、おかしいのはどっちかといえば俺の方というか……どうも、ゴーストって相手が望んだ姿を映し出しちゃうらしく。リアが見てる姿もヘレンさんが見てる姿も、どっちも二人が望んでいる姿と言いますか、なんと言いますか……」


 颯太によるゴーストとはいったい何者なのか、という解説を二人とも半信半疑の訝しげな表情で聞いていた。それも当然で、さっきまで頭を抱えて呻き声を上げるほど苦しんでいたというのに、次の瞬間にはケロっとした様子でその苦しんでいた原因と理由を説明できるようになっていたら……その様は不気味以外の何ものでもない。


「じゃあ……僕が見ているソータさんの姿は……」

「リアが望んだ姿、ってことなんだろうな。悪いけどその姿は間違いだ。俺は黒い髪と瞳で……心底認めたくないけど、女顔で、あんまり身長も高くないです」

「つまり、クインちゃんが言っていた姿が、君の本当の姿だってこと?」


 ヘレンの質問に、颯太は頷いた。その頷く様子ですら、ヘレンには見慣れた相棒が自分の目を見て頷いたようにしか見えず、深々とため息を吐きながら頬を指先で掻く。


「不思議な存在だって聞いてたし、基本的に何があっても驚かないつもりでいたけど……こうも俄かには信じがたい光景を見るとねぇ……」


 視覚というものは、どうしたって人間が外界の情報を得るにあたって一番重要視される部分だ。どこからどう見ても長年連れ添った相棒の姿にしか見えないというのに、「別人なんですよ」と言われてすぐに納得してもらえるとは颯太も思っていない。


「……幼い頃からの付き合いっぽいし、難しいよな」


 努めて思い出さないようにしてても、どうしてもふいに浮かんでしまう身に覚えのない記憶。目の前の女性と、オルヴァーという一人の男性が過ごした期間というのはそれだけ密度があったのだろう。

 ヘレンを見ているだけで、颯太の頭の中にはオルヴァーとしての記憶が湯水のように湧き上がり、彼女の右側の胸にあるホクロの存在が妙に印象的なのか――


「――ってそんな記憶だけはしっかり思い返してんじゃねぇぞ水際颯太!」


 自分への戒めと土下座を兼ねた地面への唐突な頭突きは、この場にいる二人をそれはもう盛大に驚かせてしまう。


「い、いきなりどうしたんですかソータさん!」

「ああうん、ごめん。ちょっと自分が許せなくなって」

「……確かに、あたしが知ってるオルヴァーはそんな奇怪な行動しないね。うん。納得できたよ」

「納得していただけて、何よりです……」


 額についた土を払いながら、颯太はため息混じりに答える。色々な意味でオルヴァーに申し訳なくなる理解の得方だったが、この場で重要なのはそんなことではない。気を取り直して立ち上がり、二人を見る。


「これからまただいぶ突拍子もないことを話すけど、聞いて欲しい」


 森の異変への対抗手段として提示された方法。そして、そこに至るために、今これから何をすればいいのか。


「……それ、信じていいんだよね」


 颯太の不明瞭かつ不確実な説明に、ヘレンは訝しげな表情を浮かべて問いかける。その疑問も当然のことで、最初に話を聞いた颯太自身も、同じような質問を返した。


「信じられないのもごもっともだとは思いますが、今は時間がありません。時間をかければかけるほど、不利になります」


 颯太の断言に、ヘレンは組んでいた腕を解いて、深くため息を吐く。


「わかった。時間がないのは確かだものね……一人で、大丈夫?」


 訳のわからない理屈で相棒の姿となっている颯太に対してさえ、そう心配してくれるヘレンの優しさを受け、颯太は笑う。


「大丈夫です。むしろ、俺の場合は一人の方が都合が良いんですよ。だから……リアのことを、頼みます」


 リアの頭に手を置いて、その柔らかな栗色の髪を撫でる。その前髪の隙間から覗かれるリアの視線を受けて、ありもしないはずの記憶が颯太の頭の中を過ぎっても、それを、払いのけようとはしない。

 肉親でも、古くからの付き合いでもない。でも、頭の中に浮かび上がり、居直ろうとする記憶にたった一つだけ、共感して、受け入れたい感情がある。


「俺はおまえみたいな綺麗な色した髪と瞳はしてないけど、まぁ、その、なんだ。兄代わりとしてなら、なりたいとは思ってるからさ」

「……ソータさん」

「おまえが見えていない本当の俺の姿って、結構頼りない姿をしてるんだけど……そのうちでいいから、ちゃんとそっちで見てくれると嬉しいな」


 クインとリアを危険に晒し、落ち込んで愚痴を言った昨日のことを思い出す。あの時の姿は、リアからすればさぞや情けなく映ったことだろう。

 リアが望む理想の姿は、少なくとも颯太自身のような中世的な顔立ちで、低身長気味の男ではないはずだ。もっと背が高く、頼りになる成人男性のような存在を求め、その蒼い瞳に映していたのだろう。

 まるで似ても似つかないんだろうな、と。自嘲気味に笑い、颯太は樹の傍に落ちたままの短剣を手に取る。クインに預けていた血濡れの短剣は、これから颯太が扱える唯一の武器だ。彼女が持ったままオルヴァーとこの場を離れずにいて良かったと安堵して、握り締める。


「それじゃあ、ヘレンさん。さっき言ったとおり、よろしくお願いしますね」

「うん、任せて。とは言っても、あたしは何かできるわけじゃないし、リアちゃん頼りなんだけどね」

「傍にいてもらえるだけで安心します。リアも、気をつけてな」

「……あの、ソータさんっ!」


 走り去ろうとする颯太の背中に向けて、リアが彼の名前を呼ぶ。


「僕は、一度もソータさんを頼りないなんて思ったことはないです! 僕が見ている姿は、本当のソータさんとは違うのかもしれないけど、僕があの火の中で助けを求めて、助けてくれたのは、紛れもなくソータさんです! 、助けてくれたんです! だからっ……」


 言葉にしていくうちに溢れてきた涙を拭い、リアは颯太を見る。未だ少女の瞳に映る姿は、自身と同じ色の髪と瞳を持つ青年の姿だ。頼もしく、逞しい、彼女がずっと助けを求めていた、大人の姿。

 最初に安心感を覚えたのは、その見た目に因るもの。そこは偽れない。それでも、その後救われたと感じた安心感は、彼の人柄のおかげだ。彼の言葉であり、行動に因るものだ。

 映る姿は違っても、そこだけは、水際颯太が選んできた行動の結果だ。

 リアの言葉を聞いて、颯太は振り返り、笑う。


「ありがとうな。それを聞けて、また救われた気がするよ」


 心から嬉しそうに笑って、今度こそ颯太は森の中へと駆けて行く。

 迷いのない踏み込みは、すぐに彼の姿を見えなくさせた。


「……オルヴァーの顔であんな風に笑われると、なんだか心臓に悪いわね。あいつ、絶対あんな感じの満面の笑みとか浮かべないし」


 走り去った颯太の姿を思い返し、ヘレンが口にする。リアはその言葉頷きながら、また溢れてしまった涙を拭う。


「ソータさんって、笑うと幼く見えるなって、ずっと思ってたんですよね」


 見た目はまるで本人とはかけ離れていても、その時だけは、恩人の二人が口にするような人となりが伺えていた。


「さて、あたしたちも頑張らないとね。あたしなんて、心の弱さをあんな形で見せられたってことで、情けないやら何やらだし」


 依然として、ヘレンの中には相棒と離れた状況による不安感は残っている。それでも、それよりも不安なはずのリアを前にして、そんな情けない感情を曝け出すことなどできやしない。

 腰に下げていた短剣を抜き放ち、強く握り締める。


「早速で悪いけど、頼るからね。まずはオルヴァーたちと合流。そして……」

「残っているマナ溜まりを、見つけ出す」


 目的を口にして、リアが大きく息を吸う。

 森の中を漂うマナの流れを感じ、その本流に辿り着く。きっと、リアのような感覚ではなく、技術として可能なクインも、そうしているはずだと信じて。


「絶対、見つけ出します。だから……」


 颯太が姿を消した方向に、一瞬だけ目を向けて。


「無茶は、しないでくださいね」


 たとえ間こえていても、頷いてはくれないとわかりきっていることを、それでも口にした。





 別段の誇張も謙遜もなく。水際颯太という人間に、誇れるべき部分はなかった。

 珍しくもない一般家庭に産まれ、珍しくもない家庭環境に生き、珍しくもない日常生活を送って、人並みの苦悩と感動を重ねて、高校生という立場まで生きてきた。当人からすれば涙を流し、歓喜に震えるほどの感動だったとしても、世間一般という目から見れば然して珍しくもない出来事を繰り返して、年を重ねてきた。

 持ち前の強い善性も、決して珍しいものではない。悪を挫き、弱きを助けるという精神は、平凡な感性の元で育てられれば自ずと身に着けているものであり、颯太自身それを誇れるようなものだと思ったことはなかった。

 何もなかった……と言い切れるほど、無味乾燥な日々ではない。それでも、まだ何も成していない。まだ何も成し得ていないと。これからの未来に期待してしまうしかない。そんな日々を、水際颯太は過ごしてきた。

 そんな颯太だからこそ。異世界に単身で放り出された時、初めて感じたことは不安や恐れだけではなく、胸の内にはどうしても期待を抱いてしまっていた。

 単身で異世界に放り出されることなどありえない。何か意味があるはずだ。水際颯太という何も特徴のない人間が異世界にやってきた理由が、何もないわけがないと。

 何か、何か、何か、と。求めて、探って、彷徨い続けた。そうして得たものは、一ヶ月間という長い孤独と、徒労だけだった。

 その時の絶望を、今でも颯太は忘れることはできない。忘れることなど、できるわけがない。

 絶望を胸に抱いていたからこそ。彼女に――クインに出会えた時の希望が生まれたのだから。


「……だからまぁ、言うほど落ち込んでいないんだよな」


 森を駆け、二人を巻き込まない程度の距離は稼いだかなと、颯太は立ち止まって大きく息を吸う。

 この世界にやってきた理由は、ただの偶然。死んだ理由を知らないから。なんて、颯太にもどう扱えばいいかわからない原因によって異世界に放り出された。

 ただそれだけの、言ってみれば間抜けな理由。それでも、その事実を知った今でも、心の中には空虚感は生まれていない。


「最初に理由はなくたって、もう、目的は見つけてるからな」


 苦笑を浮かべ、颯太はまっすぐ上に向けて手を上げる。


「風よ――」


 この世界に流れ着いて、一番使い慣れて、一番頼りにしてきた魔法。体内のマナを空気に変換して、上げた手の先に集め――


「――弾けろ!」


 周囲の葉を揺らす破裂音は、慎としていた森に響き渡る。

 姿は見えずとも、何かはここにいるぞと、声高らかに叫ぶように。


「今この森の中で、おまえらに敵はいないだろ。動くもの全部が、数で押し切れる獲物だもんな」


 数の暴力で圧倒してくる野犬の群れにとって、どの生き物であろうとも恐れるものではない。食べる肉さえあれば、群れを集い襲いかかってくるだろう。

 音に惹かれ、視界に映りこんで来る野犬の姿を、颯太は唾を飲んで睨みつける。


「さぁ……頼むぜ、異世界超常現象。できなかったら、恨むからな……!」


 短剣を強く握り、体勢を低く構える。体内を巡る……どころか、体そのものであるマナを意識する。


「音を、包め」


 眩くような命令は、颯太の中に宿るマナに響き渡った。

 マナはその在り様を変質し、颯太の体を覆い始める。体だけではない。彼の足の先、地面にまで、目には見えない膜のように、ゆったりと覆っていく。


「――っ!」


 強く、前に踏み出す。地面を蹴る音は、不可視のゴーストであろうともなかったことにはできない物理現象だ。靴が地面を蹴る音も、木の葉が擦れる音も、何かがそこにいるぞと、周知させてしまう。

 ならば、その音を響かせなくしてしまえばいい。物理現象を、超常現象で覆い隠してしまえばいい。


『姿が見えない。それだけで、おまえは異様に強い』


 誰もが寝静まった夜。狩猟者がかけてくれた言葉を思い出す。

 見えない体。それこそが、水際颯太が持つ最大で最強の武器だ。

 見えない、と認識している以上、ゴーストの姿はどう望もうとも見えることはない。あくまでゴーストは他者の認識により姿を変え、視認されるようになるのだから、当人が見えないと認識しまっている以上、その姿が瞳に映ることはない。

 目には見えないマナの膜が、颯太が立てる音を包み込む。

 隠れることなど微塵も考えてない全力の疾走。どれだけ音を立てようとも、颯太の足を覆う変質したマナの膜が響くことを許さない。

 目標に肉薄した颯太は、一頭の野犬の喉下に、歯を食い縛りながら短刀を突き刺した。


「……これで、一匹」


 深々と喉下に入り込んだ短剣は、確実に野犬の動脈を突き破った。短剣を引き抜くと、そこから夥しい量の鮮血が溢れ出る。

 悔いることではない。後悔は、判断を鈍らせるだけだ。そもそも、マナ溜まりによる現象で産まれた同一存在を、殺すと表現するのは――


「……いや、その考えはダメだな。じゃあ俺はなんなんだよ、ってことになるし」


 短剣を振り、付着した血液を払う。群れの一匹が突然殺された事態に警戒し、次々と別の野犬の姿が視界に飛び込んできた。見えも気配もしない敵に対し、牙を剥き出しにして吼える野犬の姿を、颯太はもう一度睨みつける。


「悪いけど。もう昨日の内に、そういう迷いは捨てるって決めてるんだ」


 どんなことをしても、彼女たちを守ると。

 偶然の副産物でしかない不明瞭な生命が、そう決めている。


「俺の精神が限界を迎えるのが先か、おまえらが音を上げるのが先か。はたまたクインたちがどうにかしてくれるのが先か。どれにせよ、最後まで付き合ってもらうからな!」


 今もなお、どこかで自分を見てくれているであろう誰かに向けて叫びを上げて、短剣を振りかざす。

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