4話
鬱蒼と生い茂り、足場も覚束ない森の中を進むということ。それを、正直舐めていた。
村を出発してから数刻は経った現在、先頭に立ちひたすら足を前に運ぶ颯太は疲労を顔に滲ませ、周囲をキョロキョロと挙動不審そうに見回していた。
「おまえは姿が見えないのだから、先行して警戒していろ」
というオルヴァーの言葉により、緊張感を持ち先頭でひたすら警戒に当たる時間がすでに何時間も経っているおかげで、普通に歩くよりもずっと疲れが溜まりやすい。整備など欠片もされていない森の中を進んでいるものだから、肉体的疲労も思っていたよりもずっと負担になっていた。
前に来た時は日が暮れていたこともあってか、日の光が当たる森の中はずっと明るく、印象が真逆だ。小鳥の囀りが聞こえてきたりと、風景だけ見れば気分はハイキングに近い。
近いだけで、昨日の野犬のような飢えた動物がいるかもしれないと考えると、颯太は気が抜けないまま、見えない体を利用して道を先走って警戒する。
「ねぇ、そろそろ一度休憩してもいいんじゃない?」
木々の隙間から見える太陽を見上げて、ヘレンが提案する。オルヴァーも同様に空を見上げ、口を開く。
「ソータ、何か気配はするか?」
「……気配、って言われてもなぁ」
感覚的な話をされても、リアみたいに気配で察知などできない颯太は、目視できる範囲の一番遠くで風を破裂させる。
パン、と弾ける音に、近くにいた小鳥が驚いて飛び立った他、何か目立った存在は確認できない。
『たぶん、何もいないと思います』
「……まぁいいだろう。少し休むとしよう」
オルヴァーとヘレンは早々に荷物を下ろし、各々岩や盛り上がった木の根部分に座る。
「すみません、気を遣わしてしまって……」
荷物を持たず、後を続いて歩いているだけのクインでも、慣れない森の中の行進に疲弊していた。そもそも何時間も歩き回る経験など初めてのことであり、顔に疲労は表れながらも、瞳は爛々と輝いてどこか楽しそうに見える。
「いいっていいって。お姫様だったんでしょ? 切羽詰まってる調査でもないんだし、焦らなくても大丈夫だよ」
「おい、油断は――」
「油断じゃなくて、ゆとりだよ。素人を二人……ごめん、三人か、連れての調査なんだから心に余裕を持っておかないといざって時に対応できないでしょ」
飄々と口にして、ヘレンは荷物の中から水の入った皮袋を取り出し、クインに手渡す。
「休めるときはしっかり休む。これ旅の鉄則だからね」
「……はい、ありがとうございます」
彼女は礼を言って受け取った水を飲み、大きく息を吐いた。初めての経験の高揚感で麻痺していた足の疲れをようやく実感し、近くの岩に座り込む。
人目を気にしているような環境でもないため、久々に開放的な様相で笑顔を浮かべていた。
「森の中を歩くのって、疲れるのね。空気も澄んで景色も綺麗だから、楽しかったけれど」
胸に手を当て、呼吸を整えるように何度か息を吐くクイン。肺に吸い込まれる空気は澄んでいて、ただ息をするだけで心地が良い。
「ね、ソータ。夜の森と違って、太陽が出てる時の森ってこんなに綺麗なのね。あの時はあんなに怖いって思ったのに」
『状況に因るんじゃないかなぁ……』
命を狙われてる最中の光景と違って見えるのは、至極当然のことだろう。颯太は苦笑を浮かべ、クインに近づいて皮袋を受け取る。
颯太が持った皮袋……宙に独りでに浮かぶ皮袋を見て、ヘレンも苦笑いを浮かべた。
「うーん、しかし、慣れないね。どこからともなく声が聞こえるのには慣れてきたけど、そうやって目には見えないのに、確かに存在する証拠を見せられると……うん、不気味だね!」
「……はっきりと言い過ぎだろう」
馬の姿のリアに吊るした荷物から干し肉などの保存食を取り出しながら、オルヴァーが呆れたように言う。立ち振るまいは冷徹でありながら、言動は相変わらず優しい。
『まぁ……そうやって面と向かって言われた方が気が楽ではありますよね』
「でも、本当に可愛い顔してるんですよ?」
『その情報に何か意味ある?』
クインの不必要なフォローに言及する颯太。そのやり取りを見て、ヘレンも笑う。
「でも、ゴーストってもっと恐ろしい存在だと思ってたよ。触れられれば呪われるだとか、厄災の前兆だとか。子どもの頃は良い子にしないとゴーストが来るぞー、なんて脅されて育ってきたし」
「ひどい言われようだな……」
日本でいうなまはげのような扱い方をされて落ち込む颯太。口にしたヘレンにはまったく悪気がないのだから、特に言及するつもりも更々ない。
むしろ、これまでのゴーストへの感情や扱いから考えて、それぐらいで済んでいることへの驚きが強い。
「……ねぇ、クインさん。ソータさんって、可愛い顔、ですか?」
載せていた荷物を下ろしてもらったリアは、普段の亜人の姿へと変わり、クインへと近づいていく。
「うん。本人に言うとあんまり良い顔されないけど、女の子みたいな可愛い顔してるわよ。リアはそう思わない?」
どうしてか恐々と質問されたその内容に、クインは迷う素振りもなく答える。
「えっと、まぁ、その、はい……」
「おーい聞こえてますよー」
颯太自身、自分の顔の造形がどちらかと言えば女性寄りなことは若干のコンプレックスなのだから、あまりそう嬉しそうに口にしないで欲しい。
年の離れた姉と、幼い頃はよく姉妹扱いされたよなぁ……と思い出して、颯太の思い出が刺激される。
刺激されると同時に、何か、必要な情報がすっぽりと抜け落ちてるような違和感を覚えた。
「……あれ?」
「そもそもさ、どうしてソータ君は、そんなゴーストなんて訳のわからない存在になっちゃったわけ?」
『いや、どうして……なんですかねぇ』
むしろそんなもの、颯太が一番知りたいことだ。
何事もなく眠り、目が覚めたら異世界に放り出されて――
「……ん?」
腕を組み、自分がこの異世界に単身放り込まれた経緯を思い出そうとして、颯太の思考が止まる。
「何事もない? うん、そうだ。何事もなかった。なかった、はずだ」
記憶としてもしっかりと明確に残っているわけでもない。何事もない日常の連続だったから、思い出せないだけで。
「……思い、出せない?」
そうだ。思い出せないのだ。自分がこの世界に来る前、いったいどんなことをしていたのか。
自室で眠りについた記憶が最後で、その日、何をしていたのか。誰と会ったか。何を話したか。
今しがた思い出そうとした、姉の、自分とよく似た女性の顔すら、霞がかったようにうまく思い出せない。
「なんだ、これ……なんで、いつからだ?」
突然額に手を当て、うわ言のように呟き始めた颯太を見て、クインとリアが訝しげに颯太を見る。
この世界に放り出されてから、一人で生き抜いた一ヶ月間。自分の生活を振り返らなかった日など一日たりともなかった。毎日のように家族や友人に想いを馳せて、早くあの日常に帰りたいと願っていた。
クインと出会い、リアと出会い。この世界で生きていく理由を見つけてから、ふとした拍子に過去の記憶が刺激されて、懐かしむようなことはあった。その時はまったく、深く考えようともしなかった。
「俺は、水際颯太……そうだ、水際家の長男で父さんの名前は……」
思い、出せない。
父の名前も、母の名前も、自分によく似た年の離れた姉の名前も。自分の顔と似ている、という事実だけがこびりつくように残っているだけで、その顔の造形すらどこかあやふやで、頭の中で思い出された人物がその当人だという実感が湧かない。
家族だけじゃない。近所の顔見知りも、学校の友人も、先輩も後輩も先生も。昔飼っていたはずの猫も。関わってきた人たち全てが、思い出そうとすればするほど、色々な形で浮かび上がってくる。
知っている、と認識をした次の瞬間には、知らないはずだ、と記憶が否定をして。
知らないはずだ、と認識した次の瞬間には、知っている、と記憶が肯定する。
思い出されていく記憶が、光景が、自分の思い出だという確証が一つも持てなくて――
「ねぇ、大丈夫?」
気づいた時には、クインの指が、颯太の頬に触れていた。
「……急にどうしたの? 頭を抱えて、黙り込んで。心配しちゃうから、そういうことやる時は事前に言ってね」
「事前に言うのって難しいと思いますが……その、ソータさん、本当に大丈夫ですか?」
クインの黒い瞳が、颯太を近くで見つめていた。
頬に触れているクインの指先の感触に気づき、心配げに傍に寄ってきたリアの蒼い瞳を見て、ようやく、颯太は息を吐き出すことを思い出したかのように、深く呼吸をする。
「えっと、ごめん。大丈夫」
落ち着きは、した。けれど、依然として混乱の原因は解消されていない。
一度深呼吸をして、落ち着きを取り戻しても、脳裏に浮かび上がる記憶に一つとして確信が取り戻せない。
父親の顔も、母親の顔も、姉の顔も。思い出せはする。でも、思い出して、これが自分の家族の顔なんだ、と自信を持って断定することができない。気を抜けば、全然関係のない人間の顔が思い浮かんできて、それが父や母や姉の位置に成り代わろうとする。
まるで、別の人間の記憶を無理矢理当て嵌めてくるような――
「えっと、何かまずいこと言っちゃったかな」
『……いえ、ちょっと疲れてただけです』
気まずそうに指で頬を掻くヘレンを見て、いつまでも呆けていられないと颯太は頭を振って意識を切り替える。
不安要素を抱えて森の調査をするべきではないが、決して浅くもない問題を表面化させるのも得策ではない。
何より、解決どころかクインやリアにいらぬ心配を今ここで心情を吐露したところで、背負わせるだけだ。
『それよりさ、クイン。進む方角ってほんとにこっちで合ってるの?』
「む、もしかしてソータ、疑ってる?」
話を変えようと咄嗟に思いついた話題だったが、問いかける内容を間違えた。可愛らしくも不機嫌そうな表情になったクインを見て、颯太は違う違うと手を振る。
『クインを疑うんじゃなくて、森の中ってまっすぐ進んでると思っても、木を避けたり歩きやすい道を選べばその分ズレたりするでしょ?』
「……そうね。もう一度、確認しておいた方がいいかも」
そう言ってクインは膝を曲げ、両手を地面に押し当てる。
「……魔導を使うのか?」
腕を組み呟くオルヴァーの言葉に、クインが苦笑を浮かべる。
「残念ながら、これは魔導と呼べるほど高尚なものではありません。ただ、マナの流れを辿っているだけです」
地面に当てた手から、大地を巡るマナの流れを感じていく。魔導ならば、その流れを掌握し、導くことで行使するのだが、今はあるがままの流れの先の存在を感じ取るだけだ。
「基本的に、マナは物体内で留まって動かないものですが、こういった森の中などの他の生き物が数多く存在する場所では、流れが活発になります。捕食されたり、死骸から漏れ出したりと理由は様々ですが、その流れが一定になることはまずありません。何か、周囲のマナを吸い上げ、溜め込もうとする穴がない限りは」
だが時折、そういったマナを溜め込もうとする土台が自然にできあがってしまうことがある。死骸が密集したり、地形などの関係によりマナが滞りやすくなる箇所こそが、マナ溜まりと成りえる可能性がある。
「だから、このマナが一定に流れて行く、その先を辿れば――」
饒舌に解説していたクインの言葉が止まる。目を見開き、更に掌を強く地面に押し付けるクイン。爪先に土が入り込むことなどお構いなしに、強く。
「……どうした?」
緊張感を伴った声色でオルヴァーが問いかける。
「うそ、どうして」
掌を通して伝わってくるマナの流れ。その流れが、出発する前にとは大きく違っていて。
「
流れは一定だ。そこは変わらない。ある一点に向けて周囲のマナが収束して行く感覚は出発前と変わっていない。
だがそのある一点が、動いている。
「おい、どういうことだ」
「すでにマナ溜まりではなくなっています! 別の何か、生き物がマナ溜まりを取り込んだのかわからないですが、位置が変わって、移動を!」
大地を走るマナの行方を探りながら、クインは叫ぶ。
「いや、移動というか、拡散してる? なにこれ、わからない!」
「ちょ、クイン!? 落ち着いて!?」
突然の事態に、颯太も魔法を使うことを忘れ肉声で言い放ち、パニックになりつつあるクインの肩を掴んだ。クインですら掴めない状況を、マナを知覚できない颯太にわかるわけもないのだから、冷静になってもらわなければ事態の把握など到底不可能だ。
周囲を睨み、オルヴァーは剣を抜き放った。
「まず、何がどうなったのかを話せ。マナ溜まりではなくなって、それからどうなった。移動しているということは……魔物が生まれた、ということなのか?」
元より、目的は存在するだけで辺りの生態系に影響を及ぼしてしまう、マナ溜まりの解消だ。消えてなくなっただけならば、それは吉報と呼べるものだろう。
だが、そのマナ溜まりが更に厄介な存在――魔物へと変じてしまったのならば、話は別だ。
事態はより一層、悪い方向に突き進んでいる。
「魔物になったのかどうかは……わかりません。大きな塊のようなマナは以前として存在していますが、そこからいくつも、ポロポロ落とすように、何かが分かれて……」
「……落ち着いて話してもらっても、何が何だかよくわからないね」
身も蓋もないことを言って、ヘレンは腰に下げていたポーチから小さな袋を取り出す。中身は昨日、野犬を行動不能にさせた毒物だ。油断なく周囲を見渡しながら、それを握り締める。
「それで、その分かれた何かはどこに向かってるんだ」
「四方八方に広がって、こっちにも、向かってます」
「……何か、来ます」
すでに馬の姿に変わり、荷物を載せたリアが低く呟く。馬の耳がピクリと動き、森の奥を睨みつけた。
その方向に目を向ける一行に届く、低い、地鳴りの様な不気味な振動。
「ソータ。おまえは、二人から離れるなよ」
オルヴァーの言葉に頷くよりも早く、地鳴りの正体が視界に映る。
――夥しい数の、「生き物」の群れ。
「……なに、あれ」
全員の疑問を、ヘレンが口にして呟く。
森で生きていたであろう生き物。鳥や四足歩行の獣、魔物かと見間違うほどの巨体な獣どころか、明らかに通常の生物を超えているであろう巨大な爪や牙を持った魔物が、一斉になって向かってくる。地響きを轟かせ、邪魔な木々を薙ぎ倒し、ただひらすらに雪崩のように向かってくる様は、恐怖を煽る。
だが、更に異様なのは、それらに敵対の意思が見えないことだ。颯太たちに向かってくるのではなく、一様に、何かから逃げるような。
「っ、隠れろ!」
いち早く正気に戻ったオルヴァーが叫ぶ。颯太以外の面々はその言葉に従い、木々の陰や岩場の裏に隠れて息を潜める。
「なんだ、あれ……何かから、逃げてる?」
颯太はその場に留まり、迫り来る脅威の……その先を睨みつける。森に生きる生き物が一緒くたになって行動することなど、ありえない。捕食される側、する側の生き物も混じった光景など普通ではない。
そんな光景がありえる機会など、何か、共通の脅威があの群れに迫っている以外に――
少しでも高位から状況を確かめようと、颯太は手ごろな木に飛びついて登り始める。
高くなった視界から見えた、颯太にとって最早トラウマとも呼べる存在。
「――昨日も見たなこれ!」
夥しいほどの雑多な生き物を追いかける、それよりも大群とも言える野犬の群れ。
「ソータ! 何が起きている!」
『犬です! 昨日と同じ野犬が、大量に別の生き物たちを追いかけています!』
昨日見た光景よりも更に悪質な、視界を埋め尽くすほどの野犬の群れ。本来ならその野犬に比べて圧倒的上位にいる大型の肉食動物や魔物ですら、数の暴力に追われ逃げることしかできていない。
『逃げましょう! このままだと巻き込まれる!』
木から飛び降り、颯太は叫ぶ。木々すらも薙ぎ倒し逃げる生き物の群れに対して、隠れたままやり過ごすことなどできそうもない。
オルヴァーも瞬時にそう判断して立ち上がって最低限の荷物だけ抱える。
「ソータ! 端に終わりは見えるか!?」
『木が邪魔でわかりません!』
「くそっ、走れ!」
背後に恐怖を煽る圧力を感じながら、全員は脇目も振らず走り出した。
「ねぇオルヴァー! どうするの!?」
「毒をありったけ撒け! 倒れた動物が邪魔になって列が崩れる!」
「――っ、四の五の言ってらんないよね!」
何も罪もない動物に対して毒を撒く行為など、平常であれば褒められたものではない。一瞬だけ躊躇しつつも、ヘレンは手にしていた小袋を背後に投げ、続けてポーチからも同様の毒物を取り出して投げつけた。
その際に映った視界の中、夥しい量の生き物を目にしてヘレンは唇を噛む。
「多過ぎる! これじゃ全然効果ないわよ!」
「やらないよりはマシだろう!」
現に背後では毒物を吸い込んだ動物が逃走をやめ、もがくように立ち止まってはその更に背後から野犬に首を噛みつかれ絶命していく。無辜の命を散らしてできた隙も、すぐにまた別の動物やそれを追う野犬の存在が覆い潰していく。
馬の姿のリアを先頭に走り続ける。殿ではオルヴァーが剣を振るい枝や一太刀で切れる程度の木々を背後に落としてはいるが、命の懸かった逃走の前に大した障害にはなりはしない。
事前の目視により得ていたリーチは次第になくなり、このまま全力で足を動かして逃げたところでいつかは追いつかれるだろう。逃げ惑う動物の群れに巻き込まれるか、野犬に飛び掛られるだけの違いしか後には待っていない。
「クイン! 魔導でどうにかできない!? 前みたいに落ち葉とか土とかをこう、ブワーってさ!」
森の中では追われてばっかりだな俺たち! と悪態吐きそうになるのを必死で堪えて、颯太が状況を打開するべくとにかく口を開く。
「走りながらは難しいかな!」
魔導の行使には集中と時間を要する以上、こんな切羽詰った状況では不可能だ。自分の失言に唇を噛み、颯太は背後を睨みつける。
依然として大小様々な動物は逃げ、それを大量の野犬が追いかけている。生態系を数で覆い潰すような異様な光景は、このままだと颯太たちを容赦なく巻き込むだろう。
ただでさえ朝から森の中を歩いて溜まった疲労を抱えた体で、長く逃げ続けることはできない。一番体力のないクインも、すでに息は荒く苦しげな表情で足を動かしている。
「な、何かっ、大きな木みたいなものはありませんか!」
「それで何ができる!?」
「登ってもらって、木を魔導で強化します!」
「生き物は魔導で操れないんじゃなかったっけ!?」
クインの提案に、颯太は過去を思い出しながら問いかける。颯太が怪我を負った時、体から流れる血を固めることしかできなかったように、生物に宿るマナはその生物の影響を強く受け、魔導では操ることはできない。
「あまりやりたくないけど、無理矢理魔導を使うことはできるの! その場合、もうその木は死んでしまうけれど……今はそうも言ってられない」
「あの木はどうですか!?」
先頭を走るリアが、前方にある幹の太い立派な木を見つけて叫ぶ。青々とした葉を生やす木は、全員が乗っても容易く折れることはないだろう。
「僕が下になります! 皆さんは早く登ってください!」
リアは木の幹に体を台になるようにぶつける。土足で踏みつけることに躊躇などしてる場合ではないと、クインから先にリアの体に乗り上げ、木に飛びついた。続けてオルヴァー、ヘレン、颯太と木に飛びついて木に登り上がる。
「ソータ! 短剣を貸して!」
クインは颯太の懐から血に濡れた不可視の短剣を借り、木へと突き刺して目を閉じる。
「――命じる」
短剣の切っ先から伝わる木の内部のマナを感じ取り、それを無理矢理に掌握する。木に宿るマナはその木のものである以上、内部のマナはクインの働きかけに応じようとせず反発する。
その反発は、生物が外敵から身を守ろうとする、生きようとする意志だ。それをねじ伏せ、無理矢理にでも掌握しなければならない。
魔導とは本来、物体が持つマナに方向性を与え、促し、導く技法だ。故にこれからクインが行使しようとする魔導は、趣旨に反する邪法とされ、してはならないことだと教えられてきた。
「……ごめんね」
でも、命がかかっている。お世話になった人の、大切な人の未来がかかっている以上、手をこまねいている理由などどこにもない。
反発してくる生きたいという意志をねじ伏せ、自分にとって都合の良いように捻じ曲げる。
「リアも早く登って来い!」
馬の姿から亜人の姿に戻ったリアは、差し出された颯太の手を掴む。その手を握り返し、力を込めて引っ張り上げて抱きかかえた。
「――雄々しく」
木に宿るマナを掌握したクインは告げる。
「硬く、聳えよ!」
唸りを上げて逃げる動物の先頭が追いつくよりも早く、クインの命令は木の中を駆け巡る。
マナは木が抱いていた生存欲求を度外視して、根を伸ばし、幹を硬く強固にしていく。養分を取り入れる葉を全て散らし、ただただ強く大地に根ざすようにその在りようを変え――
逃げる巨大な魔物が激突しようとも揺らがない、自然の要塞へと成り果てた。
「すごい……これが、魔導」
驚き、呟くヘレンの視界には夥しい量の動物が映る。しかし、その土砂崩れの如き勢いにも負けず、魔導により強化された木は揺らぐことはない。
薙ぎ倒せないとわかった以上、どの動物も魔導によって強化された木を避けて逃げていく。動物の波が過ぎていく光景を見て全員が息を飲む。今この波に巻き込まれていたらどうなっていたのか、考えることすら恐ろしい。
木に突き刺した短剣に体を預け、クインが安堵のため息と共に呟く。
逃げる動物は去っていき、その後に追うのは逃げた動物の数を優に超える夥しい量の野犬の群れ。昨夜追いかけられた群れとは比較にならないほどの大群が颯太たちが登る木を避けて次々と走り去っていく。
「……そううまくはいかないか」
このまま全ての野犬が追走して行けばいい、と思っていたオルヴァーがため息混じりに呟く。
目視できるだけで数十頭。逃げる動物を追わなかった野犬が樹の上に逃げ込んだ颯太たちを取り囲んでいく。数えるのが馬鹿らしくなくなるほどではないにせよ、状況は良くはなっていない。
「あの、ソータさん、そろそろ下ろしてもらっても」
「とは言っても、下ろす場所が……」
魔導によって強化された樹木は強度はあれど、五人の人間が余裕で立っていられるほどのスペースはなかった。
颯太はリアを抱きかかえたままいるしかなく、彼にしがみつくしかないリアは落ち着かない様子で顔を赤らめている。
「それなら、魔導で足場を――」
一度は窮地を脱した。その事実が、より一層の不運を招く。
ここに至るまで、誰もが必死になって足を動かし逃げてきた。中でも、元より体力が少ないクインの疲労は最たるものだった。体力の限界を超えて走り続け、その上全力の魔導の行使による精神の疲労。
張り詰めた意識が解け、全身の力が抜けることも。
――寄りかかるようにしていた短剣が樹の幹から離れ、崩れた体勢を正せなくても無理はない。
「クイン!」
ただでさえ不安定な足場は、姿勢を崩したクインを支えようとはしてくれない。颯太は手を伸ばそうとするも、抱きかかえたリアの存在がそれを邪魔をする。
飛びつき、一緒に野犬の群れに落ちることすらも、できない。
またしても、身命を賭して守ると決めた少女が――
「っ!」
心臓を無くしたかのような寒気を覚える颯太の目に、樹を蹴り、その少女を抱きかかえ地に落ちた者の姿が映る。
「オルヴァー!」
「毒を撒け!」
ヘレンに向けて叫び、オルヴァーはクインを抱えたまま片手で剣を抜き放つ。飛び込んできた獲物に喜ぶように飛び掛る野犬の一匹が、頭部を両断され地に落ちる。それでも獣は止まらない。一匹、また一匹とオルヴァーはクインを抱えたまま襲いかかる野犬を切り払う。
一太刀をもって確実に絶命させる刃を越えて、一匹の野犬の牙がオルヴァーの足に食らいつく。
「――舐めるなよ」
牙が肉に食い込む激痛を表情に出さず、オルヴァーは冷静に逆の足の踵で食らいついた野犬の頭部を蹴りつけた。牙が離れた瞬間に、野犬の頭部にはお返しとばかりに刃が吸い込まれる。
「――風よ!」
傍観などできるわけがない。リアを下ろし、颯太は樹から飛び降りながらマナに呼びかける。
「弾、けろ!」
全霊の魔法の行使により唸りを上げて破裂する空気の塊。耳を劈く音と衝撃は一度は野犬の猛攻を退けるも、解決には至らない。着地もそこそこに颯太はマナを搾り出し、風を叩きつけようと集中する。
「みんな、息を止めて!」
そこに、毒物の詰まった小袋が投げ込まれる。溢れた毒粉は周囲の野犬へと吸い込まれ、自由を奪うが、
「数が多すぎる……!」
同胞の血の匂いを嗅ぎつけたのか、どこからともなく続々と姿を現していく野犬たちが、目に見える獲物――クインを抱きかかえたままのオルヴァーににじり寄る。
一匹や二匹切り伏せたところで大勢に影響はない。それどころか、時間をかければかけるほど血臭に誘われた野犬が増えるだけ。
「くそっ! 何度も俺を無視してるんじゃねぇ!」
いくら風を生み出そうとも、オルヴァーとクインに続く道は開かれない。歯噛みして叫ぶ颯太の声は、クインには届いていてもオルヴァーにも野犬にも届いてはいなかった。
「オルヴァー!」
ヘレンは相棒の名前を呼び、腰から短剣を抜き放つ。自ら安全地帯を離れようとするヘレンに、オルヴァーが叫ぶ。
「おまえは降りてくるな!」
「でも、あんた怪我して――」
「この程度の怪我で俺が遅れをとったことがあるか?」
鮮血が滲み出る足で踏み込み、クインを抱えたままオルヴァーが片手で剣を薙ぐ。飛びかかってきた野犬が二匹、その軌道に急所を晒して絶命する。だがその次の瞬間には別の野犬の牙が彼の腕に、太ももに食らい付く。
それでも、クインを守り、刃は次々と野犬を屠っていく。
依然として颯太の前には野犬が群れをなし、クインとオルヴァーの傍に近寄ることすらできない。下手に動けば、オルヴァーの振るう凶器に巻き込まれて邪魔をして、彼の攻勢を削ぐことになるだろう。
「ソータ!」
名を叫ぶオルヴァーの持つ剣の切っ先が油断なく野犬の群れに向けられ、その凶器を恐れて一瞬の硬直を見せる。
視線は颯太には向けられない。
「クインは、任せろ。ヘレンを――頼む」
けれど、言葉は紛れもなく、目には映らないゴーストに向けられている。
存在を視認されない特性を活かして、今この瞬間一目散にクインの傍に近づくことはできた。任せられても困る。むしろ、クインは俺が守りたいと魔法を使ってオルヴァーに届けたかった。
でも、それはできない。
他でもないクインが、声に出さずその黒い瞳を颯太に向ける。
「――っ!」
私はいいから、リアをお願いと。そう告げる彼女の黒い瞳と目が合ったから。
唇を噛み締めながら、それでも頷く颯太の姿を見て、クインのオルヴァーを服を握る手に力が込められる。
それを、託し、託された者は目には見えないゴーストの了承の意と受け取る。
「しっかり捕まっていろ」
剣が、振り上げられた。
「
宣言にも似た言葉が紡がれる。呼応するように彼の体に、腕に、剣の切っ先に、目に見えるほど、感じ入れるほどに高まるマナの密度。
そして、振り下ろされる剣先は、突風と衝撃を伴って地面を炸裂させる。
その衝撃を、颯太は目にしたことがある。クインも、その衝撃に助けられるのは二度目だ。
爆音を響かせ、衝撃は野犬の群れを巻き込み、その向こうにいた颯太をも容赦なく巻き込む。
腕で顔を隠し、なんとか吹き飛ばされないように踏ん張って耐えた後には。
――オルヴァーとクインの姿はなく、獲物を見失った野犬の姿だけが残った。
「っ、風よ!」
呆けている場合ではないと、颯太は風を炸裂させて野犬を追い立てる。正体不明の衝撃に怯える野犬の群れは、見失った獲物の姿を求めて一斉に森の中へと姿を消していった。
「……後悔、は、あとだ」
口にすることで、胸の内に詰まろうとする悔恨を吐き出す。
『すみません。何も、できませんでした』
樹の上にいるヘレンに向けて、颯太はそう謝罪する。周囲に野犬の気配を感じないことを確かめ、リアとヘレンは樹から飛び降りた。
「ソータさんが謝ることじゃないです。むしろ、僕がいたから……」
「……お互い、どっちかが悪いってことはないよ」
颯太の傍に駆け寄ったリアの肩を、ヘレンが掴む。
「あいつが任せろって言ったんだから。きっとクインちゃんは大丈夫だよ。ソータくんも、怪我はない?」
見えもしない正体不明の存在である颯太を気遣って、ヘレンが問いかけてくれる。
『はい。大丈夫です』
「なら、よかった」
「ヘレンさん……」
肩に置かれた、笑顔で無事を喜ぶヘレンの手が震えていることに、リアは気づいてしまう。
「……ごめん。情けないね。依頼の途中であいつと離れるなんて、滅多にないからさ」
リアの肩から手を離し、震える手を掻き抱くヘレン。不安が、相棒への心配が、目を閉じ震える瞼に表れていた。
ヘレンと颯太に、どれほどの年の差があるのかは知らない。けれど、身を震わせる彼女の姿は大人だとか子どもだとか、そんなものは関係もなく、守らなければという想いを抱かせるには十分だ。
オルヴァーからかけられた信頼と言葉を思い出し、颯太の両手は握り締められる。クインはオルヴァーが守ってくれている。約束をしたのだ。それを、信じるしかない。
ヘレンを、託された者の姿を見ながら颯太は深く息を吐く。
「……任されたからには、やらないとな」
ポツリと呟いた、覚悟の言葉。誰に聞かせるためでもなく、自分の覚悟を固めるために口にした言葉。
そのつもりだった。
その言葉に、反応をもらおうというつもりはどこにもなかった。
「――え?」
ヘレンの目が開かれ、声が聞こえた方向に目を向ける。
必然、彼女の顔を見ていた颯太と、
「……なんで」
呟いたのは、当然の疑問。なんで、どうして。突然、今この状況になって、颯太が視認できるようになる。
「どう、して」
ヘレンも同様に、疑問を口にする
当たり前だろう。今まで見えなかった存在が目前に現れれば誰だって目を見開き、その存在を訝しむ。
しかし、彼女のその視線は、知らない誰かを。突然現れた黒髪の少年を見るような目ではなくて。
「どうして、ここにいるの……オルヴァー」
たった今、いなくなったばかりの相棒の姿に向けて、そう呟いた。
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