5話

 馬車に乗った時も、自分の足を動かさずに移動するという利便さに感動したことを覚えている。

 だがそれも、安定した姿勢と状況が大事なのだなと、クインはたくましい男性の体にしがみついたままそんな気の抜けたことを考えた。

 大地を踏み抜く音すらも置き去りにする速度で、オルヴァーはクインを抱えたまま加速していく。


「あの、オルヴァーさん。一度、怪我の具合を見ておいた方が……」

「体が動くうちに、少しでも距離を稼いでおきたい」


 すでに背後に追ってくる野犬の姿はなくても、傷口から滴る血の匂いを追われてしまう可能性を考えれば足を止めることはできない。自分で足も動かさず、景色が高速で過ぎ去っていく初めての感覚を楽しんでいる余裕は、さすがのクインも持っていなかった。


「怪我もそうですが……マナ溜まりの位置を確認しておきたいのです」

「……離れ過ぎても、合流が難しくなるか」


 駆ける速度を次第に緩やかにして、オルヴァーの足が止まる。周囲を警戒しつつ、オルヴァーはクインを下ろして剣を鞘に収めると、近くにあった樹の幹に体を預けた。


「……さすがに無茶をし過ぎた」


 そう呟き、ズルズルと体を滑らせて腰を下ろすオルヴァーにクインが駆け寄る。


「だ、大丈夫ですか!? 傷を見せてください!」

「怪我が原因じゃない。気にするな」

「……それなら、尚更です」


 オルヴァーの前に膝をつき、クインは彼の胸元へと手を伸ばす。鍛え上げられた硬い胸板に触れ、クインは目を閉じた。

 掌から伝わる熱。その先に、彼の身の内で暴れ回る、膨大なマナの流れを把握する。


「オルヴァーさん、一ついいですか」

「……なんだ」

「あなたは、リークテッド王国騎士団に所属していたことがありますね」


 クインの黒い瞳が、狩猟者を見つめる。


「……少なくとも、おまえが王国の関係者であることは確かなようだな」


 言葉では肯定をせずとも、口調と表情が事実だと答える。


「王国騎士団の団員に施される、体内のマナを一時的に活性化させて身体強化を施す魔導術式……」


 原理としては、奴隷商が捕らえていた黒毛の魔物が、自身の体を刃が通らないほどに強固にさせていたものと同じだ。体内に宿るマナに呼びかけ、肉体をする意思に反映させる。

 リークテッド王国騎士団の団員に施される、魔導術式。彼の肉体のどこかに、それを可能とする魔導具が埋め込まれているはずだ。


「でも、それは退役される際に外されるはずでは」

「事情があってな。俺だけ残されている」

「……でも、魔導具の調整方法すら用意されていないで行使すれば……肉体への影響は計り知れません」

「だからこそ、無茶をし過ぎたと言ったんだ」


 自身に宿るマナを意思による変質させて排出する魔法とは違い、騎士団員の行う魔導による強化は体内に影響が残り続ける。活性化したマナを通常状態に戻す『調整』は、リークテッド王国騎士団に用意されているまた別の専門的な魔導具を用いなければならない。


「ここで魔導具を調整します。やったことがないからうまくできるかわかりませんが、そのままにしておくわけにはいきません」


 言ってしまえば騎士団の自己強化はマナが可能にした思い込みによる限界突破だ。強化したままで放置を続ければ、肉体への圧力で悪影響を及ぼしかねない。


「……そんな暇はないぞ。放っておけば体も落ち着く。合流を優先すべきだ」

「ヘレンさんならきっと大丈夫です。ソータはオルヴァーさんの言葉に、しっかりと領いてくれたもの」


 唇を噛み締めながら悔しそうに、それでも目を見て領き返してくれた彼の姿を思い出し、クインは笑う。今にも自分の元へ駆け出そうと足を必死に抑えて、オルヴァーの言葉を了承してみせた。

 颯太が領いてくれたのならば、ヘレンもリアも心配はいらない。むしろ、そう額いてみせた颯太の方が無茶をしでかさないかずっと心配だ。


「……魔導具は背中側にあるはずだ」


 渋々、といった様子でオルヴァーは上着を脱ぎ、クインに背中を向ける。鍛え上げられた男性の背中にクインは躊躇なく触れ、目を閉じる。


「……うん。これなら私でもなんとかできそう。体内の変質したマナを、一度外に逃がします。それからこの森一帯のマナを逆に流し込みますが、何か変な感覚がしても頑張って我慢して受け入れてください」

「……簡単に空恐ろしいことを言ったな」


 不満をため息で押し流し、オルヴァーは目を閉じた。了承の意と受け取り、クインは触れた箇所からオルヴァーの体内のマナを吸い出し、逆の手で地面に触れて流していく。


「……話しながらでも、問題はないか」

「はい。大丈夫ですよ」

「おまえは、なぜゴーストを信頼できる」


 問い詰めるような声色ではなく、ただ純粋に疑問を投げかけてくるような、そんな口調だった。


「……憎くは、ないのか。ゴーストという存在が、おまえをそんな生活に陥れた得体の知れない存在が、憎たらしくはないのか」

「ソータを憎いって気持ちは、欠片もないです。母を辱めたゴーストなら……憎くないと言ったら嘘になりますね」


 たとえどのような事情があれ、そのゴーストの行いは恥ずべきことであり、糾弾されるべきことだ。


「二人とも、ゴーストという得体の知れない存在であることは確かです。でも、ソータは悪しき存在なんかではありません。何度も命を救ってもらって、何度も、助けられてしまったもの。彼には本当に、感謝しかありません」

「……おまえには、姿が見えると言ったな。どんな、奴なんだ」


 マナの流れを操ることは魔導の初歩中の初歩の作業だ。忌まれ続けてきた人生の中で必死に研鑽を積んできたクインにとって、思案しながら、話しながらでも行使に淀みはない。


「前にも言いましたが……私と同じ黒髪の、この国ではあまり見ない顔立ちをしていますね。どちらかといえば女の子のような顔をしてます。身長は、ヘレンさんと同じぐらいで、体つきはオルヴァーさんみたいにガッチリしていません。本当に……普通の、男の子です」


 研鑽された戦闘技術もない。ちょっと器用に魔法が使えるだけで、喧嘩なんて本人が言うとおり全然したことがないような、平凡な男の子。

 それでもと、至らない実力を受け入れた末で自分を命を賭けて守ろうとしてくれる、男の子。

 それが、クインの知るミナギワソータという人間だ。


「吸い出し終わりました。次は、マナを流していきます」


 大地に流れるマナを横取りして、オルヴァーの肉体へ流し込んでいく。ゆっくり、じっくりと。大地に宿り、森を育んでいこうとしていた意思を宥め、オルヴァーの肉体に馴染んでもらうよう促しながら送っていく。


「クイン、年はいくつだ」

「えっと、今年で十六になります」

「……認めよう。おまえは、大国リークテッドの秘匿された姫君だ」


 自分の意思でも、自然にでもなく、作為的に体内にマナが流れ込んでくる異物感と、これから口にしようとする内容に、オルヴァーは顔をしかめる。


「十七年前。おまえの母親の元にゴーストの侵入を許したのは、俺だ」


 さすがに、少しだけ、魔導の集中が途切れる。


「当時、俺は下級騎士で、夜間の城門の警備に当たっていた。集中を途切らせた覚えもないし、真面目に職務を遂行していたつもりだ。それでも……気づけなかった」

「……無理もありません。だって、姿が見えないのですから。決して、あなたのせいでは……」


 松明の明かりだけの闇夜の中、姿を視認できないものを捕らえることなど不可能だ。そこに、責任を追及するなどという酷なことはできない。

 クインの言葉に、オルヴァーは口元を綻ばせる。


「騎士団長も、そう仰ってくれていたな。落ち度は城内の者全てにあり、私が最たる責を負うべきだと。だが、ただでさえ王妃が襲われたという国の有事だ。有能な者に責任を負わせるよりも、末端を切り捨ててその場を凌いだ方が混乱は少なくて済む」

「それじゃあ、この魔導具は……」

「騎士団長が、無理矢理押し通してくれた。何も得るものがないまま放り出されるよりは、君の行く末を助けてくれるだろうとな」


 現にこうして、生き永らえている、と皮肉げに笑うオルヴァー。


「あとは未熟なりに培った剣術と、魔導具の恩恵を受けてやれる仕事を探していたら、この仕事しかなかったわけだ」

「ヘレンさんとは、どこで知り合ったのですか」

「……騎士になる前。子どもの頃からの顔馴染みだ。なんだ、なぜそんなことを聞く」

「結婚のご予定は」

「なぜそんなことを聞く!?」

「あ、動かないでください。マナの流れが乱れます」


 納得がいかない感情をありありと表情に滲ませながら、オルヴァーは渋々引き下がる。


「……この仕事が、俺たちの狩猟者としての最後の仕事のつもりだった。あとは国に戻って別の仕事を見つけて……身を、固めるつもりだ」

「――――」


 背後で息を飲む音が聞こえたと同時に、流れ込んでくるマナが一気に多くなり――


「お、おい! どうして今ので乱れるんだ!」

「え、あっ、すみません!」


 慌ててマナの流れを操作して緩やかに一定の速度に直す。オルヴァーからは見えないが、クインの顔は真っ赤になっていて、隠そうにも両手は地面と彼の背中から離せない。


「ごめんなさい……その、素敵だな、って思ってしまって」


 恋愛、などというものは本の中の物語ぐらいでしか触れたことがない。魔導の修練や、ありもしない王女という正式な立場に迎えられた時に恥ずかしくないように礼式を学ぶ時間だらけの生活でも、時折、そういった空想に触れてきた。


「私は、そういう、愛の元に産まれてきた存在じゃないから……余計に、憧れだけがあって」


 世の中には本当に、そういった綺麗な感情で繋がった間柄があるのだと、嬉しくなって魔導の集中に乱れが生じてしまった。


「……ソータとは、そういう関係ではないのか」

「――違います」


 予想していたよりも強い語気で否定が返ってきて、オルヴァーは内心で驚くと同時に、颯太を哀れんでしまう。


「そうか……あいつも、大変だな」

「え? 違うんですよ? あ、いや違うっていうのは私がソータのことを嫌いだとかそういうことじゃなくて、ええと」

「聞いておいてなんだが、別に俺はおまえらの関係性にそこまで踏み込むつもりはない。忘れてくれ」

「好きは好きなんですけど、恋愛感情かって言われると私にはよくわからなくて、そもそも同年代の男の子もソータしか知らないから、彼を大切に想うこの気持ちが恋なのかわからないけど彼がやりたいことがあるっていうなら全力でそれを叶えてあげたいし彼のためならば仮に自分がどうなろうとも助けになりたいって気持ちはあって――」

「おい! 聞いてるか!? 魔導に集中してくれ!」


 クインが焦った様子であわあわと口にすればするほど、その勢いに乗るかのようにマナが流れ込んできては、オルヴァーもさすがに声を荒げざるおえない。


「あ、ごめんなさい。もうマナは充分だと思います」

「……自由だなおまえは」


 相棒であるヘレンを優に超えるマイペースっぷりだ。オルヴァーはげんなりとした様子で上着を着直し、立ち上がる。


「体に、異常はないようだ。これならば、また――」

「いえ、できれば、二度と使わないでください」


 強い忠告に、オルヴァーは目を見開いてクインを見る。その視線を真正面から受け、クインは口を開いた。


「長い間調整もできずに行使し続けたせいで、魔導具もあなたの体も、限界に近いです。これ以上の行使は、魔導士として推奨できません」

「……元より、緊急避難用の切り札だ。使いたくて使っているわけでもない」

「ヘレンさんを、これからの生活を想うのならば、ご自愛ください」

「……考えてはおく」


 目を閉じ、肯定も了承ともとれない返事をする。命がなければ今後の生活など望めない以上、その命を失いかねない事態に陥れば迷う余地などない。そのことを、クインだってわかっているから問い詰めることはしない。


「マナ溜まりの様子はどうだ」

「……やはり、移動をしています。一つ、大きな元のような存在があって、そこからいくつも拡散しているような」


 大地からマナを吸い上げる過程で、クインは再度森の中のどこかに存在するマナ溜まりの位置を探っていた。掌から伝わる感覚は、それが通常の事態ではないことを告げている。


「……仮にだが、通常の動物がマナ溜まりに関わり、異常発生をする可能性はあるか?」


 今、森の中に起こっている異変。生態系を覆すほどの、数の暴力。その圧倒的なまでの物量を誇っていた野犬の群れが、マナ溜まりと無関係とは思えなかった。


「……ありえると思います。マナ溜まりは通常であれば指向性のない、ただのマナの塊です。何らかの事態で、野犬の一匹がそれに触れ、自身と同じ存在を大量に生み出した……」

「ならば、事態を収拾するためには、生まれた野犬を全て殺し尽くし」

「大本となった野犬を仕留める、しかないかと」


 結論を導き出し、二人揃ってため息を吐く。


「間違いなく、俺たちだけで片をつけられる話ではないな」

「でも、時間をかけていられるような案件でも……」


 一種類の動物が大量に存在する森など、遅かれ早かれ死滅する。一帯に存在する獲物を食い尽くした後は、森を出たその先へとその牙を向けるだろう。

 自分たちを笑顔で送り出してくれた、村の住人たちも例外ではない。


「……わかっている。とにかく、群れに出くわさないよう、合流を優先する」


 一度村に戻って態勢を立て直すべきだが、別れた三人が同じ結論に至っているかはわからない。優先すべきは、自分たちを含めた安全の確保だ。


「逸れた位置まで戻るぞ。おまえは随時、マナの流れを確認して野犬の群れの位置を探ってくれ」


 領き、クインも立ち上がった。疲労を回復できるほど余裕などなかったが、四の五の言っていられる状況ではない。


「……あいつは、思い込みと咄嗟の判断が弱いからな。今頃、年上ぶろうとして一番慌てふためいているかもしれない」


 心配……というよりは、心底呆れているかの様子で、オルヴァーは相棒の今の状態を思い浮かべ、深々とため息を吐いた。





「いや、どっからどう見てもあんたオルヴァーじゃない! 何!? 今この状況下でそんな少しも笑えない冗談が通じると思ってるの!?」


 肩をがっしりと掴まれ、力任せに縦横無尽に揺すられている颯太が一番、この状況下でそんな笑えない冗談が通じるものかと思っていた。


「ヘレンさん! 落ち着いてください!」

「落ち着くもなにもないのよリアちゃん! ほらこれ、どう見てもオルヴァーでしょ!? あいつさっきクインちゃんは任せろとか言って逃げたくせに一人で戻って来てるのよ!? もうなんか色々な意味でありえなくない!?」


 颯太の背後に回り、グイっと颯太の顔をリアに近づけるヘレンに欠片も冗談を言っているような様子はなく、完全に心からの激昂を露にしていた。


「だ、大丈夫ですか、ソータさん……」

「……もう、何がなんだか」


 どういうわけか、颯太をオルヴァーだと思い込み混乱しているヘレンに、そのヘレンを困惑しながらなすがままに揺さぶられる颯太。そして、目の前で急に繰り広げられる混乱極まりない状況に呆気にとられるリア。

 野犬の襲撃からなんとか逃れた三人が、誰一人として現況に混乱して頭の中がパニックになっている。


「お、落ち着いてくださいヘレンさん。俺はオルヴァーさんじゃありません!」

「……ねえ、あんた本当に何を言ってるの? 大丈夫? 毒の粉吸い過ぎちゃった?」

「多少は吸っちゃってるかもしれませんが、俺は至ってまともです」


 ようやく揺すぶられる状況から解放された颯太は一度大きく深呼吸をする。


「……もう一度言いますが、俺はオルヴァーさんじゃありません。俺は、さっきまで姿が見えていなかったはずのゴースト……水際颯太です」


 言い聞かせるように、真顔で言い放つ颯太を見て、ヘレンはまた咄嗟に開きそうになる口を自分の意思で噤み、


「――んっ」


 腰に下げていた自分用の飲み水を喉が鳴るほど勢い良く飲み干していく。

 水が空になった皮袋を再度腰にぶら下げ、目を閉じて深呼吸。そして、祈るように開いた目には、まだ懐疑の色が浮かんでいる。


「……ごめん。何度見ても、あんたはオルヴァーにしか見えないよ。その目つきの悪い面構えも、背丈も、服装だって。どこからどう見たって、あんたはオルヴァーだ」


 そう真剣な声色で口にするヘレンに、颯太は二の句が継げず黙り込む。

 ヘレンにだって、今この状況下でオルヴァーがいることの方が異常だとわかっていた。けれど、事実目に見えてしまっているのだから言及せざるおえないのだろう。何度も頭を振って目を擦っては、颯太を見て訝しげな表情をやめることはできない。


「……なんなんだよ、この状況」


 頭を抱えて噂りたい気持ちを抑え、それだけ泣き言のように口にする。颯太を見てオルヴァーだと断言する。姿を視認されたかと思えば、予想だにしない方向に着地した現状に、ため息をいくらでも吐きたいぐらいだ。

 そして、極めつけの追い討ちともいえるものが、さっきから。具体的には、ヘレンと目が合ってから、ずっと颯太の脳裏を掠めていく。


「さっきからなんなんだよ、この記憶は……!」


 悪態を吐き、颯太は片手で自身の髪の毛を掴む。目を閉じれば、まったく覚えのない記憶が、映像が、水際颯太が持っていた記憶の中に居座ろうとしてくる。

 剣を振り、修練を重ねてきた故に破れた手の肉の痛み。見覚えのある白い髭を蓄えた王の御前で跪く荘厳な雰囲気。肩に当てられた剣の、信頼の重み。

 身に覚えのない失態により奪われた、掴み取ったはずの地位への羨望。

 知らない。知っているはずがない。水際颯太は何の変哲もない高校生で、剣を振るって修練を積んできた記憶なんてあるはずがない。

 物語の中のような、騎士の誓いなど宣誓した記憶なんてどこにもない。それだけじゃない。地位を奪われ、野に下った先で死に物狂いで狩猟者として生き延びようとしてきた記憶なんてある方がおかしい。

 目の前で自分を見る女性の、触れた体の柔らかさなど知っている方がありえないじゃないか――


「ソータさん。だ、大丈夫ですか……!?」


 亜人の少女……リアが俯いた颯太の顔を覗き込むように声をかける。


「……リア。前に、俺とした約束を覚えているか?」


 言いたい嘘は吐いてもいい。けれど、義務感に駆られるような嘘だったら、吐かなくていいと、目の前の亜人の少女とした約束。たった二日前の、記憶だ。


「……はい」

「今だけ、その約束はなしだ。言いたくなくても、言ってくれ」


 少女の蒼い瞳を見据え、颯太は口を開く。


「おまえは、俺がどう見えている……いや、どう見えていた?」


 颯太の問いに、リアは目を見開いて息を呑む。


「頼む。正直に、答えてくれ」

「……ソータさんは」


 震える自身の腕を抱き、深く息を吐いたリアは正面から颯太を見据え、


「クインさんが言うような、黒い髪と瞳じゃない。僕と同じ髪と瞳の色をした……女の子っぽくなんてない、男の人に見えています」


 そう、決定的で致命的な事実を口にした。


「――――」

「ずっと、いつかは言わないとって思っていたんです。でも、ソータさんもクインさんも、当然のように二人がソータさんを黒い髪と瞳を持つ人のように言うから、何も、言えなくて……」


 まるで自分の失敗を吐露する子どものように、震える体で告げるリア。悪いことなんて一つもしてないのに、それが最悪のことのように。

 謝ることじゃないと、そう言うように颯太はリアの頭に手を置いた。

 置こうと、した。


「――また、かよ」


 掠れた声で悪態を吐く。リアに伸ばそうとした手をそのまま自身の顔に運び、両手で覆う。

 脳裏を過ぎる、まったく身に覚えのない記憶の数々。森の中をひたすらに進む親子の姿。

 辿り着く村々で蔑ろに扱われる、過酷な旅の日々。雪の積もる森の中、焼け落ちていく森の中を懸命に駆ける、少女の涙。

 それを、後ろから眺め続ける光景。


「だからっ、なんだよこれは!」


 知らない。知っているはずがない。知っている方がおかしい。こんな記憶は、水際颯太の中のどこを探したって見つかるはずがない。

 またしても、記憶が肯定して否定して促して抜粋して強調して訂正して推敲して――

 考えれば考えるほど。水際颯太という人間がずっと持ち続けていた、自分の記憶との境目が曖昧になってわからなくなる。

 突然頭を抱えて唸りだす颯太を、ヘレンもリアもどうすればいいかわからず狼狽して見つめる。

 ヘレンには、慣れ親しんだパートナーであるオルヴァーが苦しんでいる姿に見えて。リアには、自身と同じ色の髪と瞳を持つ青年が苦しんでいる姿に見えていて。

 この場の誰一人として、水際颯太を水際颯太として視認している者は、いない。


「ソータさん! 大丈夫ですか!?」


 彼の肩を掴み、心配に声を荒げるリアにも。彼女の瞳に映っているであろう姿はきっと――

 消える。

 確証もなく、そうわかった。このままだと、自分はいなくなる。身に覚えのない記憶に押し潰されて、水際颯太は消えていなくなる。

 黒い髪と瞳をした、中世的な顔立ちがコンプレックスだった、どこにでも男子高校生のはずだった水際颯太は、ありもしない何かに成り代わる――


「いや、だ……!」


 懇願するように、消えたくないと叫ぶ。こんな、何も果たしてないまま。交わした約束を守れていないまま。

 命よりも大切なのだと心から思えた少女と離れ離れになったまま。


「消えたく、ない……!」

『大丈夫だよ』


 その懇願を、優しく受け止めてくれる声が聞こえた。


「――は?」


 ふいに、頭の中を駆け巡っていた身に覚えのない記憶の一切がなくなった。


 …………それどころか。


「……どこだよ、ここ」


 呆然と呟く鋼太の視界には、なぜだか妙に見覚えのある光景が広がっていた。

 質素な木造のテーブルと椅子。異世界にやって来てから何度も目にした、何の変哲もない宿屋の一室のような風景。

 突然頭のどこからか湧いてきた身に覚えのない記憶に苛まれていたと思ったら、気づけば森の中から一転。宿屋の一室のような場所に立っている。


「……いや、さすがに頭が追いつかないんですけど」

「さて、待ち侘びたよ。ようやく、今この場所まで辿り着けた」


 立て続けに起きる異常事態に、完全に脳内が真っ白になった颯太の耳に聞こえてくる、声。


「長かった……本当に、長かった。君にとってはたった一ヶ月とちょっとの期間かもしれないけど、私にとっては本当に、長かった」


 姿形も見えず、ただ、テーブルの向こう側に、何かがいるという気配だけがある空間。


「いらっしゃい、ミナギワソータ。途方もない長い時間をかけて、私は君を待っていた」


 まるでゴーストのように姿を視認できなくさせている、何者かがそこにいた。


「あん、たは……」

「憶えているかな。一度君をここに招待したことはあるんだけど」


 朗らかに、さも嬉しそうに話す女性の声。聞き覚えは、ある。いつ、どこだったか。具体的な時期は頭の中のどこを探しても見つからないけれど。

 ――俺は、この人と話したことがある。

 話をして、その姿を――


「どうかな。憶えてないかな」


 自意識にまで及ぶ精神的な苦痛と疲労に、ここまで全力で動き回ってきた肉体的な疲労。


「……憶えてるよ。あんたの、そのグロい体までハッキリとおうええぇぇ……」


 そして、脳裏に過ぎった吐き気を催す醜悪なビジュアルの三連続攻撃で、ついに颯太の限界を超えた。

 盛大に吐き戻す颯太を見て、姿も見えない何者かはため息を吐くかのような音を響かせて、


「……ちょっと、休んでからにしようか」


 そう、温情をかけてくれた。

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