3章 妄執が集う森
1話
穢れた子どもだ。
そう、指をさされながら言われたことを、今でもよく憶えている。
物心ついた頃から、彼女は広くも、殺風景な寝室に一人きりで暮らしていた。侍女であり世話係でもあるフィリスは彼女の身の周りの世話を甲斐甲斐しくしてくれていたが、それでも、一人の時間の方がずっと多かった。
周りに誰もいない静寂の中、人肌の温かさを恋しく思う。そんなもの、小さい子どもなら当然のことだろう。たとえ子どもでなかろうとも大人ですら「孤独」という病巣には怯え、切除しようと振舞う。
最初から一人でいたいと思う者などいない。孤独を好む者は、誰もが一度は何かと関わり、「孤独でいた方が遥かにマシだ」という考えに行き着いただけなのだから。
人はどうしたって、何かとの関わりを求めてしまう。
だから、彼女もそうだった。自分の産みの親を一目見ようと、宛がわれた寝室を抜け出して、偶然、たまたま、誰にも見つからないうちに、母親がいる部屋の前へと辿り着けてしまった。
他の誰も有しない、黒い髪と瞳を持つ女の子を見て、母親という存在は声を上げた。
右も左もわからない、初めて歩く道を恐れながらも懸命に、母の姿を求めて探し当てた我が子に向けて、そう言い放った。
その後のことを、彼女はよく憶えていない。気づけば寝室のベットに戻され、侍女に頭を撫でられながら声を張り上げて涙を流していた。
認められない。受け入れてもらえない。存在を、否定された。
産まれたその瞬間から穢れていたなどという、どうしようもない事実に対して、涙を流すことしかできなかった。
それでも、彼女は母親を恨まなかった。自分をいない者として扱う父親に怒りを覚えることもなかった。
母は被害者であり、父はその母を守ろうとしているだけのこと。誰が悪いというのならば、母を襲った正体不明の男が何よりも悪い。そのことは、自分で考え至るよりも前に、侍女であるフィリスが向ける憎悪でなんとなくわかってはいた。
だから、なのだろうか。憤り、怒りを持つのは理不尽な目に遭っている自分のはずなのに、その自分以上に怒りを滾らせる人が近くにいるからだろうか。
彼女は、自分をこんな目に遭わせた存在に対し、強い憎しみを抱くことはなかった。
顔も名前も何もかもわからない存在に、何も思うことがないわけではない。けれども、それは怒りや恨みといった感情ではなく、「いったい、何者なんだろう」という興味の方が大きかった。
城の警備を軽々と抜け、不審になって様子を見に来た侍女の目をも欺いてみせた、何者か。
それが、市井で恐怖される存在、「ゴースト」であることを知るまで、そう時間はかからなかった。
誰からも視認されず、人知れず悪事を成していく穢れた存在。姿が見えないというだけで、周囲に恐怖と嫌悪をばら撒く、理からの異端者。
そんな何者かが、どうして存在しているのか。どういう理屈で存在しているのか。なぜ視認されないのに、堂々と痕跡だけは残っているのか。実体はあるのか。
疑問は尽きず、いくら考えても明確な答えを持ち合わせている者などいやしない。
わかっているのは、きっとその存在は、自分と同じ黒い髪と瞳をしているのだろうということだけ。
自分は穢れた血を引いている。正統な王族の血筋など、口が裂けても言えない。
鏡に映る自分の黒い髪と瞳が、おまえは穢れた血を引く存在なのだと、事実を叩きつけてくる。
鳥籠のような庭園と、小綺麗に装飾された寝室だけが自分の居場所。隠匿され、自分の存在が明るみに出ることはない。
いっそ、自分の姿こそ、誰にも見えなければいいのに。そう思ったことも、一度じゃない。
ゴーストが母にしたことを、許容するわけでは決してない。認められなかろうとも、自分にとって母は母だし、その母の心を傷つけた恨みがないわけがない。
でも。それでも。
知りたいと思った。
誰からも視認されず、存在を認められず。周囲から向けられるのは恐怖と嫌悪だけ。
その状況を、ほんの少しだけでも、知っているから。それがどれだけ辛くて、悲しいことかを知っているから。
名前も顔も知らない誰かのことを、自分だけでも知りたいと思っていた。
*
水際颯太にとって、馬車とは移動するための乗り物ではなく、見晴らしの良い高台代わりのようなものでしかなかった。
街の市場を見渡しやすい位置にあり、颯太――ゴーストの特性上、周囲の視線を気にすることなくよじ登ることができた。
むしろ移動している時の馬車など、自分の存在に気づいてくれていない自動車と一緒だ。危険極まりなく、近づくことすらなかった。
「おぅええぇぇぇ……」
ひたすらに悪路を進んできた馬車の中、顔面を青白く染めた颯太が情けない苦悶の声を上げながら呻いていた。
「だ、大丈夫?」
その颯太の肩に手を置き、優しく問いかける、長く澄んだ黒い髪と瞳を持つ少女、クイン。そう問いかける彼女の顔色も、颯太ほどではないが体調の悪さを表していた。
「ご、ごめんなさい。この道はどうしても揺れてしまって……」
今の今まで馬車を引いていた馬……馬が、顔を颯太に向けて申し訳なさそうに謝罪する。という、なんとも言いがたい光景に、颯太は蒼白の表情のまま苦笑いを浮かべる。
今でこそどこからどう見ても立派な茶色の毛並みをした、何の変哲もない馬の姿をしているが、彼女も立派な旅の仲間の一人である。
自身の体内に潜むマナが持つ大量の生物の情報を読み取り、再現できる『幻獣』の子どもであるリアは、広い平原を眺めて自分たち以外に人気がないのを確認してから、自身の姿を作り変える。
大きな馬の体はみるみる内に縮み、クインに買ってもらった白いワンピースを身にまとった幼い少女へ。肩まで伸びた亜麻色の髪の上には、唯一の亜人らしい要素である猫科の耳がある。愛らしい顔と小さな背丈にその耳は非常によく似合っているが、表情は申し訳なさそうに沈んでいた。
「いいって、旅っていうのはこういうものなんだろ? そのうち慣れるだろうから、心配しないでくれ」
大国リークテッドを覆う防壁を超えた先にある平原。石や砂利、窪みなどが放置された道を、サスペンションもなく木で作られただけのタイヤを回す馬車が進めば当然揺れる。
颯太が現代日本からここ、異世界に単身で放り出されて約一ヶ月と二週間。その間に全く自分の立つ場所が揺れに揺れるような経験をしてこなければ、乗り物酔いを起こすのも無理はない。産まれてからまったく城から出ず、半ば幽閉のような生活を送ってきたクインも同様に具合が悪そうにしている。
「あともう少しだけ耐えてもらえれば、近くに村があります。そこまで、なんとかなりますか?」
「私は大丈夫だけど……ソータは平気?」
「……クインが大丈夫って言ってるのに、俺だけダウンするわけにはいかないでしょ。俺も平気だよ。ずっと不安定でゆったりしたジェットコースター乗ってるようなものだと思えば……いや、それもきついな」
元々絶叫系のアトラクションも敬遠してきた颯太に、その例えは自らの首を絞める以外の何物でもない。颯太は自らの頬を両手でパチンと叩きつけ、気持ちを入れ替えるように立ち上がって馬車を降りた。
「気分転換に、ちょっと歩くよ。近くに村があるって言ったけど、どれくらいの距離なんだ?」
「そう……ですね。あの森を越えた先、だったかと」
「……それ、近いの?」
「私も旅に関してソータと変わらないほどの素人だからわからないのだけど……近いとは思えないわね」
どう短く見積もっても、今までのペースで行けば日が暮れかねないほどの距離にしか思えなかった。馬車の用意をしてくれた騎士団長、アルフレルドのおかげで馬車の中で夜を明かすことは全く問題ないほどの食料等は準備されているが、どこかの村で宿を取れるのならばそれに越したことはない。
どちらにせよ立ち止まっていては仕方ないと、リアは再度自身の体内のマナを操作して馬へと変わり、馬車を引き始める。それに並ぶように颯太は歩きながら口を開いた。
「野宿は……したくなかったけど、仕方ないかなぁ」
「あら、私は野宿でも全然かまわないわよ?」
あっけらかんと口にするクインを見て、颯太は苦笑いを浮かべてしまう。そういえばこの子は城を抜け出した初日も、嬉々として野宿を楽しんでいたなと思い出す。
「街の中と森の中じゃえらい違いだと思うけど。この辺りの森って、危険はないのか?」
「そう、ですね……大型の魔物を見かけた、という話は聞いたことがないです。王国の敷地も近いですし、目立つ魔物は狩猟者に狩られているだろうから……そこまで心配はないかと」
行商団と共に行動をしてきた過去を持つリアは、当時の知識を思い出しながら馬の姿で颯太の不安を否定する。つい昨日、三人を襲った大型の魔物レベルがうようよしているんじゃないかと不安がっていた颯太は、その言葉を聞いて内心胸を撫で下ろした。
ベルトに差し込んだ、自身の血を塗りたくることにより他者に視認されないようにした不可視の短剣の感触を手で確かめる。
ゴーストの特性、他者から視認されないことを活かした攻撃方法を持つ颯太に、王族のみに継承されている秘伝である魔導の使い手であるクイン。そして、自身のマナを操作して触れたことのある生き物に変じることのできるリア。
この三人ならば、多少の猛獣や小型の魔物には遅れを取らないだろう。油断をするわけではないが、なまじ短い期間で何度も命を危機を味わってきた颯太には、多少なりとも自信が生まれつつあった。
「それならまぁ……野宿でも大丈夫かな。目標は村だけど、着けなかったら仕方なく野宿ってことで――」
と、これからの方向性を口にしようとする颯太の耳に。
「――ッ!!」
何か、大きい、鳥のような、獣のような。そのどちらとも言えない、けれど巨大な体躯を持つであろうことが容易に想像できる、何らかの生き物の鳴き声が颯太たちにまで届いた。
「……え、絶対危険じゃんこんなん」
呆然と呟く颯太。耳を劈く鳴き声を聞いたクインも馬車から降りて、その方角を睨みつける。同様に、リアも馬の姿から普段の亜人の姿に戻り、周囲を警戒する。
「今の鳴き声は……かなり大型の動物ですね」
「……ねぇ、リア。あの森、何かおかしくない?」
リアの返答を待たず、クインは地面に手をついて目を瞑る。
「……やっぱり。マナの流れがおかしい。極端に森の方に引っ張られているような、違和感のある流れをしてるわ」
「はい。何、とは言えないですけど……すごく強い違和感があります」
「……え、なに、どうしたの急に」
唐突に始まったシリアスに、帯同者二人だけが突き進んでいて落ち着かない。
「断言はできないのだけど……」
クインが指で示す方向。鬱蒼と茂る深い森へと黒い瞳を向けながら。
「マナ溜まりがあるわ。それも、とても大きくて、今にも溢れそうなほど巨大な」
これから馬車で通ろうと話していた道に、何が待っているのかを告げた。
*
……そして。
馬車は森へと至り、マナ溜まりがあるという場所を目指して車輪を回していた。
「……いや、避けて通ればいいのでは?」
と、颯太は思ったことをそのまま口にする。
すでに馬車の進路は森へと至り、二人の感覚を頼りにまっすぐ件のマナ溜まりを目指している。平原の道中よりも圧倒的に揺れに揺れる馬車の中、さらに顔を青ざめているのは乗り物酔いのせいだけではないのかもしれない。
「うーん、避けて通るに越したことはないとは思うんだけどね」
颯太の心からの提言に、クインは思案顔で返す。
「マナ溜まりって、本当に何が起こるかわからない、びっくり箱のようなものなの。基本的には時間が経てば自然と霧散するのだけど、溜まり続ければそれだけ周囲にどんな影響を及ぼすかわからないし、不必要に近づけばその分近隣の村の人たちが危ないもの。そんなもの、放ってはおけないでしょう?」
「うん。危ないってわかってるものを放置して先に進もうってのは、落ち着かないのはわかるけど……」
それは俺たちも同様に危険なのでは? と口にはしないが表情が物語ってしまう。
「もちろん、危ないのは百も承知よ。でも、私ならマナ溜まりを無理矢理散らすことができるの。だから……やっておきたいなって思って」
触れることでその物体のマナを読み取り、方向性を与えることにより導くことのできる技法、魔導を行使できるクイン。それができるのだから、やるのが当然、とばかりの口ぶりに、根がお人好しの颯太ですら溜息を吐く。
人助けをするな、なというつもりは微塵もない。クインの善性は美徳であり、颯太も好ましく思っている部分だ。それを否定するつもりもないし、そもそも颯太自身、逆に自分がそういう力を有していればクインと同じ行動を取っただろう。
守るべきと決めた相手が進んで身を危険に晒そうというのだから尻込みしてるだけであって、方向性に異論はないのだ。
「それに、結局は目的地の村への近道なのだもの。それだったら、ついでに寄っていってもいいと思わない?」
「帰る途中に晩御飯の買い物済ませちゃおう、みたいな口ぶりで言われてもなぁ……」
口では難を示しつつも、クインの選択を否定はせず、揺られる馬車の中で酔いに耐えている颯太。
鬱蒼と茂る森の中は日の光も通さないほど木々が密集していて、閉塞感が漂っている。気分的にも、清々しいと言える状況ではなかった。
「まぁ……いいや。それで、マナ溜まりって言うけど、具体的にはどんな物なの?」
「ソータ、マナが目で見えたことある?」
「……いや、ないけど」
生物、物体、ありとあらゆるものに流れ、溜まるといわれている不可思議物質、マナ。
これまでの颯太の生活は、多くの場面にてその超常現象に救われてきたと言っても過言ではないが、それがいったいどのような見た目をしているのか。考えたこともなかった。
「マナは基本的に目には見えないわ。けれど、マナ溜まりは見ればわかるほど、
今まで一切外界と関わらない生活をしてきたクインなのだから、知識を元に語るのが当たり前なのだが、当人は申し訳なさそうに口にする。
「私も現物は見たことないけど、マナの流れでどこにあるのかはわかるし、リアも感覚でわかるみたいだし。ね?」
と、クインが馬車から顔を出してリアへと問いかける。馬の姿に変じて馬車を引いていたリアは、言葉で答えることなく長い首を縦に振ってみせた。
「もしかしたら、昨日のような魔物が生まれる前に消してしまえるかもしれないし、やっぱり放置したままなんてよくないわ」
捕らえられ、衰弱させながらも商売道具として利用されていた黒毛の魔物の姿を思い出し、颯太は頭を掻いた。
明確に意思を、生きたいと願い吼える生き物を殺した記憶は、そう簡単には拭えていなかった。殺さなかったら殺されていた。そういう大義名分があるにせよ、それで殺生への嫌悪感を消してしまえるほど、颯太は肝が据わっていない。
後悔など微塵もないが、二度目を避けたいと考えるのは当然だった。
「……もしかしたら、手遅れだったかもしれません」
今まで周囲を気にして動作でしか応答をしていなかったリアが、低い声で告げる。
「囲まれています。魔物かどうかは……わからないけれど」
「え、そういうのわかるの?」
「行商団にいた頃から、自然とできるようになってましたね」
サラッとスペック高いよなこの子………と思いながら、颯太は馬車から飛び降りる。
「俺が様子を見てくる。二人はそこで動かないで、警戒しておいて」
「……大丈夫かしら」
「昨日の魔物も俺を見えていなかったわけだし、たぶん大丈夫でしょ」
馬車から飛び降りた颯太は、リアにならって周囲を警戒などしてみせる。が、森は静寂したままで、時折吹く風が木の葉を寂しく揺らす音が聞こえてくるだけだ。
「……なんかあったら、俺を置いて逃げてね」
返事を聞かず、颯太は足を踏み出す。
気配、なんてものはさっぱり感じ取れない。とりあえず、馬車の後方に足を踏み出した。姿は見えないだろうと仮定して、足音でバレては意味がないと努めて抜き足差し足で進んでいく。
「また、情けない姿を見せている気がする……」
爪先からゆっくりと下ろして進んでいく姿はこれまた相応に情けないが、命には代えられないと割り切って進む。
そうして進んでいくと、今まさに包囲を狭めようとする存在が目に入った。
「……魔物、いや、ただの犬、か……?」
大型の野犬が颯太の視界の中だけで三匹。血走った目に、飢えを表すかのように開かれた口から滴る涎を視認し、颯太が顔を顰めながら呟く。その声に反応をすることなく、颯太の存在をまったく気づかないまま、クインとリアがいる馬車に向けて着実に距離を縮めていた。
颯太はゴクリと生唾を飲み込み、懐から短剣を取り出す。颯太の血によってコーティングされた短剣は、颯太と同様に周囲から視認されることはない。
血によって切れ味などないに等しいが、生き物を刺し殺すことはできる立派な凶器だ。
「……やるしかないんだって。覚悟を決めろ」
自分に言い聞かせるように呟き、颯太は短剣を握る手に更に力を込める。 野大の一匹に狙いをつけ、颯太は音を立てないようにゆっくりと地面の土を掴む。だが、それでも静かな森の中、どうしたって野犬の耳には届くものがある。
「――!」
その小さな物音に野犬の一匹が目ざとく反応し、颯太の身が強張った。だが、音がした方向に視線を向けるだけで、そこに今から敵対しようとする者の存在を感知したわけではない。
颯太は手のひら一杯の土を、野犬の顔めがけて投げつけた。わざとバラけるように投げつけた土はうまく野犬の顔に降りかかり、悲鳴とも怒号とも聞こえるような呻きを上げて野犬が飛び退いた。
その飛び退いた先に、颯太は一足で距離をつめ短剣を振るう。
――だが。
「――は?」
その切っ先は、野犬に届く前に止められる。
群れの一匹が何らかの攻撃を受けた。その開戦の合図に、森の中に視認すらできていなかった、およそ数えることすら馬鹿らしくなるほどの野犬の群れが、一斉に飛び出した。
「……多いわ!」
それだけどうにか叫んで、颯太は身を翻して馬車へと走る。
「馬車に乗れ! 逃げろ!」
血走った目をした野犬が、次々と現れては目視できる獲物――クインやリアがいる馬車に向けて殺到する。その数は、数えることすら馬鹿らしくなるほどに大群で。
「ソータも乗って!」
「いいから逃げろって! 俺なら見えてないから!」
駆けながら、未だ颯太を待って動き出さないクインとリアに向けて怒号を飛ばす。現に野犬は攻撃を加えてきた颯太に一切見向きもせず、疾走を始めている。その速度は、颯太がどう足掻こうとも追いつけないほどに素早い。
「――風よっ!」
足をひたすらに前に動かしながら、颯太は体内のマナに叫ぶ。
「どこでもいいから! 弾けろ!」
颯太の懇願に応じ、変換されたマナが森の中でいくつもの衝撃となって吹き荒れる。耳を劈き、強い衝撃を伴いながら吹き荒れる風はいくつかの野犬の動きを止めても、まだまだ数え切れないほどの野犬が馬車への疾走をやめない。
魔法による風の炸裂の大盤振る舞いに、体内のマナが急激に持っていかれる感覚に眩暈を覚えるが、それでも足は前へと突き出す。
「後で追いつくから! 今は、逃げろ!」
颯太の必死の声を聞き、クインは唇を噛んで馬車へと飛び乗る。クインの足が着地するよりも前に馬に変じたリアが四つの蹄で地面を蹴り駆け出した。
「風よ、弾けろ! 言う前から弾けろ! 自分で弾けろ!」
もはや詠唱でもなんでもない、口から出任せの命令を次々と発し、風を炸裂させては眩暈を起こす体を奮起して足を動かす颯太だが、足を止める野犬の数は減るどころか次々と増え続け、車輪を歪めるほどに荒々しく進む馬車に向けて肉薄していく。
「――ここは、僕が!」
「ダメ! いくら魔物の姿になっても数が多すぎる!」
一匹の強大な魔物など容易に数で圧倒できるほどの物量に、幻獣としての力は届かない。
「風よ、っ」
今にも馬車に飛びつきかねない先頭の一匹に向け狙いをつけ、魔法を放とうとする颯太の視界が眩む。大量放出の末のマナの枯渇は、前へ駆けようとする足の力すらも奪い去った。
崩れ落ちるように転ぶ颯太の視界に、遂に馬車へと飛びついた野犬の鋭い牙が見え、心臓が痛いほどに血の気が引く。
「待っ――」
旅に出て、まだ一度の夜も明かしてないというのに、目の前で、守ろうとした二人が――
「息を止めて!」
突然の、クインともリアとも違う女性の声と共に、何か小さな袋のような物が野犬の群れに投げ込まれる。
手のひらに収まりそうな小袋。その袋の口が開かれ、目に見えるほどの細かい粉が辺り一面に散らばる。その粉を吸った野犬は唸りを上げて飛び退き、目に見えて苦しむかのように口から泡を吐きながらもがき始めた。
「死にたくないなら口を閉じて何かで覆え。獣除けの毒物だが、人体にも有毒だ」
そんな、鋭い声と共に姿を現した――男が、手にした剣を苦しむ野犬に振るう。
一つ、二つ。刃は吸い込まれるように野犬の喉を裂き、命を絶っていく。刃から逃れ、また立ち向かおうとする野犬も散らばった粉を吸い込み体を痙攣させては振るわれる刃の餌食となる。絶望とも言えるほどの大群だった野犬は、次々と鮮血を喉から撒き散らしていく。
その仲間が成すすべもなく殺されていく光景を目にした他の野犬は、遠吠えを上げながら森の中へと姿を消した。
「怪我はなかった?」
野犬の気配がなくなった空間に、柔らかな女性の声が響く。
「こんな森の中、女の子一人、護衛もないのに馬車で進んでいくなんて。危ないことをするね、君」
朗らかに笑いながら、軽装な防具に身を包んだ女性が血を振り払い剣を収める男の傍に立つ。肩まで伸びた淡い赤茶色の髪を後ろに束ねた女性は、クインを安心させるかのように微笑んで見せた。
「でもあたしたちが来たからもう安心。怖いことはないからね」
周囲を警戒するように視線を向けていた男は、馬車の中で呆けた顔をするクインに向けて口を開く。
「丁度いい。護衛ついでに、その馬車を使わせてくれ。こんな痩せた野犬でも、近くの村に持って行けば貴重な食料だからな」
まだ地面を伏せたまま起き上がれない颯太にも、馬の姿のまま声を発せないリアの存在にも気づかないまま。
姿が見える、クインにだけそう告げた。
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