9話

 ずっと、自分は呪われていると思っていた。

 物心ついた時から、母と二人きりで旅をして、定住することなどなかった。母と娘の、根無し草の旅。この世界で、その旅が順風満帆に行くわけがない。

 森の中、食べるものにも困り果て、知りもしない果物を食べて二人で腹痛に苦しんだこともあった。

 行き着いた村では幼い子どもの姿のリアを見て、売買を求める卑しい男もいた。母を求める男もいた。

 母がその売買に応じたのかすら知らない。その村を出る時は、多少なりとも金銭と食事を得ていたから、もしかしたら母はその卑しさに身を売ったのかもしれなかった。

 自分が知らないだけで、きっと、ずっと、たくさんの苦労があったのだろう。体と心の痛みを抱えて、まだ自身の能力すら安定しない子どもを抱えて、旅をしてきたのだろう。

 それでも、母はいつも笑っていた。笑うことができてしまっていた。誰が見ても不幸で辛い生活なのに。自分を抱える母は、いつだって笑顔だった。

 抱えることもなくなって、手を繋いで歩くようになって。いつしか、手を離して後ろをついて歩けるようになって。

 それぐらいの年月が経っても尚、母の笑顔が曇ることなどなかった。


「辛いなって思うことは、誰にだってあるわ」


 古ぼけた空き家で一晩過ごすことを許された日があった。その村の人々は、突然現れた母子を疎むこともなく、食べ物と寝床を分けてくれた。

 久々の温かく、柔らかい寝床に横になりながら、傍にいる母が、寝物語を口にするかのように。


「だって、生きているから辛いのだもの。人によっては大なり小なりだけど、どうしたって、生きていれば辛いの。そういう風にできてるのよ。私たちには、ただそれがちょっと大きいだけ」


 それは、辛いよ、と。母の腕の中で子どもが言った。当然のことのように口にする子どもに、母は笑って頷いてみせる。


「そうね。でも、生きるしかないのよ。だって、のだもの」


 笑いながら、それでも、その言葉には熱意と迫力があった。


「私たちは、少なくとも、あなたは産まれてからこれまで、たくさんの理不尽に会っても、間違えたことはしなかった。人道に外れず、誰かを不幸にすることもなかった。それは、誇りよ。何よりも大事な、自分が正しかったという証。理不尽に対して、正しく在れたって。真面目に生きてきたんだって、胸を張れるための」


 母が、きっと大事なこと言ってくれている。それでも、久々の柔らかい寝床と、母の温もりは、どうしたって眠気を誘ってきて。意識は、次第に薄らいでいく。


「……いつかもし、私がどうしようもなくなって、あなたに対して弱音を吐いてしまうことがあるかもしれない。その時は、どうか否定してあげて欲しいの。嘘でもいいから、そんなことないよって言って欲しい」


 母の言葉が、温もりが、全てが、遠くなっていく。

 遠くなっていったはずなのに、今更になって、思い出していく。


「そうしてくれたら、私は笑って死んでしまえると思うから」


 どうして、今更になって、思い出したのだろう。

 続いて浮かぶのは、その母の最期の姿。炎に巻かれ、熱に侵されて、ついに、弱音を吐いた母の姿。

 その母に、僕はなんと言ったのだろうか。


『僕は、これから幸せになってみせるから』


 そうだ。そう、嘘を吐いたんだ。

 母が最後に漏らした心の弱さに対して、否定するように、幸せになってみせると嘯いてみせたのだ。


『――ごめんねぇ』


 最後に残された言葉は謝罪だったとしても。

 その嘘を聞いて、母は笑った。

 笑って、くれていたんだ。

 嘘は、許されていたんだ。


「――あ」


 喉から、心から、声が漏れる。

 自分は、間違ったことをした。助けてもらった商団へ恩を返すためとはいえ、汚い商法に身を委ねた。あなたは間違ったことをしてこなかった。そう言ってくれた母の笑顔を、言葉を濁らせてしまうような間違いを。

 眼前に、魔物の鋭い牙が見える。相対する者を恐怖に陥れる、凶悪な爪も見えた。

 生きたいと切に願う、血走った眼も見えた。

 その牙が、爪が、眼が、自分を庇う女性に向けられている。

 温かい寝床をくれた。立派な、自分には不釣合いなほどに可愛らしい服も買ってもらった。

 罪悪感で本音を明かせない自分の頭を優しく撫でてくれた人たちがいた。

 不義を働いた自分は、幸せになれる資格などないと思っている。その考えは、未だ心の底からなくならない。なくなることは、ないだろう。自分は幸せになれない。なってはいけない。

 でも、自分は母に嘯いたのだ。幸せになってみせると宣言してみせたのだ。

 彼らに、幸せになりたいと、言ってしまったのだ。

 ……それに。


 自分に幸せが似合わないという、そんな事実は――この人たちが、傷ついていい理由になんかならない!


「――ああああ!!」


 リアの喉から咆哮が迸る。強く一歩踏み出し、眼前に迫る魔物の暴力に向けて右手を振り上げる。

 自身の体に収束したマナが、ある生き物の情報を吸い上げ、形となり――


「この人に、触るなぁ!」


 凶悪な魔物の腕へと変貌したリアの爪が、襲い来る魔物の顔面を捕らえた。

 自身と全く同じ形をした爪が、魔物の顔を押さえ込む。鋭利な爪は魔物の眉間へと深く入り込み、決して浅くない傷口を創りだす。


「――ごめん」


 リアが渾身の力で生み出した一瞬の隙を、颯太は逃すことなく距離を詰め、見えない刃を振り下ろす。

 マナを吸い上げられ、自由を奪われ。生きたいと願った魔物の目には何も映っていない。

 自身の眉間に深く差し込まれる刃の存在を知覚する前に、その意識は途絶えた。





『なんなの。おまえはある程度事が終わってからでないと出て来れない呪いでもあるの?』


 結局、全ての決着が済んでからノコノコと現れた騎士団の面々。その長であるアルフレルドに不満を一切隠そうとしない口ぶりで、颯太はマナを変換して問いかける。

 アルフレルドはその颯太の言い分に、深々とため息を吐いた


「外に逃げ出した商団の一味を押さえる時間も必要だったのだよ。それに、まさかあのような凶悪な魔物を控えているとはさすがに私も気づかなかった。すまない」


 クインの魔導に叩きのめされ、満身創痍で外へと逃げた悪徳商団は全員、騎士団の手によって捕らえられ、これから憲兵団へと突き出されるだろう。その手際の良さはありがたいが、肝心の助けの手もなく、一歩間違えればクインはミンチになっていたのだからそう簡単に颯太の不満は治まらない。

 しかし、元はといえば自分の油断のせいで招いた事態故、これ以上不満を口にすることはなく、ため息を吐いて気持ちを逃がした。


『まぁ、助かったよ。この借りは……たぶんいつか返す』

「君のようなゴースト……いや、少年を頼りにしないといけない事態は、起きて欲しくないものだがね」


 俺もそう思うよ、と言外に込めて鼻で笑う。


「ごめんなさい、アルフレルド。また、助けられてしまったわね」


 すでに騎士団の面々は引き上げ、悪徳商団のアジトとなっていた一軒家の外の街道に人気はない。クインはアルフレルドに恭しく頭を下げ、その隣にいたリアも同様に頭を下げる。

 その感謝を、アルフレルドは真顔で受け止めた。


「……いえ。この国に生きる善良な人間を助けるのは、騎士の務めであります。お気になさらず」


 と、あからさまな他人行儀で答えるアルフレルドの態度に、クインは察して苦笑を浮かべる。


「そう、ですね。それでも、ありがとうございました」


 クインの立場に王女の肩書きなど一欠片も残っていない、ということなのだろう。アルフレルドの態度に少しも腹を立てる様子などなく、むしろ晴れやかな笑顔を浮かべてクインはもう一度頭を下げた。

 アルフレルドは、そのクインの態度を見て思わず微笑を零すが、すぐに顔を引き締めて口を開く。


「荷物は全て、その馬車にまとめております。ご確認を」


 別れの言葉もなく、それだけ言ってアルフレルドは身を翻して歩き去って行く。最後の最後まで一貫した態度を崩すこともなかった騎士団長の後ろ姿を、颯太は恨めしそうに睨みつけていた。


「……もう。ソータってば、どうしてそんなにアルフレルドのことを嫌ってるの?」

「嫌ってるわけじゃないんだけどさ……」


 単純に男のプライドの問題である。然したる力も持たない颯太は、純然たる戦闘能力の権化ともいえるアルフレルドが羨ましいだけなのだ。あと顔が良いのも腹立たしいが、これに関しては完全に逆恨みである。


「まあ……何はともあれ。ほんと、無事で良かったよ」


 つまらない意地は放り投げ、颯太は安堵のため息を吐きながらクインとリアの二人にそう言った。

 その言葉に、クインは笑って頷いたが、リアは顔を背けて唇を噛んでいる。まるで、怒られるのがわかって待っている子どものような態度だった。


「……別に、今更隠し事をしてたことを怒るつもりなんて更々ないぞ?」


 リアの内心を読んだ発言を、クインも頷くことで同意した。

 リアは最初から、話せないことはあると事前に言っていたのに、隠し事をしていたことを糾弾するつもりなど微塵もない。

 それでもどこか納得できないように俯くリアに、クインが悪戯を思いついた子どものように顔をニヤつかせる。


「じゃあ。そんなにも悪いと思ってるのなら、リアには一つ、お願いを聞いてもらうわ」


 唐突に意見を翻したクインを何事かと見る颯太と、贖罪の機会を与えられ、顔を上げるリア。


「名前を教えてちょうだい。あなたの、本当の名前」


 わざわざお願いとして聞くクインを見て、リアの目に涙が溜まる。

 そんなものは、聞かれなくたって、伝えるつもりだったのに。


「……リリアーナ、です。でも、あなたたちには、リアって呼んでもらいたいです。お母さんも、そう呼んでくれていたから」

「うん。わかった。よろしくね、リア」


 そう承諾して、クインはリアを抱きしめた。その抱擁に耐え切れず、リアの目から涙が零れ落ちる。

 二人を見て笑みを零した颯太は、リアの頭に一度だけポンと手を置いて、軽く頭を撫でる。そうして、アルフレルドが荷物を詰めたという馬車に登り、中を覗き込む。


「……やっぱり、どの宿屋に泊まっていたのかもわかってたってことか」


 馬車の中には今まで泊まっていた宿に置いていた荷物が全て置かれ、それどころか日用品や食料などが用意していた以上にどっさりと積まれていた。至れり尽くせりではあるが、これを用意させる暇があったらさっさと助けに来て欲しかったとも思う。


「もうあの宿にも戻れないし……このまま出発してしまおうか」

「いいけど。その馬車、肝心の馬がいないわよ?」

「……詰めが甘いな騎士団長さんよ」


 馬車だけ用意されても、それを引っ張る馬がいなければ話にならない。


 内心でありとあらゆる言葉を用いてアルフレルドを非難する颯太に、リアが近づいていく。


「大丈夫ですよ、ソータさん」


 そう、明るく口にして、リアが馬車の前に立ち。


「僕は、幻獣の子どもなんですから」


 その言葉を証明するかのように、リアは自身の体内のマナから情報を引き出し、自身を変容させていく。


「さぁ、行きましょう」

「……めっちゃ馬が喋ってる」


 紛れもなく、どこからどう見ても馬以外の何者でもない生物に変化したリア。本来ならばヒヒーンといった程度の鳴き声しか上げないはずなのに明るく出立を促してくるから、その光景はとんでもなくシュールである。


「……まさか、これも織り込み済みだった、とか言わねぇだろうな」


 馬車を引くための生物を用意しなかったのが、ただのうっかりなのか。それとも、別に用意できているのがわかっていたからなのか。その判断次第では、王城が掴んでいる情報はこちらが思っているよりも深いのかもしれない。


「なんだか、慌しい出発になっちゃつたね」


 思案顔の颯太の顔を覗き込んで、クインが笑顔で明るく言う。


「でも、ようやく。私たちの旅が始まるわ」

「……ああ、そうだね」


 小難しく、答えが出ないことに悩んでも仕方がないと、颯太は頭を切り替える。


「……クイン。フィリスさんには、会わなくていいのか?」

「うん。いいわ。会っても、迷惑をかけてしまうだけだろうし。それに、あの人がソータをここまで連れて来てくれた。それだけで、私は満足だもの」

「……そっか。了解」


 クインの晴れ晴れしい笑顔を見て、その言葉が嘘だなんて欠片も思わない。


「何はともあれ。ようやくスタートラインに来たわけだ」


 一ヶ月間、誰からも姿を見られず、存在を認められず放浪し、クインと出会った。

 そうして今、大切な仲間をもう一人追加して、ようやく、目的を叶えるための旅に出る。

 どうして、こんな異世界に放り出されたのか。ゴーストとは何なのか。他にも、黒い髪と瞳を持つ人間はいるのか。疑問は尽きず、解消される保証などどこにもない。

 でも、目的はハッキリしているのだから、迷うことはないだろう。


「さて。それじゃ、出発するとしようか」


 颯太の宣言にクインは笑って頷く。二人は馬車へと乗り込み、馬の姿をしたリアが蹄を打ちつけ走り出す。

 ようやく、三人の旅が始まる。





「……と、いうのが。僕が過ごした彼らとの出会いになります」


 促されるままに、僕は彼ら……ソータさんとクインさんと出会った経緯を話した。二人が偶然出会った僕に何をしてくれたのか、何を与えてくれたのか。それら全てを、隠すことなく。


「うん……うん。まるでたった二日間の出来事だとは思えないほど、濃密で聞き応えのある話だった」


 目の前……目の前で、いいのだろうか。目には見えないから、本当に目の前に人がいるのか断言ができない。声のしてくる方向、そして、僕が座る椅子の、テーブルを超えた先の空いた椅子に座っているのだと予測して、喋ってはいるけれど……。


「ああ、ごめんね。話してる相手が見えないって、やっぱり不安だよね」


 肯定か否定か。どちらの答えを返しても良かったけれど、僕は苦笑を浮かべて頷いた。

 突然気がついたら、僕はこの部屋の中にいた。何の変哲もない、宿屋の一室のような場所。二つの椅子に、丸いテーブルが部屋の中央に置かれていて、僕たちは……少なくとも僕は、気がついたらその椅子に腰かけていた。この部屋に来るまでの記憶が綺麗さっぱりとなくて混乱はするけれど、不思議と焦ったり慌てたりする気持ちは起きない。

 最後の記憶は、僕が馬へと姿を変えて、ソータさんとクインさんが乗る馬車を引っ張って出発した辺りまでだ。どこかで眠った記憶もなければ、意識を失ったつもりもない。本当に、突然瞬きをして目を開いたその瞬間には、この部屋にいたというのに。

 どうしてか。促されるままに、目には映らない誰かに、僕が過ごした二日間のことをを話していたのだ。


「私の姿は……見せられないってわけでもないんだけどさ。前に見せたら、ソータってばそれはそれはショックだったのか吐き戻しちゃって」

「……ソータさんも、ここに来たことがあるのですか?」


 見ただけで吐き戻してしまうほどの姿にちょっと好奇心というか、怖いもの見たさがくすぐられてしまうけれど、そこは無視して聞きたいことを聞く。


「あるよ。というか、彼はずっと

「え?」


 慌てて部屋を見渡す。どこにも、ソータさんの姿は見えない。私が狼狽する様子を見て目には見えない誰かは声を上げて笑った。


「ごめんごめん。嘘は言ってないんだけど、混乱させちゃうよね。君にはどうしたって見えないよ。というより、私にも見えちゃいない。でも、いる。確かに、

「そんな………じゃあ、僕が見たソータさんは」

「ごめん。本当にいらないことを言ったかもしれない。もちろん、君が見てきた、君を助けたミナギワソータという人間も、紛れもなく君が知っている彼だよ。君とクインを助けたミナギワソータという人間は、ちゃんといる。そこは、心配しなくていい」


 もしその前提が崩れてしまえば、私がここにいる意味はないから、と。どうしてか、悲しげな声で呟く。


「説明してあげてもいいんだけど。ここで君に言ったことは、というより、君はここのことを覚えていられない。そういう風にできているんだ……いや、違うかな、そういう風にしかできなかった」

「はぁ……」


 なんだろう。言われていることの半分以上、よくわからない。理解ができないというより、言われている言葉の内容はわかるんだけど、それがいったいどういった意味を成しているのかが全然わからない。


「……ごめん。ここのことは覚えていられないって言ったばかりなのに、長々とこんなことを言われても仕方ないよね」


 たぶん、姿が見えていれば、目の前の人はため息を吐いて、肩を竦めていたのかもしれない。


「ここはね、私が話を聞きたい人を呼んで、話を聞く。そんな場所なんだ。だから、君の身に起きた二日間の出来事を、君の口から聞いた」

「……でもあなたは、僕から聞かなくても、なんだか、全部を知っているかのような感じでした」

「君の口から聞くのが大事なんだよ。実際に見聞きし、体験した、君から」


 姿が見えないから、全部、想像でしかない。想像でしかないし、どうしてだか、僕自身にもうまく説明できないけど。


 目の前の誰かは、テーブルに肘をついて、頭を抱えているような気がした。


「……君はまだ、話していないことがあるよね?」


 何を、と聞き返す前に、言葉が返ってくる。


「ソータと、クインという少女を心から信頼はしている。そこに、きっと嘘はないだろう。だけど君は、信頼しているからこそ、言えていない事実がある。見ないフリをしていることがある」


 ……違う。僕にはもう、二人に隠していることなんて。


「ミナギワソータは、君の目にはで映っているんだい?」


「―――」


 驚き過ぎると、息を呑むことすらできないこと知った。


「髪だけじゃない。は、は、は? クインという少女が口にする彼という人物像との差異は、他に何がある?」

「そんな、ことは」

「嘘を咎めようとしてるわけじゃないんだ。本当のことを話して欲しい」


 ずっと。ずっと、疑問に思っていた。

 ソータさんに助けられ、クインさんに手を引かれて入った立派な宿屋の一室で、二人の身の上話を聞いた時からずっと。

 どうしてクインさんは、まるでソータさんも、自分と同じ黒い髪と瞳を持っているかのように話すのだろうと。

 ソータさんは、僕と同じ、の髪に、瞳をした男の人なのに、と。

 でも、ソータさんもまるで自分が黒い髪と瞳を持っているかのように話すから。何も言えなかった。

 このことは、確実に二人の間に何らかの亀裂を生むって、わかっていたから。


「……うん。その反応だけで、君をここに呼んだ意味は充分にあった」


 ありがとう、と。目の前の誰かは、僕に向けて頭を下げた。そんな気がした。


「君はきっと覚えてはいられないから、こんなことを言うのは無駄だとわかっている。でも、これは私の我侭だ。一つだけ、聞いて欲しい」

「我侭、ですか」

「うん。そう。彼らをもっと、本当に、ずっと。心の底から、信じてあげて欲しい」


 そんなの、お願いされるまでもなく、僕は。


「本当に。心からだよ。だから、君が見たミナギワソータという人間の姿を、包み隠さず、伝えてあげて欲しい。君はその性格上……いや、経験上、って言った方がいいのかな。人を信用する、ということに関してはズバ抜けて下手だけど」


 その決め付けるような発言を、僕は否定することができなかった。確かに僕は、他人をそう簡単に信用することはできない。人の卑しい部分、汚い部分を見過ぎてしまったから。


「彼には、判断材料が少な過ぎる。だから気づけないし、知ることもできない。それは、彼に対しての何よりの障害で、最大の理不尽だ。だから、君の言葉で、彼が抱いてしまっている固定観念に、亀裂を入れて欲しい」


 彼女……たぶん、彼女でいいはずだ。声が高くて、どこか優しげな響きをしているから、彼女、で大丈夫なはず。その彼女の声の位置が、少しだけ高くなって。


「ごめん。最後に、こうだけさせて」


 背後から聞こえてきた声と共に、後ろから彼女が僕を抱きしめてきた。


「え、え?」

「何度も謝って、ごめんね。でも、こうしたかった。君に私の姿を見せない理由は、これだったんだ。たぶん、見せたら抱きしめさせてくれなかっただろうし」


 寒気。という言葉一つで片付けることなど到底できないほどの、恐怖と嫌悪感が、きっと首に回させた彼女の腕から伝わってくる。なん、だろう。ペちゃりと濡れているような感覚に、鼻腔に突き刺さるような、腐敗臭、だろうか。

 とにかく、触れているもの全てが、気持ちが悪くて、その腕を振り払いたくなった。

 ……けれど。


「どうして、震えているんですか?」


 今にも泣きそうなほどに、震えた腕と声が、僕を押し止めた。


「……人のぬくもりなんて、本当に久しぶりだからだよ。特に、君なら尚更だ」


 それは、どういう意味ですか。と問い返す前に、僕の背中から彼女は離れた。


「ありがとう。君に来てもらって、良かったよ。おかげで、充分過ぎるほどもらいたいものはもらえてしまった」


 フッ、と。またしても突然。瞬きをして、目を開いた次の瞬間に、景色が変わる。部屋が消え、何もないような、真っ白な空間に一人。

 でも声だけは。相変わらず姿は見えないけれど、声だけはしっかりと耳に届いている。


「君はこれから、きっと面倒なことばかり起きる。投げ出してしまえば楽なのに、一緒にいる彼らはそれを投げ出したりなんてしない。君のことも、ずっと最後まで背負っていくだろう。だって、彼らは君が大好きだから」

「そんなの――」


 自分の体すら見えなくなって、これから発しようとする言葉が相手に届くか、それもわからないけれど。


「そんなの、僕だって同じです!」


 思わず口に出たのは、そんな当たり前のこと。


「……まったく」


 僕にとっては当然の、わかりきったことを言ったまでなのに。


「充分過ぎるほどもらったって、言ったばかりなのにな」


 目に見えない彼女の声は、きっと、泣いていた。





 例えば。何よりも大事なものがあったとしよう。

 大事で、大切で、何よりも、失いたくない何かがあったとしよう。

 それを、確実な未来の先に。失うとわかってしまった時。どうすればそれを失わずに済むか、考えるのは当然であり、どうしようもないことだ。

 それが間違っていても、正しくなくても。どれだけ、苦難の道であろうとも。

 それしか方法がないのなら、迷う余地などないように。

 たとえこの身を、醜悪に染めても構わない。


「……構わないんだよ。ソータ」


 誰の目にも映らない何かが、そう呟いた。

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