2話

「ひぃ!」


 牙を剥き、魔物が吼える。檻を突き破らんとする勢いの突進に、鉄格子が目に見えて歪んだ。


「こっ、怖っ! 怖いわ馬鹿野郎!」


 叫びながら飛ぶように距離を取る颯太に、尚も魔物は突進を繰り返す。唸り声を上げながら突貫してくる自分よりもずっと大きい動物の存在は、想像していたよりもずっと恐ろしい。無様に悲鳴を上げながら逃げる颯太の姿は、万人に見えればさぞや情けなく見えただろう。


「怖っ、怖いわぁ……ゲホ、ゴホッ……あれ?」


 叫び過ぎて涙目になりながら咽る颯太。距離が開いたためか、そもそも颯太が全く脅威にならないことがわかったのか、魔物はそれ以上吼えることも唸ることもピタリとやめた。


「……見えてるわけじゃ、ないのか?」


 試しに遠巻きに動き回ってみても、魔物の目は颯太を追うことない。目と目が合ったような感覚も、もしかしたらたまたまちょうど良く視線がぶつかっただけなのかも、と確かめるためにゆっくりと檻に近づいてみる。


「……音とか、気配を察知してる、ってことかね」


 足音を立てないよう忍び寄ってみれば、魔物の血走った赤い目は颯太を見ることはない。

 だが、一歩強く、わざと音を立てるように踏み出せば。


「うおっ、いややっぱ怖いわ」


 足音のした方向、颯太に向けて魔物は眼光を鋭くぶつけ、身が竦むほどの圧力を持った唸り声を上げる。姿は見えずとも、音と気配だけで何かがいることを察しているのだ。現に魔物の目は颯太を捉え、牙を剥き出し威嚇をやめない。

 距離を取りさえすれば、問題はない。問題はない、とはいえだ。


「まいったな。またしても、俺の唯一の利点が奪われてる……」


 魔法に引き続き、相手に視認されないという利点すら、音や気配だけで居場所を察知されてしまえば意味がなくなってしまう。

 旅をする以上、一切の魔物と遭遇せずに済む、などという楽観視なんてできやしない。だが、クイン以外の存在から視認されない自分がいれば、なんとか撃退できるのではないかと……それも、楽観視していたと言われれば颯太には否定することはできなかった。


「な、何があった」


 受付とは別の従業員だろうか。相変わらず奴隷商とは思えないほどにフォーマルな格好をした従業員が、突然騒ぎ出した魔物の様子を見に駆け寄ってくる。


「――チッ」


 その従業員が駆け寄ってくる前に、また別の方向。颯太の背後に連なっていた檻の影に隠れるように立っていた男の舌打ちのような音が聞こえた。


「……誰だ、あれ」


 奴隷商、のようには見えない身なりは決して清潔とは言えない装いであり、どう見ても。


「奴隷、だよな……」


 脱走現場、という四文字が脳裏に浮かぶ。どういった方法を使ったのかわからないが、奴隷が一人、檻から抜け出して周囲を警戒しながら隠れている。

 魔物が突然騒ぎ出したことにより、従業員が様子を見に来たのだろう。それを警戒し、物陰に身を隠す奴隷。

 その姿をバッチリ目撃してしまった颯太は、額に手を当て上を仰いだ。


「……どうすっかなぁ」


 脱走、という行いは間違いなく悪である。そもそも罪を償うための罰を受けている最中に、逃げ出してしまっては元も子もない。

 これまで颯太は、自身が生き抜くための対価を得るという自分勝手な理由を持って、盗人などの罪人を捕まえる手伝いを人知れずやってきた。そうすることで自分を正当化し納得させて、食料や金銭をこっそり着服してきたのだ。

 でなければ自分をごまかせず生きてこれなかったし、クインと出会うこともなかった。

 だが、今は違う。颯太はクインのために。クインと一緒に旅をして、自分たちと同じような黒い髪と瞳を持つ者を探す、という目的を持っている。

 人知れず悪事を働いてまで金銭や食料を得る必要などない。真っ当に手に入れた金銭で、クインに買ってきてもらえばいいだけのこと。だから、今の颯太にとって、脱走した奴隷を捕まえる必要はない。

 悪事を見逃す、のではない。自分は元より、いないはずの存在なのだから。

 それに……と、颯太は逃げ出した奴隷に近づき、その顔を見つめる。


「やっぱり……あんた、あの時の盗人だよな」


 たとえ聞こえていなくても、思わず颯太はそう問いかけてしまった。王城を見学しようと思い至る前、市場にて盗みを働いたこの奴隷を颯太は魔法を用いて捕まえる手伝いをした。

 盗みを働く前から、男の身なりは決して良くはなかった。だが、ここまで痩せこけてなどいなかったし、澱んだ目はしていなかった。

 颯太の自己満足のために捕まることになった人物のその末を見て、どうしたって彼の胸は締め付けられる。罪悪感か、それ以外の何かに。

 自分がいなければ、彼はどういう人生を送っていたのだろうか。捕まらずに逃げおおせたのだろうか。それとも、どっちみち捕まり、奴隷へと身を堕としたのだろうか。

 罪を犯した方が悪い。そんな事実は、颯太だって理解できている。割り切って、再度脱走しようするあの奴隷の男を捕まえることが正しいことなんだって、わかっている。

 颯太は男から視線を逸らし、クインの方へ向けた。受付の従業員との話が終わったのか、勝手に歩き回ってる颯太を恨めしそうな目で睨みつけている。その視線を受けて、颯太は一度頭を振り、クインの元へと歩き出した。

 自分一人だけならまだしも、今は、同行者がいる。いらぬトラブルを招くような真似はしない方が無難であり、賢いやり方だ。


「……もう。何してたの?」


 周囲を気遣ってか、クインは小声で颯太に問いかける。


「見学してただけだよ。それよりどうだった?」

「何人か候補を上げてもらったけど……旅に慣れている奴隷って、当たり前だけどいないのね。ちょっと保留にしてもらってる」


 軽くため息を吐くクイン。それもそうか、と颯太は内心納得していた。

 奴隷のほとんどは、この王国内での生活苦により犯罪に走った者だ。旅の経験があり、その知識や技術を持っているならいくらでも生計を立てる術はあるだろう。


「やっぱり、割高にはなるだろうけど。奴隷じゃなくて別の、旅に慣れてる人を雇った方がいいんじゃ」

「どうせ誰もがゴーストと一緒じゃ嫌、って言うわ。だからってソータを無視して旅をするなんて、私は嫌だからね」


 クインの予想以上に強い反対意見に、颯太は圧されるも嬉しく思う。真っ当な同行者を連れた旅路はずっと安全で、確実なものになるだろう。だが、それは颯太というゴーストを度外視して成り立つものだ。王国中から敵視され、恐怖を抱かれているゴーストと旅を共にするものなど、誰一人としていない。

 颯太をいない者として扱えば、それはクリアできる問題だとしても、クインは選ばないし選べない。


「とはいえ、中々条件に合う人がいない。ってのも事実なんだけどね」


 目を閉じ、腕を組んで悩むクインを訝しむ人間は周囲にはいなかった。傍から見れば、どの奴隷を買おうか悩む、謎のローブをまとった人物なのだが、別段珍しいものではない。奴隷市場に堂々とした格好でやって来る者などいないからだ。


「ちなみに、どんな人ならいたの?」

「体が健康な人……ってなると、ほとんどが気性の荒い人ばかりね。捕まった理由も傷害や……殺人とかそういう人たち。魔導具による強制力があっても、一緒に旅はしたくないわよね」


 颯太も無言で頷く。選り好みしてる場合ではないかもしれないが、人格は最優先事項だ。

 魔導具により強制的に従わせることができても、常時そのような調子では旅などしていられない。ただでさえ精神的に余裕のない旅路に、いらぬ心労は欲しくなかった。


「ソータも見て回っていたんでしょ? どうだった?」

「あー……人を見ていた、というよりもね」

 颯太は自分が心底ビビりまくっていた部分だけを言わずに、さっきまで何をしていたかクインに伝えた。奥の方には魔物がいて、そいつに自分が感知されたこと。脱走していた奴隷に関しては、クインに伝えるつもりはなかったため、割愛した。

 颯太の説明を聞いて、クインは眉をひそめた。


「……魔物が、本当にいたの?」

「あれが魔物じゃないとしたら、ちょっと異世界に対して恐怖心が増すなぁ」


 血走った目に、腕どころか颯太の胴体を丸ごと噛み砕きかねない凶悪な牙。思い出してみても、檻という障害物がない状況で出くわせば、間違いなく失神する自信がある。

 あんなのが通常の動物として存在している世界だとしたら、旅に出るのはもうちょっと時間を置きたいところだ。


「ううん、疑ってるわけじゃないんだけど……魔物って、本当に危険なの。鉄格子なんかじゃ囲っておけないぐらい凶暴で、捕らえるのが難しいって。だから、こんな奴隷市場の一角に置かれているなんて、想像できなかったの」

「まあ……鉄格子ひしゃげてたりしてたしなあ」


 颯太が近づいたままならば、おそらく鉄格子を壊していただろう。それだけの膂力が、檻に入れられていながらもあの魔物にはあった。とはいえ、確かめに行く気力も度胸もない。

 そもそも今の問題は奴隷をどうするかであって、あの魔物をどうするかではないのだ。

 というか、すっかり奴隷を買うことに抵抗感がなくなってるな……と一人で若干落ち込みつつ、颯太は口を開く。


「魔物のことも気になるけれど……俺たちがどうするって話でもないしな」

「……それもそうね。それじゃあ、颯太にもリストを見てもらおうかしら」


 受付の机に広げられているのだろう。クインがそのリストの元へ向かおうとする。見せてもらっても、俺はこの世界の文字を読めないけどな……と思いつつ颯太もその後に続こうとして。


 ――背後から駆けてきた男に、衝突された。


「うごぅ」


 成人男性の全力疾走によるタックルを背中から受け、颯太の肺から空気が情けない声となって漏れる。衝撃そのまま地面を滑るように転んだ颯太と、背後からぶつかってきた男――颯太にとって見覚えしかない、ついさっき見逃した奴隷の男も尻餅をつく、が。


「くそっ」


 悪態を吐き、すぐさま立ち上がった奴隷の男は、自分が何に衝突したのか確かめることすらせず、一目散に駆け出した。倒れたまま顔だけ上げた颯太は、その背中を恨めしそうに睨みつける。


「いっ……てぇな。なんだよ。恩を仇で返しやがって……」


 すでに距離が開き過ぎたためか、クインも倒れた颯太を心配げに見てはいるが駆け寄ることはできなかった。

 遠巻きに颯太を見るクインに対し、颯太は安心させるために笑顔を作る前に――


 パチパチと、何かが燃える音が聞こえた。


 起き上がろうとする颯太の後方。さっきまで自分がいた、魔物と、脱走した奴隷を見かけた方向。

 その奴隷が、颯太に、見えない何かにぶつかろうとも、それを不審がる素振りもなく駆けていった、そのスタート地点。


「嘘、だろ」


 呆然と呟く颯太が見ているのは、何か、燃えやすいように積まれた可燃物の見物が焼ける匂いに交じる、鼻につく油の匂い。


「仇で返すにも、程があるだろ……!」


 空の檻が置かれた一角に隠されるように用意されたぼろ布の塊には油が染み込み、それに触れるような形で奴隷市場を覆うテントの布地にかかっている。すでに火は燃え移り、状況に気づいた奴隷市場の職員が大声を上げていた。


「ソータ! どうしたの!?」


 明らかな故意で起こされた火炎は瞬く間に燃え広がり、奴隷市場は怒声と悲鳴に包まれた。駆け寄ってきたクインも、颯太が周囲に見えないことなど度外視して、大声で颯太の名前を呼ぶ。


「……奴隷が、逃げたんだ」


 ただの脱走だと、そう思っていた。檻から抜け出し、単身で奴隷市場から逃げ出すだけなのだと思っていた。それぐらいならと見逃したのは、颯太の意思によるものだ。

 ならば、今この燃え盛る火炎は、防ぐことのできた事態であり。


「……クイン、君は逃げて」


 従業員よりも奴隷の方が圧倒的に多い状況下での火災。逃げられないように檻に入れられた奴隷たちはすでになす術がなく、悲鳴と怒号が飛び交っていた。幾人かの従業員が懸命に消火のため奔走していたが、火はすでに天井の布地にまで燃え移っている。


「君は、って、ソータは!?」

「俺は……」


 火は止まらない。テントを焼き、終いには中のあらゆる物を焼き尽くすだろう。檻に入れられて逃げられない奴隷を。悪事を働いた故に、罪を償うべくここにいた者たちを。

 颯太が見逃してしまった奴隷が引き起こした悪事によって、彼らが焼け死ぬまで燃え盛るだろう。


「奴隷を、逃がす」


 我先に逃げる従業員もいれば、非常事態だからこそ、奴隷を囲う檻にかかる錠を開けて回る従業員の姿も見えた。檻を破壊する手段がない以上、律儀に錠を開けて奴隷を解放しなければならない。

 火の手が回りきるまでに全員逃がせるか、悩んでいる時間すら惜しかった。


「でも、今のソータは魔法も使えないのに……」

「多少無理すれば、使えないことはないでしょ」


 クインの心配に笑って答えながら、颯太は近くにあった檻の傍に置かれた水桶を手に取り、中身を頭から被った。

 確かに、現状の颯太には充分に魔法を行使できるほどのマナは残っていない。だが、使えないわけではないのだ。

 仮にたとえ一切の魔法の行使ができなくても、このまま逃げることは颯太にはできない。

 顔に滴る水気を手で拭い、クインに顔を向ける。


「クイン。君は外に出て、どうにかうまいこと外から支援して欲しい」

「どうにかって……」

「中にいるよりかは安全だし、君の魔導ならきっと何かできることがあるはずだ」


 まだ何かを言いたげに口を開こうとするクインだが、どんどんと増す熱気や、颯太の視線を受け、一度口を噤む。


「……怪我、しないでね」


 それだけ口にし、クインは踵を返して走って行った。颯太自身、何か確信があってクインを外に出したわけではないが、熱気と怒号、悲鳴で彩られたテントの中よりは、ずっと魔導の行使に集中できるだろう。クインの姿が見えなくなるまで見届けて、颯太は駆け出した。

 従業員同様、鍵を用いて檻を開けて回ることはできない。対応する鍵などわからないし、下手に戸惑っては避難の邪魔になるだけだ。

 颯太なりのやり方で、ひたすらに檻を開けていくしかない。


「蹴り壊せたりしねぇか、なっ!」


 勢い任せに鉄格子を開くように蹴り飛ばしても、当然ながら颯太程度の前蹴りでは歪むこともない。中にいた火に怯える奴隷を、必要以上に怖がらせるだけだ。


「やっぱり錠前をなんとかしないとダメか……」


 焦る気持ちのまま、颯太は檻の開閉口にかかった錠前を睨みつける。見た目は南京錠によく似ていて、おそらく内部の構造も同じだろう。

 どちらにせよ、殴って壊れるほど安っぽい造りはしておらず、颯太は悪態を吐きたくなる気持ちを歯噛みして押さえ込む。

 奴隷市場の従業員は慌てながらも、着実に、順番に檻を開けて奴隷を逃がしていた。とはいえ、回る火のペースには遠く及ばない。

 確実に、間に合わない。その事実が颯太の精神をどんどん圧迫していく。


「……頼むぜ、異世界超常現象」


 懇願のような言葉を吐いて、颯太が錠前を掌で覆うように握り締める。


「――風よ」


 使い慣れ、一番イメージが容易となったマナを空気、風に変換する魔法。颯太の掌から放出されるマナは風となり、握り締めた錠前の鍵穴に入り込み、滞留、収束していく。

 量は多くなくなっていい。どの道マナはそれほど残っていない。その分、研ぎ澄ますように。


「弾、けろ!」


 颯太の言葉を号令とし、収束した空気が一気に炸裂する。耳障りな金属音が鍵の内部で響くも。


「くそっ、ダメか……!」


 威力が足りなかったのか。そもそも方法が間違っているか。錠前は砕けることも外れることもなく、未だ鉄格子を開くことはない。颯太は錠前を握る手に更に力を込め、再度マナを放出する。

 圧縮された風が錠前内部で音を立てて破裂した。そうしてやっと目に見えて走った亀裂に向けて、颯太は檻の中に置かれた奴隷用の食器を叩きつけた。鉄のような、金属性の食器は甲高い音を立てて錠前とぶつかる。更に広がった亀裂を睨みつけながら、颯太は力任せに錠前を引っ張った。


「これを、あと何回だ……?」


 ようやく外れた錠前を放り捨て、颯太は檻を開ける。中にいた奴隷……まだ若い、青年ぐらいの見た目をした男は、突然壊された鍵や開け放たれた扉に恐怖を覚えながらも、それよりも確かな熱量を持って襲い掛かる恐怖、燃え盛る火炎から逃げるために檻を飛び出した。

 颯太が一つの檻をなんとか開ける間にも、火は依然として燃え盛っている。奴隷市場を覆うテントの外から消火活動は行われてはいるものの、現状を瞬時に解決できるわけではなかった。焦る気持ちのまま、颯太は次の檻の錠前に飛びついていく。

 助けなきゃいけない。颯太の内心はその意思で一杯になっている。その発端は、紛れもなく罪悪感によるものだ。

 自分が奴隷を見逃さなければ起こりえなかった惨事。自分が捕まえる手伝いをした奴隷が、報復として放った火炎。

 颯太の行動を起因とした惨事だというのに、颯太自身に被害はない。見えもしない存在に、報復が向かうことはない。

 そのことが、颯太はただひたすらに許せない。捕まえようとしたのも、その末で見逃そうと決めたのも颯太だ。ならば、その報いは颯太自身に向かってこなければならないはずなのに。現に苦しむのは熱と煙に巻かれながらも懸命に助け、逃げ出そうとする奴隷市場の従業員と、そこで罪を贖おうとしていた奴隷たちだ。

 だから、颯太の行いは決して善行などではない。底にあるのは颯太の善性によるものだとしても、その行いは善行などではありえない

 颯太の顔を歪ませる最大の要因は、火炎による熱と煙ではなく、罪悪感なのだから。

 熱と煙に巻かれながら、自身の体内のマナを搾り出しながら、喘ぎ苦しみながらも颯太は檻から奴隷を解放していく。独りでに開いていく檻に奴隷も従業員も不思議に思いながらも、すぐにその疑問は火に追いやられ、忘れられていく。


「もう、これで……全部か……?」


 颯太が立つ位置から見える範囲の檻は全て解放され、従業員の姿も奴隷の姿も見えない。

 安堵のため息になんか吐いてる場合じゃないと、颯太は両足に力を込めて立ち上がる。逃がしたのはいいとして、自分が逃げ遅れては話にならない。

 それでも。最後に逃げ遅れた誰かはいないかと、不安になって走り回って。


 檻の中でただ一人。涙を流して座り込む、小さな女の子を見つけてしまった。


「……は?」


 熱に浮かされた幻か、マナ不足による眩暈のせいか。自分の視界に映った光景が信じられない。


「たす、けて」


 か細い、けれど確かに聞こえた、声。


「な、んで……」


 思わず紡がれた疑問の言葉。目を見開く颯太の視界には、どうしたって檻の中に小さな女の子が蹲っているようにしか見えない。

 肩まで伸びた亜麻色の髪に、頭部に二つ、猫科のような耳があった。人間と獣人の混血、亜人としての特徴はその耳にしかなく、青空のように澄んだ蒼い瞳には涙を溜め、小さな口元は恐怖に震えている。奴隷に着せられていたぼろ布とまではいかないまでもみすぼらしい服には、焼けた煤がついて黒くなっていた。

 年端もいかない、まだ少女としての段階に入るか入らないかの年齢にしか見えない女の子。

 いつのまに。いつから。どうして誰も気づかなかった。あんな小さな女の子の奴隷、気づかない方がどうかしているのに。そもそも、あの位置にあった檻は――

 そんな疑問は、すぐに飛び散った。


「助けて……」


 少女が助けを求める。鉄檻と火に囲まれながら。恐怖に顔を歪ませながら。迫り来る熱に怯えながら。

 涙を蓄えた青い瞳が、颯太を見つめて。


 ――颯太と少女が、助けを求めている。


「ああ、ちくしょう!」


 泣き言のような、情けない声を上げて颯太は走り出す。

 すでに火は回りに回り、颯太も無事に逃げ切れるか怪しい段階へと差し掛かっている。それでも颯太の足は燃え盛るテントの外ではなく、檻へと向かってしまう。

 助けを求められた。助けを求められたのだ。他の誰でもない、自分に向けて。

 誰に気づかれなくても、誰に求められなくても。燃え盛る火炎の中万全ではない体のまま奴隷を助け続けていた颯太に向けて。

 ならば、水際颯太はそれを払いのけられない。

 なぜ颯太の姿が見えるのか。そんな疑問はすぐに熱に追いやられてどうでもいい。


「大丈夫だ! すぐ、助けるから!」


 努めて明るく、笑顔で自分自身への鼓舞も込めた言葉を少女に言い放つ。少女を閉じ込める檻の錠前を飛びつくように握り締め、後先など考えずマナを全身から掻き集めるように意識を振り絞る。

 時間をかけている場合ではないし、自身の限界などすでに蚊帳の外だ。


「風、よ……!」


 このまま枯れ果ててもいいと思うぐらい、マナを空気に変換して錠前に叩き込み、


「弾けろぉ!」


 何かが砕けるような感触。掌の中で錠前の内部に亀裂が入るのを確認するよりも早く、颯太は錠前から手を離し、全力で蹴りつけた。自身の体の姿勢を制御できないほどの疲労と、周囲の熱によりふらついて朦朧とした意識は颯太の足の踏ん張りを許さずに、蹴りつけた勢いそのまま地面に倒れこむ。

 だが、鍵は壊れ、中の奴隷は解放される。


「……ほら、早く、逃げて」

「で、でも……」


 倒れたまま動かない颯太を見て、心配する側だった奴隷の少女が、逆に颯太を気遣って逃げられなくなっていた。本末転倒だな、と思いつつも、颯太の体は自分の意思に反して起き上がろうとしてくれない。

 高温の場所での奔走に、マナの枯渇。体力も気力も底を尽きたのか、起き上がりたくても体に力が入らないのだ。顔に浮んだ脂汗に気づかないまま、颯太は少女に向けて笑みを作る。


「君に抱えて行ってもらうわけにも、いかないしね……」


 颯太の体は年齢としては比較的小柄だとはいえ、それよりもずっと小柄で非力な目の前の少女が抱えていけるほどではない。

 火は依然として迫っている。猶予なんて、颯太と少女が目を合わせる前からとっくにないようなものだ。それでも、体が動いてしまったのだから仕方がない。

 なぜ颯太が見えるのか。彼女も何か、ゴーストと何らかの関係があるのか。疑問が尽きないが解消する暇もなく、颯太は少女に避難を促すことしかできない。


「い、いや、です……!」


 助けてもらった恩か、一人だけ逃げるわけにはいかないという善性によるものか。颯太の提案を今にも泣きそうな顔で首を振って断ってしまう。気持ちはありがたいが、共倒れしてしまっては颯太が限界を超えた意味がない。


「助けてもらっておいて、見捨てることなんて、できません……!」


 幼い見た目ながらに立派な口上を並べ、少女が颯太の傍に膝をついた。


「そんなことをしてしまったら、僕はもう、幸せになんてなれない!」


 悲観と、決意。その両方の感情を併せたような、泣き言染みた言葉を吐き出して、


「……もう、見捨てるのは、嫌です」


 倒れ伏す颯太の手を取って、無理矢理にでも引きずろうとする。その少女らしからぬ熱意と迫力に圧されたのもあったが、そもそも全身に力が入らず自力で起き上がることもできない颯太は、ズリズリと引きずられていく。だが、その速度よりもずっと火の回りの方が早いのだから意味はない。

 せっかく助けようとした命が、自分の体たらくのせいで助からないなど、それこそ意味がない。


「くっ……そっ」


 体のどこにも力は入らないけれど、心には込められた。

 なけなしの気合を振り絞ろうと決意する颯太の頭上火の回る奴隷市場のテントの更に上で。


 一年分の雨を凝縮して放ちました。と言わんばかりの雨量に匹敵する雨が、轟音を上げて降り注いだ。


「お、おおおぉ!?」


 天変地異を思わせるほどの突然の豪雨。降り注ぐ水滴はかなりの大粒で、バケツをひっくり返したかのような水量が燃え盛るテントに降り注ぐ。圧倒的なまでの水量は全てを焼き尽くしかねない業火ですら押し潰し、音を立てて掻き消していった。

 そうして、後に残ったのは焼け焦げ、墨と化したテントの骨組みと。水流に耐え切れずに倒れ伏す、颯太と少女の二人。


「ご、ごめんね! やりすぎちゃった!」

「……うん、まぁ……グッジョブでは、ある」


 その二人の元に駆け寄ってくる、黒衣のローブを身にまとったクインの姿を見て、颯太はついに力尽きた。

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