6


『ねぇ。ねぇってば!本当は起きてるんでしょ?』


『、、、、、、』


『結局は私のことなんて、なんとも思ってないんでしょ?』


『、、、、、、』


『、、、もういい。なんでこんな、、、。』


 最後は声にならない息を吐き、さよならも言わずに彼女は行ってしまった。


 僕が彼女に費やした五年間は一体何だったのだろう?ただ、それは彼女に於いても同じ事が言える。そして僕が真っ先に損得勘定で考えた事も不思議に思った。

 僕は横になりながら、枕と毛布で耳を塞いだままの芋虫のような姿で考え続けた。


 この人生で、僕は何をやっているのだろうか?


          ○


 終電前にバーを出て、駅へと向かった。

『今日は色々聞いてくれてありがとう。少し気が軽くなったわ。またゆっくり話そうや。』

と、大田は笑顔で手を振った。


 一人になると、その日の大田とのやりとりをゆっくりと思い出しては、上から目線で無責任だった発言を反省した。そういえば、高校生の頃も一日の終わりに、自分の言動に間違いがなかったか、いちいち反省していた事があったなぁ。反省というよりは、怯えていたという方がニュアンスは近いかもしれない。何に怯えていたのだろう?


 ゆっくりと帰りたい気分だったから、普通電車に乗り込んで、窓の外の景色を眺めていると、明石海峡大橋がしなやかに色を変えて光っているのが見えた。

『綺麗、、、』と思わず声が出て、きまりが悪いように頭を掻いた。ただ、その景色が与えてくれた視覚的な印象は、心に潜んだ暗い部分、もしくは心にポッカリと空いてしまった部分に悠然とした温かみを残してくれた。


 そして僕はいつも通り明石駅で降りた。北出口へと歩いていく。僕はその時、ある程度お酒に酔ってはいたが、記憶が曖昧になる程飲んでいた訳ではない。ちゃんと意識もはっきりとしていた。

 だからその後の明石公園での出来事は、夢ではないはずだ。おそらくは、、、。



          7


 いつも明石駅から家に帰る時、不気味なほどひっそりとした、暗い明石公園の中を通る。(もちろん、昼間は老若男女問わず多くの人が訪れ、賑わっている。)音楽を聴きながら歩いていれば特に気にならないが、城跡を囲む木々や冷たい色をした競技場が視界に入ると、心が締め付けられるような、おぼつかない感情を抱いてしまう。

 その日は音楽プレーヤーの電池が切れてしまっていた。


『やっぱりこの道は怖いなぁ。』

 そう呟いて、鼻歌を歌ったら恐怖心が少しでも紛れるかと思ったが、あまり効果はなかった。様々なところに潜む影から、誰かがこちらを覗いているような気がする。頭上を通り抜ける風が大きく木を揺らして、低く不穏な音を立てた。


 ふと背後に、何者かの気配を感じ取ったのはその時である。

 僕は何も考えずに、勢いよく振り返った。


 その一瞬、身体が硬直した。目の前にはうっすらと光る一匹の狐がいたのだ。

 確かに表面が光っている。薄く青白い膜を形成しているような状態で煌めいている。僕は新しい現象を発見した研究者のようには喜べず、ただただ恐ろしいものを見るような態度で、立ち尽くしていた。どちらかというと、『こんな街中にも狐がいたのか。』という内容で驚きたかった。この光はいったい何だろう?ありきたりなやり方で何度か目を擦ってみたが、相変わらず狐は光ったまま動かずに、こちらをじっと見つめている。


 どれくらい時間が経ったのだろう?この狐と出会ったのがついさっきだったようにも思えるし、何十分もの間見つめているようにも思えてくる。それくらい、何も動きがなかった。すると不思議な事に、この発光している狐に対して、全く違和感を感じなくなってしまった。不安感を抱くどころか、むしろ心の落ち着く色をしているし、何も危害を加えてこない。夜も遅いこの暗い公園の中で、どこか親近感を持ってしまったのだろう、僕は深く考える事なく、『どうしたん?』と、語りかけてしまった。


 やはり、それがこの狐にとって良くなかったのか、何も言わずに小走りで北の方へと向かってしまったが、追いつけない速度ではなかったので、僕もその後ろをついて行った。

 

 狐は公園の中央にある大きな剛ノ池の前ですっと立ち止まった。池にはやつれたような顔をしたスワンボートと、滲んだ月明かりが一緒になって揺れている。それをただ何もせずにじっと見つめる狐が、やけに人間らしい佇まいをしていると感じた。風が止み、池を囲んでいるあたり一帯が、しんと静まる。時間までもが止まってしまったかのような景色の中で、ゆっくりと狐の足が動くのを見た。

 

 その時、僕はとうとう自分の目がおかしくなってしまったのだと思った。


 狐が池の上を歩いている。ゆっくりと、確実に、一歩ずつ歩いている。

 身震いするほどの驚きと共に、何が起こっているのか知りたいという欲求が強く湧いて、僕は池のへりまで走っていった。

 狐の足は、水面ぎりぎりで少し浮かんでいるように見える。池には何の変化もない。そして音もしない。ただそこに道があるかのように進んでいく。少しすると池の真ん中あたりで立ち止まり、月明かりに照らされて、体の青白い光が周りの空気と溶け合った。

 すっと狐が後ろを振り返ると、小さな二つの目がこちらを見ていた。その時、まるで人間が喋るかのように口を動かしたが、何も聞こえなかった。


 そうして何の前触れもなく、狐は姿を消した。青白い余韻が僕の頭いっぱいに広がる。



          8


 茜音について少し記しておく。


 僕と茜音の五年続いた関係は呆気なく終わった。大田と会った前日に別れたが、もうそれ以前から修復できないくらいに、お互い興味も関心もなくなっていた。何か一つでも大きな要因があるならば、その点において解決へと努力することができたかもしれない。でも僕達はいつからこのように関係が悪くなってしまったのか分からない程、『些細な事の積み重ね』に原因があった。そう思っているのは僕だけなのかもしれないが、、、。そのような曖昧な態度も僕の悪いところだったのだろう。


 最後の夜、僕の心に残された僅かな愛情は、頑なにそれを食らおうとする意地っ張りな自分に負けてしまった。そして強がりな茜音がなんとか絞り出した我儘な優しさに沈黙を貫いた。いや、貫いたというよりは、沈黙に逃げたという方が正しい。その優しさに甘えてきた自分にも嫌気がさしていた。


 もちろん結婚を考えていた頃もある。茜音と一緒に人生を歩む事が、他に何も要らないくらい、幸せなのだと信じていた。そう思う事しかできない程に、僕が能天気だっただけなのかもしれない。本当に考えが甘く、幼かった。そして、あまり干渉しなくなっていくと、茜音の事を考えているよりも気が楽になった。


 ただ、すべてを失った今、僕にはなにが残っているだろう?

 一本道の人生に大きな壁が行き止まりとなって現れた。引き返す事は決してできない。無情にも壁は時間と共に迫ってくる。そして気がつけば、押しつぶされそうな程目の前まで来ていた。

 茜音と別れた瞬間、あらゆる責任から逃れられたという解放感を得る代償に、先の見えない人生と沢山の思い出から来る叱責に目眩がした。僕はもう、全ての事から目を背けていたが、避けたいものほど強く目蓋の裏に焼き付いている。何をしても駄目だと悟った。


 他の人から見れば(もしくは以前の自分から見ても)、そこまで追い詰められるような状況ではないのかもしれない。しかし、巡るように陥ってしまった悪循環からはなかなか抜け出す事はできない。


 無責任にも『死にたい』と呟いたのは、これもまた自分の中で精一杯の“逃げ”だったのだろう。心がどんどんと窮屈になっていく。



          9


 子供の頃から、具合が悪い時や辛い事があると、決まって同じ夢を見る。妙な狐と出会った後もその夢を見た。


          ○


 真っ暗な空間で、重力も働いていないからどこが下なのかも分からず、ただずっと浮かんだまま、なぜか常に不思議なイメージに対して怖がっている。そのイメージとは自分でも判然としないもので、何故か大きな辞書のような本に挟まれてしまうというイメージだ。挟まれる寸前のすっと胸が冷えるような感覚が繰り返される。

 そんな中、身の回りにぽつぽつと小さな丸いものが無数に現れている事に気付く。目を凝らしてよく見てみると、その一つ一つは様々な模様の時計だと分かる。それぞれが異なる時間を示しているのも気味が悪い。次第に秒針の音がチクタクとうるさくなり、僕は必死に両手で耳を塞ぐ。しかし、音はむしろ大きくなる一方で、無闇に足をバタつかせてその空間から抜け出そうと試みるものの、身体はどこへ動く事もできない。

 苦しい時間が続いた後、不意に音が止む。僅かながら安心して、あたりを見回すと先程の時計が全て、十二時を示して止まっている。何事もなかったように止まっている。その光景は美しくもあるが、僕はこの時計が嫌いだ。

 僕を嘲笑っているように見えるのだ。


          ○


 そしてこのタイミングでいつも目が覚める。背中には大量の汗をかき、シャツが気持ち悪いほど濡れている。


 またこの夢を見た。一体、これはなんなのだろう?

 デジタルの時計は三時半と表示している。窓を開けてベランダ越しに、遠く広い夜を見た。朝がなかなか見えないその暗さに、大きなため息を一つ浮かべて、曇った心を漂わせる。碌でもない人間の疲れ切った祈りのように思えた。



          10

 

 次の朝、久しぶりに近くを散歩しようと思って家を出た。今日も仕事が休みだ、と呟くと少し身体が軽くなったような気がした。一日中何も予定が無いのは若干虚しくもあるが、とても自由なのだと感じる。目線も自然と上向く。自分自身に対して大きな責任も伴うが、人生においてもこのような価値観でいられたらと思う。

 大きな川沿いを歩くと、海の匂いがした。朝の心地いい光が川に反射して、味気ないアスファルト道が煌びやかに見えた。

 綺麗な景色の中を歩いていると、頭の中を空っぽにする事ができる。悩んでいた事も全部忘れてしまう。それが良いと断定するわけではないが、疲れた頭には良いリフレッシュになる。そして、すっきりとした頭に一番はじめに流れ込んでくるのは音楽だ。

 胸を打つ、弾けるようなリズムに心を踊らせ、鼻歌まじりで歩いていく。十代の時に聴いていたものや、時には未だかつて聴いたことのない、即興のオリジナルの歌も流れだす。


 気分良く橋の横を通った時、頭の中の音楽を掻き消す程の柔らかい音色を聴いた。ギターのような和音を奏でる楽器をバックに、暖かくて抑揚のあるメロディーを、優しい声が歌っていた。なぜか、森の中の滝を目の前にしているような貴さがあった。


 誰が歌っているのだろう?とても気になった。こんな所で路上ライブをしている訳ではないだろう。

 あたりを見回しても、誰もいない。河川敷にも(河川敷といっても草が無造作に生えていて決して綺麗とは言えない。)誰もいない。少し道から下りて、橋の下も確認したが雀が三羽いただけで、人の気配はない。ただ、歌がこもって反響している。何もないところから歌声が湧いていて、不思議な感覚だ。僕はマジックのたね明かしを待つ子供のように、心が落ち着かなかった。


 一曲が終わった後は、何も聴こえなかった。結局、時間をかけても謎を解明できないまま、川沿いを歩き始めた。


 とても良い歌だった。

歌詞はただずっと『あなたに会いたい』と言い続けていた。


 


 



 

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