4 現世界

 静寂に包まれた夜の公園は閑散として人影はなく、笠を被ったのっぽの照明灯が一つ、ぼんやりとその足元を照らしているだけだった。その公園を、どこからか入り込んだ野良犬が、餌でも探しているのか、それとも縄張りの点検中か、地面の匂いをしきりに嗅ぎながらとことこと歩いていた。その犬が、急に顔を上げた。鼻を突き上げてひくひくとさせ、両の耳を忙しなく右へ左へと向けている。すると、突然、ある空間の一点が歪み始めた。それは波紋のように広がって、見る見るうちに照明灯を覆いつくした。照明灯の支柱がゴムみたいにぐにゃりと波打って、また、その向こうに見える夜空や木々があり得ない形に変形した。その異様な光景に、危険を察したのだろう。野良犬は尻尾をぴんと逆立てて、左右に激しく飛び跳ねながら、ガウガウと唸り、そして吠えたてた。やがて、その波紋の中心に何かが現れて、ぷっと唾を吐き出すようにしてそれが飛び出した。驚いた犬は後方へ数メートルほど走って逃げて、安全なところで立ち止まると首を目いっぱいに伸ばして、出てきたそれを警戒の眼差しで見つめた。ほどなく、波は小さくなっていき、現れた時みたいに突然、ふっと消えた。

 その何かはむくりと起き上がり、両手、両膝を地面について四つん這いになった。野良犬が、その何かに対して、どんな風に興味を持ったのかは定かでないが、ともかくも、十分に注意を払いながら近づいてきた。その何者かもそれには気が付いて、近くにあった手ごろな石を掴むと犬に向かって放り投げた。

「あっちへ行け。僕はお前の仲間じゃないぞ!」

 男は投擲が得意ではないようで、石は犬からだいぶ離れたところにボトンと落ちた。犬は驚いて立ち止まったものの、その石礫を見て、フンッと小馬鹿にしたように鼻を鳴らしたのち、再び歩き出した。男は悪態をつきながら立ち上がった。すると、犬は歩みを止めて、鼻をぴくぴくとさせながら男の出方を窺った。男は、犬を追い張ろうと、駆け出すような仕草で二歩、三歩とステップを踏んだ。すると犬はくるっと向きを変え、数歩走ったところで立ち止まり、振り返って男の様子を確かめた。男は、そこに立ち止まったまま、威嚇するように犬を見つめ返した。すると、ついに、犬は興味を失くしたらしく、くるっと向きを変え、すたすたと公園の奥へと小走りに駆けて行った。

 男性は、長々とため息を吐き出して、ぐるりと辺りを見回した。暗がりの中、僅かに浮かび上がる光景に記憶が蘇ってくる。そこは、彼が子供のころによく遊び、そして現在も、通学路としてよく通る場所だ。あちらの世界に飛ばされてからどのくらい経ったかわからないが、遊具やベンチ、木々の様子など、以前となにも変わらない。彼は、公園を抜けて細い道を歩いた。街灯がぽつりぽつりと道を照らして、十分に夜は更けていたが、深夜というほどには遅くはなく、家々の灯もまだまだ明るかった。

 彼は、何度も行き来した、馴染みのある道を進んで、周囲に比べれば少し大きめの、立派な家の前に立った。表札には阿良田とある。鉄製の門は閉じられているが、一階の窓からは明かりが漏れているので、住人が在宅していることは間違いなさそうだ。彼は門扉に手を掛けて、それを開こうとして躊躇した。どんな顔で彼女に会えばよいのかわからなかったからだ。きっと叱られるだろうが、そんなことはどうでも良い。それよりも、大変な心配をかけてしまったことが本当に申し訳なかった。だから彼の両足は、瞬間接着剤で地面に引っ付いてしまったかのように、ぴくりとも動かなくなってしまっていた。

「雄星?」

 女性の声が聞こえて、はっとして彼は振り向いた。母親が立っていた。少しやつれたようで、頬が少し影を落としていた。彼女は目を丸く見開くと、次には厳しい目つきになって、つかつかと歩いてきて、息子の頬を強くひっぱたいた。それは、お隣さんが驚いて外に出てくるのではないかと思えるほどに強烈だった。それははたから見れば、ただの暴力と映るかもしれない。が、次の彼女の行動が、そうではないことを物語っていた。彼女は涙腺から溢れ出る涙でその目を濡らすと、飛びつくようにして愛息子の体をひしと抱きしめた。その存在を確めようとするように。そしてもう二度と逃がすまいとするように。

「どこに行っていたの? 何日もあなたたちを探していたのよ」母親は涙声でそう言うと、両手で息子の顔を挟み込んだ。その手は少し冷えていた。今も、息子たちを探して歩き回っていたに違いない。彼はぐっと胸が熱くなるのを感じた。彼女は息子の顔をじっと見つめて続けた。「ともかく、無事でよかったわ。怪我はしてない?」

「う、うん……」

 雄星は泣きそうになるのをこらえながら答えた。

「道正はどこ? 一緒じゃないの?」

 母親は雄星の背後に目を向けた。そこには夜の帳があるだけだ。

「あいつなら無事だよ。こっちには今は来れないんだ」

「こっち?」

「話さなきゃいけないことがたくさんあるんだ。話を聞いてくれたらわかるよ」

 雄星が答えたところで腹が鳴った。地下牢では満足に食事も与えられていなかったから、実を言えば、お腹と背中がくっつきそうなほどに腹が減っていた。

「ご飯を用意するわ」母親はいつもの優しい笑みを浮かべた。「それがすんだら、お話ししましょう」


 我が家というのはやはりいいものだ。他では決して感じることのできない、暖かさと安心と言うものがある。無論、他がだめだと言うことではない。しかし、生まれ育った場所というのは多分に違うものだ。だからそこにいるだけで、安堵感に心が満たされた。

 母親の作る料理は決して豪華ではないが、いつでも十分においしく、彼の空腹を満たして笑顔にさせた。あちらの世界の料理もまずくはなかったが、母親の作る手料理と言うものはなんといっても格別だ。父親にも弟にも食べさせてやりたかったが、父親はもうそれも叶わず、弟もどうなるかわからない。それを思うと、心を暖めていた温もりも次第に熱を失って行った。

 それを鋭くも感じ取ったのだろう。母親が言った。

「なにがあったの?」

 雄星は事の顛末を話して聞かせた。自分や弟、そして父親に起きたすべてのことを。包み隠さずに。

 彼女は往々にして、驚きと興奮の入り混じった表情で話に聞き入っていたが、やはり夫の段になると、顔を両手で覆ってさめざめと涙を流した。知らされた事実は大きな衝撃となって、彼女の胸を鷲掴みにした。そして鋭い鉤爪はその心に深く食い込んでもいただろう。その姿に、雄星もまた、心苦しさを感じた。

 そうして、一しきり落涙したのち、彼女は涙を拭って言った。

「お父さんの事なら気にしないで。あなたたちに責任があるわけじゃないんだから。二人が生きていてくれる。それだけで十分よ」

 彼女は腕を伸ばして、息子の手に自分の手を重ねた。彼女は言った。

「ただ、道正のことは心配ね。それと、その、ラント王とかいう人のことも。危険なことに巻き込まれたりしていなければいいのだけど」

 彼女が心配するのもの無理からぬことだ。が、彼らは既に、巻き込まれていると言っていい。二人とも、あちらの世界と深く関わり合いを持ってしまっている。今後、否応に拘わらず、引きずり込まれていくだろう。おそらくは、互いに、敵同士として。

「あいつは、そんなことは気にしてないと思うよ」

「どうして?」

「あいつが、父さんの後を継ぎたいと思っていたのは知ってるでしょう? その父さんが死んで、後釜に座ったわけだから、喜んでいるに違いないよ」

「そんな風に言うものじゃないわ」彼女は兄を嗜めた。「あの子だって、父親を失って平気なわけがないわ。あなたなら、同じ立場に立った時、笑っていられる?」

 雄星は答えず口を噤んだ。母親は続けた。

「あなたを助けのだって、贖罪の気持ちがあるからよ。当然よね。たった一人の血を分けた兄弟だもの。助けたいと思うのが普通よ。あなただって、逆の立場なら同じことをしたんじゃない? だからあなたも、あの子のことを許してあげて」

「それはわからない」雄星は首を左右に振った。「まだ、気持ちの整理がついてないんだ」

「そうね」母親は頷いて「ゆっくりでいいわ。よく考えなさい」と、重ねた息子の手を指先で優しく叩いた。

 雄星は、うん、と小さく頷いてから、言った。

「一つ、聞いていい?」

「ええ。いいわよ」

「母さんはどうして、道正が後を継ぐのを認めなかったの?」

「道正だけではないわ。あなたもよ」彼女はテーブルの上で手を組み合わせた。そして、不安感をその顔に浮かべて続けた。「あの研究には危険が伴うわ。事実、あの人はあんなことになったわけだから。もっとも、結局はあちらで生きていたわけだけど。でも、だからと言って次も安全とは限らない。命を失うかもしれないし、上手くいったとしても、まったく別の世界に飛ばされて、戻ってこれないかもしれない。だから私は、あなたたちをそんな危険な目に会わせたくないの。もう、誰も失いたくないのよ」

 親なら子供たちのことを最大限に思うのは当然の事だろう。最愛の夫を失っているのなら尚更だ。親として、護りたいと思うものだし、無論、責任もある。だから、彼女の思いは息子である彼にも十分に理解できるものだった。

 彼女は続けて言った。

「でも、私のそんな思いが、あの子を苦しめてしまったのね。もっと信じてあげるべきだったわ」

 彼女はそこで、静かに、短く息を吸い込んだ。その表情には、不安の色に変わって、決意が浮かんでいた。

「だからもう、子離れすることにするわ。あなたも、なにかしたいことがあるなら、自分の好きなようにするといいわ。私も、静かに見守ることにするから」

 息子は頭を振って「僕たちの方こそ、母さんの気持ちも知らないで……」

「それはお互い様だわ」母親はにこりと微笑んだ。「難しいものね。親子って」

 親の心子知らず、という言葉があるが、その通りだろう。概して、子というものは、親の思いには気が付かないものだ。しかし、それは逆の場合も当てはまる。親もまた、子の思いには気づきにくい。難しいところではあるが、こうして、思いを伝え合えたことは、親子にとって良い事だったろう。

 彼女は軽く手を打ち合わせると「さて、お片づけをしなくちゃ。お風呂も沸いているから、じっくりと体を温めなさい。そして、今夜はゆっくり休むといいわ。あなたのお部屋はそのままにしてあるから」と、食器を集めてキッチンへと向かった。

 雄星は、その姿、その背中をじっくりと眺めてから、疲れもあったのか、少々、年寄じみた風に立ち上がると、浴室へと向かった。


 あちらの世界で半年ほどを過ごしている間に、こちらでは既に一年近くが経っていた。テレビ番組はすっかり様変わりしていて、友人たちも、髪型が変わったり、あるいは恋人ができているなど、様々に変化を遂げていた。彼らには、事の仔細は話していないし、彼らもそれを追及しようとはしなかったが、しかし、こうして言葉を交わしていると、自分が如何に心配をかけていたかというのが痛いほどわかる。皆、怒ってはいたが、その反面、優しくて、その思いに触れると涙がこぼれた。彼の母親は、息子たちを失いたくないと言った。それは、彼にとっても同じことで、この愛すべき友人たちを護りたいと思ったし、そして、共に年老いていきたいとも思う。それを、あんなくだらないことのために邪魔されたくはない。絶対に止めなくては。


 夕刻、雄星はソファーに腰かけてテレビを見ていた。キッチンにはエプロンを腰に掛けた母の姿がある。彼が戻ってのち、彼女は仕事を早く切り上げて、多くの時間を息子と過ごすようにしていた。いつもなら、夫の遺志を継ぐという使命感と、家族を支えなければという責任感から、まだ仕事をしている時間だが、一時的とはいえ、息子を失ってみて、その共通の時間がとても大事であることに気が付いたのだろう。親というものはとかくそうしたことに疎くなりがちではあるが、痛みを伴って初めて、それに気が付くというのは何とも皮肉ではある。

 そうして、久々の、あるべき日常に身を委ねていると、突然、部屋の一角の、何も無いはずの空間が、水がたゆたうように歪み始めた。それは波のように広がって、波紋となってそこに円を描いた。母親の息を飲む声が聞こえた。

「これって……?」

 彼女は、驚きすぎて心臓が飛び出さないようにとでもするように、口元を両手で覆って、絞り出すように言った。

「そう。これが”ドア”だよ」

 道正は立ち上がって言った。

「これが?……」母親は、ふらふらと波紋に近づいて「これであちらと行き来ができるの?」

「そう。こっちではまだ”ドア”は開けないから、あちらの世界の誰かが開いたみたいだね。これを通れば、あちらに行けるよ」

 母親は波紋に近づいて、興味深げに覗き込んだ。驚きは消えて、研究者の顔になっていた。当然だろう。長年、これを夢見て夫と共に研究を続けてきたのだ。それを目の当たりにして、科学者魂に火がつかないわけがない。

「あの人がこれを完成させたのね」

 感慨深げな顔で彼女は言った。

「うん。あっちの世界の科学力はすごいんだ」

「こちらでも創れるかしら」

「どうだろう」雄星は首を傾げた。「ただ、データはあるから、不可能ではないかもしれないね」

 母親は頷いて手を伸ばそうとした。それを息子は制した。

「母さん。母さんまで向こうに行ってしまったら、誰が僕らの帰りを待つの?」

 母親は手をひっこめて、暫し息子の顔を見つめたのち、悟った顔つきで言った。

「行ってしまうのね」

「やらなきゃいけないことがあるんだ」

「あなたじゃなきゃいけないの?」

 母親はわずかに抵抗を見せた。わかってはいたが、そう言わずにはいられなかった。

 雄星は頷いて「僕にしかできなことなんだ。わかるでしょう? それに、こういう時は、静かに見守ってくれるんだよね?」

 彼女はゆっくりと目を閉じて「ええ、そうね。その通りよ」そしてまたゆっくりと開いた。「わかったわ。でも、その代り約束して。無茶はしないこと。そして必ず戻ってくること。いいわね?」

「もちろんだよ」雄星は笑みを浮かべた。「道正を連れて必ず戻ってくるよ」

 母親は、うんと頷き、微笑みを浮かべて数歩後ろに下がった。

「それじゃ、母さん。行ってくるよ」

「ええ、行ってらっしゃい。頑張るのよ」

 母親はそうエールを送りながらも、引き留めようとするように息子の腕に触れた。しかしその腕は、彼女の手から滑るように離れた。雄星は波紋の輪の中へと足を踏み入れた。彼の体が空間に溶け込むように消えて、ほどなく全てが見えなくなった。数秒後、波紋は何事もなかったように消えて、そこには元の空間が広がっていた。母親は波紋があったその場所に立ってみた。が、なにもなかったし、なにも起こらなかった。彼女は涙を流しそうになったが、それを堪えた。息子が、必ず戻ってくると約束したのだから、それを信じるべきだろう。親が子を信じなくて誰が信じるのか……。彼女は、ふっと強く息を吐き出した。そしてキッチンに戻ると、エプロンを脱ぎ捨てて、研究所へと戻る準備を始めた。

 ”ドア”を抜けた先に待っていたのは、見知らぬ女性だった。年のころは雄星とほぼ同じ、背丈も変わらないくらいで、綺麗な髪飾りを髪に刺し、煌びやかな衣装を身に纏った、色白のかわいらしい少女だった。背後には使用人と思しき女性が控えているので、その様子から、おそらくは高貴な身分の出身だろう。少女がついと進み出ると言った。

「戻られないのではないかと心配しました」

「あなたは?」

「メアリと言います。ラント王の娘です」

「ラント王の? ということは、王女様?」

「はい。見えませんよね」

 メアリは少々はにかむ。

「ああ、いえ。一目でわかりましたよ。ただ……」

「どうぞ、遠慮せずにおっしゃってください」

「ラント王の娘さんという感じには……。柔和な印象を受けたので」

 彼女はくすっと笑って「そうでしょうね」と言ってから、一転して、厳たる顔つきで続けた。「私は父の考えには反対です。周りとは仲良くするべきなんです」

 雄星は頷いて「僕もそう思います。ところで、どうしてこれの使い方を知っているんです?」

「あなたの御父上から教えていただきました。もしものことをお考えだったようですね。事実、そのもしも、が起こってしまったわけですが……」

 メアリは表情を曇らせた。

「もしもって……まさか?」

 雄星は体が総毛立つのを感じた。

「はい」メアリは申し訳なさそうに目を伏せた。「昨日、父はあちらに軍を送り込みました。今頃は、既に準備が完了しているでしょう。本当はすぐにでもあなたを呼び戻したかったのですが、父の息のかかった者も何名か残っていましたので、その対応に手間取ってしまいました」

「どうして僕を?」

「あなたの御父上には、万が一の場合には”ドア”を破壊してほしい、と頼まれていました。ですが、厳重な警備の中ではそれも叶わず、そうこうしているうちに、父は軍を率いてあちらに行ってしまいました。そうなると、私にはどうすることもできず、ほとほと困っていたのですが、ふと、使用人たちが、あなたのことを噂していたのを思い出して、あなたなら、なにか助けになってくれるのではないかと考えたのです」

 なるほど、と頷きつつ、どうして父は、彼女にそんな重要なことを頼んだのだろうかと考えた。彼女は王族ではあるが、深く政治に関わるような立場になく、後宮の奥にあって、日々、面白おかしく過ごしているような、そんな身分の人間だ。とてもこうしたことに適しているとは思えない。が、むしろ、それが良いと考えたのかもしれない。誰も、まさか彼女のような人間が、そうした大胆なことをするとは思いも想像すらもしていないだろう。そして、彼女の人となりに期待したのかもしれない。父王のしようとしていることに反対の意を示し、世界の行く末を憂いているその様子から、彼女になら任せてもよいと、そう考えたのだろう。

「でも、僕があそこにいるとどうしてわかったんです?」

「道正様に伺ったのです。お父上には、道正様のこともお願いされていたのですが、お父上を亡くされて、あなたまであのようなことに……。きっと、お気を御落としになっているのではと思い、私でよければ話し相手になって差し上げられればと、そう考えたのです。その際に、自宅に戻っているだろうと」

「弟はどんな様子でした?」

「落ち込んでおられましたよ。お父上をあのような形で亡くされた訳ですから……。あなたを助けるのが、精いっぱいだったそうです」

「そうですか」と雄星は呟くように言って、下唇を噛んだ。母の言葉が脳裏に浮かんだ。「弟は今どこに?」

「父に帯同しています。ほとんどの者がそうです。こちらに残っているのは、守備兵の一部と、私のような女子供と年寄りだけです」

「このことをヤナ王には?」

「まだです」メアリは頭を振った。「あなたの方から言っていただくのがよいかと思いましたので。私の話を聞いてくれるかわかりませんでしたから。それに、今は国元を離れるわけにはいきません」

「そうですね。わかりました。僕の方から話してみます」

「よろしくお願いします」メアリはぺこりとお辞儀をした。「私にできる事ならなんでも協力しますので、おっしゃってください」

 雄星はしばし思案したのち「では。さっそく、一つお願いが」

「なんでしょう」

「国境には守備兵がいるのですよね? こちらに来る際は、外交官が一緒でしたから通ることができましたけど、今度は僕一人なので止められるのではないかと思います。犯罪者ということになってますから……。そこでなんとか、無事に国境を越えられるよう、手配してもらえませんか?」

「わかりました。お任せください。こちらで馬も用意しましょう」

「ありがとうございます。助かります」

「いいえ」彼女は首を振った。「ご迷惑おかけしているのはこちらですから。なんとしても、父を止めてください」

「はい。必ず」

「では、思い立ったが吉日、ですね。確かそう言うのでしたね? 国境に着くころには、手筈は整っているはずです」

「わかりました。では、いずれまた」

「はい。道中お気をつけて」

 雄星はメアリに別れを告げたのち、用意された馬に乗って、急ぎヤナ国へと向かった。


「雄星! 生きていたか!」

 ヤナ王は玉座から駆け下りると、はしと彼を抱きしめた。

「すみません。ご心配おかけして」

 力強い腕に羽交い絞めにされて、少々息苦しいながらも彼は答えた。

「ラント王から使者が来てな。二人とも死刑にされたと聞かされた時は、行かせるのではなかったと後悔したが、うむ。無事でなによりだ。いや、しかし、本物であろうな」

 国王はそう言って、つま先から頭の先までをまじまじと眺めた。

「父上。本物に決まっているではありませんか。彼のような人は他にはいませんよ」

 カミラが言った。

「ほう。カミラ。随分と褒め称えるではないか。そんなに彼が気に入ったか?」王はにやりとした。「少しは女っぽくなったのかな?」

「父上!」

 カミラは悲鳴のように言って、顔を真っ赤にした。閣僚たちがにこやかに笑い声を上げる。頬をぷっと膨らませている愛娘をちらりと見遣りながら、王は言った。

「ともかく、本当に無事でよかったぞ。しかし、よく帰ってこられたな」

「メアリ王女に協力していただきました」

「メアリ王女? ラント王の娘か?」

 ヤナ王は驚いて目を見開いた。

「はい」

 雄星はそこで、事の次第を説明した。

「ふむ。それは大事であるな」

 ヤナ王は玉座に腰かけて、苦渋に満ちた表情を浮かべた。

「一刻も早く手を打たなければ、本当に手遅れになります。どうか力を貸してください!」

「もとよりそれに異存はない。我々にも責任はあろうからな。しかし、軍をあちらに送り込むともなれば、その”ドア”を使う必要があるだろう。が、それにはまず、国境を越えねばならん。そのためには、守備兵をなんとかしなければならんが……」と王は僅かに思案したのち、雄星を見遣り「メアリ王女に頼めないだろうか」

 雄星は頷いて「大丈夫だと思います。なんでも協力すると言ってくれましたから」

「よかろう。では、早速手紙を書こう。雄星、そなたには帰ってきたばかりで申し訳ないが、その手紙を持って、一足先に、メアリ王女の下へ向かってもらいたい。一人従者を連れて行くとよい。メアリ王女に協力してもらえるようなら、その者に返事を持たせて送り返せ。そなたはそのまま留まり、受け入れの準備をしてもらいたい。返事が来次第、我々は軍を進めよう」

「わかりました」

「ただし、我々が到着するまでの間に、妙な動きがあったら、すぐに国を出るのだぞ」

「了解しました」

 王は頷いて、イカリに目を向け「ロマノ王とリン王にも使者を送れ。場合によっては、救援を乞うことがあるかもしれぬ。と」

「承知しました」

「よろしい。では、皆の者。準備に取り掛かれ」

 ヤナ国の軍隊がラント国に入ったのは、雄星がラント国に再入国してから二週間ほどが経過してからのことだった。メアリ王女のおかげで、国境は無事に越えることができたが、人の移動にはそれなりに手間がかかることなので、ある程度、時間がかかるのは仕方がない。ただ、その間に、ラント軍の侵攻は着実に進んでいるはずで、多くの被害が出ているであろうことを思うと、口惜しさと心苦しさに胸が締め付けられそうになる。それ故に、一刻も早くと心が急くが、焦ったところで事態が好転するわけではない。それに、軍隊をあちらに送るとなると、いろいろと準備が必要だ。

「これが例の”ドア”か」

 ”ドア”を見上げてヤナ王が言った。その表情はらんらんと輝いている。持ち前の好奇心が顔を覗かせたようだ。

「はい。これを通って、あちらの世界に行けます」

 雄星が答えた。感嘆の声があちこちから聞こえてくる。研究室にはヤナ王の他に雄星とメアリ王女、カミラやトナミ、モラナにライルとロイルの兄弟、そして軍の各部隊の隊長が揃っている。全員が国を留守にするわけにはいかないので、イカリは国に残り、政務を代行していた。

「メアリ王女」ヤナ王は向き直り「此度のこと、ご協力感謝する」と頭を下げた。配下の面々もそれに習った。

「いえ、私の方こそ申し訳ございません」メアリは恐縮しきりと言った様子で大きく首を横に振り「父のしたことでお手を煩わせてしまうことになり、誠に申し訳ございません」と深くお辞儀をした。

「頭を上げてくれ。そなたに責任があるわけではなかろう。むしろ、我々の方にこそ責任はある。もう少し早くこのことに気づいておれば、防ぐこともできたであろうが」

 ヤナ王はそう言って、忸怩たる思いを覗かせた。

「父はごく一部を除いて、近しい者にも秘密にしていたようです。私たちですら気が付きませんでした」

「ふむ。そうであろうな」とヤナ王は頷いて「ところで雄星。我々が来るまでの間に、なにか変わったことはあったか?」

「いえ、特にはなにも。彼らが戻ってくるような気配もありません」

「ふむ。そうであろう。目的を果たすまでは戻ってくるまい。それに、激しい抵抗も受けているであろうからな」

「当然です。簡単にやられるわけにはいきません」

 ヤナ王は頷いて「が、そう長くは持たぬだろう。早々に発った方がよいであろうな」

「すぐに準備します」メアリが言った。「お待ちください」とさっそく作業に取り掛かる。

 あちらの世界とのインターフェースとなる、大きな輪っかの傍らに、腰ほどの高さの、四方が三十センチ程度の四角柱の物体があり、その最上部に、格子模様のパネルがあって、それぞれに、記号か或いは文字のようなものが描かれていた。彼女はそれを、まるでピアノでも弾くみたいな軽やかな手つきで操作した。指先で触れた部分が色とりどりに光って、テンポの良いリズミカルな動きと相まって妙に美しい。ほどなく、彼女は一旦、手を止めたのち、他よりは少し大きめの、赤いパネルにタッチした。するとまもなく、低い振動音が聞こえてきて、フィルムようなものが輪っかの縁に沿って現れて、それが中心部へと向かって徐々に収束していき、やがて一つに繋がって、一枚の透明な膜となった。膜は水面のようにゆったりと波打っており、どちらから覗いても、反対側がゆらゆらと歪んで見えた。

「これは、これは。はて、珍妙な」

 ヤナ王は目を丸く見開いて、らんらんと輝かせた。

「一見すると、透明な膜のようなものがあるだけに見えますが、これであちらの世界と繋がっています」メアリが解説する。「その膜のようなところを通ることで、あちらの世界に行くことができます。その逆もです。時間の指定はできませんが、場所の指定はできます。場所に関しては、予め、トナミ様と雄星様からご指定頂いています」

「うむ。面白い。して、その場所というのは?」

 雄星が答える。

「かつて城があった場所です。城壁と堀に囲まれていて、周囲からも見えにくいので、軍を隠すにはちょうどいいところだと思います。陛下は懐かしく感じるかもしれません」

「城壁と堀か。なるほど、確かに懐かしいな」

 トナミが補足する。

「敵からも近いですが、却ってそれがよいでしょう。まさか目と鼻の先に我々が現れるとは思っていないでしょうし、そもそも、我々が来ることを予測もしていないでしょうから」

「ラント王はどこにいるのだ?」

「議事堂です」雄星が応じた。「政治の中枢にあたる場所です。そこで指揮を執っているようです」

「ふむ。なるほど。よかろう。では、さっそく参るとするか」

「陛下、お待ちください」トナミが進み出る。「まずは部隊を先に送りましょう。陛下は一番最後にお越しください」

 ヤナ王はあからさまに不満げな顔をした。

「栄誉に浴する機会をわしには与えぬと言うのか?」

「いえ、そうではございません。陛下には部隊の指揮を執っていただかねばなりませんので、いきなりあちらに行って万が一のことがあっては作戦に支障がでます。それにこういう場合、まずは斥候を送るのが定石です」

 こう言われてはヤナ王も「ふむ。であるな」と頷かざるを得なかった。

「ではライル。あちらの様子を確めてきてくれ。よくよく見てくるのだぞ」

「承知しました」

 ライルは答えて、銃を肩に担ぐと輪っかの前に立った。傍に来ると、自分の姿が鏡みたいに反射して映るが、波打っているので歪んで見えた。ライルはごくりとつばを飲み込んだ。

「なにをしておるのだ。早く行かぬか」

 ヤナ王が苛立ちを覗かせて言った。早く試したくて仕方がないと言った様子だ。

 ライルの気持ちはわからなくもない。目の前に広がるのは奇妙な現象であり、それを越えた先には未知の世界が広がっている。恐れを感じぬはずがない。

「父上。私が行きます」カミラが銃を担ぎ直して言った。「私もあちらに早く行ってみたいわ」

「ふむ。じゃじゃ馬の虫が騒いだか」

「人のことを言えますか!」

 カミラはそう言って、ぷいとそっぽを向いた。

「いえ、私が行きます」ライルは慌てて言った。「殿下に斥候などさせるわけにはいきません。すぐに戻ってきますので、お待ちください」

 ライルは言うが早いか、そのまま輪っかに飛び込んだ。すうっと彼は消え去って、皆の、おう、と息を飲む声が聞こえた。カミラは父王に目を向けて、肩をすくめてみせた。

 ライルが戻ってきたのは、一分ほどのちの事だ。彼の姿が突然現れて、やはり、おう、と声が上がった。と同時に、無事に戻ってこれると知って、安堵の色が広がった。

「ずいぶんと早いな」

 トナミが怪訝な顔で言った。

「そうですか? 結構長くあちらにはいたつもりですが」

「そうか。それで、どうだった? なにか問題は見つかったか?」

「いえ」ライルは頭を振る。「静かなものです。人の気配すら感じませんでした」

「侵攻が進んでいると言うことであろうな」

 ライルの報告を受けて、ヤナ王は言った。雄星を励まそうと、カミラが彼の背にそっと手を添えた。

 トナミはちらりと雄星に目をやってから「であるならば、もたもたしている場合ではなさそうですね」と言って、背後に控える各部隊の隊長に命じた。「手筈通り、向こうに着いたら速やかに作戦を開始しろ。我々は陛下と共に最後に参る」

「はっ!」

 各部隊長は敬礼し、さっそく準備に取り掛かった。彼らは外に待機していた配下を引き連れてきて、次々と輪っかを通って行った。目の前で人間がいきなりふっと掻き消えるので、誰もが驚きを隠せなかった。それぞれが、水の中に入るわけでもないのになぜか息を止めたり、おっかなびっくりと言った様子で腕を突っ込んでは引っ込めて、腕があるとわかると安堵に胸を撫で下ろしたりなど、様々な反応を見せていた。

「あれはどのくらい持つの?」

 カミラが、メアリの隣に並んで聞いた。初対面のはずだが親しげなのは、彼女の性格ゆえだろう。

「エネルギーが持つ間は。かなり消費するようですが」メアリは答え、カミラに視線を向けて「カミラ王女ですね。お噂は伺っています」

「あら、私がじゃじゃ馬だってこと?」

 メアリはクスリと笑って「ええ、確かにそんな話になっていますね。女だてらに馬にまたがって、あちこちを走り回る文字通りのじゃじゃ馬がいると。でも、私は羨ましいです。あなたのように、ズボンをはいて走り回るなど、父は許してくれませんから」

 彼女はスカートを指でつまんで持ち上げて見せた。

 カミラは指先でズボンをつまみ軽く引っ張って「これはこれで大変よ。平民の人たちですら、私を見て面白がってるんですから」

「そうなんですか?」

 メアリは目を丸くした。王女を面白がるなど、そのような無礼な振る舞いは、許されることではないないからだ。

「そうなのよ」呆れた様子でカミラは言った。特に怒るふうでもなく、彼女がそれを受け入れていることからも、国風の一端が垣間見えると言うものだろう。「馬に乗ったことは?」

「とんでもない」

 メアリは強く頭を振った。考えたこともないといった様子だ。

「今度、乗り方を教えてあげるわ。この件が片付いたら」

 メアリは少し思案してから、はにかんだように笑って答えた。

「ええ、ぜひ」

「私のことはカミラと呼んで。それから、そんな他人行儀でなくていいわ。年だって近いのだし」

 メアリは頷いて「わかったわ。それじゃ、私のこともメアリで」

「ええ。これからよろしくね。メアリ」

「こちらこそ。カミラ」

 二人の王女がそうして友好を深めている間に、部隊は次々と輪っかを通ってあちらの世界へと吸い込まれていった。そしていよいよ、ヤナ王を含めた残りの面々だけとなった。

「さて、いよいよ我らの番か」

 ヤナ王が嬉々とした顔つきで言った。待ちかねていたと言った様子だ。

 メアリが言った。

「あれをあちらにお持ちになって、設置してください」

 彼女は二メートルほどの高さのある、電波塔のようなものを指し示した。その中腹付近には操作パネルのようなものと、天辺の先端には青い宝石のようなものがついていた。

「ほう、面白い。これは?」

 ヤナ王が、食い入るようにそれを眺めて聞いた。

「これは例えるなら、”ドア”を開くための合鍵のようなもので、これを使うことで、”ドア”を開けるよう、こちらに知らせることができます。使い方はトナミ様にお伝えしていますので、必要になったらその装置を起動させてください。信号を確認したら、こちらから”ドア”を開けます」

「ほほう」

 ヤナ王は、フクロウが鳴くみたいに言って、ゆっくりと頷きつつ顎先を撫でた。

「つまり、あちらから”ドア”を開けることはできないけど、その装置で知らせることで、こちらから”ドア”を開けてもらう、と言うことね?」

 父王の後を引き継いで、カミラが聞いた。

「ええ、その通りよ」

「それは彼らも持って行ってるんですよね?」

 雄星が尋ねた。

「ええ、そうでしょう。ですが、仮に彼等がそれを使ったとしても、”ドア”が開くことはありません。私たちがそれをさせませんので」

 それなら安心だ、と雄星は頷いた。彼らには”後方支援”がないと言うことになるからだ。

「では、参りますか。陛下」

 トナミが言った。

「ふむ。参ろう。まずは私が行く。今度は止めるなよ」

「ご随意に。陛下」

 トナミは苦笑いを噛み殺して、数歩脇へと退いた。

「よし!」

 王はそう言って気合を込めて、輪っかの前に立ち、じっと見つめて様子を窺ったのち、特段の躊躇を見せることもなくすんなりと足を踏み入れた。溶けるように王は消えた。次にカミラが輪っかを通り、”合鍵”となる装置を持った兵士が続き、モラナとライルとロイル、雄星が後を追い、最後にトナミが足を踏み入れた。

 ヤナ国の面々があちらの世界へと旅立つと、研究室は急に静かになって、少し寂しいくらいになった。メアリがパネルを操作すると、波打っていた透明な膜は風船が割れたときみたいに瞬時にして消滅した。装置の動作音も消えて、室内は本当の静寂に包まれた。

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