3 ラント国

 ラント国へと至る道には必ず検問所があり、そこを通らなければ入国することはできなかった。検問を無視しようにも、一定間隔で監視塔があり、見つかった場合、運が良ければ牢獄送りで済むが、運が悪ければその場で射殺されるのがオチだ。だから誰もが検問所をきちんと通って入国する。検問所があるのは、ラント国と他国との国境だけで、例えばヤナ国とロマノ国との国境にはない。だから普通は、国と国とを自由に行き来できるのだが、ラント国との間だけは、こうして厳しい審査を受けないと、入ることも出ることもできなかった。

「使者? また嫌味でも言いに来たか?」

 検査官は、怪しむような、それでいて呆れたような目で使者を見つめて言った。

「嫌味などとんでもない。私は外交事でこれから向かおうとしているのですよ。失礼なことを申すつもりは蚤の糞ほどにもありません。ですが、もしそう感じてしまったのなら、大変申し訳ありません」

 使者は慇懃に頭を下げた。

「ふん」検査官は鼻を鳴らし、背後に控える若者に目を向けて「それは?」

「護衛です。道々には盗賊やら獣やらが出ますので。なにぶん、私ではとても太刀打ちできませんから」

「だろうな」

 検査官は使者の全身を隈なく眺め、次いで若者の様子を確めて、最後に、その若者の顔をじっと見つめた。その時、検査官がなにを思っていたかは定かでないが、あまり良い気分がしなかったのは確かだ。若者は身動き一つせず、また表情一つ変えることなく、検査官の視線の行方に任せた。

 ほどなく、検査官の部下と思われる男がやってきて、彼に耳打ちした。彼は一つ頷くと、わざとかどうかはともかくも、敢えて一呼吸おいてから言った。

「通っていいぞ、ただし、わかっていると思うが、我が国内で妙なことを起こせば、即刻、その首が飛ぶと思え。良いな?」

「もちろんです。私は只の外交官ですから、その目的を果たしたら、さっさと帰国いたしますよ」使者は背後を振り向き、若者に向かって「では、参るぞ」と十分に偉ぶった様子で言って歩き出した。雄星は検査官に向かってお辞儀をし、そのまま顔を伏せて脇を抜け、使者の後について行った。彼らは検問所の出口で荷物を受け取って、ようやく入国を果たした。

「随分と徹底してるんですね」

 雄星は馬上から後ろを振り向いて、検問所をちらりと見てから使者に聞いた。

「なにをそんなに恐れているのかわからないがね。そうそう、荷物を確かめておいた方がいいぞ。なにかなくなってることもあるから」

「まさか、盗むんですか?」

「そう。厄介なことにね。仮にそうなっても取り戻せないから、そのつもりで」

 雄星は顔をしかめて、荷物を確かめた。荷物と言っても、護衛で来ているだけなので大したものは持ってきていない。それ故か、幸いにも盗まれたものはなかった。

 ラント国の国都に到着したのは、それから五日後のことだ。道中、盗賊などに出会うこともなく、旅はあらかた順調だった。村や町の人の様子も明るく、宿ではいつも歌や踊りで騒がしかった。ただ、知り合った旅人の話によれば、他民族の居住地域の近くなどでは、様子は全く異なるのだと言う。近くを通るなら、時間がかかっても迂回することを勧めると、彼はそう助言した。雄星は、歌い踊り笑う人々を見て、そのうちの何人が、抑圧され苦しんでいる人々がいることを知っているのだろうかと、そんなことを考えずにはいられなかった。

 ラント国の王都は、巨人を思わせるほどに高々と聳える、重厚な塀で囲まれた中にあり、中心に小高い山があって、その頂上に、それまた天を突きそうなほどの、立派な様子の王宮が建っていた。山はどこよりも高いので、人々は自然と、王宮のその主を見上げる形となって、また、王宮の外のどこからでも見えるので、内外にその威容を存分に示していた。使者が言うには、山は人工的に造られたもので、老若男女を問わず、異民族の人々が大勢連れてこられ、作業に従事させれたのだという。巷説によれば、重労働に命を落とした人々の遺骸が、埋葬されるでもなく、打ち捨てられるようにして、何体もが山に埋められており、夜な夜な何かを探して山を歩き回る人の姿や、地に伏せておいおいと泣く人の声が聞こえるのだという。学のある者は、それを噂に過ぎないと否定するが、時折、地肌から人骨が顔を出すことがあり、そうすると、それが只の巷の話とは思えず、おそらくは、彼らが、訴えようとして姿を表に現したのだと、人々の間では恐れられていた。雄星のいた世界でも、太古においては、そうした大事業において、多くの人が作業に従事させられ、建造された物が今日までその姿を残しているものもあるが、この王宮は、まさに人命の上に立っているわけで、それを思うと、ますます、ラント国とその国王に対して、嫌悪の感情が増していった。

 事前に連絡してあったこともあり、多少のチェックはあったものの、それ以外は特に問題となるようなこともなく、二人は王宮へと入ることができた。彼らは来賓の間へと通されて、そこで三時間ほど待たされたのち、使者はラント王に拝謁するため、謁見の間へと向かった。

 この時間を利用して、雄星は弟を探すつもりだ。使者もできうる限り時間を作ってくれるはずだが、そう永くは引き延ばせないだろう。もたもたしている暇はない。彼はドアに耳をあてて外の様子を探った。物音や人の歩く音は聞こえない。扉を開いて顔を出し、改めて廊下の端から端までを確めた。みくびられているのか、それとも単に不用心なのか、ともかくも、監視の兵などの姿はなかった。そっと廊下に出て静かに扉を閉め、どちらへ進むべきかと左右を見回した。が、見取り図もないし、そもそも尋ね人がどのあたりにいるのかさえ知らないのでは、進むべき方向などわかるはずもなく、結局は、勘を頼りに右へと向かうことにした。廊下を突きあたると今度は左、そして次は右といった具合に、第六感の命じるがままに彼は進んだ。

 そうしてしばらく進んだところで、廊下の少し先に、右へと通じる廊下と交わる所があって、そこから人影が現れて、奥へと歩いて行くのが見えた。雄星は少し遠目からではあったが、その人物の姿に、良く知る面影を見て取って、後を追いかけた。そして突き当りで左に折れたとき、横顔がちらりと見えて、心がざわざわとするのを感じた。額から鼻筋を通って顎へと抜けていくそのラインは、弟その人のもので間違いない。彼は居ても立っても居られず、飛ぶように駆け出して、角を曲がったところで、声を掛けようとして口を開きかけた。が、弟は、吸い込まれるようにとある部屋へと入って行ってしまった。雄星はそっと扉に近づいて、吸盤のように耳をくっつけて聞き耳を立てた。二人の人物の話し声が聞こえた。一人は弟だろう。もう一人は誰だろうか。彼は物音をたてぬよう、静かにゆっくりと、扉を開けた。そして僅かな隙間から室内を覗いた。

 部屋は書斎か執務室のようで、少し奥まったところに机が一つあり、それを取り囲むようにして、壁に沿って身を寄せ合うように本棚がずらりと並んでいた。書棚に入りきらない本の数々が針山のように積み上げられ、一部は雪崩となって崩れ散らかって、足の踏み場もないようなその様は、草深い針葉樹の森にも似ていた。その机の奥に、弟は扉の方を向いて立ち、もう一人は彼と向かい合うようにして、こちらを背にして立っていた。二人は、その声の調子から、なにか重要な事柄について話し合っているようだった。

「ついにドアが完成したのに、うれしくないの?」

 弟が言った。

「もちろんうれしいさ。私の悲願だからな」

 男性が答えた。雄星は首を傾げた。聞き覚えのある声だった。

「ならどうして? これがあれば、向こうの世界と自由に行き来できるんだよ。僕たちだって、帰ることができるんだ」

「それはもちろん、良いことだ。しかし、それが問題なんだ」

「僕たちが帰れるってことが?」

「いや、そうじゃない」男性は頭を振った。その時、横顔がちらりと見えて、雄星は、まさか、と目を瞠った。男性は続けた。「王が、なにか良からぬことを企んでいるようなんだ」

「企むって? なにを?」

「それはわからない。だが、良くないことだけは確かだ。あの王だから……。お前にもわかるだろう?」

「わかるけど、僕たちが心配したってしょうがないじゃないか。ここは僕たちの世界じゃないんだ。この世界の人たちがなんとかするよ。それよりも、ここでの成果を持って帰れば、向こうで研究が再開できるよ。そしたら、僕にも手伝わせてよ」

「お前に? お前はだめだ。まだ学校だって卒業していないだろう」

「すぐに卒業になるよ。そしたら問題ないでしょう?」

「だめだ」

 男性は頭を振った。そして彼は弟の脇を抜けていき、カップに飲み物を注ぐと振り向いた。雄星は、はっと息を飲んだ。それは間違いなく、父だった。やはり、彼もこちらの世界に来ていたのだ。

「兄さんがいるから?」弟は顔をしかめ、父を振り向いた。「どうして兄さんじゃなきゃいけないの?」

「長男だからだ。そのために大学にも行かせてる」

「僕が高校生だから? 次男だからだめってこと? なんだよそれ」弟の声が震えていた。怒りが沸き起こってきているのだろう。彼は続けた。「知ってる? 大学で物理を専攻したのだって、父さんの顔を立てただけなんだ。兄さんはね。父さんの跡を継ぐつもりなんてないんだよ」

 父親は目を見開いた。初めてその事実を知り、驚いているのだろう。その父の様子に、雄星は息が詰まる思いがした。

 弟は続けた。

「でも僕は、父さんの跡を継ぎたいと思ってる。兄さんとは違ってね。確かに知識はまだまだけど、そんなのはすぐさ。あっと言う間に兄さんを越えて見せるよ」

 父親はゆっくりと首を横に振った。それが、弟の申し出を拒否してのものか、それとも、兄が跡を継ぐつもりがないと知ったことへの気持ちの現れか、そのどちらを意味したものかはわからない。が、いずれにしても、弟は前者と受け取ったようだ。彼は怒りを爆発させた。

「なんでだよ! 兄さんじゃなきゃだめなのかよ!」弟は父親の両肩に掴みかかり、激しく揺さぶって「いつもそうやって兄さんばかり! 兄さんはもういないんだ! でも僕はここにいる。僕ならやれるんだよ!」

 カップから、荒波となった液体が防波堤を越えてこぼれ落ち、床に小さな池を作った。

「お前がここにいるなら、雄星だってどこかにいるかもしれない。いや、きっと無事でいるはずだ」

「ふざけるな!」

 弟は父親を力任せに突き飛ばした。

 父親はふらりとよろけて本の山にぶつかった。山はバランスを崩して倒木のように倒れ、ドミノみたいに次々と山々をなぎ倒した。バタバタと、大きな音が次から次へと連鎖して、重なり合った音は部屋を漏れ出して、廊下に響き渡った。

 雄星は、すぐさま二人の下に駆け寄りたいと思った。喧嘩を止めたいというのもあるが、自分はここにいるぞと、そう伝えたかった。しかし、廊下の奥から聞こえてくる足音に、彼は自制して振り向いた。物音を聞いた何者かが確かめにやってくるのだろう。足音は真っ直ぐこちらへと近づいてくる。このままここにいては危険だ。それに、そろそろ使者が戻ってくる頃だろうから、ここはひとまず引くべきだろう。雄星はもう一度、二人の様子を確めて、後ろ髪を引かれる思いに駆られながらも、ドアを閉めると来た道を駆け戻って行った。


 夜の帳も十分に深まった頃、客室のドアが開いて男が顔を覗かせた。見張りに立っていた兵士は振り向いて、怪訝な口振りで言った。

「なんだ? なにか用か?」

「いえ、実はですね」男は秘め事を言うかのように声を落とした。「うまい酒を持ってきていまして、ご一緒にいかがかと……」

「この通り、私は役目の最中だ。それを放り出すわけにはいかん。しかし、見張られている分際で酒とは、いい気なものだな」

「だからこそですよ。こう見張られていては、外に出るわけにもいきませんので、酒はいい気晴らしになるんです。それで、どうです? あなたも気晴らしに。私なんかを見張っていたってつまらないでしょう。まあ、心配下さいますな。眠らせておいてその隙に、なんてことは考えておりませんから。ほら、匂いを嗅いでみなさいな。他ではなかなかありつけない代物ですよ」

 男はそう言って、ドアの隙間から酒を注いだグラスを差し出した。琥珀色の液体は、グラスの中で緩やかに漂い、その魅惑の香りで、兵士の鼻腔をくすぐってこっちへ来いと誘った。

 兵士はグラスに顔を近づけて、ごくりと唾を飲み込み、喉を鳴らして舌なめずりをした。視線はその魅惑の液体に釘付けになっている。相当の酒好きのようだ。男は笑いをかみ殺して言った。

「さあ、どうぞ、飲んでみなさいな。一口ぐらいなら構わないでしょう。それでもいらないと言うなら、素直に引き下がりますが」

「い、いやいやいや。待て待て待て」

 男は思わず吹き出しそうになるが、なんとか堪えた。兵士は言った。

「いらないとは言っていない。ま、まあ、一口ぐらいならいいだろう」

「では、どうぞ」

 兵士はグラスを受け取ると、改めてその香りを堪能してから、一口、口に含んだ。そして目をつむり、舌の上でゆっくりと転がしてから、喉や食道全体で味わうように、静かにそれを流し込んだ。ごくり、と喉が鳴り、それが胃袋まで到達すると幸せの笑みを浮かべた。その後しばらく、とは言ってもほとんど一瞬の事であったが、彼はグラスの中の液体を見つめていたかと思うと、一気に飲み干した。兵士は満面の笑みを浮かべて、その残滓を舐めとるように、ぐるりと舌なめずりした。

「いかがです? 素晴らしい味わいでしょう? これを一杯だけで済ませるなんて、もったいないとは思いませんか?」

 兵士は許可を求めるように男を見つめた。本来、その相手は彼の上司であるべきだが、その目からは既に任務のことは消えていた。男は続けた。

「さあ、中へ入って、是非とも堪能なさってくださいな」

 兵士は唇をぺろりと舐めると、吸い込まれるように中へと入った。男は顔を廊下に出して左右を見回し、辺りの様子を確めたのちドアを閉めた。

 まもなく酒盛りが始まって、夜はどんどんと更けていった。

「これでしばらくは起きませんか」

 床の上にごろんと寝転んで、盛大にいびきをかいている兵士を見下ろして、雄星は尋ねた。

「眠気薬を混ぜておいたからね。当分は目を覚まさないよ」

「そんなものを混ぜたりして、あなたは大丈夫なんですか?」

 雄星は驚いて目を丸くした。

 使者はくすっと笑って「初めから混ぜてたわけじゃないよ。最初は普通の酒さ。眠気薬は最後の一杯に混ぜたんだ。随分と酔っ払っていたから気づきやしない」と兵士をつま先で小突いた。兵士は何の反応も示さない。効果は抜群なようだ。使者は続けて言った。

「さてと、それじゃ行こうか。案内してくれ」

 遊星は勝手知ったる場所のように、迷うことなくすいすいと、使者を伴って廊下を歩いて行った。そして、父親と弟を見た、例の部屋まであと少しというところまで来たとき、急に扉が開いて、彼の父親が姿を現した。二人は慌てて物陰に身を隠し、様子を窺った。父親は神妙な面持ちで廊下に出ると扉を閉めて振り向き、遊星が見たこともないような怖い顔つきで真っ直ぐ前を睨みつけた。そして暫く後、強く短く息を吐き出して、覚悟を決めたように目を鋭くさせると、廊下を奥へと歩いて行った。雄星はそんな父親の様子に多少の不安を抱きつつ、そのあとを追った。

 やがて、父親は中庭を望む場所までやってきた。半時計回りに回廊がぐるりとそれを囲んで、突き当りに扉があり、二人の兵士が番をしていた。父親は廊下を道なりに進んで、その扉の方へと歩いて行った。兵士は手にしていた槍を互いに交差させ、行く手を遮ったが、一言、二言と父親と言葉を交わしたのち、槍を元に戻して通行を許可した。父親は、特段、礼を述べるでもなく、扉を開くと中へと入っていった。

 扉の先は細い通路になっていて、現代の海港にある倉庫のような、こちらとは随分と趣の異なる建物へと繋がっていた。建物には窓一つなく、出入り口と思しきものも見えないので、中へ入るには兵士の護る扉を抜けていくしかない。しかし、当然のことながら、兵士がこの二人の不審者を通すわけがなく、どうしたものかと思案していると、使者の手が彼の肩を叩いて、次いで、腕がすっと伸びてその通路の方を指さした。雲が月影を遮る中にあって気づかなかったが、目を凝らしてよくよく見てみると、その通路の壁に、四角い物の形がぼんやりと浮かんでいた。それは人が出入りできるくらいには十分な大きさの窓で、上手くすればそこから中に入れるかも知れない。遊星は使者に頷いて、兵士の視線に注意しながらその窓の方へと向かった。夜陰の静けさに、物音には注意が必要だったが、雲が月明かりを消してくれたおかげで、彼らは見つかることなく目的地に辿り着くことができた。

 通路は細長く内部は薄暗くて、突き当たりにまた一つ扉があった。その扉が静かに開いて、漏れ入る光が父親の姿を廊下に落とした。ほどなくその影も消え、再び通路が暗がりに包まれると、遊星は窓枠に指を掛けて押し上げようとした。しかし、それはびくともせず、ガタガタと音を鳴らすだけだった。しいっと使者の警告を促す声がして、遊星ははっとして兵士の方を見遣ったが、彼らはこれと言った反応を見せてはいなかった。彼は安堵のため息を吐き出すと、使者に小さく頷いてから、隣の窓に移って、やはり同じように、だが今度はより慎重にその指先に力を込めた。その甲斐もあって、小さくカタッと音を上げただけで特段の抵抗を見せることもなく、窓は指先をねじ込める程度に開いた。彼はその隙間に指を差し入れてゆっくりと滑らすように、人間が通れるくらいに押し上げた。顔を覗かせて、安全を確かめたのち、窓の縁に手をかけて中へと滑り込み、次に使者に手を貸して、彼が潜り込むのを助け、最後に窓をそっと閉めた。遊星は耳を澄ませて外の兵士の様子を窺ったのち、使者を伴って奥へと歩いていって扉を開けた。

 扉を抜けたその先には、同じくらいの広さの通路が真っ直ぐに伸びていて、突き当たりのその右手に、大きな両開きの扉があった。扉は微かに開いていて、中の明かりが差すように漏れ出して、光の筋を廊下に落としていた。通路に父親の姿はなく、他には出入り口も見当たらないので、向かった先となればその扉しかないだろう。遊星は振り向いてその場所を指さして、使者と共にその扉へと向かった。

 二人は扉の隙間からそっと中を覗いた。そこは本当に倉庫と呼べるくらいに広く、鉄骨が剥き出しの天井は高く、淡い黄色の照明灯が煌々と内部を照らしていた。中央付近には自販機ほどの大きさの装置が並んで、様々な色のランプを忙しく点滅させながら、ウオン、ウオンと低く唸る音を上げていた。そしてそれらの装置の真向かい、七メートルほど離れた場所に、直径が五メートルほどの、ドーナツ型の装置がでんと屹立していた。

 装置の手前には、ラント王、側近とみられる人物、重臣と思しき人物、そして父親と弟が並んで立っていた。ラント王は満面に満足そうな笑みを浮かべているが、父親の方は浮かない表情で、弟の方は何とも言えない複雑そうな顔をしていた。

「陛下。ついに”ドア”が完成いたしました」

 重臣と思しき人物はそう言って、恭しくお辞儀をした。

「良くやった。大臣」ラント王は満足そうに頷いた。大臣は顔を上げ、誇らしげな笑みを浮かべた。王は父親に目を向けて付け加えた。「お前にも礼を言おう」

 父親は返事をするでもなく、ただ無言でそっぽを向いた。その無礼な態度に、灸をすえてやろうと側近の男が足を踏み出すのを、王は手で制した。

「構わん。ミュラー。この者が無礼なのは今に始まったことではない。ここは一つ、大目に見てやろうではないか。私はいま、大変に機嫌がよいのだ」

 ミュラーは、カツンと踵をぶつけ合わせて屹立し、びしっと敬礼をすると、父親に一瞥をくれてから一歩下がった。

 大臣が言った。

「これがあれば、いつでもあちらと行き来ができます」

「うむ。ついに、私の悲願を叶える時がきたな」

 ラント王は感慨深げに言って、満面に笑みを浮かべた。

「悲願とはなんだ?」父親はそう尋ねつつ、思案を巡らせて、ほどなく、くわっと目を見開いて「まさか……」と呟くように言った。

 ラント王はクツクツと笑って「そうだ」とにやりと笑みを浮かべて続けた。「世界征服こそが、私の悲願だ。だが勘違いをするな。世界と言ってもこちらの世界ではないぞ。無論、こちらの世界も大いに興味深いが、私が欲しいのは、あちらの世界の全てだ」

「なんということを!」父親は今以上にカッと目を見開いて、その顔に動揺を覗かせた。が、すぐに落ち着きを取り戻して、胸を張って自信を漲らせた。「だが、思い通りになどなるはずがない。世界が手に手を取り合って一つになれば、お前など敵ではないだろう」

「世界が一つに?」

 ラント王は、わざとらしく驚いた顔つきをして見せてから、不敵な笑みを浮かべて続けた。

「できもしないことに望みを託すのは、愚の骨頂というものだな。一つの民族のもとに統一されているならいざ知らず、あれでは一つになることなど夢物語だ」

「一つになどなれないと?」

「なった試しがあるか?」

「だから世界征服を?」

「いいや」ラント王はゆっくりと首を振った。そして、両腕を左右に大きく広げ、卑しい笑みを浮かべて続けた。「世界のすべては我々のもの。我々以外は邪魔者でしかない。それ故の世界征服である。複数の民族を一つにまとめるなど、興味は無い」

「ばかな……根絶やしにするつもりか……?」

「わが同胞を除いてな」

 ラント王はニヤリと笑う。誰もがそれに戦慄を覚えただろう。

「なんて愚かな考えだ!」父親は噛みつかんばかりに絶叫した。「そんな考えがまかり通るはずがない! 必ずや、最後の一人になるまで戦い続けるだろう!」

「それならそれで好都合だ。手間が省けるからな。もっとも、我々の科学力と技術力の前では、連中など赤子同然だ。抵抗しようとしまいと、最後には一人残らず駆逐されるだろう」

「なんということを……」

 父親は言葉を震わせた。恐ろしいのではない。怒りがそうさせたのだ。彼はラント王をギロリと睨んで言った。

「そのための”ドア”か」

「あちらに行くにはこれが必要だからな」

「”ドア”はそんなことに使うべきではないし、そんなことのために協力したわけではない」

 大臣が割って入る。

「しかし、これが完成したときにはお前も喜んでいただろう」

「それは……」

 父親は言葉を詰まらせた。大臣の指摘が正しかったからだ。研究者として、研究の成果が形となって現れたことをうれしく感じるのは当然だ。成功のその先にあるものが、なんであるかを知っていても知らなくても。

 雄星は事の次第をつぶさに見聞きして、嫌悪の感情をあからさまにその顔に浮かべて使者に言った。

「とんでもないことを考えているようですね」

「全くだな」辟易したという様子で使者は同意して、深々と眉間にしわを寄せた。「陛下にご報告せねばなるまい」

「そうですね」遊星は頷いて、続けて言った。「明日の朝一番に立った方がいいでしょう。あなたは部屋に戻って、出国の準備をお願いします」

「お前はどうする?」

「僕はここに残って、隙を見て二人に接触してみます。なんとか二人を連れて帰らなくちゃ」

「わかった。しかし、危険だぞ」

 使者は理解を示しつつも、懸念を表した。

「それはわかってます。でも、僕の大切な家族なんです。放ってはおけません。あなただって、同じ立場ならそうするでしょう?」

 使者はこくりと頷いた。雄星は続けた。

「僕は大丈夫です。一応、訓練は受けましたから。上手くやって見せます」

「そうか。だが、無理はするなよ」

「はい」

 使者は雄星の肩を叩くと、くるっと向き直って来た道を戻って行った。その姿を見送って、雄星は再び、室内へと目を向けた。

「考えを改めるつもりはないのか」

 父親が言った。

「ないな。言っただろう? それが私の悲願なのだと」ラント王は振り向いて、でんと鎮座する輪っかを見つめ「これの完成がお前の悲願だったはずだな。その研究をやめろと言われたらどうする? 素直に諦めるか?」

 父親はきゅっと唇を噛み締めた。彼は長年、時空移動の研究を続けてきた。そしてその実現こそが、彼の悲願だった。だからそれを止めろと言われて諦めるはずもない。研究者なら誰でも同じ思いを抱くだろう。しかし、その欲望に負け、装置を完成させてしまった者として、これを悪用させるわけにはいかない。父親は、ポケットからスイッチのようなものを取り出して、それを見えるように肩上くらいまで持ち上げて言った。

「”ドア”に爆弾を仕掛けた。この部屋もろとも吹き飛ぶだろう。私もお前も、研究データも全てな」

「貴様!」

 ミュラーの怒鳴り声が、大臣の息を飲む声を掻き消した。ミュラーが駆け寄ろうとするのをラント王が制した。

「ほう。死を厭わぬ覚悟か。なかなか気に入ったぞ。しかし、いいのか? これを破壊してしまえば、お前たちは帰る術をなくすぞ」

「たとえそうなったとしても、それで多くの人が助かるなら、私は一向にかまわん」

「父さん!」弟が父親の前に進み出た。「本当に帰れなくてもいいの? 母さんにももう会えなくなるんだよ。僕は嫌だよ、そんなの。僕は帰りたいよ!」

「”ドア”を破壊しなければ、あちらの世界の人々が大勢、苦しむことになるんだ。それでもいいのか?」

「僕は……僕は誰かのために、自分を犠牲にしたいなんて思わないよ」

 父親は息子を見つめ、深くため息をついた。その瞳には、落胆と悲しみの色が深々と浮かんでいた。彼はしわがれたような声で言った。

「お前は自分さえよければそれで構わないのだな。そんなだから、お前にあとを継がせたくなかったのだ」

「誰だって、自分のことは大事だよ。兄さんだってそうさ」

「無論そうだろう。しかし、雄星はもっと他人のことを思いやれる人間だ。お前と違ってな」

「だから僕じゃなく、兄さんだと言うの?」

 弟はムッとした顔で言った。

「”ドア”は全ての人のためにあるべきで、平和的に利用されるべきだ。お前がそんな考えでいるなら、研究を任せるわけにはいかない」

「そうやって、兄さんばかりを贔屓にしてるんだ」

「贔屓になどしていない。いろいろ考えたうえで……」

「嘘だ!」弟はがなるように金切り声をあげた。「兄さんは絶対に贔屓されてる!」

 その親子のやり取りを、ラント王は無言で眺めていたが、この段になって、ニヤリと笑みを浮かべると言った。

「たしか、道正とか言ったな。一つ、私の提案を聞いて見る気はないか?」

「提案……?」

 道正は怪訝な顔で振り向いた。

「そうだ」ラント王は頷いた。「お前はこの研究を手伝いたいのだろう? ならば、望みの通り手伝わせてやろう。私にならそれができるぞ。なぜなら私はこの国の国王だからな。なんでも思いのままだ。仮に、お前の父が反対しようとも、私が一言命じれば済むことだ」

 道正の顔が、陽が昇って大地が照らされるように、みるみると明るくなった。笑いそうになるのを堪えているのか、ラント王の口の端がピクピクと痙攣した。彼は言った。

「その代り、私の頼みを聞いてはくれないか?」

「頼み、ですか?」

 道正は、ラント王へと向きを変えた。

 ラント王は道正をじっと見据え、のち、視線を父親へと向けて言った。

「その男を殺してはくれないか?」

「えっ!?」

 道正はあまりに驚いて、本当に丸くなりそうなくらいに目を見開いた。それは父親も同様だ。自分の息子に、父親を殺せと命じているのを聞いて、驚かないはずがない。

 そんな様子などお構いなしに、ミュラーがつかつかと歩いてきて、道正の手に銃を握らせた。道正はその銃を見下ろして、次にラント王を見つめた。そうだ、と言うように、国王は頷いた。彼は言った。

「お前の父親はこの装置を壊そうとしている。これが破壊されれば、お前はあちらに帰ることもできないし、研究を続けることもできなくなる。そうなったら、お前の願いは叶わぬものとなるぞ。それでも良いのか?」

 道正の表情が、ゲリラ豪雨の前の空みたいに、急激に曇っていった。父親が言った。

「道正! そいつの口車に乗るな! 話を聞くんじゃない!」

 王は父親を一瞥してすぐに言った。

「そいつが生きていては、お前は一生、研究には関わることはできぬぞ。間違いなくな。なぜなら、奴がお前を認めるはずはないからだ。そうであろう? だが、そいつが死ねばどうだ? 奴が死ねば、お前は誰にも邪魔されることなく研究を引き継ぐことができる。好きなようにできるのだ。私がそれを許そう。だからさあ、奴を殺すのだ!」

 道正の腕が、見えない糸に引っ張り上げられでもするかのように、ゆっくりと、プルプルと震えながら上がっていった。彼は両手で銃を持ち、狙いを定めた。

「道正! やめるんだ! でないと、私はスイッチを押さねばならなくなる!」

「父さんが、そのスイッチをこっちに渡してくれればいいんだ」

 道正は言った。声が震えていた。父親はゆっくりと頭を振った。それが意味することは明らかだ。彼はスイッチにかけた指に力を込めた。道正はゆっくりと息を吸い込むと、人差し指に神経を集中した。しかし、それは、良心の呵責というものに抵抗を受けて、一進一退を繰り返した。

 その時だ。入り口のドアが勢いよく開いて、男性が一人、駆け込んできた。

「やめるんだ! 道正!」

 道正は振り向いた。振り向くと同時に、彼の心拍は跳ね上がり、抵抗を続けていた良心もびっくりして、その弾みで、人差し指は引き金を引いてしまった。銃口から光が放たれ、それは目にもとまらぬ速さで目標を撃ち抜いた。標的はうっとうめき声を漏らして、ドシャリと倒れ込んだ。道正ははっとして振り返り、血を流して倒れている父親の姿に、呆然と立ち尽くした。

 ミュラーが歩み寄り、首に指先を当ててのち、国王を振り向いて、良しと首を縦に振った。ラント王は満足そうに大きく頷いた。そして言った。

「うむ。宜しい。さて、何者か知らんが、そいつを捕えろ」

 ミュラーは父親の手からスイッチをむしり取り、それを国王に渡して、男性の背後に回って腕を締め上げた。男性は、突然起きた出来事に呆然自失としていて、抵抗することも忘れていた。

 ラント王は道正に歩み寄り「よくやった。これですべては思い通りだ」とにんまりと笑った。そして彼の手から銃を奪い取り、数歩後退して、銃口を侵入者へと向けた。

「待ってください!」道正はふと我に返り、言った。そして、錆ついたネジみたいにぎこちなく首を回して、銃口が指すその先を見つめて続けた。「兄さんなんです。どうか、兄さんだけは……」

「ほう。これが……」

 ラント王は乱入者を興味深げに見つめた。

 雄星は父親の亡骸から視線を上げて、弟をキリッと睨み据えて言った。

「兄さんだって? 父さんを殺したその口で、僕を兄さんと呼ぶのか!」

「僕だって……僕だって、殺したくはなかったんだ……でも……でも……」

 道正は口をパクパクとさせて項垂れた。あとに続く言葉を探したが、父親を殺してしまったことは事実だから、継ぐべき言葉は見つからなかった。

「なるほど。面白い」ラント王はそう言って銃を降ろした。「今日のところはお前に免じて許してやろう。そいつは地下牢に放り込んでおけ」

 ミュラーが雄星を引き連れていく。雄星は振り向いて、弟をぎろりと睨んだ。道正はその視線が痛くて、顔を背けるように目を逸らした。

 ラント王は道正に歩み寄り、肩に腕を回して「これで、お互いに邪魔者はいなくなったな。今日からお前が、ここの責任者だぞ」と言うと、大臣に一つ頷いて、部屋を出て行った。

 道正は、積み木が崩れるみたいにその場にへたり込み、もげてしまいそうなほどに項垂れた。


 数日後、雄星は両手を後ろ手に縛られて、二人の兵士に時折小突かれながら、重たい足を引きづるように、ゆっくりとした足取りで階段を上っていた。踵がコツン、コツン、と地を打って、響き渡る靴の音は、天国か地獄か、いや、地獄に違いないが、そこへと到達するまでのカウントダウンに聞こえて、また、地下から駆け上ってくる冷たい空気が、ペロリと背中を撫で上げるので、その寒々しさと相まって、彼は身震いして鳥肌が立った。やがて階段は終わり、明るい光が目に飛び込んできた。どのくらい暗闇の中で過ごしたのか、彼にはその光は眩しすぎて、思わず気絶しそうになった。

 そうして、雄星はとある部屋まで連れてこられた。部屋はそれほど広くはなく、飾り気も何もない、長テーブルと椅子が並んでいるだけの極めてシンプルな造りだ。兵士二人はテーブルの手前に雄星を立たせると、後ろに下がって直立した。

 雄星の真向いにはラント王が座っていて、その左右には、ラント国の官僚と思しき面々が顔を並べていた。その中には道正の姿もあった。見事、重要人物として迎え入れられたようだ。雄星がじろりと睨むと、道正は慌てて視線を逸らした。

「さて、雄星と言ったかな? ヤナ王のお抱えだそうだな。偵察に来たのか?」

 ラント王が言った。探りを入れることもなく、直球勝負を挑んできた。

「いえ。護衛で来ただけです」

「その護衛が、あんなところで何をしていた? 本当のことを言え」

「弟がこの国にいると聞いて、探しに来ました」

 偵察は使者の任務であって、雄星の任務は護衛であり、本当の目的は道正を探すことだから嘘はついていない。それに、行方不明の肉親を探すことが悪いこととは思えない。

「なるほど。一応、筋は通るな。まあ、いいだろう」

 ラント王は僅かに不満を覗かせたが、ひとまずは納得したようだ。どうやらうまいこと空振りせずに済んだようだ。王は続けて聞いた。

「それで、見つけてどうするつもりだ?」

「連れて帰るつもりでした」

「あちらの世界にか?」

「はい」

「どうやって?」

「ここに装置があります。”ドア”と呼んでるんでしたね」

「使わせると思うか?」

「いつか他の国々も、その技術を持つ日が来るでしょう」

「なるほど。確かにそうかもしれん。が、そのときには既に、世界は私の前にひれ伏しているだろう」

 ラント王は薄笑い浮かべて、自身ありげに腕を組んだ。

「そんなことにはなりません、絶対に。歴史は繰り返される、と言いますから」

「うむ、その通りだろう。しかし、それは、その結果が必ず同くなることを示した言葉ではないな。違うか?」

 雄星は口を噤んだ。確かに、人類は過去の歴史において、文明や国家の存亡など、同じようなことを繰り返してきた。しかし、そこから導き出される未来が、必ずしも同じ道筋を辿るとは限らない。

 ラント王は腕を組み解くと、満足そうな笑みを湛えて椅子に寄り掛かった。そして、さも本当にそう思っているかのように装って言った。

「父親のことは残念だった」

「あなたが殺させたんでしょう。思ってもいないことを言わないでください」

 ラント王はニイッと口元を歪めて「なるほど、父親そっくりだな。奴が期待を寄せるのもわからぬではないな」とカラカラと笑った。そして、じっとテーブルの上を見つめている道正を見遣ってから、視線を戻して続けた。「確かに、弟を連れ帰るのが目的であっただろう。しかし、それは半分。もう半分はやはり、我が国を探る為であろうな。というわけで、お前にはスパイ容疑がかかっている」

「なんの話です?」

「まだ白を切るつもりか?」

「言ったでしょう? 弟を探しに来ただけだと」

「そこまで言い張るなら良かろう。連れてこい」

 部屋の一角にある扉が開いて、ある男性が二人の兵士に伴われて入ってきた。男性の服はボロボロで、体中があざだらけで、しおれた植物のように項垂れており、およそ精気というものを感じなかった。

「この者は知っているな?」

 ラント王は言った。もちろん知らないはずはない。共に旅をしてここまでやってきたのだから。彼もまた捕まって、別の場所に収監されていたのだろう。そして、酷い拷問を受けたに違いない。王は続けた。

「この者もなかなか強情でな。一向に口を割ろうとせん」

 苦々しげな口ぶりでラント王は言った。彼は続けて言った。

「そこで、お前に話してもらおうと思ってな。その者を助けたいとは思わんか? お前が話してさえくれれば、その者は助けよう。どうだ?」

 認めればヤナ王に迷惑がかかる。だから話すわけにはいかない。雄星は口を噤んで視線を反らした。

 ラント王はため息をついた。

「やれやれ、お前もか。それでは仕方がない」

 ミュラーは立ち上がると、使者に歩み寄り、腰に下げた短剣を鞘から引き抜いて、逆手に持って頭上まで高く上げると、その胸元めがけて振り下ろそうとした。

「待って!」

 雄星は叫んだ。短剣の切っ先が寸前で止まった。一度は拒否したが、やはり、見殺しにはできなかった。彼は続けて言った。

「わかりました。話します」

 ミュラーは短剣を鞘に納めた。それを確かめて、雄星は続けた。

「あなたが何かを企んでいるらしい、と言う噂がありました。それで、それを探るのが目的でした」

「ふむ。噂か……。おそらくはあ奴だな。よし。事が済んだあとで痛い目に遭わせてやろう。それで、それを知ってどうする? 私を止めるか?」

「当然でしょう。放っておくわけにはいきません。誰でも、知れば必ず、あなたを止めようとするでしょう」

「止められると思っているのか?」

「ある人は、余の辞書に不可能という文字はない、と言いました」

 ラント王はカラカラと笑って「あいつか。確かに言ったらしいな。だが、その行く末はどうだ? お前たちもそうなる運命だぞ」と顎をしゃくって合図した。

 ミュラーは頷き返し、再び短剣を引き抜くと、一呼吸が終わる間もなく使者の胸に刃を突き立てた。使者はうっと短く呻きを漏らし、目をひん剥いてガクリと首を折った。ミュラーは剣を鞘に収め顎で合図した。兵士は使者を引きずって部屋を出て行った。

「なぜ殺した! 僕は話したぞ!」

 遊星はそう叫んで、掴みかかろうとするように、数歩足を踏み出した。勢いあまって腰からテーブルにぶつかって、ガタンという音と共にテーブルが揺れた。

「うむ。確かに助けるといったな。だから楽にしてやったのだ。苦しそうだったからな。もっとも、我が国ではスパイは死刑と決まっている」

 すると、呆然とテーブルの木目を眺めているだけだった道正が、はっとしたように顔を上げた。

「死刑? 兄さんを死刑にするんですか?」

「いまそう言っただろう」

「死刑だけはどうか……お願いします!」

 道正は頭を下げて懇願した。

 ラント王は無表情でその様子を見つめ、氷のような口調で言った。

「今さら自責の念に駆られたと言うのか?」

 道正は顔を上げ、苦しげな眼差しで国王を見つめた。王の見つめ返す視線が、責めているようで、彼はいたたまれなくなって目を逸らした。ラント王は続けた。

「だが、生かしておくわけにはいかん。生かしておけば、いずれ我が国に害を及ぼすかもしれん」

 道正は、なんとか回避する方法はないかと考えた。そして、それに思い至って言った。

「では、あちらの世界に送ってはどうでしょう。”ドア”を開けるのはこちらからだけです。あちらからは開けないのですから、戻ってくることはできません。それなら、邪魔もできないと思います」

 ミュラーが異を唱える。

「しかし、こちらのことを話してしまうのではないか? そうなると連中も迎え撃つべく体制を整えるだろう。それでは面倒なことになる。やはりここで始末しておくべきだ」

 その通りだな、とラント王は無言で頷いた。その様子を横目に見遣りつつ、道正は反論した。

「この前、力の差は歴然だ、と言いましたよね。それならなんの心配もいらないでしょう。あちらは大した抵抗もできないはずです。それに、どのみち根絶やしにするつもりなんですから、知られたって気にする必要はないと思います」

 ふむ、とラント王は頷いた。確かに道正の言う通りであろう。取るに足らぬ相手など、気にするまでもない。王はそう考えて、こう言った。

「よかろう。望みの通り、あちらへ送ってやるとしよう。準備ができるまで、そいつは元の地下牢に放り込んでおけ」

 背後に控えていた兵士がついと進み出て、雄星の腕をガシッと掴んだ。彼は引き離そうとして強く腕を引いたが、あまりに強固に捕まれているのでびくともしなかった。彼は売られていく仔牛のように連れられて行った。

 部屋を出ようかという時、遊星は弟に視線を向けた。しかし、彼は余所を向いていて、目を合わせようとはしなかった。扉が音を立てて閉まると、道正は引っ張られでもしたかのように、そちらへと目を向けた。暫くの間、そうやって、苦しみや後悔の入り交じったような顔で、なにもないただの扉をじっと見つめて、やがて、項垂れ、背中を丸めて、テーブルの上へと視線を落とした。


 ラント王は私室の窓から外を眺めていた。いつの間にか雨が降り出していて、強さを増した雨粒はガラスを激しく叩き、雨水は激流となって流れ落ちていた。

「あれで宜しかったのですか?」

 ミュラーが言った。室内に、側近は彼だけだ。

「構わん。どのみち生き残れんだろう。仮に生き残ったとして、何ができようか。それよりも、ヤナ国に使者を送れ。スパイ行為についてどんな言い訳をするか聞いてこい。それから、雄星と言ったな。奴と使者は即刻、処刑したと伝えよ。余計なことをしたらただでは済まんと、十分に脅しつけてこい」

「畏まりました」

 ミュラーはそう言って、踵を打ち合わせると、右腕をL字型にして肩から上へと掲げて、彼らの間でのお決まりの言葉を叫んだ。その時、雷鳴が轟いて、その言葉はかき消されてしまったが、ラント王の顔には満面の笑みが湛えられていて、そんなことは気にしていないようだった。

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