8.いつも物語は突然に──やよいside

 小田原駿(おだわらしゅん)。

 それが私——音無やよいの幼馴染み、今年で十七年という長い付き合いとなる男の子名前だ。

 私と彼は世間一般的なところでいう、いわゆる幼馴染みという関係性。

 それはというもの。

 彼の両親と私の両親が幼馴染みという何とも不思議な間柄で、そんな両家の間に私と彼の人生は始まった。

 十七年間という長くも短い日々の中、私達はともに笑って、ときに泣いて、怒って喧嘩して、叱られて、その度に仲直りして——。

 そうやって喜怒哀楽全ての感情をぶつけ合いながら、幼稚園から始まり、小学校、中学校、そして高校と、足並み揃えて同じ道を歩んできた。


 彼がいる日常が私の日常で、私のいる日常が彼の日常だと、そう思っていた。

 だから……だからあの日。

 私は自宅のリビングにて、父さんから告げられた話に耳を疑ってしまった。


「……え?父さん、今、なんて言ったの……かしら?」


 なんとか絞り出した自分の声はうわ言のようだった。心臓の鼓動もこれほどまでに高鳴ったことはない。もちろん悪い意味で。

 リビングの対面側に座る父さんは、検事としての顔を持ち、その隣には元医師として活躍し、現在は専業主婦として家族を支えてくれている母さんがお行儀良く膝を曲げて座ってる。

 父さんは私のしゃがれた問いかけに居住まいを正し、諭すような口ぶりで言った。


「いいかい、やよい。どうか落ち着いて聞きなさい。私達音無家は私の仕事の都合上、どうしても県外に引っ越さなければならないことになってしまった。今まで上司の酌量のお陰でこの地の留まり勤務させてもらってきたが、どうにも上の判断でそうも言って入れない事態なってしまってね。かなえのにも、そしてやよいにも多大なる迷惑や負担をかけてしまうかもしれないが、どうか私について来てくれないだろうか?」


 そう言って、父さんは深々く頭を下げた。けれど、私の心臓は大きく波打ち、事態の集取に躍起になる一方で煩く鳴り響いて止まない。まるで許容できない、そう呈(てい)しているかのように。

 頭を下げる父さんに、戸惑った私は、誤魔化すようにそれでいて縋るような視線を母さんに向ける。すぐに視線は交わった。母さんは笑っていた。その微笑みは、まるで決定権を私に委ねさせてくれるような優しく慈愛に満ちた表情だった。

 そして、その瞳からはすでに相応の覚悟が出来ていることを理解した。


 すでに夫婦間では結論に至っている、つまりはそういうことだろう。あとは私が首をどちらに振るかどうかで全てが決定的になってしまう。

 しかしそれは、生徒会の職務を終えたばかりで疲弊した脳と体、そして心に自問するには酷な内容で、唐突すぎる詰問のように思えた。


 だからといって、果たして今、この場に蔓延る空気はそれを許容してくれるのだろうか。今まで健やかに育ててくれた実の父親に向かって「一人で行けば?」──なんて冗談は口が裂けても言えるわけもない。


「……」


 リビングには深閑とした時間が流れる。微かに聞こえてくるのは、電化製品の駆動音と壁掛け時計が刻む秒針音。

一分、二分と、時は経過する。その間、頭を下げた父さんは一向に上げようとしなかった。これにはさしたる私も思わずたじろいでしまう。

父さんは検事であり、日々相手どるは命そのもの。これまで多くの困難を乗り越え、一家を支えてくれた大黒柱。そんな相手が生まれて初めて私にお願い事をしてきたのだ。父さんだって言葉にならない寂寥感を抱えているはずなのに……。


 本当は今すぐにでも「大丈夫だよ、気にしないで」と、笑顔で頷いてあげたい。困らせたくない。いつものように気丈に振る舞っていたい……。

 その一心で、私は震える手を握り締め、俯くきながら必死に笑顔を作るんだ。でも、どんなに笑顔を取り繕うが、直ぐに剥がれてしまうのだろう。


 ——脳裏に過ぎるのだ。彼が。離れたくないと心が叫んで仕方がない。


 毎朝耳にたこができるほど注意しても直らない寝癖だらけの黒髪を私以外の誰かに直させたくない、締りのない表情も、普段は一切の気力も気概も見せないのに、大好きなゲームしているときに見せる少年のような瞳や、ゲーム対決に負けたときの不貞腐れたあの子供っぽい表情も、あの猫背な後ろ姿だって、他の誰かにどうにかされたくない——そう思ってしまう私が、確かに心(ここ)に居るのだから。


 それに、まだやり残したことが沢山ある。近々開催される花火大会だってその一つだ。

 秋には修学旅行だって一緒に回りたい、冬になれば文化祭だってある。小生意気なあのゲームバカに、あなたの幼馴染みがどれだけ魅力的なのかまだまだ全然これっぽちも伝え切れていないのに、これからが本番だというのに、とても長い間伝え切れていない言葉だって、この胸の中に大事に大事に仕舞い込んでいるというに——。

いつか、いつか必ず伝えよう……そう思っていた。けれど、それじゃもう駄目なんだ。取り繕い、俯いている暇などなくなってしまったのだ。


 私は顔を上げ、未だ頭を下げ続ける父さんに問い掛ける。


「父さん、話は分かったわ。でも一日だけ私に時間をくれないかしら?」

「あ、ああ、勿論だとも。一日とは言わずやよいの納得する結論が出るまでじっくりと思考しなさい。引越し期間に多少の差異が生じようが上は聞いてくれるだろうから」


 そう言って、ようやく父さんは顔を上げてくれた。それでも珍しく言い淀みを見せた。普段から言を武器とする職に就いているためかそんな姿は久しぶりに見た気がする。

 思いがけない収穫もあったものだと、父さんを見れば、その視線はすでに私ではなく——チラリと視線を横に這わし始めていた。

何事かと思い、その視線の線路を辿っていく。すると、終点に座って居たのは母さんだった。そして、その表情には微笑みが浮かべていた。

 疑問に思うも、母さんはおもむろに立ち上ると、パタパタとスリッパを鳴らしながらリビングから出で行ってしまった。


 ……一体母さんは何をしに——?


 そうやって、首を傾げる私に、父さんは如何にもといった具合の咳払いを数回。

 意味深な誘導的仕草にまんまと促された私の視線が捉えたのは、もっともらしい顔色を浮かべた父さんの姿だった。

そして、案の定すぐに口を開いたのだった。


「やよい、先ほどの件は決定事項ではないが、先に駿君には話しておきなさい。卒爾(そつじ)がらに引っ越しの件を伝えては驚かせてしまうのは礼儀正しくない。お前達二人はこれまで長い間共に過ごし、成長してきた幼馴染みなのだから」

「え、ええ、それを勿論よ。それに今し方一日時間を設けてもらった理由もそういう理由があったからこそだったの」


 そう言うが早いか、私は制服のスカートからスマホを取り出し、アドレスに登録された見慣れに見慣れた十一桁の番号を指先でタップ。

 数秒間リンバックトーンを挟み、電波は無事隣の家へと到着した。

 親しき仲にも礼儀あり。

 私は、先ほどまでの心境を悟らせないためにも努めて平然とした口調に切り替え、手始めに挨拶から入ることにした。


「こんばんは」

『うい、どうした?』


返事はすぐに帰って来たすでに何千回、何万回聞いたことのある声なのに、未だに高鳴るこの鼓動に自分でも少し呆れてしまった。


「急にごめんなさい、少しいいかしら?」

『ああ、別に問題ないぞ』


 通話越しにそう言った彼の口調は普段と変わらず平坦なものだった。けれど、心なしかワントーン上がったような気もしていた。ゲームの際中だったかだろうか。少し申し訳なさそもあるがこちらも緊急を要する要件がある。それに当の彼自身が問題ないと言っている。

でも、それでもやはり時間も時間だ。もしかしたら夕食前だったのかもしれない。いくら幼馴染みだからと言って迷惑を掛けるのは気が進まない。

結局私は、幾ばくの逡巡を挟んだ後、単刀直入に用件を伝えることにしたのだった。


「そう、なら良かったわ。では単刀直入に言わせてもらうけれど、明日の二時過ぎぐらいに学校に訪れることは可能かしら?」

『明日の二時過ぎか……』


 思案声。断られたらどうしよう。


「だめ……かしら?」


 自然と口を紡ぎ、心の準備をしていた。彼がなんて口にしようが、用事があるのであればそれはしょうがないことだ。別に後日でも構わない。そうだ、先ほど父さんも問題はないと言ったのだから。それでもぎゅっと指先に入る力を緩めのことはできなかった。私は耐えるように彼の一言に耳を傾ける。


『いいや全く問題ないぞ。逆にベストタイミングまである』


 杞憂だったようだ。返答は色よいもで心底ほっとしている。だが、まだ話は終わっていない。


「そう、それは良かったわ。では次に場所に関連する相談なのだけれど、明日、ボードゲーム研究部の部室は使用できるかしら?」


 明日は土曜日だ。彼の所属するボードゲーム研究部も休日まで熱心に部活動に勤しむほどの熱量はないと思うが、念には念を、石橋を叩いて渡るのが私のスタイル。


『んー、平沼あたりが顔を出しているとはずだが……まあ、別に問題ないとは思うが……』


 電波越しに聞こえてきた返答は歯切れの悪いものだった。

 しかし平沼とは一体誰のことだろうか。知らぬ間に入部した、あるいは近々入部する予定がある新入生だろうか。……まあ、どちらにしてのさしたる問題はない。いざと言うときは権力行使もいとわない所存だ。

無事明るく見えて来た目先の問題に肩の荷が降りていくような錯覚を覚える。


「そう、それを聞いて安心したわ。では、場所の確保はこちらで何がなんでも押さえておくから、時間通りに現地集合という事でいいかしら?」

『あ、ああ、まあそういう事なら……。平沼によろしくな』

「平沼……平沼くん、ね?え、えぇ、一応了解したわ。それではまた明日、壱馬さんと美代さんによろしく伝えといてちょうだい。近いうちにまたお伺いするわ。ではおやすみなさい」


 最後は捲し立てるようにそう伝え、私は一方的に通話を切った。

スマホを下ろすと少しだけホッとした安心感に包まれた。知らぬ間に肩に力が入っていたようだ。

 顔を上げると、そんな私より幾分と弛緩したような表情を浮かべる父さんと、いつの間か戻って来ていた母さんの姿があった。

 それを機に、今まで静観していた母さんがおっとりとした口調で口を開いた。


「明日も生徒会の仕事があるのでしょう?お弁当は必要かしら?」


 私はそんな母さんの問いかけに頭を振って立ち上がった。


「ありがとう、でも、大丈夫よ」

「そう?母さん腕に縒りをかけて作っちゃうわよ?」

「……?ううん、本当に大丈夫だから。私、先にお風呂いただいちゃうわね」


 妙に張り切り、ツヤツヤした母さんに疑問を抱きながら、私は万全な状態で明日を迎えるためにもこの数十分で募った疲労を取り除くのを優先することにしたのだった。

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