竪琴鯨の伝説
下村アンダーソン
第一部 〈黄金の雨〉
1
街に降る雨は金色だったろうか、と分厚い雲の層を見下ろしながらネアは思った。
たぶんまだ誰もが眠っていて、赤茶けた屋根や、石畳の道や、広々たる堤防だけが、しっとりと穏やかな輝きを放っていることだろう。ただ濡れそぼっただけであんなにも美しく見えるはずはないから、きっとあの街の雨は特別なのだ。同じように考えた人が過去にもいて、だから遥か下方にあるネアの故郷はこう呼ばれている――〈黄金の雨〉。
いまネアがいるのは、自身で〈天使の息吹〉と名付けた岬だった。〈黄金の雨〉のほぼ真上にあって、ちょうど庇のように空へと突き出している。ここに立てば、街を覆っている白い絨毯状の雲が、風になぶられて形を変えるのがよく見える。その同じ風に吹き寄せられて、自分の前髪や衣服が揺れるのが、彼女は好きだった。
ネアは顔を上げ、深く息を吸い込んだ。普段ならば冷たく清浄な気配に満ちているはずの時間帯だが、今日は雨が上がったばかりだからだろう、空気は湿って甘い匂いがした。
いい日だな、とネアは呟いた。歌うにはうってつけの日だ。
なんの歌にしよう? 漁の成功を願う歌か。空へ旅立つ者を見送る歌か。
それとも――こんな朝には竪琴鯨が見つかりはしないだろうか?
ネアが幼い頃、今は亡き母が語ってくれたことがある。入道雲のなかで眠り、風とともに泳ぐという、伝説の生き物。人間には決して辿り着けない空の果てに住んでいて、千年もの時を生きつづける。そしてその歌声は、妙なる竪琴の音のように、天に響くのだそうだ。
「こんなところにいた」
後方から声が生じたかと思うと、肩を軽やかに叩かれた。振り返るよりも先に、相手が正面へと回り込んでくる。
「家にいないんだもん、どうしたのかと思った。一緒にイルマさんのところに行こうよ」
首が悪戯げに傾き、柔らかにウェーブした髪の隙間から小振りな耳飾りが覗いた。小柄だが華やかな気配を纏ったこの少女は、名をペトラという。
「遊びに?」
「空魚使いの練習。教え方が上手だし、育ててる空魚はみんな優秀」
ペトラが話しながら事もなげに、しかし巧みに操っているのもそのうちの一匹だ。翼のような胸鰭、そして船の帆を思わせる三角の背鰭が、流線形の胴体から伸びている。平時はゆったりと浮かんでいるのを好むが、いざ飛びはじめると速い。宙を切り裂くほどの勢いで、隣の島くらいまでならば一息に到達してしまう。
「なかでもこの〈
ね、と呼びかけながら、ペトラが空魚の鱗を撫でる。自信と情愛に満ちた仕種。
「ペトラに貰われるんだったら、その子も幸せだね」
「ネアだって貰えるよ。いろいろ探せば、そのうち気に入る子が見つかるって。そういえば、ここまでどうやって登ってきたの?」
「どうやってって――歩いてだけど」
返答を聞くなり、ペトラの瞳がまん丸くなった。非常識と思われたのだろう。どうにも気恥ずかしくなって、ネアは視線を伏せた。
「この時間にここにいるってことは、まだ暗いうちに出発したの?」
ゆっくりと頷く。壁と呼んでも差し支えないほどの急斜面と格闘し、小さな凹凸を掴んで体を引き上げ――本来ここは、空魚抜きで来る場所ではないのだ。十二歳の無鉄砲な少女とはいえ、その程度のことは理解していた。
「でも、おかげで濡れなかったよ。降りはじめた頃には雲を抜けてたから」
「空魚を使えば一飛びなのに。だからさ、ネアの空魚を見つけに行こうよ。イルマさんに教われば、すぐにこつを掴めるよ。それで一緒に、空で遊ぶの」
ペトラはトールシップを半回転させ、その銀色の背をネアのほうへと向けさせた。自身は少しだけ前方に寄り、場所を作る。
「後ろに乗って。一気に街まで下りよう」
「あ――うん」
曖昧な声で返事をして、数歩だけ近づいた。緩やかに垂れ下がった尾は確かに、新たな乗り手を受け入れんとしているかに見える。
さらに数歩ぶん距離を詰めると、トールシップがいきなり身を震わせた。尻尾が左右に揺れる。ネアは思わず短い悲鳴をあげて、その場に立ち竦んだ。
「こら」ペトラはいささかも姿勢を乱さないまま、僅かに声を低めて叱りつけた。本気で怒っているようではない。多少じゃれついた程度のことなのだろう。「おとなしくするの」
尾が動きを止めた。ペトラが快活な笑みを見せながら、早く、と促す。
意を決して跨った。トールシップはしなやかな体でネアを受け止めると、胸鰭を細かく羽ばたかせはじめた。足がゆっくりと地を離れていく。
宙へと浮かび上がった。ペトラの腰に回した両腕に力を込めた。
「ネア、準備いい?」
ペトラがちらりと肩越しに振り返る。震えが伝わってしまったろうか。まったく情けない。
かろうじて頷きを返した。大丈夫、大丈夫、と一心に念じる。
「じゃあ行くよ――トールシップ、飛んで」
一点で停止飛行を続けていた空魚に、ペトラが軽快な声で指示を発した。途端に腹部をふわりと突き上げるような感触に見舞われる。身を強張らせたときにはもう、ネアは踏み場のない空中へと連れ出されていた。
耳元で風が唸る。ついさっきまで立っていたはずの岬も、もはや遠い。
「ほら見て、景色いいよお」
はしゃぐような声で呼びかけられたが、あたりを眺め渡す余裕はなかった。ただいっさいが過去になればいいと願う以外、なにもできはしない。
後悔していた。余計な見栄を張るのではなかった。
下ろして、と叫び出したいのを一心に堪える。もはやなりふり構わず、ペトラの腰をぎゅっと引き絞った。背に顔を押し当てる。
空は好きだ。好きなはずなのに――私は飛べない。
どのくらい空中にいたろうか。一帯を柔らかに照らし出す朝の光、遥か下方で峙った雲、その隙間から覗く青さ――きっと壮麗に違いない世界を、ネアはただ、硬く目を瞑ってやり過ごすばかりだった。着いたよ、と呼びかけられるまで、息さえも止めていたような気がした。
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