第34話

 転移させてもらった場所を素早く確認。

 桜並木に花弁が舞っている事に当惑する。

 もう初夏という認識だった私にとって、まだ桜が咲いている事が信じられない。

 季節を間違えたかと思っても……周囲の精霊の気配はやはり初夏のソレで。


 季節としては難しいかと思っていたけれど……桜が咲いているのならば勝算に加算ポイントだと独り言ちる。

 次いで周囲に人がいないのを断定できるまで探査してから姿を隠そうとした瞬間、聞き覚えが無いはずなのにどこかで聞いた事がある声と、懐かしい匂いに包まれた。


姉様あねさま。何処へ行かれれるのですか?」


 私の探査でも分からなかった相手に身体を強張らせたというのに……その悪戯っぽい口調と私の呼び名に加えて……どこか柑橘系の清涼感がありながら甘さも感じるこの匂いと気配は……何一つ変ってはいなかったからこそ――――泣きたくなった。


「……――――ジーン……?」


 声が震える。

 後ろからガラス細工のように優しく抱きしめられているのがようやく理解できた。

 抱きしめられているというより抱き上げられているが正しい。

 ……足が地面につかない。

 やはりお兄様のように身長がとても伸びたらしい。

 偽物だとは微塵も思わなかった。

 私が弟を間違えるはずもない。

 ただ……耳元で吐息交じりの声がするものだから……弟だというのにその色を多大に含んだ、声変わりして低く響くソレにゾクリと背筋が粟立ってしまう。


「姉様? 何処に行かれるのです?」


 責めるようでもあり糸に絡まった獲物を嬲る様な喜悦に歪んだ声音に困惑する。

 小さなジーンから何度も同じことを問われたけれど……今のように私の全てを絡めとろうとするように言われた覚えが無い。

 本当に無かったから私は思わず振り向いてしまった。

 ――――振り向いて凍り付く。


「姉様。どうなさったのですか? 何処へ行かれるおつもりです?」


 声音は優しい響きだ。

 だが客観的に見るのであれば、間近で覗き込むように私を穴が開くほど見つめる宝石さながらの紫の瞳には……温度が微塵も無い。

 他の人が見たのなら、綺麗系の整い過ぎた酷薄さを滲ませる美貌は冴え冴えと月光に照らされて……やはり熱を感じなかっただろう。

 もし客観視したのならば、絹糸と見まごう淡い金色の長めとはいえ長髪というには短い髪は……風も無いのに揺らめいている姿は神々しい。

 ……ただ私には闇が凝って形を成した中に――――弓形に冷たく輝く瞳と、赤く笑みの形に歪んだ口としか捉えられない。


「――――……ごめんなさい、ジーン。……姉様は行かなければならない所があるの。また今度ね」


 声が震えないようにするので精一杯だった。

 あまりにも変わりすぎた弟の様子に頭の中はグチャグチャに乱れに乱れている。

 今、前世の弟に向き合わなければならないのではないかと……警鐘が止まらない。

 脳内で鐘がガンガンと非常事態だと鳴り響いて訴えてくる。

 けれど……私には現在時間が無い。

 この時の事を後に後悔するかもしれないと強く思う。

 思うけれど――――私は選択したのだ。

 アイオーンを……紫苑を選ぶと決断した。

 恥知らずで身勝手なのは承知だ。

 壊れてしまっただろう弟を選べない非情な姉なのは骨身にしみている。

 ――――原因は間違いなく私であるにも関わらず。

 それでも私は決めたから。

 言い聞かせて言い聞かせて……ジーンの腕から逃れるための宝物を起動させようとした時だ。


「――――姉様は行きますよね」


 ジーンの何処へも行かせないという強い意志の込められた、底なし沼に引きずり込もうとするかのような暗く粘着した声を聴いたと同時に、思わず罰を受けたようにビクッと身体が跳ねた理由の一つは……これから会わなければならない存在が男性である事から。

 二つ目で最大の原因、前世においてフィーニス様に呼び出された時……心配と不安がないまぜになった表情で抱き着いてきた幼いジーンに対して、今と同じ言動をした後に――――彼の所へ向かった事を思い出したから。


「……――――ジーン。あの時の姉様は間違えた。だから今度は間違えない為に行動すると決めたの。……一緒に行く……?」


 口を突いて出たのは……今までとは違う言葉。

 昔からジーンには”待っていて”としか言った事が無い。

 けれど――――だからだろうか……?

 今回はジーンを置いて行くという選択を出来なかった。

 どうしても出来なかったのだ。


 変わってしまったように見えた成長して大人の男性だろうジーン。

 だが私が”一緒に行く?”と口にする前のあの子は……今にも泣き出しそうな幼い弟にしか見えなかったから。

 私が言い終えた後に硬直して幻聴かと疑う様なジーンの姿を見ていると、前世の自分がいかに誤ったかが如実に示されている様で……今度こそは間違えないと意識を引き締める。

 同時にジーンに『一緒に行く?』という、それだけの言葉さえ現実と思えない様にさせてしまった自分に腹が立つ。

 前世の私は……守るつもりで全然守れていなかったのだ。

 幼いジーンも……お兄様もグローリアも傷つけた。

 ――――アイオーンも傷つけてしまったのだろう。


「もしジーンさえ良かったら、私と一緒に行く?」


 ジーンにこの言葉を幻ではないと信じて欲しくて、微笑んでもう一度私は口にした。

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