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10. 雪の朝

 朝、ふと目を覚ますと外から差し込む光がずいぶん白く見えた。自分を抱く腕からそっと抜け出し、カーテンを開け、曇った窓に触れると氷のように冷たい。窓を開けると、さらに冷ややかな空気が流れ込んできた。

 そうして、目の前に広がるその光景に目を奪われた。一面に世界を覆い尽くす白。一度だけ、あの極北の地で見た時はもっと寒々しく見えたのに、今は吹き込む風は冷たくとも、どこか心が浮き立つような気がする。


「冷えるぞ」


 不意に後ろから抱きすくめられる。見上げれば、穏やかな青紫の瞳が面白そうにこちらを見つめていた。

「ああ、ごめん。寒かった?」

「あんたがな。寒いのは苦手なんだろう?」

「……よく覚えてるね」

 それは、彼女がまだ自分の想いを自覚さえしていなかった頃に、他愛もない会話の合間に語ったことだった。だが、ロイはひどく優しい笑みを浮かべて、当たり前だろ、と答える。

「その後、あんたが言ったんだぞ、俺のうちが『暖かくていい』って。俺がどんな気持ちだったかわかるか?」

「……どんな気持ち?」

「可愛いすぎる、に決まってんだろ」

 そう言えば、その後抱きしめられて、訪れていた店の店主にたしなめられたのだった。同じことを思い出したのか、わずかにロイが苦笑を浮かべた。思えば、あの日が分岐点ターニングポイントだったのかも知れない。


 一緒に街を見て回って、それから腕飾りを贈られて、そうして——。


 その時のことを思い出して、今更のように赤面する。思い返せば、街中でずいぶん大胆な行動に及ばれたような気がする。彼女の様子に気づいたのか、ロイがふと悪戯っぽい笑みを浮かべる。

「思い出したのか?」

 そろりとその手が上衣の隙間から潜り込んでこようとするのを慌てて押さえる。

「ロイ……!」

「……何だ?」

「まだ起きたばっかりだよ!」

「だから?」

 そのまま唇が重ねられる。ゆっくりと、何かを確かめるかのように何度も深く繰り返されるその口づけに、くらりと目眩がした。そのまま気がつけば寝台に引き戻され、熱を浮かべた眼差しが真上から間近に見下ろしてくる。

 流されそうになって、我に返った。するりとその体の下から抜け出すと、意外そうな眼差しが追ってくる。

「外、見てきていい?」

 それだけで意図を悟ったのか、ただ肩をすくめて笑う。

「……ちゃんと暖かい格好をして行けよ」

「わかってる!」

 そのままそそくさと身支度を整えて、玄関から外に駆け出した。


 外は、窓から見たよりも遥かに白く、そして冷え冷えとしていた。街の中心からは少し離れたところにあるこの家は、周囲にあまり他の家がない。家の周りも、裏の薬草園も全てが白い雪に埋め尽くされていた。

 長靴で雪を踏むと、きしきしと微かな音がする。くるぶしまで埋まるほどの雪で、歩けば歩くほど足跡がくっきりと伸びていく。そのままずんずんと歩いては、後ろを振り向く。どんなに歩いてもその足跡が続いていることで、家までの目印がくっきりと残っているのが、自分の居場所があることを改めて実感させて、寒いのに心がひどく暖かい気がした。


 街の中心までやってきたが、雪深い上に、朝が早いせいかほとんど人影はなかった。きょろきょろとあたりを見回し、もう馴染みとなったパンの店が煙突から細い煙をたなびかせているのを見つけて、そちらに近づく。

 焼き立てのパンのいい香りが漂っていた。ちょうど店から出てきた店主の青年と目が合うと、驚いたように声をかけてきた。

「ディル、ずいぶん早いな」

「ノア、おはよう。雪が綺麗だったから」

「お前さんがいたところではあまり降らなかったのかい?」

「うん」

 頷いた彼女に、そうか、と言ってノアは一度店に引っ込むと、すぐに小さな袋を抱えて戻ってきた。

早起きさんアーリーバードに贈り物だ」

 袋の中をのぞくと、丸い形をつなげた上に、顔の書いてあるパンが二つ、入っていた。

「可愛いね」

「雪だるまだよ」

「雪だるま?」

「……あんたは知らないだろうな」

 不意に投げかけられた声に目を向ければ、ロイがこちらを見下ろしていた。

「やあロイ、おはよう」

「ノア、あんたも早いな」

「俺はこれが仕事だからな」

「おかげで俺たちは美味いパンにありつけるわけだ」

「おだててもお前には何にもでないぞ。美人限定だ」

 軽口にお互い笑い合って、ノアは手を振って店に戻っていく。その姿を見送って、ロイはディルの持っている袋を覗き込んだ。

「上手くできてるもんだな」

「これなあに?」

「雪だるま、って言って、雪を転がして大きな玉を積み上げて作るんだよ。雪の日の子供の遊びの代表だな」

「へえ」

「帰ったら作ってみるか?」

「いいの?」

 顔を輝かせたディルに、ロイは仕方ないと言うように笑う。

「そんなに可愛い顔されちゃ断れねえ」

「……そう言えば、よくここがわかったね」

「わかるに決まってるだろ」

 呆れたように笑って後ろを指し示されて、すぐにその理由に気づく。点々と足跡がここまで続いていた。


「こんなくそ寒い朝早くに歩き回る物好きはあんたくらいだ」

「あと、その物好きを追ってくる人くらい?」


 そう言うと、声を上げて笑って、それから外套を広げて包み込むように抱きしめられた。ぬくもりがひどく心地よい。思わずその胸に頬を寄せると、背中に回された腕の力が強くなる。


「たまには雪の朝もいいもんだな」

「……どうして?」

「こうして、街中であんたを抱きしめるのに、この上ないほどの理由になるから」


 見上げたその顔は優しく甘い笑みを浮かべている。普段ならきっと恥ずかしくなってすぐにその腕から逃れようとしてしまっただろうけれど、幸いなことに雪の早朝に人気はない。

 ディルはそっとその顔を両手で引き寄せて、軽く口づける。ロイは一瞬驚いたように目を見開いて、それからひどく幸せそうに微笑った。

「あーあ、こんなに冷えちまって」

 暖かな頬に触れた手を握りしめられた。そして、耳元で低く囁く。


「帰ったら、暖めてやるからな」


 その言葉の意味を悟って、冷えたはずの頬がすぐに熱くなる。その腕の中から今度こそ逃れようとしたけれど、力強い腕はなかなか離してはくれなかった。

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