11. 冬至
ふと目を覚ますと、今朝もまた腕の中にその姿がなかった。以前はどちらかというとぎりぎりまで彼にくっつくようにして眠り、気持ちよさそうにすり寄っていたのに。その温度がないことに、なんだかほんのわずか寂しさを感じ、どれだけだよ、と内心で自分に呆れながら身を起こすと、窓から外を眺める横顔が見えた。
曇りがちな窓に指を滑らせてその冷えた感触に目を細めながら、それでもその口元は楽しげに緩んでいる。数日前から降り続く雪は、この季節、この辺りでは珍しいものではなかったが、彼女にとっては心浮き立つ光景らしい。鮮やかな銀の髪は流しっぱなしで背を覆っている。放っておけば窓を開けて、体が冷え切るまで眺めていることもあるから、早朝から窓を開けることだけは禁止だ、と伝えておいたけれど。
そっと寝台からすべり降りてその後ろに近づく。気配に気づいて振り返る前に後ろから抱きすくめると、その身体は、はっきりとわかるくらい冷えていた。
「あんた、どれだけ長いことそうやって外を眺めてたんだ?」
その硬質な輝きに反してやわらかい、それでもすっかり冷えきった銀の髪に頬を寄せながら、ロイはやや低い声で呆れたように呟いた。
「おはよう。そんなにじゃないと思うけど……」
首を傾げるその頬に触れればやはり冷たい。向きを変えて抱き寄せると、気持ちよさそうに頬をすり寄せてくる。
「あったかい」
「せめて火を
「……ごめん」
言いながらもその腕が彼の背中に回される。甘えているのが伝わってきて、心臓が不規則な鼓動を打つ。どれほど共に昼を過ごし、夜を重ねても、いまだに慣れないのは自分も同じなのかもしれないと、そんなことを思った。
そうして上がる熱を自覚して、さりげなく寝台へと移動しようとすると、笑う気配が伝わってきた。先日はたどり着いた上で逃げられたのだったが。
「寒いから火熾し、お願いしてもいい?」
笑みを含んだ上目遣いのその「お願い」に、彼が逆らえないのは十分承知の上なのだろう。ため息をついて、それでも意趣返しにとばかりに一度だけ深く口づける。抱いた腰がわずかに震えたのを感じて唇を離してから、彼は満足げに笑みを浮かべたが、ディルは呆れたように少し眉根を寄せて、軽く拳で彼の胸を叩いたのだった。
朝食を済ませて外を眺めると雪は止んでいた。今日は特に予定もない。朝市の立つ日ではあるが、この雪では実施される見込みはあまりなさそうだった。せいぜいいくつかの店を回るくらいか、とそう考えたところでディルと目が合った。明らかにその瞳はいつもと違うきらきらとした光を浮かべている。
「街中に行きたいのか?」
「うん。お祭りがあるんでしょう?」
「ああ、祭りというか……まあ年中行事だな。ノアあたりから聞いたのか?」
この辺りでは最も夜が長くなる冬至の日に、夜通し火を焚いて、飲んだり食べたり踊ったりしながら過ごす風習がある。独り者の彼は基本的には参加することはなかったが、今年はのぞいてみるのもいいかもしれない。ディルが人に慣れないくせに、そうした賑わいを好むことに、彼はもう気づいていたので。
「じゃあ、着替えたら様子を見に行くか」
そう声をかけると、それはそれは嬉しそうに笑う。初めて会った頃はどこか陰のあったその様子もだいぶなりを潜め、穏やかな日々が続いている。時に不安に襲われるほどに。
立ち上がり、その身体を抱き寄せると細いが柔らかく温かい。襟元からのぞくその首筋や胸元は白く、彼がまばらにつけた赤い痕以外には何の痕跡もない。そのことに心の底から安堵する自分を自覚して、我知らず苦笑する。
あの絡みつくような黒い蔦はもう消え去った。何かが起きることなどもうないはずだというのに。
「ロイ?」
「何でもねえよ」
言った彼に、だがディルはその心中を察してしまったのか、彼の頬を引き寄せる。
「大丈夫だよ」
言いながら軽く唇を重ねてくる。間近にあるその瞳は空の色を映して、淡く青い。ふわりと笑うその顔は確かに幸せそうで、だからその言い知れぬ不安など気にする必要などないのだ、と彼もそう思うことにした。
そうして一日、あちこちを見て回った。街中は派手ではないが、ヒイラギやヤドリギにナナカマド、さらにはそれぞれの家で丁寧に編まれた織物があちこちに飾られ、寒々しい冬の日に暖かな色を添えている。
イェネスハイムやカラヴィスほどではないが、この辺りもこの時期は日が短い。午後になると、あたりにはすでに夕闇の気配が忍び寄ってきた。
「ディル」
声をかけてきたのは馴染みのパン屋の店主のノアだった。茶色い髪に背の高い姿はそれなりにいい男だが、誰にも変わらず気さくで穏やかな性格のせいか、ディルもよく懐いている。ディルの美貌に動じない数少ない友人でもあった。
「ノア。今日のお祭りは?」
「基本的には家族で過ごすものだからな。俺も、実家に行くよ」
「実家?」
普段はこのパン屋を兼ねている家で一人暮らしをしているが、少し離れたところに家族の住む家があるらしい。
「何で普段から一緒に住まないの?」
尋ねたディルに、ノアはこともなげに笑う。
「お前さんも知ってるだろう。パン屋の朝は早い。それに夜もな。うちには妹二人とその子供までいるから、一人で暮らす方が気楽だし、集中できる」
「ノアは結婚しないの?」
「生憎と、俺の人生に共感してくれる相手が見つからなくてね」
ノアはある意味、自分の仕事に
「まさか
「うるせえ」
顔をしかめると、ノアはただ笑って何かの袋を取り出すとディルに渡した。それからその耳元に口を寄せて何事かを囁いている。すると、不意にディルの頬が真っ赤に染まった。何事かと声を上げようとしたが、ノアが意味ありげに片目をつぶったので、面倒くさくなってただ肩をすくめるに止めた。
「……本当に?」
「ここいらの風習じゃないがな」
「……考えとく」
それからこちらに駆け寄ってくる。まだその頬がほのかに赤い気がして、首を傾げたが、ディルはただ首を振るばかりだった。
「今度はあっちも見てみたい」
顔を背けるようにしながらも、彼の腕を引いて進む背中が気にならないわけではなかったが、ひとつため息をついて、大人しくついて行った。
あちらこちらの店で、今夜の食材を買い込み、いくつかの飾りを手に入れてディルがようやく満足した頃には、すでに日が暮れ始めていた。街中から彼らの家まではそれなりに距離がある。背を押して森の中を抜けて家路へ着く。ディルは抱えた荷物を眺めながら、その一日を思い出しているのか、楽しげに微笑んでいた。
「楽しかったか?」
「うん。みんなが楽しそうで」
それに、と続ける。
「私も、楽しんでいいんだと思ったら、何だかすごく嬉しいんだ」
ふわりとひどく綺麗に笑ったその表情に胸を衝かれた。祭りなど楽しむ余裕さえなかった彼女の日々を思うと、心臓が抉られるように痛む。それは彼の罪のひとつだったから。
かける言葉を探しあぐねていたが、不意に凄まじく恐ろしい気配を感じて彼はディルを引き寄せて近くの大樹の陰に身を潜める。
「ロ……」
開こうとしたディルの口元を手で塞ぎ、目だけで黙るように伝える。怯えさせないよう、抱きしめながらも様子を窺っていると、それがやってきた。
森の奥の小道から地面に響くほどの音を立て、八本足の馬に跨り、こちらに向かってくる角のある兜をかぶった姿。さらには妖しい光に包まれた異形の獣に妖精たち。
蹄の音と、遠吠えはだんだんとこちらに近づいてくる。ディルが身じろぎするのを、抱きしめて押し留めた。その耳元にごく低く、小さく押さえた声で囁く。
「
だが、その声が聞こえたのか、はたまた別の何かに惹かれたのか、その行列はゆっくりとこちらへと近づきて彼らの目の前で立ち止まった。暮れた闇の中に浮かび上がる、異形の馬に跨ったその姿は異界の王者だ。その視線はまっすぐにディルを捉えている。
一向に動く気配のないその様子にロイが覚悟を決めて、腰の剣を抜こうとしたその時、ふと、ディルが何かを思い付いたかのように、抱えていた袋から何かを取り出し、左腕に身につけていた腕飾りを外してそれに巻きつけた。
そうして、止める間も無く彼の腕から抜け出すと、その馬の主の元へと歩み寄る。
「この冬の贈り物に。私にとって初めての冬の祭り、こうしてお目にかかれたことに感謝します」
ディルがそう言い終えて、その何かを捧げ持つと、相手はしばし考え込むようにじっと彼女を見つめた。兜の奥は隻眼。その眼差しは深く読めなかったが、ややして彼は手を伸ばしてそれを受け取った。それからディルの腕を取る。とっさに身構えた彼に、周囲の獣が低く唸る。だが馬上の主が視線を巡らせると皆が大人しく身を伏せた。
彼は懐から金色に光る何かを取り出すと、ディルの腕に嵌めた。
「贈り物の礼に。天の瞳を持つそなたなら、いつでも我が館へ歓迎しよう」
ふと、笑う気配がして、慌てて彼はディルのそばへ駆け寄り抱き寄せる。馬上の王は、先ほどまでの恐ろしげな気配とは裏腹に奇妙に人じみた表情を見せ、肩をすくめて笑った。そうしてじっと二人を見つめるとややして馬の首を巡らし、去っていった。獣たちもそれに続き、妖精たちは興味深げにディルと彼の周りを一巡りすると王について消えた。
「……肝が冷えたぞ」
彼らの姿が見えなくなってからようやくそう言うと、ディルは謝罪の言葉を口にしながらも、自分の腕に嵌められたそれをまじまじと眺めている。それは、繊細な文様が透かし彫りに掘り込まれた金の腕輪だった。不穏な魔力などは感じられないが、それにしても
「ノアが言ってたんだ。もしかしたら私は見つかってしまうかもしれないから、その時は潔く贈り物でもして、見逃してもらうようにって」
「贈り物?」
「何か綺麗な光るものと、ヒイラギとナナカマドの枝をって」
ヒイラギとナナカマドの枝は魔除の意味と、同時に冬の間の無事と豊穣を願う意味も持つ。だからこそ贈り物として受け入れられたのだろう。
「せっかく贈ってもらった腕飾り、ごめんね」
「まあ、おかげで助かったんだ。仕方ないさ」
ようやく安堵してその身を抱きしめる。その手から滑り落ちた袋から、何かが転がり出てきた。
「まだ何か入っているのか?」
「……あ、それは……」
不意にその頬が赤く染まる。何事かとよく見れば、それは青々とした植物の丸いかたまりだった。
「ヤドリギ?」
そうして、ディルの頬が赤い意味を彼は何となく悟った。それは、この辺りの風習ではなかったが、別の地域にヤドリギにまつわるある慣習があることを、薬師として世界中を巡った彼も知っていたのだ。
ふと見上げれば、彼らが身を寄せている木の枝の先にもヤドリギが見えた。
「ディル」
声をかけて、それを指し示すと。彼女もその意図を悟ったのか、さらにその頬が赤くなる。
「拒んじゃいけないんだよな?」
「……いつだって、拒ませてなんてくれないくせに」
「そうだな」
笑いながら、その頬を引き寄せて口づけた。
あの異界の王に彼女の腕が掴まれた時、心臓が握り潰されるような思いがした。それほどに、彼女は彼の中で大きな存在となっている。もう二度と手放すことなどできないほどに。
だからもう一度、その体を抱き寄せて深く口づけた。この相手が自分のものであると、そのヤドリギの下で誓い、森中に宣言するように。
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