9. 月夜

 街に戻ってきてから、およそ一月が過ぎた。もともと薬師としては重宝されていたから、しばらくすると、ちらほらと声をかけられることが増えた。その際に、家の中や外で姿を見かける銀の髪を持つ美しい娘について、あれこれと詮索されたが、今のところはただ同居人だとそれだけで済ませている。


 容姿だけ見れば、随分と歳の離れた相手だが、この世界では外見と実際の年齢が異なることなどよくあることだ。知り合いからは冷やかしやからかいの言葉をかけられることはあったが、それでもどちらかといえば長年独り身だった彼を祝福するような声の方が多かったから、なんとも照れ臭い。

 それでも、ふと視線を向けたときに、当の相手から幸せそうに微笑まれれば、結局にやける顔を抑えきれないのが実際のところだった。


「どうしたの?」

 部屋に入ったところで夕飯の支度をしているらしいその後ろ姿に見惚れていると、そう声をかけられた。流したまま、さらりと揺れる銀の髪は背の半ばを超えている。柔らかな線を描く肩と白い首筋は細く触れれば折れてしまいそうだ。歩み寄ってその体を後ろから抱きすくめて首筋に口づけると、びくりと震えた。

「何……?」

「幸せすぎて、死にそうだ」

「だめだよ」

 振り返り、頬に触れてくるその手がわずかに震えたのを感じて、馬鹿なことを言ったと後悔する。あの呪いを肩代わりしようとしたその記憶は、まだ彼女を苛んでいるのかもしれなかった。

「冗談だ」

「そういう冗談は、嫌だ」

「悪い」

 美しい眉をひそめたその表情の意味を思えば、どうしても緩んでしまう顔を自覚しながら、正面から抱きしめて、深く口づける。背中から細い腰を撫でながら口づけを繰り返していると、その口から甘い声が漏れる。唇を離すと、潤んだ瞳は夕焼けから夜の色に変わろうとしていた。

「あんたの瞳で、この色が一番好きだ」

「どうして?」

「この色を見るのが、俺だけだから」

「夜にだって、たまには出かけるよ?」

「本当は閉じ込めておきたい、と言ったら?」


 実のところそれは本音だった。この街に住むようになってから、ディル自身も知り合いが増えてきている。誰もがその美貌に見惚れ、その純粋な性格を知ればより惹かれていく。本人は旅で慣れているからと言ってはいるが、一所ひとところに住むことに慣れていない彼女は、実際のところ近隣の人々との距離も測りかねているようで、絡んでくる男どもを邪険にすることができず、ロイが追い払ったのはもう両手の指でも足りないほどだ。


「別にいいよ。そんなに人と会うの、好きじゃないし」

 ああでも、と続ける。

「森に出かけるくらいはいいでしょう?」

「夜にか?」

「うん」

「いいわけねえだろう」

 そもそもの出会いを忘れたのだろうか。森の中で男どもに襲われ、その肌を顕にしていた。当時はまだ知り合いとさえ言えない間柄だったから手出しをためらったが、もし同じようなことがあれば、今度はその相手を殺しかねない自信がある。

 だが、ディルはどうしてだか、がっかりしたような顔をする。珍しく落胆をあらわにしたその顔に興味を惹かれて顎をすくい上げる。

「俺より森が好きか?」

「そうじゃないよ。でも、夜の森で月を見ると、綺麗だよ」


 ——静かで、寂しさも、悲しい気持ちも、全て消えていくような気がするんだよ、と。


 その儚い笑みに、心臓を掴まれたような気がした。寂しさなど、もう感じさせていないと思っていたのに。

「……あいつが恋しいか?」

 抱く腕に力を込めて、複雑な想いが絡み合って震えそうになる声をなんとか制して、それでもそう尋ねてしまう。

 だが、耳に届いたのは心底不思議そうな声だった。

「どうして?」

「どうして……って」

「あなたがいるのに」

 白い手が伸びてきて、彼の頬に触れる。そのまま美しい顔が近づいてきて、唇が重ねられた。

「私が望んでここにいるのに、ロイはまだ疑ってるの?」

 唇が離れた後、そう言った顔はほんのわずかだが、拗ねたような怒っているような色を浮かべている。

「寂しかったのは、昔のことだよ。今はあなたがいる。抱きしめてそばにいてくれる。それがどんなに私にとって幸せなことか、ロイは全然わかってない」

 上目遣いに、唇を尖らせてそう言う様は、彼から見れば、本人が思っているのとは裏腹にただひたすらに可愛いとしか思えない。額にかかる髪をかき上げて、その顔をまじまじと見つめていると、その表情に浮かんでいた怒りが戸惑いに変わっていく。

「……ロイ、聞いてる?」

「聞いてる」

「……何か言うことないの?」

「可愛いな」

 思ったままを告げれば、唖然と口を開いて、それから真っ赤になった。可愛すぎるだろ、と心の中でもう一度呟く。からかわれたと思ったのか、瞬時に再び怒りに変わった顔を捉えて口づける。胸元を抗議するように叩かれたが、構わず深く口づけると、やがて脚から力が抜けていく。

 腰を抱いて支えながらも、服の上からその奥へと指を滑らせると、いつも以上に全身がびくりと震えた。

「何をわかってないって?」

 耳元で囁きながら、服の間に手を滑り込ませて直接そこに触れると、彼の胸元を掴む手に力がこもり、切ない声が漏れた。

「……っ」

「俺がわかってないって言うなら、じっくり聞かせてもらおうか」


 ニヤリと笑って、その体を抱き上げて寝室へと足早に入る。そのまま寝台にその体を横たえて、覆いかぶさるように首筋に強く口づけてから、間近に目を合わせた。毎晩のように夜を共に過ごしているのに、それでも初々しい反応を返す体が愛しくて仕方がない。

「……そういう話をしてるんじゃないよ」

「わかってる」

 あえてそう言うと、怒りを通り越して呆れたらしい。深いため息をつかれた。

「あなたはずるい」

「何がだ?」

「いつも余裕で。私ばっかり振り回されてる」

「俺が余裕?」


 そんなわけがあるはずがない。いつだってぎりぎりいっぱいだ。今も、その服を今すぐ剥いで、思うまま快楽を与えてその喘ぐ様が見たい。その体の奥深くに自身を穿ち、快感に潤む瞳と、自分を呼ぶ声を聞きたい。


「あんたこそ、俺がどれほどあんたに振り回されてるか、全然わかってねえ」


 傷つけないよう、ただひたすらに優しく包み込んで、甘やかして。そう誓ったけれど、自身の中に渦巻く欲望は、実のところそんなものでは済まないほどにどす黒い。


「どれほど俺があんたに惚れてて、あんたの全部をどれほど欲してるか」

 怯えさせたくはない。それでも、全然わかっていないと、そう言うのなら、少しばかりわからせてやってもいいだろうと、妙に獰猛な気分になっていた。


 その服を剥いで顕になった肌に、首筋からゆっくりと全身に唇を這わせていく。白く細いその美しい手が、彼の髪に触れ、その動きを止めようとする。

「ロイ……」

 間近に目を合わせる。朱に染まった頬と潤んだ眼差しは、わずかな怯えと、明らかな快楽による熱を浮かべている。

「俺が怖いか?」

 尋ねれば、ほんのわずか眉を顰める。それでも、その両手が彼の頬に伸ばされた。

「怖いのは、自分が自分でなくなりそうだから。それくらい、ロイが好き」

 まっすぐな言葉と眼差しに、海より深い後悔が湧いてくる。

「ああもう、くそ……っ」

 自己嫌悪で、穴があったら入りたいどころか埋まりたい。その思いを悟ったのか、切ない眼差しが、どこか面白がる色に変わった。

「疑ってたの?」

「そんなわけあるか——そうじゃなくて、ただ」

 自分の中にあるこの欲望をそのままぶつけたら、引かれるんじゃないか、とか、いつか結局この相手は自分の元を去ってしまうんじゃないか、とか。そんな諸々がなかったわけではない。

「ロイの馬鹿」

 内心を読んだかのように、それでも甘い声が彼の名を呼ぶ。

「私の全部、あなたのものなのに」

「……え?」

「あなたが言ったんだよ、全部寄越せって」


 ——あの森で、想いを告げた時に、確かに言った。まさか覚えていたなんて。


「忘れるわけない」

 紺色の瞳が、まっすぐに彼を捕える。

「どうしたら信じてくれるの?」


 信じるも何も。まっすぐなその瞳に、白旗を上げる。


「……なんの話をしてたんだったかな?」

「私が、あなたが私をどれだけ好きなのか、わかってないって」

「わかってるって?」

「そうじゃなかったら、毎日……しないよ」

「もしかして、しんどかったか?」

 問い掛ければ、頬を赤くして顔を背けられた。

「言ってくれよ……」

「だって」

「だって?」

「……ロイが——と、私も嬉しいから」

 ごく小さな声でそんなことを言われて、我慢できるはずもなく。

「今夜は無理だ」

「何が?」

「そんな可愛いこと言われたら。我慢できねえ」

 ディルは、必死に声を漏らすまいと眉根を寄せて堪えようとする。

「声、聞かせろよ」

「やだ」

「今夜だけでいいから」

「絶対嘘だ」

 紺色の瞳は、わずかに責めるように彼を見つめる。

「ばれたか」

 幸せすぎて、本当に今死んでも後悔しない気がする、とは口には出せないけれど。

 あとは、ひたすらに熱が冷めるまで、お互いを貪ったのだった。



 ふと目を覚ますと、腕の中にいつもいるはずの姿がなかった。起き上がると、居間の方から何やら物音がする。衣服を整えてそちらに向かうと、ディルが大きな籠に何やら詰め込んでいた。

「……何やってんだ?」

「起きたの?」

「まさか、出掛けるつもりか?」

「お腹すいたし。外で食べようかと思って」

 籠の中を覗き込めば、葡萄酒にパンやその他の料理が詰め込まれている。

「森の中か?」

「あなたが一緒ならいいでしょう?」

 今日は満月だよ、と外を眺めながら言う。ずいぶん早い時間から寝室に連れこんだから、まだ夜はそこまで更けていなかった。

「……わかったよ」

 その肩に外套をかけてやり、籠を手に取ると、それはそれは嬉しそうに笑うものだから、その額に口づけて、にやける顔をなんとか誤魔化すしかなかった。


 月明かりの中、二人で並んで歩く。ディルはどこか当てがあるのか、いつかのように迷いなく歩いていく。さすがにあの時の泉に向かっているようではなさそうだったが。

「どこに行くんだ? あまり遠くへは行かないぞ」

 深夜に街から離れるのは安全とは言えない。剣は帯びてきたが、厄介事にはならないのが一番だ。

「もうすぐだよ」

 そう言って、連れてこられたのは、小高い丘の上だった。大きな樫が一本そびえ立っている。その根本に座り込むと、葡萄酒をグラスに注いで差し出してくる。

 グラスを合わせて乾杯、と呟いた。

「何にだ?」

「ちょうど、月が一巡りした」

 

 ——この街で、あなたと住むようになってから。月が欠けて、また満ちた。


「あの日も満月だったよ、覚えてない?」

「……全然覚えてねえ」

 この相手が腕の中にいることが嬉しくて、ただその体に溺れていたことしか覚えていない。我ながら残念な感じだが。

 地面に広げられた布の上に並べられた料理をつまみながら、その月を眺める。

「うまい料理に、綺麗な月に、綺麗な恋人。完璧だな」

 そう言うと、ディルが驚いたように目を見開いた。

「どうした?」

「恋人、って言われたの、初めてだから」

 我ながら情けない、と改めて思う。グラスの中身をこぼさないように、そっとその肩を抱き寄せる。

「なら、それもすっ飛ばして、俺の嫁さんになってくれるか?」

 三百歳を越えての初婚など、自分でも呆れるほどだが。


 だが、ディルは呆れたように笑う。

「ロイ」

「何だ?」

「……もうちょっと、雰囲気があってもいいと思う」

 いつかも言われたその言葉に、ただ苦笑が漏れる。

「違いないな」


 いったん忘れてくれ、と言いながら、葡萄酒に濡れるその唇に深く口づける。何度触れてもその唇は甘く、その体も、やはり触れるほどに欲しくなる。


「夜はだめだな」

「どうして?」

「俺があんたに溺れちまう」


 月の光を受けて、その銀の髪は柔らかく輝いている。密かに内心で求婚の算段をしながら、そうして夜はゆっくりと更けていった。

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