8. 帰郷

 扉を開け、家の中に入ると、むっとした熱気と埃の匂いがした。さすがに数ヶ月空けた家はこんなものだろうか。慌てて飛び出したから、あれこれ置きっぱなしだが、少なくとも生鮮物は処分しておいたから、ひどい匂いなどはなさそうなのがまだ幸いだった。


「……散らかってるね」

「誰のせいだと思ってるんだ?」

 そう言って視線を向ければ、どことなく気まずそうに目を逸らされる。元々、この街を離れる際に、同行を約していたはずの彼を置いて行こうとしたのはこの相手だ。先見視さきみの力がなければ、そのまま見失っていたかもしれない。

「冷たいよなあ」

 言って、視線を合わせないその後ろ姿を抱きすくめる。首筋に顔を埋め、さりげなくその胸元に触れれば、びくりと素直な反応が返ってきた。やってみてから後悔した。そんな反応をされると、今すぐにでも寝台へと押し倒したくなる。


 抱いたのはたった一度きり。その後は、嵐のような日々だった。あの日の行為でさえ、自分の妄想だったんじゃないかと思いかけたが、それでも「彼女」は彼を選んだ。信じられないことに、運命とやらに背を向けて、そして、ここに——彼の腕の中にいる。

「本当に、よかったのか?」

 返事はない。腕の中のその顔を見つめると、何やら少し拗ねたような表情があった。

「どうした?」

「……ロイは、後悔してるの?」

 どうやら明後日の方向に勘違いされているらしい。そういえば、そういう性格だったと改めて思い出す。それでもその言葉は、わかりやすく現状の肯定をしていると気づいて愛しさがこみ上げた。


 そのまま顎を捉えて、ゆっくりと顔を近づける。まっすぐに見つめると、ややして揺れる瞳が閉じられた。それを肯定と受け取って、唇を重ねる。何度も繰り返しついばむように口づけを繰り返すと、やがておずおずと唇が開かれる。向きを変えて背中を強く抱き寄せ、その開いた隙間から食らいつくように深く口づけた。

 繰り返すうちに、その脚から力が抜け、くずおれそうになる腰を抱いて支えた。目を開けると、ほのかに目元を朱に染めた、潤んだ夕焼け色の瞳がこちらを見つめていた。

「あんた、口づけキスに弱いよな」

「……ロイの……だからだよ」

 あまりに率直な言葉に、下半身がわかりやすく反応する。抱きしめるとその腕が背中に回される。出会ってからの日々を思い返せば、それほど長い時ではないはずなのに、あまりに多くの出来事と、そして想いの変化が目まぐるし過ぎて、ここに運び込んだのが遥かに遠い日のように思えた。


 初めて出会ったのは酒場だった。ひとりで夕飯でも食べるかとふらりと入ったいつものその場所で、目を惹かれたのは何故だったのだろうか。鮮やかな銀の髪も、穏やかな紺色の瞳も。美しかったから、とそれだけで済ませるには、何かが足りない。

 あの時、あの場所にいなかったら、こうしてここに二人でいることもなかっただろう。それは、正しく運命と呼ぶべきものなのかもしれない。アストリッドによれば、彼らが恋に落ちるのは、想定外だったというのだから。


「とりあえず、掃除でもするか」

「そうだね」

 言いながらも、背中に回された腕が離れる気配がない。

「……ディル?」

 声をかければ、その顔を胸に押し付けられた。

「どうした?」

 その髪を撫で、抱きしめ返しながら尋ねるとさらに腕に力が込められる。

「この家に、ずっといられる?」

 小さな声に、心臓が強い鼓動を打った。この家が暖かくて好きだ、と言ってくれたのはいつのことだっただろうか。生まれてから、「祈りの家」で育ち、自分の家というものを持たなかった彼女にとって、普通の暮らしがどれほどに貴重だったのかと。

「当たり前だ。だが、前みたいに居候じゃねえぞ?」

 首筋に触れて、告げたその言葉の意味を悟ったのか、押し付けられた頬が朱に染まる。

「……わかってる、と思う」

 大好きだよ、と小さく呟かれたその言葉に、もうだめだ、と天を仰いでその身体を抱き上げた。

「せめて掃除して風呂に入ってからと思ってたんだが」

 言い訳するようにそんなことを呟いて寝室へ足早に入ると、寝台の上に押し倒した。深く口づけを繰り返していると、そっと背中に腕が回される。

「いいんだな?」

 少し身を起こしてそう尋ねると、わずかに羞恥に染まった顔が、それでも頷く。

「……うん」

「可愛すぎるだろ」



 美しいその顔が、彼の与える快楽で眉をしかめる様は、途方もなく扇情的だった。熱に浮かされたような眼差しが愛おしくて、その額に口づける。

「ディル、あんたを愛してる」

 普段なら到底言えないような恥ずかしい台詞が自然と口からこぼれた。見下ろせば、こちらを見つめる顔は泣き出しそうな、それでも見たこともないほどごく甘く幸せそうな笑みを浮かべている。

「ずっと、一緒にいて……?」

「離すわけねえだろ?」

 運命からもぎ取ったこの相手を、手離すなど到底考えられなかった。二人で微笑んで、あとは、ひたすらに快楽に溺れた。



 気がつけば彼も眠ってしまっていたらしい。目を開けると、自分の胸にぴたりとくっついている銀の頭が見えた。うっすらと涙の浮かぶ顔と、身体中に残る自分がつけた赤い痕にわずかに後悔が浮かぶ。白く美しい肌にここまで……と。それでも止まらなかった。ようやく手に入れて、大切にするとあれほど心に誓っていたのに、どこをとっても扇情的なその身体と眼差しに溺れてしまった。

 白い背中から腰のあたりを撫でると、ふるりと震える。その動きに、どうしようもなく熱が上がる。何度でも、無理やりにでも抱いてしまいたいという目も眩むような欲望を何とか押さえつける。


「……ロイ?」

「悪い。起こしちまったか?」

「ロイの手、好き」

 寝ぼけているのか、いまだぼんやりした瞳でそんなことを言いながら彼の手を取ると、頬に当てる。

「大きくて、優しい」

 幸せそうに微笑むその顔に、どうにも愛しさが溢れて止まらない。

「勘弁してくれ……」

 呟いた彼に、怪訝そうな眼差しが向けられる。

「そんな顔されたら、本当に我慢できねえよ」

 軽く笑って空いた手を腰にすべらせると、びくりと震える。見上げてくる目元はほんのりと朱に染まっている。

「……したい?」

 小さな声に、どくんと心臓が跳ねる。ついでに熱も。

「したい」

 だが、と一応続ける。

「別にあんたが今拒んでも構わない。まだまだ時間はたっぷりあるしな」


 自身の熱を何とかねじ伏せて、そう笑って見せると、驚いたように目を丸くする。やはり、と思う。まだこの目の前の相手は孤独から抜け出せていないのだろう。

 のだと、そう伝える。


「あんたは俺を選んでくれた。今はそれだけで十分なんだよ」

 もちろん抱いてよければいくらでも、だが。

「ちょっとだけ、休みたい……かも」

 頬を染めて俯いたままそう言うその姿に、ただただ愛しさだけがこみ上げて、その額に口づける。自分にこんな日がくるとは、想像したこともなかった。

「まったく……いい歳して何やってんだか、俺も」

 長い長い時を生きてきて、惹かれた相手がいなかったわけではない。それでも、この目の前の相手に感じたような目も眩むような欲望と、大切にしたいという不可思議な感情を抱いたことは、一度もない。どうにもあのおかしな精霊の娘だと言われれば、やはり何やら背筋がざわつく気がしないでもないが、気にしていても仕方がない。

「ロイ?」

 黙り込んだ彼に、腕の中から怪訝そうな声が向けられる。安心させるように微笑んで、抱きしめるとこちらをまっすぐに見つめてくる。それから、唇が重なった。


「大好き」


 破壊力抜群のその言葉に、拒んでもいい、と言った先ほどの自分の言葉を、彼は後悔するより他なかった。

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