7. 変革

「君は行けないよ」

 ごく冷静に、あの強大な呪いを世界にかけた精霊はそう言った。あの「盟約」と世界への呪いは、彼の願いを元に構成されている。ディルを救うためにはその呪いを更新アップデートしなければならないが、その書き換えにあたり、彼の存在は邪魔ノイズになるかもしれないから、と。


「俺自身が呪いを構成したわけじゃない。影響はないはずだ」

「あのねえ、私の術は繊細に出来ているんだよ。君が思っている以上にね」

「だからってここで指咥えて見てろっていうのか⁈」

 その呪いが、誰よりも愛しいと思うその相手を殺そうとしているというのに。声を荒げた彼に、だがアストリッドは頑として頷こうとはしなかった。

「ロイ、この子は自分で切り開くと決めた。それを邪魔する権利は私にも、君にもないよ」

 呪いを肩代わりすると言ったアストリッドを、ディルは拒否した。彼自身に告げたのと同じように。共に生きて行きたい人がいるからこそ、何かを犠牲にすることは受け容れられない、とそう言って。

 それは、前向きに生きていくという宣言と同義だったから、彼もアストリッドも受け容れざるを得なかった。彼女の心に傷を負わせたいわけではなかったから。


 結局、アルヴィードと二人で行くことになった。元々、誰よりも彼女を大切に思っていた黒狼の青年は、何のためらいもなく頷いた。その先に待ち受けているのがどんな困難だかも知れないというのに。

 二人で行かせることに、わだかまりがなかったわけではない。それでも、そんなことを言っている場合ではないことも確かだった。魔女の館で作っておいた、雷と炎をそれぞれ封じた小瓶を渡しながら、その細い体を抱き寄せる。


「必ず、無事に戻ってくれ。無理だと思ったら逃げろ。そいつを叩きつければ、派手に打ち上がるはずだ。俺か、アストリッドが必ず気づく」

 そう言った彼に、ディルはどうしてだか、ほんのわずか楽しげに笑う。

「そんな事態にならないことを祈ってて」

「祈りで、あんたが救えるなら、いくらでもそうするがな」

 祈りなど、無力なことを彼はいやと言うほど知ってしまっていた。だが、ディルはそんな彼をむしろ励ますように微笑う。

「大丈夫だよ」

「……?」

「もっとも強い力を持つ精霊と現世最高の先見視さきみと、最後の黒狼に守られるなんて幸運に恵まれる奴がそうそういると思えないし」

「どっちかっていうと、厄介者に絡まれてるだけな気がしなくもないがな」

 その顎を捉えて、軽く口づける。視界の端にアルヴィードが眉を顰めるのが見えたが、構う余裕さえなかった。抱きしめて、その耳元に告げる。

「何かあったら俺を呼べ。どうやってでも駆けつけてやる」

「……わかった」

 ひどく綺麗に笑って、そうして二人はアストリッドによって世界の果てへと送られていった。



「行ってしまったね」

 露台テラスで佇んでいた彼に、アストリッドがそう声をかけてくる。普段は掴み所のないその相手は、今はどこか所在なげだった。

「……どうした?」

「君は、ディルを愛しているんだね?」

「……何だ、藪から棒に?」

「いや、まさかこんなことになるとは思わなかったから」

 どうしてだか切なく笑ったその顔に、思いもかけなかった予感がよぎる。

「アストリッド、あんたまさか……」

「そのまさか、だよ」

 気づいてももらえていなかったなんてね、ともう一度切なく笑う。今度はそれでも何かを諦めたような、どこか清々しい笑みだった。

「だって、あんたはディルの父親と……その……情を交わしたわけだろう?」

「それは、黒狼あのこのためだよ」

「まさか、あんたあいつの伴侶を生み出すためだけに、自分を道具とした、なんて言うつもりか……⁈」

 眼を見開いた彼に、アストリッドはこともなげに頷く。

「だって、気がついた時には君はもういなかったからね。私に残されたのは、誰かのために自分を最大限利用すると、それくらいだったんだよ」


 悲壮感さえもなく、ごく当然のようにそう言う姿にただ言葉を失う。


「彼を見つけた時、きっとこの人の子なら大丈夫だと思った。だから、半年かけて彼を口説き落として、そうしてあの子がこの身に宿ったのを確認してそれきりだよ」

 黒狼の血を継がせるための伴侶を生み出す。ただ、そのために、愛してもいない相手の子を宿した。


 もともと自分の身など構う様子がなかったのは知っていたが、それほどに彼女が抱える闇が深いことに、彼は気づけなかった。世界に対する呪いなどという残酷なものを押し付けて、さらに彼女の苦悩を知ろうともせず、ただ自分の望みのままに生きてきた。

 あまりのことに、思わず抱き寄せると素直にその身を預けてくる。

「馬鹿だろう、あんた」

 震えそうになる声でそう言った彼に、だがアストリッドはむしろ彼を慰めるようにその背に腕を回し、やわらかく笑う。

「どうしてかな、よく言われる」

「……俺は、『次善策プランB』だったんじゃないのか?」

 そう尋ねた彼に、アストリッドは腕の中から怪訝そうな眼差しを向けてくる。ややして何かに思い当たったようにため息をついた。

「誰がそんなことを言ったのか、だいたい予想はつくけれどね。君は、何回彼女あのこに引っかけられれば気が済むんだい?」

「だが、あんたは言っただろう、俺をあんたの運命に巻き込むと」

 そう尋ねると、アストリッドは苦笑して肩をすくめた。

「あれはね、こちらにあの子が来た時に、必要であれば手を貸して欲しいとその程度のことだったんだよ」

 でもまさか、あの子と君が恋に落ちてしまうなんてねえ。そう言ってもう一度ため息をつく。

「そんなに魅力的だったかい?」

「……そういう問題じゃねえよ」

 惹かれたのはその容姿だけではなく、その複雑な生い立ちをも含めても失われなかった純粋な心だ。それはきっと、アストリッドから受け継がれたものなのだろうと今なら思える。

「本当に馬鹿だな、あんた」

「そうだねえ」

 もっと早くに気づいてやれていれば、と後悔が湧かないわけではなかったが、それでも彼の心を占めるのはあの色を変える瞳だ。

「どうしたら、よかったんだろう」

「もっと自分を大切にしろ」

 今さら、彼が言うことでもないかも知れなかったけれど。

 だが、その時不意に、高く澄んだ音が聞こえた気がした。


 ——何かが砕けるような。


 アストリッドも感じたのか、彼の腕から離れ、こちらを見上げてくる。

「……あれが割れたね」

「本人たちはまだ無事のようだが」

 身を翻しかけた彼に、アストリッドが厳しい眼差しを向けてくる。

「だめだよ、ロイ」

「今さらそんなことを言っている場合か? あいつらに何かあれば、『盟約』の更新以前の問題だ。あれが割れるなんて、尋常な事態じゃない。あんたが何と言おうと、俺は行くぞ」

 決然たる声でそう言った彼に、アストリッドはもう一度深いため息をつく。それから、ふと、その薔薇色の瞳に強い光を浮かべて彼を見つめる。

「わかった。その代わり、を置いていくんだよ」

 それ、が何を指すのかは明らかだった。

 紫闇の薬——彼の最終手段ラストリゾートとして懐に潜ませておいたもの。


「……必要になるかもしれないだろう?」

「だめだよ。それを使えば君は確実に死ぬ。わからないのかい? 私にとってもあの子は大切なんだ。あの子を傷つけるものは、たとえ君であっても許せない」

 その眼差しはあの時、彼が「盟約」に呪いを枷にと願った時に見せたのと同じか、それ以上の強い光を浮かべている。

「君に何かあれば、まして、あの子を守って君が死ぬなんてことがあれば、あの子の心が傷つくだけでは済まない。それは、きっと黒狼かれでも癒せない。そんな傷をあの子に負わせることは、許さないよ」

「そんなこと言ったってな……」

 無策で飛び込んだところで、彼らを守れなければ意味はない。アストリッドが現地に行けないのなら、せめても彼がその命を賭してでも、と考えるのは当然だ。

「時間がない。他に策がないなら、口を出すな」


 今の彼にとって、ディルの命より優先するものはない。


 言葉にはしなかったその意志を確かに感じ取ったのか、アストリッドはもう一度深いため息をついた。それから不意に彼の襟首を掴んでその顔を引き寄せると唇を重ねられた。噛み付くように重ねられた唇から、何かが流れ込んでくる。

 大きな力のうねりに圧倒されそうになり、立ちくらんだ彼を、アストリッドの腕が支えた。

「……有意義に使ってくれ」


 その顔に浮かぶのは、満足げな笑みだった。ふと、彼の眼に信じられない光景が映る。それは、大地に静かに横たわるアストリッドの姿だった。眠っているように見えるが、それは——。


「あんた、何をした……?」

「残りの寿命の半分くらいかな。君に預けるよ」

 精霊の寿命など知らない。だが、彼女ほど大きな力の半分といえば——。

「あとどれくらい残した⁈」

「大丈夫だよ、あの子が生きて、次の世代が大きくなるくらいは保つよ」

 本来は、気の遠くなるほどに長い時を生き続けることさえも可能なはずのその力の根源を。

「君も、同じくらいにね」

 彼の寿命がどれほど残っていたかなど知らない。だが、そう長くはないであろうことを自覚していたのに。

「……どんだけあんたに借りを作らせる気だよ……」

「可愛い孫の顔でも見せてくれれば帳消しチャラにしておくよ」

「……本当に、あんたは大丈夫なんだな?」

「私はイングリッドと違って嘘はつけないからね」

 笑ったその顔に、ひとつため息をついて、その体をもう一度抱きしめる。その想いはかけられたものとは異なるだろうが、それでも彼にとって、アストリッドが大きな存在であることは変わらなかった。

「いろいろ言いたいことはあるが、戻ってからだ」

「そうだね。あの子たちを頼むよ」

 ひどく綺麗に笑った顔を見つめているうちに、視界が揺らいで気がつけば、彼は別の場所に立っていた。




 そうして、世界に干渉することさえ容易なその力の半分を借り受けた彼は、その力を惜しみなく使い、ここぞとばかりに幽鬼たちを全て灰に還し、ディルとアルヴィードを救った。

 やがて、たどり着いた世界の北の果ての最奥には、巨大な月水晶と、そこに同化するように眠る竜がいた。

「さあディル、お前は何を望む?」

 ただ、彼女を守るためだけにそこに止まり続けた竜は、和平条約と盟約の立会人であり証人であったと語った。ゆえに、その願いが、ロイとアストリッドの願いを超えるなら、その更新を認める、と。


「私の、願い……」


 どこか迷うようにこちらを見上げる瞳は、夕暮れから夜の色に変わりつつある。何よりも彼を惹きつけて止まない、その変化する瞳は、それこそが変化を拒んできた彼への福音なのかもしれない、とそんなことを思わせた。それが、感傷に過ぎないとしても。

「あんたは素直に望んでいいんだ」

「何を……?」

「生きたいんだろう、自由に?」


 運命も呪いも彼女の心を捕らえることはできなかった。

 誰にも縛られることもなく、ただ、その望みのままに。


 ディルはひとつ大きく息を吐くと、まっすぐに彼を見つめる。

「誰もが自由に、呪いや制約に脅かされることなく、自分で生きる道を選択できること」

 そして、とさらに願いを重ねる。

「全ての子供たちが、どんな事情があっても、健やかに育つように、暖かく見守られて幸せに生きること」


 己の苦悩さえも、祈りに変えることができる。そんな彼女だからこそ。


「運命なんて知らない。あなたと、一緒に生きていくこと。それが私の願いだよ」


 そう言った瞬間、世界が白く包まれる。同時にディルの腕に刻まれていた呪いの文様が淡く溶けていく。それを見て、彼女がロイの体に腕を回してきた。


「世界は変わるのかな?」

「変わるんじゃない、きっと変えていくんだ」

「……随分大仕事だね?」

「気負う必要はないさ。最大限の努力ベストエフォートで十分だ」

 笑って言いながら、彼女の願いのままに、イーヴァルと呼ばれた竜の青年が書き換えていくその盟約に、アストリッドから預かった力を重ねていく。


 ほんのわずかでも、世界の均衡バランスが、彼女が望んだように、優しさに傾くように。


「ずっと、一緒にいてくれる?」

「それがあんたの願いなら」


 実のところ、同じ自分の願いもそこに重ねて。

 強く彼女を抱きしめ、口づけると同時に、世界は真白く包まれた。

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