6. 運命 (*)

 森の中でしばらく呆然と佇んでいた彼は、日がだいぶ傾いたことに気づいて我に返った。深く息を吐いてから、ゆっくりと歩き出す。いずれにしても、その現実から逃げるわけにはいかなかった。


 アストリッドの城のあてがわれた部屋に入ると、そのまま露台テラスへと出る。空はすでに暮れ始めていた。夕焼けの色は先日、繭に包まれる前に見た、熱を浮かべるその瞳を彼にありありと思い出させて、心臓に刺すような痛みが走る。

「くそっ……!」

 手すりに拳を叩きつけても、ただ自分の手が痛むだけで、何の意味もない。わかってはいても、胸の内に渦巻く苛立ちと後悔は、荒れ狂う嵐のように彼の心を乱した。

 がいつかくることはわかっていたはずだった。だが、まだ時間はあると思っていた。それまでに何とかできるだろうと。それがよりにもよって今この時に——想いが通じたと思ったまさにこの時にやってくるなど。「運命」という言葉が脳裏をよぎる。自分が関わってしまったが故に、こんな結末がディルの上に降りかかったのだとしたら。


 運命を司るのは女神だという。そのひとは、どれほどに残酷なのかと。


 悔やんでいても仕方がない。だが、あと数日で救えるだろうか。

「最悪、あれでいくしかねえか」

 呪いを解くことができないのならば、呪いの対象を自分に。自分の命と引き換えにはなるが、それでも彼はもう十分に長く生きた。共に過ごせないのは残念だが、それでもディルの命を失うよりは遥かにましだろう。


「何か、ろくでもないことを考えてる?」


 不意にかけられた声に、比喩でなく心臓が止まりそうになった。驚いて振り返ると、すぐ後ろから、すでに夜の色に変わり始めた瞳がまっすぐに彼を見つめていた。以前より、ほんのわずか目線が下がっただろうか。美しい顔はあまり変わらないが、それでもその頬はやわらかな線を描いて、その身体は服の上からでもはっきりとわかるほど女性らしく変わっている。

 言葉を失ったままの彼に、ディルはためらう様子もなく近づいてくる。そうして、その顔を引き寄せた。

「あなたのせいじゃない」

 夕暮れから夜の色に変わった瞳が、まっすぐに彼を捕える。

「私が選んだんだよ」

 間近に唇が触れそうなほどに近づいて、そう告げる。何かを宣言するかのように。

「呪いを受けたのは、私がアルヴィードを守りたかったから。あなたのせいじゃない」

 その言葉に、ずきりと心臓が痛んだ。我ながら勝手だと思うが、その命を賭けるほどの相手が自分でないことに、驚くほど心がきしむ。その表情の変化をどう捉えたのか、ディルはわずかに苦笑する。

「本当にわかってないの?」

「……何がだ?」

 ようやく絞り出した声は、自分でも驚くほどかすれていた。ディルは、さらに呆れたような、困ったような表情を浮かべる。どう話したものか、と戸惑っているように見えた。

「……何で私がここにいると思う?」

 アルヴィードに抱き上げられ、城へと戻ったはずのディルがここにいるのは確かに不自然だった。あの男なら、本来、分化した彼女を手放しはしないだろう。それをずっと待ち望んでいたはずだ。そうでなくとも、彼がディルにどんな想いを抱いているか知っているはずだった。

「そうだよ。アルも知ってる」

 ディルはかすかにどこかが痛むように切ない笑みを浮かべる。どきり、と心臓が不規則な鼓動を打った。あの男がディルがここに来ることを許したという、その意味は。

「私が自分で決めて、来たんだよ」


 あなたのためにこの姿になって、あなたに会いたくて。


 震える睫毛と、その声の意味を、自分は取り違えてはいないだろうか。ふと、魔女イングリッドの言葉を思い出す。


『あなたが本当にそれを望むなら、ためらわずに掴みなさい。踏み込むことをためらったら、あっという間にその手からこぼれて行ってしまうわよ』


 自分の愉しみのためだけに、人をからかい惑わし、時に人を破滅に追い込むような女だと知っているから、その言葉に踊らされることは危険だとわかってはいたけれど。

 その頬に手を伸ばす。彼の荒れた手とは対照的に、白い肌は吸いつくようになめらかだ。ゆっくりと指をすべらせると、くすぐったそうに身をよじる。拒む様子のないその仕草に、体の奥が熱を持つ。それでも、まだ躊躇いは消えなかった。

「俺の呪いがあんたを殺そうとしてる」

「言ったでしょう? あなたのせいじゃない」

「いいや、俺のせいだ。俺の、考えなしの愚かな願いが多くの命を奪った。そして、あんたの命も同じように奪おうとしている」

 どんな理由があれど、奪われていい命などなかったはずだ。それが多くの虐殺を止めるためだったとしても、その重さを彼は背負わねばならない。そして、彼自身は背負ってきたつもりだった。

 だが、今のディルのように、無辜むこの命が奪われていたかもしれないことを、今になってようやく実感する。彼と同じように、苦悩した人々がいたかもしれない——おそらくは確実にいたであろうその罪を。


 そして、アストリッドはそれをすでに知っていたのだろうと思い至る。彼女は一言も彼を責めなかった。だが、その叫びは逐一彼女に届いていたはずだ。彼女は呪いの根源であり、その発端であればこそ。

 それが、どれほど残酷なことだったか、今になってようやく知る。


「俺は、とんでもない愚か者だ」

「そうかもしれないね」

 ディルは否定しなかった。「魔力を持つ者の銃火器ぶきの使用禁止」というその「盟約」に長く苦しめられてきたからこそ。

「でも、きっとあなたの願いがたくさんの命も救ったんでしょう?」

 世界は確かに落ち着いた。盟約が呪いを伴うようになって、あちこちで起きていた大規模ないさかいが劇的に収まったのは事実だった。

「なら、きっと意味があったんだよ」

 慰めが欲しいわけではなかった。けれど、確かにその言葉は彼の中で凝っていた苦痛をほんのわずか和らげてくれる。

「私にとっては迷惑極まりないものだったけど、少なくともそのおかげで穏やかな生活を送れるようになった人もいるんだから、、でしょう?」

 肩をすくめて、どこかからかうようにそう言った顔は笑みを含んでいる。それは、優しさと、諦めを含んだ笑顔だった。たまらずその体を抱きしめた。細いその身体は、驚くほどやわらかい。頬に触れる銀の髪の感触と、花のような肌の香りに目眩がした。

「あんたがそこに含まれていなけりゃ、意味がないだろう?」

「そうだね」

 その腕が背に回された。押し付けられる体の感触に自身の熱が上がるのを感じる。

「世界のことなんて、本当はどうでもいい」

 呟かれた言葉の意味を計りかねて、腕の中に目を向けると、ひどく澄んだ笑みがこちらに向けられていた。

「あなたがそばにいて、抱きしめてくれてさえいれば、私はそれでいいみたいなんだ」


 その命を秤にかけるには、あまりにささやかな願いだった。


「ロイ」

 見上げてくる眼差しは夜の色を映して静かに、それでも確かな恋情おもいを伝えてくる。

「先のことなんて知らない。ただ、今はあなたと夜を過ごしたい」

 男の口説き方など知らないだろうに、まっすぐなその言葉は何よりも情熱的だ。

「……いつからそんなに口説き上手になったんだ?」

「これでも吟遊詩人の真似事をしていたからね」

 上演目録レパートリーだけは豊富なんだ、とどこか面白がるように言う。先に惚れたのは自分で、口説いていたのも自分だったはずなのに、気がつけば立場が逆転している。

「……情けねえな」

「何が?」

「あんたにそこまで言わせちまう、俺の甲斐性のなさがだよ」

 その身体を抱き上げて、寝台へと足早に歩く。その上に横たえて、覆いかぶさるように両手の指を絡める。

「俺はまだ、あんたを欲してもいいのか?」

「私に委ねるつもり?」


 どこか呆れたような声に、ようやくもう一度覚悟を決める。

 まっすぐに見下ろして、震える声を制して、その想いを告げる。


「身勝手だとわかってる。でも、あんたが欲しい。この夜だけでも、あんたと過ごしたい」

「もう少し、強気な方が嬉しいけど、でもいいよ」

 仕方ない、というように笑うその顔に彼も思わず微笑んで、その頬に手を伸ばした。ゆっくりと、唇を重ねる。

 上衣の合わせ目から手を滑り込ませると、質量を増したやわらかなふくらみが手に吸いつくように触れた。びくり、とその体が震える。口づけを繰り返しながら、服を剥ぐと、その左腕を覆い尽くし、さらに鎖骨までを冒す文様が目に入った。

「気味が悪い?」

「そんなわけあるか」

 言って、腰を押しつけると、その頬が朱に染まった。ゆっくりとその胸の近くの文様に口づけ、そこからさらに下へと唇を這わせていく。それでも、欲望と罪の意識とが入り混じったその感情に翻弄される。

 彼のその戸惑いを感じたのか、ディルが彼の頬を引き寄せた。

「ロイ、今だけでいいから」

 熱の浮かぶその眼差しに、内心で白旗を上げる。この相手に、ここまで言わせて、まだためらうなど、さすがに男が廃る。

「……もう、泣いてもやめてやらねえぞ」

「そんなにひどいことはしないでしょう?」

 不思議そうに首を傾げるその顔に、今度は彼が呆れる番だった。だが、そうしてようやく彼女にとってはこれがなのだと思い至った。それを自覚して驚くほど熱が上がる。その白い体の、隅々にまで彼の痕と快楽を刻み込んで。それをどれほど望んでいたか、改めて思い出す。

 不意に獰猛な笑みを浮かべた彼に、ディルがほんのわずか驚いたように腰を引く。だが、もう彼は逃してやる気などなかった。

「覚悟しろよ。あんたを俺に溺れさせてやる」

 何かを言いかけた唇を塞いで、そうして震える身体を、彼は容赦無く貪った。



 幾度繰り返したかわからないほどに、快楽に怯えて涙を浮かべる瞳に口づけ、震える体を抱いているうちに、その体から力が抜けた。気を失ったのだと気づいた時には彼も果てていた。

 腕の中の寝顔はひどく穏やかに見えた。首筋にも、胸元にもこれでもかと散らばる赤い痕に、自分の所有欲を改めて自覚してため息をつく。何度、こうして寝顔を見つめてきただろうか。そして初めて手に入れた今、もっと欲しいという率直で強い欲望に自分でも呆れる。まだ、全然足りない。


「今夜だけ、なんて言ってたくせにな……」

 自分の命を賭けても救う、そんなことを考えていたはずなのに、今はその命でさえ惜しい。目が眩むほどの欲望と、大切にしたい、共にありたいという願いと。複雑に絡み合ったその想いに、それでも諦める気になれない自分の執着心に呆れるより他なかった。

「俺も、思ったより往生際が悪いみてえだな」

「その方があなたらしい」

 不意に聞こえた笑みを含んだ声に目を向ければ、わずかに明け方の色に変わり始めた瞳が彼を見上げていた。仄かに目の端が赤いのは、涙を浮かべすぎたせいだ。その頬に触れながら、聞き返す。

「何が俺らしいって?」

「あの時、私を追ってきてくれたでしょう?」

 彼と出会った街を旅立つ時、共に行く、と告げていたのに、彼女は彼を置いて行こうとした。信用ならないから、と。その意図を知りながらも、彼はどうしても諦めきれなかった。そして、先見視さきみの力を使ってまで追いかけた。盟約だ、呪いだといろいろ理由はつけたが、結局のところ、あれきりで別れることが、どうしても耐え難かったのだ、と気づく。


 ——恋に落ちたのはもっと早くだったのだ、と。

 下手をすれば、初めて会った時にもう。


「俺のことなんて、なんとも思っちゃいなかったくせに」

「でも、あなたが追ってきてくれなければ、私はあなたに恋に落ちなかった」

 平然と言うその姿に、何とも言えない感情が湧いてきて思わず深く口づけた。その余裕の顔を、もう一度快楽で蕩けさせたくて。

 だが、そうして触れた手を掴まれて、潤んだ強い眼差しが彼を見上げる。

「一緒に生きる術を探して。絶対に私を置いていかないと約束して」

「ディル」

「そうじゃなければ……」

「なければ?」

 ふと、その腕を彼の首に絡めると、息がかかるほどに首筋に顔を寄せて呟く。

「あなたより先に逝く。どんなにあなたが私を置いて行こうとしても、例えばこの呪いをあなたが肩代わりして、すぐに命を失うとしても、それよりも先に」

 彼の考えなど見透かしたようなその言葉に、ただその体を強く抱きしめる。

「あんた俺をいくつだと思ってるんだ? どう考えたって俺の方が先に死ぬだろう」

 呪いを考慮に入れないとしても。彼は村一番の古老であったヨルンを除けば、一族の誰よりも長く生きてしまっている。

「それでも、だめ」

 魔女の薬でも何でも使っていいから、私より先に逝かないで、と無茶なことを言う。

「寂しいのはもう嫌だから」

 そればかりは切実な声で。

「置いていかれるくらいなら、この呪いで死んでしまう方がいい」

「馬鹿言うな」

 彼女の人生は、まだ始まったばかりだというのに。一時の気の迷いだと言ってしまえそうなのに、それでもその想いをかけられることが震えるほど嬉しいのも事実だった。

「わかったよ。何としても、探し出してやる」


 まずはその呪いを解く方法を。

 次には、彼女より、ほんの数日でも長生きする方法を。


「それでいいんだな」

「うん」

 花が綻ぶように笑ったその笑みに、心臓がおかしな鼓動を打つ。全てを手に入れてなお、彼女が欲しいと心が叫ぶ。


 ——これもまた、運命と呼ぶのだろうか。


 断ち切ったはずのそれにまだ絡めとられそうな彼女を守り、共に生きる道があるのならば。


「老いらくの恋、かねえ」

「そんなこと言ってると、本当に老けちゃうよ?」

 そればかりは呆れたような顔で言う愛しいその相手の頬に触れ、額に口づける。

「それじゃあ、まだまだあんたに釣り合う程度には若いってことを証明しないとな」

 そう言って抱き寄せると、ディルは驚いたように目を見開く。

「今から……?」

「今から、だ」

 ニヤリと笑いながら腰を押し付けると、びくりと全身が震える。逃げ出そうとする体を強く抱きしめると、慌てたように白い手が彼の腕を掴んだ。

「……ええと、ちょっと休んだ方が」

「問答無用だ。俺を煽ったあんたが悪い」


 そうして夜が明けるまで、彼女を抱き続けた。

 今だけは、何の憂いもなく世界でたった二人きりのように。

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