5. Another perspective 〜恋〜
「あんたが好きだ」
まっすぐな言葉に心臓が跳ねた。驚いているうちに、首筋に唇が触れる。ゆっくりと何かを確かめるようにすべるその唇から、低い声が聞こえた。
「大切にすると誓う。だから——あんたの全部を俺に寄越せ」
かすれて、確かな熱を感じさせるその声と言葉に背筋がぞくりと震えた。普段は飄々として、どちらかといえば穏やかで優しい青紫の瞳が、今は見たこともないほど強い光を浮かべている。
想いを伝えられたのは、これが初めてではない。けれど、ここまで逃げ場がないほどに、追い詰めるように告白されたことはなかった。逃さない、とその眼差しは明らかに伝えてくる。
おかしな鼓動を打ち続ける心臓のせいで震える腕を、おそるおそるその首に回すと、びくりと相手の体が震えた。それから強く抱きしめられ、もう一度唇が重ねられる。
深く口づけられると同時に、その手がするりと上衣の隙間から滑り込んできて、気がつけば押し倒されていた。いつの間にか手際良く、体の下に外套が敷かれている。
「待っ……!」
声をかけたが、ロイはただ笑ってディルの頬に口づけ、その手はさらに下へとすべり込んでくる。優しく、それでも遠慮なく触れてきたその感触に熱と戸惑いを感じながら、ふとなぜか既視感を覚えた。
「……ロイ」
「何だ」
「こうやって触れられるの……初めてじゃ、ない?」
我ながらおかしなことを訊いている自覚はあったが、ロイは驚いたように身を起こすと、こちらをまじまじと見下ろす。
「思い出したのか?」
「……ええと?」
「ってわけじゃなさそうだな」
言いながら深いため息をつく。それから座ったまま、ディルの体を抱き寄せた。
「あんたは覚えていないのに、あんたの身体は覚えてたってわけだ」
首筋から腰へと指をすべらせながら耳元で囁くその低い声は、面白そうな響きと、確かな熱を宿していた。ぞくりとまた背筋が震え、我知らず頬が朱に染まる。それを見たロイがその瞳にさらに熱を浮かべる。
曖昧な言葉は、それでもひとつだけ思い当たる節があった。
「もしかして、あの酔い潰れた日……?」
そう呟くと、青紫の瞳がわずかに細められる。
「思えばあの日、俺はあんたに落ちたんだな」
くつくつと笑う。首を傾げてその顔を見つめていると、何ともいえない甘い表情がその顔に浮かぶ。
「あの夜、深夜に部屋に戻った俺を、あんたは誘惑したんだよ」
まあ、その前に俺が口づけようとしたんだが、と片眉を上げてどうしてか苦く笑う。闇の中で熱を持つその眼差しが不意に脳裏に浮かんで、そうしてもうひとつの感覚が唐突に蘇った。
そばにいることに、自分を抱きしめてくれることに慣れたその人から、ふわりと漂ってきた甘い嗅ぎ慣れない香り。
その香りを嗅いだ途端、どうしてだか胸が締めつけられるように苦しくなったことを思い出す。そうして、衝動のままに、その顔を引き寄せて口づけたことも。
ただ、そばにいて欲しかったから。
——否。その人に、他の誰かと夜を過ごして欲しくなかったから。
「女の人の身体は、心地よかった?」
ぽろりと漏れたその言葉に、ロイが大きく目を見開く。あの夜、ディルが先に眠ってしまった後、目を覚ました時に誰もいなかった。それがひどく寂しくて、耐え難くて、ひとりで酒を飲み始めた。すぐに帰ってきてくれるのではないかと思って。
けれど、葡萄酒の瓶が一本空になっても一向に戻ってくる気配がない。二本目を空けた時には、半ば諦めた。
夜に、男が宿屋を抜け出して行く先など限られている。だから、わかっていたのだ。戻ってきた時に、嗅ぎ慣れない甘い香りが——明らかに女の香りがしても、それは仕方のないことだと。
だが、ロイはしばらくまじまじとディルの顔を見つめ、それからひとつため息をついた。
「あんたのせいだぞ」
「私のせい?」
「あんたはあの頃、
熱を散らす、の意味がわからず首を傾げると、ロイは呆れたようにため息をついた。
「あんたに欲情してたんだよ。だが、あんたは受け容れないだろうと思った。だから、よそで発散してきた」
仕方ねえだろうが、と頭をかきながらそっぽを向く。どうしてだか、その様子が叱られた子供のように見えて、思わず笑ってしまう。
「女の人でなくてもそういう気持ちになるの?」
「あのなあ……。ああもう! 女以外で抱きたいと思ったのはあんたが初めてだよ!」
やけくそのように言われた言葉に目を丸くしていると、もう一度深いため息を吐かれた。それから気がつけばまた押し倒されていた。その暗赤色の頭の向こう側に、木々の間から暮れ始めた空が見える。自分の瞳も同じような色をしているのだろうけれど。顔の脇に両手をつき、まっすぐに見下ろしてくる。
「何が気になるんだ?」
何が気になるのだろうか、と自分自身でも問いかけてみる。彼は、ディルが好きだという。そして今、彼が何を求めているのかも明らかだ。受け入れることにも、抵抗はない。つまり——。
「ロイは女の人が好きなんだよね?」
「まあ、俺も男だからな」
つまり、そういうことだ。相手を受け容れるなら、相手が望む姿でありたい。自分にはその選択肢があるのだから。
そう思った瞬間、ふわりと自分の中で何かが湧き上がるのを感じた。それが何かは、本能が知っている。ロイが驚きに目を見張る。それを見届けて、ディルはふわりと笑った。
「ごめん。少しだけ、待ってて」
それだけ告げた後、ディルの意識は白い闇に包まれた。
次に目が覚めた時、何だか頭が重い気がした。それからゆっくりと思考が浮かび上がってくる。
「ようやくお目覚めか?」
呆れたような声が間近で聞こえた。顔を上げると、少し不機嫌そうな、それでも蕩けるように甘い表情が間近で自分を見つめていた。
「ロイ?」
「あんな状態で俺を放置しやがって」
大きな手が頬に触れ、何かを確かめるようにゆっくりとそこを撫で、さらに首筋へとすべりおりてくる。くすぐったくて思わず身をよじると、銀色の何かが肩をすべりおりた。それが長く伸びた髪だと気づくのにしばらくかかった。
だが、
「どうしたの?」
だが、ロイは答えない。代わりに後ろからふわりと肩に暖かい何かがかけられ、低い声が聞こえた。
「お前のその腕だ」
後ろを見上げると、いつもと変わらない、強い光を浮かべた金の眼差しがこちらを見下ろしていた。けれど、ほんのわずか、その瞳も揺れているように見える。
「腕?」
言いながら、その視線の先を追って、思わずディルも息を呑んだ。びっしりと蔦のような文様が、黒く絡みついて手首の先から肩を越え鎖骨のあたりまでを覆っていた。
「何……これ?」
視線をロイに向けたが、彼はほとんど自失しているように見えた。
「おい、この呪いはこの後どうなるんだ?」
静かな声は、アルヴィードのものだ。彼は外套でその体を包み込むと、ディルを抱き上げた。何が起きたのかはわからないが、気がつけば何も身に纏っておらず、ただ、手首にロイから贈られたあの銀の腕飾りだけがくすんだ光を放っている。
問いかけられたロイは、のろのろと顔を上げ、それから深いため息をついた。
「その文様がさらに伸びて心臓に届くと、その息の根を止める」
「あとどれくらい保つ?」
間髪入れない問いに、ロイが殴られたかのように顔を歪める。だが、金の眼差しは答えを強要していた。
「その呪いは、文様が広がれば広がるほど進行が早くなる。対象が、絶望するより早くにその息の根を止めるように」
「悪趣味だな」
吐き捨てるように言ったアルヴィードに、さらにロイが苦く顔をしかめた。それからゆっくりとディルに視線を向けた。苦しげな表情のまま、口を開く。
「——ディル、俺の見立てが正しければ、あんたの命はあと七日も保てばいい方だ」
それきり黙り込んでしまったロイに見切りをつけるように、アルヴィードはディルを抱き上げたまま城へと戻った。迎えてくれたアストリッドが同じように目を見開く。
「痛みや、苦しいところなどはあるかい?」
「特にないみたい」
「そうか、とりあえず、それはよかった。それにしても、ますます美しくなったね」
「私は、死ぬのかな?」
「そんなことは、させないよ」
ただそればかりはきっぱりと言って、アストリッドはひどく綺麗に笑った。その意味を尋ねようとしたが、彼女はただ頷いて、それからアルヴィードに彼女を部屋へ運ぶようにと告げた。抱き上げたまま進もうとする彼に、ディルはその腕から降りようとしたが、強い力で阻まれた。
「大人しくしてろ」
その金の双眸に浮かぶ光は深い。ディルはそれ以上、何かを問うこともできず、運ばれるがままに任せた。
部屋に入ると、寝台の上にそっと下ろされる。用意されていた着替えに袖を通すと、わずかばかり長さが余っていた。
「縮んだかな?」
「もともと女としては背の高い方だったからな。まあ普通なんじゃないか?」
寝台を下り、立ち上がると、見慣れたアルヴィードの顔が、やはり少し遠いように見えた。じっと見つめていると、頬に手が伸ばされる。
「お前の望みはなんだ?」
ひどく穏やかな声でそう問われた。その金の瞳は普段なら射抜くほど強く、ディルを怯えさせるのに、今は全てを見透かすように穏やかに澄んでいる。
「アルヴィード、あなたのことが大切だよ」
「ああ」
「でも……今は、あの人と話したい」
——待たせた挙句、こんなことになってしまって。
「俺じゃだめか?」
頬を両手で包みこんで、顔を覗き込まれる。その眼差しは狂おしいほどに切ない光を浮かべている。その意味を、今なら理解できた。同じような想いを他の誰かにかけている今なら。
「だめじゃない。
でも——と思う。
「どうしてだかはわからない。でも、あの人に恋をしてしまったんだ」
あれほどにアルヴィードとイーヴァルに会いたいと願っていたはずなのに、心を占めるのは、あの青紫の瞳だ。あの闇の中で見た、熱を浮かべていた瞳がディルを捕えて離さない。
一度、きつく抱きしめられる。かつてと同じように不器用な硬い抱擁はあの頃を懐かしく思い出させる。
「勝手なこと言いやがって」
わずかに笑みを含んだ声は、それでも何かを諦めているような響きを確かに宿している。見上げると、ひどく優しい瞳にぶつかった。
「怒らないの?」
「怒るわけねえだろう馬鹿。それに、それが俺の運命なんだろうさ」
「寂しくない?」
「お前が気にすることじゃない」
「でも……」
なおも言い募るディルに、今度こそアルヴィードは呆れたように笑う。
「あのなあ、今お前は俺を振ってるんだぞ。くどくど言わずにさっさと行け」
「だって、あなたが抱きしめるから」
「ちゃんと振り払えよ」
じゃねえと逃してやれねえ、とどこまで本気なのか相変わらず笑みを含んだ声がそう言う。
その腕の中は確かに心地よくて、決心など揺らいでしまいそうになる。けれど、ふと左手に絡まる銀の鎖と赤と青紫の色が目に入った。それはディルが自分で選び、彼が贈ってくれたものだ。
そっとその胸を両手で押すと、あっさりと腕を解かれる。見上げると、片眉を上げて仕方がない、というように笑う。
「あいつは一番奥の部屋にいるはずだ」
「ありがとう」
言って、それから、背を伸ばし、その首を引き寄せて抱きしめた。
「アル、大好きだよ」
「ふざけんな馬鹿」
それでも頭のてっぺんに柔らかく口づけられる、それから、背を押された。
「早く行け」
俺の決心が鈍らないうちに、と肩をすくめて笑って。
そのやわらかい笑みに心臓が締め付けられるような気がしたけれど、それでもその優しさを受け入れて、ディルはもう振り返らなかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます