4. 覚悟

「アストリッド……あんた一体何をしたんだ?」


 ようやくたどり着いた北の果ての街、イェネスハイムで彼らを待ち受けていたのは、荒れ果てた城門と、予想外に整備された庭と、そして、かつてと寸分違わぬ奇矯ききょうな態度を取るこの世界で最も力のある精霊の一人——アストリッドだった。


 彼女——前回会ったときにはすでに女性に分化していた——は、ディルを見ると「愛し子」と呼んだ。そこから導き出されるのは、何とも考えたくもないことだが、ディルがアストリッドの血縁だということだ。

 だが、アルヴィードは頑なにその話を遮ろうとする。

「おっさん、聞くな」

 黒狼の青年は、アストリッドを睨みつけるように見つめている。まるで、ディルを彼女から守ろうとでもするように。

 アストリッドは首を傾げたが、それでも彼女を見つめるディルの視線に気づくとにこりと微笑んだ。その表情は、無邪気で美しい。


 そうして、彼女は語った。黒狼の里が焼き払われ、全てを失った孤児アルヴィードのために、三百年の間、黒狼の血を引くものを探し、彼が惹かれるような伴侶を生み出すために、その相手と子をなしたのだと。

 それを、アストリッドは祝福と呼んだ。だが、生まれながらに何かを定められることを望むものは多くはない。本人に選択肢がなく、そこに望みがないのなら、むしろそれは呪いに近い。

 案の定、ディルはその話を聞いて激昂した。


「俺は、あなたの道具じゃない……!」


 その言葉に、アストリッドは驚いたように目を見開いた。そんなことには思いいたりもしなかったのだろう。この精霊は、ひどく優しいくせに、相当に抜けているところがある。だが、ディルにすればたまったものではないだろう。


「生まれてすぐに『祈りの家』の前に捨てられて、名前どころか自分が何なのかも知らずに、みんなに虐げられて十四歳まで生きてきた……! イーヴァルとアルヴィードが俺を救い出してくれるまで、ずっと辛かった。あなたはそれが当然だって、そう言うのか⁈」

「ディル」

 アルヴィードがディルを抱き寄せようとした。だが、その手を振り払ってディルはまっすぐに彼の顔を見つめる。その顔には戸惑いが浮かび、その瞳は今にも泣き出しそうに見えた。

「アルヴィードは知ってたの? 俺が、あなたのために、あなたに出会うために狭間の世界にことを?!」

「違う、そうじゃない」

「何が違うの⁉︎」

 その言葉に、黒狼の最後の生き残りはひどく傷ついた顔をした。おそらくは、本人も同じことをすでに考えていたのだろう。それでも、彼がディルを想う気持ちに偽りはなかったはずだ。だからこそ、その真実を遠ざけ、ディルを守ろうとした。

 だが、彼には、そのやり方が正しかったとは思えなかった。

 駆け出して行ったディルを追うでもなく呆然としたままの二人を見やって、ため息をつくと外へと向かう。

「ロイ」

 扉に達したところで後ろから呼びかけられる。振り向くと、薔薇色の瞳がかつて見たことがないほどに揺れていた。

「……何だ?」

「私は、何か間違えたのかな?」

 珍しく心細げな問いに、彼はただ肩をすくめた。何か、どころか、そもそも最初から全て間違えている気がするが、それを説明する時間はなさそうだった。

「まあ、あんたが無茶苦茶なのは、昔からだろ」

 そこにひとかけらの悪意もないことは、誰よりも彼がよく知っていた。だからといって、ディルの気持ちを思えば、肯定も否定も、どちらも今の彼にはできなかった。



 城の外に出て、眼を閉じ気配を探る。かつて限界まで研ぎ澄ました彼の先見視さきみの力は、以前ほどではないものの、望めば探すものくらいは見せてくれる。そうして、いつかと同じように泉の側で俯く姿を見つけた。

 わざと足元の小枝を踏み、存在を示す。だが、膝を抱えたまま、その相手は顔をあげようとはしなかった。歩み寄ろうとすると、小さな拒絶の声が聞こえた。今にも泣き出しそうなその声に、胸の奥がじわりと熱を持つ。


 ——この想いを、何と呼べばいいのだろうか。


 拒絶の言葉を無視して、膝に顔を埋めたままこちらを見ようともしないその姿の横に座り込む。

「泣いてない」

 かつて、一人で泣いていたら次は遠慮しないと、そう言ったことを覚えていたらしい。律儀なその言葉に、思わず笑みが漏れた。

「関係ねえよ。俺があんたのそばにいたいんだ」

 その頭を引き寄せて胸に抱き込む。やわらかな銀の髪の手触りが心地よかった。

「吐き出しちまえよ。何が気に入らなかった? 駒のように扱われたことか? 母親に捨てられたことか? それとも、そんなことさえあいつが自覚してなかったことか?」

「……全部」

 ぽつりと呟かれたその言葉に苦笑する。誰からも手を差し伸べられず、最初のそれでさえ、ある意味仕組まれたものだった。その想いに嘘や偽りはなかっただろうが、それでも、それを単純に運命と呼ぶには、当人にとってはまだ生々しく辛い記憶なのだろう。その辺の機微がわからないのが、アストリッドの最大の欠点だ。

「あいつは底抜けの馬鹿なんだ。悪気はないんだがな」

 そう言ったが、ディルは不満げに口をとがらせた。だが、彼の腕の中で少し落ち着いてきたのか、ささくれだった気配はだいぶ和らいでいる。

「あいつが言ったのは全部あいつの本心だ。それ以上でもそれ以下でもない」

 それは掛け値なしの真実で、彼の本音でもあったが、ディルは額を彼の肩に押し付けたまま、胸元をその細い指で掴んだ。握りしめすぎて白くなるほどに。

「……でも、私は辛かった」

「そうだな」

 その背に腕を回し、包み込んで髪を撫でる。その孤独だった頃の思い出を、少しでも和らげられればいいのに、と思いながら。

「ずっと、誰かがそばにいてくれて、抱きしめてくれればいいのに、って思ってた」

「ああ」

「なのに、あんな顔して笑いかけてくるから」

 どうしていいかわからない、と小さく呟く。気にかけてくれていたことはわかる。それでも、彼女の計画によって引き起こされた、ディルが孤独に過ごした子供時代は消えない。

「そういうときはな、泣いちまえばいいんだよ」

 辛かったのなら、その思い出を涙で流してしまえばいい。本当はそんなに簡単なことではないとわかってはいるけれど。


 その顎をすくい上げて、まっすぐに視線を合わせる。夕暮れに差し掛かる揺れる瞳は、鮮やかな金がかった朱色をしていた。

「俺がここにいる。あんたが泣くなら、ずっと抱きしめてそばにいてやる」

 なぜか不思議そうにこちらを見上げる瞳に、心臓が早鐘を打ち始める。そんな場合ではないとはわかっているのに、それでも心の奥底まで見透かすようなその鮮やかな眼差しに、頭の芯が痺れ、頬に触れている指先が我知らず震える。いつもはすぐにその瞳から涙を溢れさせるくせに、今日に限ってはただ静かに見返してくる。

「泣かないのか?」

 慰めるつもりでここまでやってきたはずだったのに。その眼差しに惹きこまれ、歯止めが効かなくなりそうだった。何か言ってくれれば、まだ踏み止まれそうなのに、と彼は内心で言い訳をする。


 金朱の瞳はそれでも何も語らず、それどころか、ゆっくりとその瞼が閉じられた。自分はその意味を正しく理解できているのだろうか。自身への問いかけは一瞬。そして、ためらいはすぐに消えた。


 震える手で顎を引き寄せ、わずかに顔を傾けて距離をなくす。何度か軽い口づけを繰り返し、それからその唇が開いたのを感じて、遠慮なく深く舌を絡めた。半ば無意識で逃すまいとその体を強く抱きしめて、背筋を撫でながらさらに深く口づけると、切ない吐息が漏れた。目元が朱に染まっている。

 見上げてくる瞳は、夜の色に変わり始めている。静かな中にも確かに揺らぐその色を見て、覚悟を決める。


「ディル」


 その名を呼ぶと、その銀の眉がわずかに寄せられる。それは怯えのようにも、あるいは期待に震えているようにも見えた。


「俺は、あんたを他の誰にも渡したくない」


 ——たとえ、運命がこの相手と、あの男を結び付けているとしても。


 じっと見つめていると、しばらくその瞳は揺れたままこちらを見返していたが、やがて、何かを諦めたように、ふわりと綺麗に笑った。それから、彼の頬を捉えて、顔を引き寄せる。

「ずっと、そばにいてくれる?」

 覚悟を決めたようなその表情に、それでも念のため、その身を引き寄せて腰を押し付けて確認しておく。

「そばにいる、だけじゃ済まないぞ?」

 確かな熱を感じたのか、ディルの頬がさらに赤く染まる。それでも、彼の肩にその額を押しつけて呆れたように呟いた。

「さすがに、わかってるよ」

 でも、と続ける。

「もうちょっと、雰囲気があってもいいと思う」

 拗ねたように言われ、思わず彼は吹き出してしまう。そのせいで、さらに眉根が寄せられたのを見て、ニヤリと笑って見せる。


「あんたが好きだ。大切にすると誓う。だから——あんたの全部を俺に寄越せ」


 首筋に口づけながら低く言ったその言葉に、ディルは驚いたように目を見開いてこちらを見つめ、それから目をそらして小さく呟いた。

「あなたはずるい」

 その頬はさらに赤い。

「何がだよ?」

「普段は優しいのに、そんなふうに言われたら——」


 ——もう逃げられない。


 潤んだ眼差しと、確かに熱を宿したその答えに、運命が断ち切れる音が聞こえた気がした。

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