3. 嫉妬

 翌朝、いよいよ旅立つかという段になって、アルヴィードがイングリッドにふと尋ねた。


「なあ、あんた俺たちをイェネスハイムまで一気に送れないのか?」

 先日、森の中で不意に現れ、そして黒い獣アルを連れて消えて見せたように、彼女の力は破格だ。アストリッドほどではないまでも、特別な魔法陣もなしに人一人くらいならば、自由に転移させることができる。

 イングリッドはいつもの艶やかな笑みを浮かべながら、肩をすくめた。

「できなくはないけれど、あんまりおすすめはしないわね。あのあたりは『狩人』の本拠地だから引きつけてしまうかもしれないし、それに、何より……」

 その思わせぶりな視線はディルに向けられていた。

「な、何?」

「あなたは、もう選べるかしら?」

「選ぶ……?」

「あなたはあの北の果ての街で、きっと否が応でも大きな選択を強いられる。もうその決断ができるというのなら、考えてもいいけれど」

「……何を言っているのか、わからないよ」

 ほんのわずか、視線を逸らしてそう答えたディルに、魔女は仕方がないとでもいうように、それでも艶やかに笑う。

「いいのよ、焦らなくて。言ったでしょう? あなたに課せられているそれは運命Destinyであって宿命Fateではないの。選ぶのはあなた自身、もしくはよ」

 ちらりと最後に彼の方に視線が向けられる。魔女らしい謎めいた言い草だが、人を混乱に陥れることを、何よりの愉しみにしているような女でもあるのを知っているから、彼はただ肩をすくめるにとどめた。


「危険は?」

 アルヴィードの問いに、イングリッドはしばらく美しく整えられた指先で唇を撫でながら考え込む様子になる。

「私が刻み込んだ印が消えるまでは、それ以上呪いが進むことはないと思うわ。けれども、その傷が癒える頃にはまた進行が始まるはず。北の魔力が強い場所へ行けば行くほど、その余波でさらに早まる可能性があるから、それだけは気をつけて」

「余波?」

 そんなことは彼の設計デザインにはないはずだった。

「考案したのはあなたでも、実際に組み上げたのはあの人。そして、世界に対する呪いなんてそんな大規模なもの、どんな予想外の自体が起きてもおかしくないものなのよ、本来ならね。これだけの精度で呪いが適正に働いているのは、あの人だからこそ」

 イングリッドの瞳にはほんのわずか、責めるような光が浮かんでいた。アストリッドでさえも、この呪いには最後まで反対していた。呪術の専門家スペシャリストであり、アストリッドとも近しい彼女もまた、本来受け入れ難かったのだろう。

「あんたも俺を責めるか?」

「責めたところで、現状は変わらないわ」

 その言葉が彼の胸に突き刺さる。それをわかっているからこそか、イングリッドはそれ以上は口をつぐんだ。

「とりあえず、すぐには危険がないことはわかった。もう出発していいか?」

 欠伸をしながらそう言ったアルヴィードに、魔女はただ肩をすくめて、出口を指し示す。

「ええ。気をつけてね」


 アルヴィードとディルが先に部屋を出た後、イングリッドが彼を呼び止めた。

「ロイ」

 その瞳には真剣な光が浮かんでいる。

「あなた、紫闇の薬を作ったわね?」

「材料費はおいといたぜ」

 紫闇の薬は、その名の通り暗い紫色をした薬だ。効能は術者の魔力の増幅。あらゆる魔術に関わる薬草と毒草、そして魔術で仕上げた、どちらかと言えば「黒い」魔術に近い薬だった。


 かつて、世界を混乱から救うため、彼の先見視さきみの力を研ぎ澄ます目的でその製法を習い、そして多用した結果なのか、青かった彼の瞳は青紫に変わった。


「あなたにとって、それはもうほとんど致死の毒よ」

「だが、効能がないわけじゃないだろう?」

 肩をすくめた彼に、だが魔女はいつにない真剣な表情を崩さなかった。彼の頬に触れ、まっすぐにその瞳を見つめる。

「瞳の色が変わるほどに冒された今、よくてもあと一度よ」

「それを過ぎるとどうなる?」

「瞳が紫闇に変わったら、心臓が止まるわ。そこを抉られるような苦痛をさんざん味わった後にね」

「脅かすなよ」

「事実よ」

 いつもは笑みを浮かべている唇が、今はまっすぐに引き結ばれている。

「あの薬は麻薬のようなもの。魔術へのあくなき欲求に負けて、その心臓を自ら抉り出した人も、かつては多くいたのよ」

「あいにく俺はそこまで生真面目じゃねえよ。言ってみりゃ、お守りか最終手段ラストリゾートみたいなもんだ」

「置いて行きなさい、と言っても聞かないんでしょうね?」

「選択肢は残しておきたい方でね」

 そう言った彼に、イングリッドは深いため息をついた。それから、その鮮やかな緑の瞳に憂いを浮かべて彼を見据える。

「あの子は、もう揺らいでいる。その意味を考えて」

「もう少し具体的な助言はできないもんかね?」

 肩をすくめて笑うと、魔女もようやく愁眉を開いて微笑んだ。

「あの子はあなたに確実に惹かれている。もうあなたは踏み出してしまったのだから、覚悟を決めて責任を取りなさい」

「責任、ねえ」


 想いは確かに告げた。だが、ディルからの返答は曖昧なままだ。予感はあるが、確信を抱けるほどではない。そんな彼の内心を読んだかのように魔女は艶やかに笑う。


「恋なんて、そんなものよ。でも、あの子には生まれた時から運命が絡みついている。あなたが本当にそれを望むなら、ためらわずに掴みなさい。踏み込むことをためらったら、あっという間にその手からこぼれて行ってしまうわよ」

「ご助言いたみいるね」

「どうか無事で。あなたに何かあれば、も心を痛めるわ」

 あの奇矯な精霊が心を痛める様など想像もつかなかったけれど、彼は軽く頷いて、そしてようやく魔女の館を後にした。



 北への旅は思いの外、平穏に過ぎていった。元々全員おしゃべりな方ではなかったが、ディルは時折何かを見かけては彼に尋ねてきたし、アルヴィードも軽口を叩く程度には打ち解けていた。

 夜には森の中で野営をした。ディルは二人の気配に安心しているのか、時には彼の肩にその頭を預けて眠り、時にはアルヴィードに抱きしめられて眠った。その様子に胸がざわついたが、それでもそうして眠る表情は穏やかで、アルヴィードも眠っているディルを包み込む以上のことはしようとはしなかったから、ため息をつきながらも見守るだけにとどめた。


 事態が急変したのは、イェネスハイムまであと数日となった頃だった。

「ちょっと水浴びしてくる」

 そう言って、水の気配を感じたのか、ディルは一人で駆けて行ってしまった。だが、彼はなんだか嫌な予感がして、その後を追った。ディルを追ってたどり着いたのは、森の中の泉だった。さほど大きくはないが、崖のふもとに湧いたその泉の水は澄んで美しい。

 視線を向ければ、ディルは何かを見つけたのか、引き寄せられるように崖へと歩み寄っていく。予感がさらに強くなる。

「ディル!」

 叫んだが遅かった。伸ばしたその手の先にあったのは、月晶石のクラスター——月水晶だった。まるで、罠のような。その指先が触れた瞬間に、闇の気配があたりに満ちる。彼はディルに駆け寄ってその身を抱き寄せる。

「何で触れた⁈」

「ごめん……何か、呼ばれたような気がして」

 呪いがディルを取り殺そうとしたとでもいうのだろうか。魔女イングリッドが言っていた「余波」がこれだとしたら。

「来るぞ」

 駆け寄ってきたアルヴィードが険しい顔で腰の剣を抜きながらそう言った。その燃え上がるような金の眼差しの先には、円形の闇が浮かんでいた。そこから不吉な美しい歌声が響き、「それ」が姿を現す。

「久しいの」

 ディルとアルヴィードがはっと息を呑んだ。

「知り合いか?」

、いた奴だ」

 低く言ったアルヴィードの眼差しがさらに険しくなる。それを見て、さらにディルが身を硬く強張らせる。その体を後ろ手にかばい、美しい金の髪を持つ、それでも闇そのもののように邪悪な笑みを浮かべた「狩人」と対峙する。

「我らの目的は『盟約』を違えたその者だけ。命が惜しくば、下がっておれ」

「はいそうですかと、引き下がるように見えるか?」

 アルヴィードが一瞬で踏み込んで、狩人の胴を薙ぐ。その刃はわずかに黒みがかっている。精霊でさえも切り裂く黒鋼だ。


 だが、切り裂かれたはずの精霊は顔色を変えもしない。それどころか、にぃと笑って鎌を振り上げた。その切っ先がアルヴィードの髪をかすめ、何本かが宙に舞った。彼でなければ、その首が飛んでいてもおかしくなかった。

「どういうことだ⁈」

「我らには通用せぬよ」

 一歩下がって剣を構え直したアルヴィードの姿を認め、彼は目を細めてその精霊のなれの果てを見つめる。彼の瞳は、わずかにぼんやりと光るその核を捉えた。

 剣を抜き、一気に間合いをつめると、精霊の左腕を斬り落とした。初めて、狩人が顔色を変える。

「そなた……」

「元はと言えば、俺が蒔いた種だ。刈らせてもらうぞ」

 斬り落とした腕の手首に剣を突き立てる。その瞬間、狩人は声にならない叫び声を上げ、皺だらけにしぼんでいき、やがて灰になった。

「ロイ⁈」

 ディルがこちらに駆け寄ってくる。アルヴィードも彼を見つめ、唖然とした表情を浮かべていた。

「一体何が……」

「あいつらは精霊のなれの果てだ。大戦の最中、あまりに血を浴び過ぎて正気を失っていった」


 大きな力を持つが故に、戦いに駆り出された彼らは、それでも本来は自然と共に調和して暮らす穏やかな性質を持つ。それが故に、繰り返される殺戮に耐えられなかった。各々の長に命じられ、多くの命を奪うにつれて正気を失っていった。やがて、その力は暴走を始め、長たちでさえ意図しない破壊が引き起こされるようになった。

 その時になってようやく長たちはその過ちに気づき、彼らに選択を迫ったのだ。その場で命を断つか、月晶石を埋め込まれ、幽鬼となって使役される身となるか。身勝手な長たちのその要求に、だが、ほとんどの者たちが命を断つことを選んだ。彼らの苦悩はそれほどに深かったのだ。だが、もうひとつの選択をしたものたちが、「盟約」を違えた者たちを狩る役目を負った。


「それが『狩人』」

「その身はほとんど死者に近い。だから、月晶石を砕かない限り、奴らは滅びない」

 言った瞬間、ぞくりと背筋に悪寒が走った。アルヴィードも同様に何かを感じたのか、先ほど狩人が現れた闇の方に視線を向ける。そこにあったのは、続々と現れる狩人たちの群れだった。

「のんびりおしゃべりしてる場合じゃなかったな」

「ロイ……」

 震える声に振り向けば、ディルが蒼白な顔でこちらを見つめていた。その身を抱き寄せ、安心させるように耳元で囁く。

「あんたのことは俺が必ず守る。大人しく待っててくれ」

「でも……」

「これくらいなら、なんとかなるさ」

 言ってみたが、闇から現れた狩人は全部で五人。一人で相手をするには、さすがに分が悪い。剣を構えて、思案する彼に、静かな声がかけられた。

「おい、月晶石はみんな同じところに埋め込まれてるのか?」

「残念ながら、ばらばらだ」

「……だろうな」

 急所であるが故に、その場所を知られることは彼らにとって致命的だ。

「おい、アルヴィード、俺が奴らの急所を暴くから、後詰を……」

 だが、言いかけた言葉はそこで止まった。アルヴィードはどうしてだか、こちらを振り返ってニヤリと笑うと、一瞬目を閉じる。その姿が陽炎のように揺らいだ。


 その変化を目にするのは初めてだった。

 ぴんとたった耳、口から覗く鋭い牙と、地面に突き立てられているのびやかな脚。漆黒の毛並みに、燃え上がる金のほのおのような双眸。


 しばらく目にしていなかった、あの黒狼がそこに姿を現していた。黒狼はまとわりついた衣服を身を振って振り落とすと、狩人たちに対峙する。目にも止まらぬ速さで驚いている彼らとの距離を詰め、右肩を喰いちぎった。ガリ、と何かを噛み砕く音がする。その瞬間、腕を食いちぎられた狩人が灰になった。

 あとでぺっぺっと不快そうに光る欠片を吐き出す。

「アル?」

 茫然と呼ぶ声はディルのものだ。そういえば、まだその事実を知らなかったのか。その瞳は、黒い獣に釘付けになっている。信じられないものでも見るように驚きに見開かれているが、それだけではなく浮かぶ感情が見えた。

 じわり、と胸の奥が熱を持つ。だが、ひとまずはねじ伏せて、狩人たちに対峙する。


 黒狼は正確に二体の急所を噛み砕き、彼もまた残りの二体の左腕と右足をそれぞれ斬り落とし、最後の月晶石を砕くと、あたりは沈黙に包まれた。残されたのは大きな鎌とわずかに光る欠片だけだった。

 剣を収め、振り返ると、ディルはまだ茫然と黒狼を見つめていた。また心臓が不規則な鼓動を打ち、血が引くような、逆に過剰に巡るような感覚と共に、指の先が痺れる。だが、ひとまずはそのそばに歩み寄り、頬に手を触れた。

「大丈夫か?」

 ようやく我に返ったようにこちらを見上げる瞳は、夕暮れの色に変わり始めている。

「ロイ……あなたは知ってた?」

 曖昧な問いは、それでも十分に伝わってしまった。

「……ああ」

 頷いた時、黒狼が器用に背に外套をかけて、ディルの足元に歩み寄ってくる。ほんのわずか躊躇った後、ディルはいつものようにその首を抱く。見慣れたその光景に、だが今はまた心臓が不規則な鼓動を打った。

「アル?」

 問いかけると、その獣はディルの頬を舐め、顔を擦り付ける。

「アルヴィード、なの……?」

 ためらいがちにそう尋ねたディルに、黒狼は軽く首を傾げ、それからまたその姿が陽炎のように揺らいだ。

「気づくの遅過ぎだろう?」

 青年の姿を取り戻し、そう言って笑う表情はひどく甘い。ごく自然に、そのまま彼はディルの唇に自分のそれを重ねた。こちらの存在など意にも介さず、深く口づけを繰り返す。その光景さえも、見慣れたもののはずだったのに。


 じわりと胸を灼くその激しい感情の名を、彼はもう自覚せざるを得なかった。

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