2. 変化

 抱きしめた身体を離すのが名残惜しくて、しばらくそのままでいると、ディルも大人しく彼の腕の中に収まっている。目を向ければ、どちらかと言えば、安心しているような穏やかな表情がそこにあった。それで思い出す。この相手が直接的な触れ合いスキンシップに弱く、何ならそれを常に必要としていることに。


 それで、思わず疑問が口からこぼれた。

「あんた、抱きしめてくれる相手なら誰でもいいのか?」

 彼の言葉に、ディルは軽く眉をしかめる。心外だ、とでもいうように。

「そんなことないと思う。前に、襲われた時はすごく気持ち悪かったし」

「なら、俺は?」

「温かくて気持ちいい、かな?」

 その言葉に、じわりと体の芯が熱を持つ。ほんのわずか、腕に力を込めれば、その頬が胸に寄せられる。そうして気持ちよさそうに目を細める様は、小さな子供か、あるいは獣が甘える仕草に近かった。それでも彼にとってはそんなものでは済まないというのに。


 深々とため息をついた彼に、腕の中から怪訝そうな眼差しが向けられる。その視線に応えてぼそりと呟く。

「俺は湯たんぽじゃねえぞ」

「冬は、あったかそうだよね」

 そういえば、アルヴィードも体温高いんだよね、とごく自然にそんな言葉を吐く。

「あいつ、獣の姿以外でもあんたの寝台に潜り込んでるのか……?」

「獣ってアルのこと? アルがいなくなってからは、アルヴィードが代わりに大体いるね、そう言えば」

 あっさりと言われて、くらりと目眩がした。怒りか、嫉妬だろうか。だが、ディルはさらにこともなげに続ける。

「隣で寝てるだけだけど」

「なんかされたりしないのか?」

「ちょっと抱きしめられたり、口づけをされたりするくらいだよ」

「あんたの貞操観念ガードはどうなってんだ⁈」

「ロイだってしてくるじゃないか」

 そう言われれば立つ瀬がない。確かに、薬師としてのお人好しの仮面をある程度剥いでからは、ことあるごとにそうやって触れていたのは事実だ。すべてが真剣な想いから出たものかと言えば、からかいまじりのちょっかいが交じっていたことも否定できない。

 とはいえ、その自分の行為がディルの接触限界の閾値をさらに下げているとは。身から出た錆、という言葉が身に染みた。


 やれやれともう一度ため息をついてから、腕を解いてディルを見つめる。

「どうする、もう戻るか? それとも、もう少し街を見て回るか?」

「いいの?」

「することもないしな。あんた、ゆっくり観光なんてしたこともないだろう?」

「うん」

 心の底から嬉しそうに笑ったその表情があまりに眩しくて、思わずもう一度きつく抱きしめてしまう。

「勘弁してくれ」

 彼の内心を知ってか知らずか、ディルがじっとこちらを見上げてくる。

「ロイ」

「何だ?」

「ロイも、口づけキスされると嬉しい?」

 唐突な問いに言葉を失っていると、しばらくこちらをじっと見つめた後、その白い手が伸びてきて彼の顔を引き寄せた。ほんの一瞬、軽く唇が重なって、離れる。

「これ、ありがとう」

 腕飾りを指し示してから、すぐに身を離して先へと歩き出す。あの店主が言っていたことを真に受けたのだ、と気づいたのはしばらくたってからだった。

 それでも、一瞬見えたその頬が赤い気がしたのは気のせいだろうか。わずかに残るそのやわらかな感触に、それ以上踏み込んだらもう止まれなくなりそうだったので、あえて距離を詰めずに、しばらく離れて歩いた。



 街中をのんびりとあちこち歩き回り、酒場で夕飯もとって、魔女の館に戻ってきた頃にはだいぶ夜も更けていた。旅の間はゆっくりと見る暇もなかったが、その瞳は本当に刻々と色を変えていて、ましてやその顔が楽しそうに笑っていれば、それだけで見飽きることがない。我ながら重症だと思ったが、それでもにやける顔を何とか抑えるのが精一杯だった。


 館の入り口でアルヴィードとすれ違ったが、二人の姿を見て、何も言わずにそのまま姿を消した。ディルはその背を見送って、何か言いたげだったが、それでもあえて追おうとはしなかった。そのままあてがわれた部屋まで送っていく。

「少しは気分転換になったか?」

「うん、誰かと街をまわるなんて初めてで、楽しかったよ」

「そりゃよかった」

 頷いた彼に、ディルはほんのわずか首を傾げる。

「どうした?」

「何だろう、心臓ここが変な感じ」

 胸のあたりを押さえて首を傾げる様に、思わず苦笑する。複雑な生い立ちを抱えると、ここまで鈍いものだろうか。

「添い寝してやろうか?」

 耳元に口を寄せてそう囁いてみる。だが、相手はさらに一枚上手だった。

「いいの?」

 あっさりと頷いて嬉しそうに笑うその顔に、ため息を吐く。

「俺が今朝言ったこと、覚えてるか?」

 わずかばかり剣呑になった声に気づいたのか、少し迷うように目を逸らされた。それからぽつりと呟く。

「私は、女じゃないよ?」

「あのなあ、俺は今のあんたに惚れて、惹かれてるんだよ。だから、それでも構わない、と言ったら?」

「よくわかんない……けど、きっと普通の女の人みたいにやわらかくないし、気持ち良くないと思うよ?」

 その細い身体を、まじまじと見つめる。確かに背は普通の女よりは高く、胸元も薄い。だが、胸がないわけではないし、襟から覗く細い首や鎖骨の線は十分に男をそそるだろう。その白い腕も脚も。


 その首筋に唇を這わせ、白い肌に触れて快楽を与えたなら。


 容易に想像できてしまったその扇情的な姿態に、いつかと同じように、全力で後悔した。

「その気になれないなら、早いとこ部屋に引っ込んでくれ」

 我慢できなくなっちまう、と耳元で囁いてその額に口づける。もう十分に熱は煽られていたのだが。

 そんな彼の様子に気づいたのか、ほんのわずかその銀の眉がしかめられる。

「他の……女の人のところに行くの?」

 微妙なその表情の変化は、期待していいものだろうか。おかしな鼓動を打ち始める心臓に鎮まれと内心で呟きながら、その頭を撫でた。

「行かねえよ。この街にはそういう店はないからな」

 本当は、いくらでもやりようはあるのだけれど。だが、内心の呟きはさておきそう言った彼に、ディルはなぜか安堵したように微笑んだ。その笑みに、じわりと熱が上がる。このままこの扉の奥へと入ってしまえたらいいのに。

「おやすみなさい」

「ああ、また明日な」

 夜の色に染まった瞳がこちらを探るようにまっすぐに見つめてくる。その頬に触れるかどうか逡巡しているうちに、やがて、静かに扉が閉じられた。


 閉まった扉の前で、一つ息をつく。少なくとも何かが変化し始めたのは間違いない。この扉の向こうで、少しはディルも何かを想ってくれているだろうか。

 そうして、ふと、あの男はそれをどう思うだろうか、と考える。以前なら、間違いなく殺されるような気がしていたのだが、最近の様子を見ればあながちそうとも見えなかった。思っていたよりずっと——その不器用な行動に多々問題はあるが——ディルを大切に想っているように見える。


 だが、知ったことかと、ようやく割り切ることにした。

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