価値観
拓海との北海道旅行のために私は相変わらず風俗で荒稼ぎをした。拓海とはなかなか予定が合わず会えなくなっていたけれど、旅行に行くと思うと気にならなかった。
当日の飛行機の中では手を繋いで映画を見たり話したりして過ごした。新千歳空港に着いたときには感動のあまりすっかり惚けていた。
「空港ってすごく綺麗だよね。私、空港って好きだな」
「玄関だもんね。トイレも綺麗」
朝が弱い拓海に合わせて遅めの出発にしていたので、新千歳空港に着いたのは十四時前だった。このまま札幌市内のホテルに荷物を預けて、時計台やテレビ塔なんかを見て、薄野で夜ご飯を食べる予定になっている。のんびりとしたスケジュールだ。私たち二人は初めての北海道だったので、スマホに大変お世話になりながらその日の行程を進めていった。
「時計台って思ったよりも地味というか、写真撮るの難しいね」
札幌の市街地にいきなり登場する時計台は、写真を撮ろうとするとどうしても高層ビルが映り込んでしまう。時計台の造り自体は明治の名残が見えて可愛らしいのだが。私が微妙な表情で言うと、拓海も同意した。
「そうかも。てかここ、調べたら日本三大がっかり名所って言われてるらしい」
「めちゃくちゃ失礼な日本三大だね。他は何?」
「高知のはりやま橋と、長崎のオランダ坂」
「逆に行きたくなるね」
拓海が次はそこに行こうか、と笑ってくれたのが嬉しい。時計台からテレビ塔はとても近く、歩いて五分もかからずその姿を拝むことが出来た。大通公園と呼ばれる大きな公園の真ん中の道を歩くと、テレビ塔がちょうど綺麗に中央に鎮座して見える。公園には芝生が生い茂っており、花壇に咲いた花も色とりどりで鮮やかだった。
「札幌の街ってなんだかすごく綺麗だね」
「うん、ビルも多いけど、公園のおかげかな。すごく綺麗」
私と拓海は手を繋いで、大通公園の道をのんびりと歩いた。歩いてきた老夫婦のことや、咲いている花のこと、まるで旅行じゃないみたいに私たちはリラックスして話していた。大通公園から北海道大学は少し離れていたが、時間もあったので歩いて向かうことにした。大学へ向かう途中、北海道庁旧本庁舎を見ることができた。煉瓦造りの建物で、時計台と同様やはり明治時代の様相を感じさせる出で立ちだ。花壇の花や木々も生き生きとしており、植物の緑が煉瓦の色をより一層際立たせている。
「時計台よりだいぶすごくない?」
「時計台に失礼だけど、そうかも。小さい東京駅みたい」
私がそういうと、拓海は東京駅っていうのはどうなんだと困った顔をした。確かに、煉瓦というところくらいしか共通点はないかもしれない。旧本庁舎を通り過ぎてしばらく行くと、北海道大学が見えてきた。私たちが歩いていたところにちょうど正門があり、そこから大学の構内に入ることが出来た。キャンパスマップを見ると、大きすぎてとてもじゃないがすべては回りきれなそうだ。北海道大学の構内には大きな道路や横断歩道、交通標識もあり、それが私たちには新鮮だった。
「もう、街だね、これ」
「大学の中、普通に自転車乗っていいんだな」
私たちの大学では構内で自転車を漕いでいると警備のおじさんたちに叱られる。いや、そもそも乗る人などいないのだが。
「北大生は大学の中でジンギスカンパーティーが出来るらしいよ」
拓海が大学の入口でもらった大学のパンフレットを見ながら言った。
「えぇぇ。大学の中で焼き肉ってことでしょ?とんでもないね」
「自分が北大生だったら、ジンギスカンパーティーやるかなぁ。どうだろう」
「拓海はやるんじゃない?サークルの人とかと。私はやらないかも」
「結衣はそういうの好きじゃなさそう」
正解、です。同年代の人たちとわちゃわちゃしたり集団で動いたりするのが私はとても苦手だった。逆に拓海は好きだろうなあと思いながら、ジンギスカンパーティーを楽しむ学生の写真を眺めた。拓海はきっとこういう輪の中にいる人だ。私は絶対に入れない。そのことが時々私を酷く悲しませる。
夜、シンボルマークのようになっているニッカのおじさんの看板のお膝元で私たちは飲み歩いた。海鮮の美味しい居酒屋や、ジンギスカンが売りのお店などを訪れた。
「酔っぱらった?」
「酔っぱらったなあ」
相変わらず私たちは手を繋いで歩いていた。拓海が突然流行りのミュージシャンの曲を歌いだし、私も笑いながら一緒に歌った。恥ずかしくなるようなベタ甘のラブソングだ。
「ちょっと、恥ずかしいからやめようよ」
私が笑って拓海を小突くと、拓海はやだ、と歌い続けた。薄野はきらびやかで、にぎやかで、誰も私たち二人のことなんて気にしちゃいなかった。退屈そうに店先に立っているバニーガールも、酔って足元がふらついているサラリーマンも、にぎやかな大学生の集団も、みんなみんな自分の人生を生きている。
「今日も楽しかったし、明日も楽しみだ」
「そっか、明日も結衣と一緒か。嬉しいなあ」
最近会えてなかったから、と拓海が握った手に力を込めた。
「いつもあんまり会えなくてごめんね。本当は、結衣が寂しがってるのも、分かってたんだけどさ」
私はなんだか泣きそうになってしまった。赤い顔で呂律が回らなくなっているこの人がたまらなく愛おしいと思った。大事にされているのもよく分かるし、大事にしたいのも本当なのに、どうして私は風俗なんかやってしまっているんだろう。
「結衣は寂しがり屋なのに、いつも我慢してくれてるから。一人でどれくらい我慢してるのか俺は分からなくて、ごめんね」
拓海は知らないと思っていた。拓海の前ではいつもご機嫌でいたいと思って我慢していたのを、分かっててくれていたなんて。拓海はどうしてこんな私を好いてくれるんだろう。何もなくて、空っぽで、寂しさを埋めることだけに注力してしまっている私に、なんの魅力もないはずなのに。
「そんなに謝らないで。私、拓海といるだけで嬉しいし、幸せだから」
寂しいのも本当だけど、これも本心だ。私は涙が更に流れそうになるのをぐっと堪えて、拓海の手を握り返した。
電車に乗ってホテルに戻る道すがら、私たちはずっと手を繋いでいた。お酒を飲んで少しだけぼんやりした頭で、これからどうしようかと考えていた。帰ったら、お店に言ってやめさせてもらおう。良くしてもらった人たちに別れを告げるのは少し寂しいけれど、仕方ない。ちゃんとしなくちゃ。拓海は私の横で眠たそうな顔をしている。
「ホテル戻ったら、お風呂に入らなきゃ」
面倒だなあ、と拓海はぼやいた。
「入らないとだめだよ、今日たくさん歩いたし」
「そうだね」
二十二時半ごろ、私たちはホテルに到着した。キングサイズのベッドやガラス張りの風呂、窓からの景色でひとしきり盛り上がった後、私たちは順番にお風呂に入った。私は自分の使った後のお風呂に拓海が入るのが何となく恥ずかしかったので、あとから入らせてほしいとお願いした。
「お風呂あがったよ」
昼間はワックスで整えられていた拓海の髪がボサボサになっているのを見ると、なんだかちょっとほっこりするる。パタパタとお風呂場に入って、ほっと息を付いた。あぁ、どうしよう。やっぱり今日、しちゃうのかな。実をいうと、風俗を始めてからはなんだかんだ拓海とセックスをしていなかった。拓海はあまりガツガツしているタイプではなかったし、最近はお互い忙しくてお泊りすることも無かったからだ。久しぶりに出来るかも、と思うとドキドキもしたが、何故だか風俗にやってくるお客さんたちの顔が頭から離れなかった。近頃は拓海と体を重ねた回数よりも、知らないおじさんに奉仕する記憶の方が強く残ってしまっていて、性的な行為をイメージしようとすると、おじさんたちの顔の方が浮かんできてしまう。綺麗にしなきゃ、と丁寧に体を洗っている最中も、私は出勤前に浴びるシャワーのことを思い出してしまっていた。
私がお風呂から上がると、拓海はベッドに寝転んでいた。私がスッとベッドにもぐりこむと、拓海は私の身体を引き寄せた。
「なんか久しぶりだね、一緒に寝るの」
私が言うと拓海が頷いた。
「うん、久しぶりだ」
ぎゅっと抱きしめられて、拓海の胸板に顔を埋めた。私と同じ石鹸の匂いがする。拓海は私に触れたり、キスをしたりしてくれて、とても嬉しいはずなのに、私の頭の中ではお客さんたちの顔がぐるぐると離れなかった。力強く抱きしめられているのも、頬を撫でられるのも、キスをされるのも、太ももや背中を愛撫されるのも、全部、お客さんにもされたことがある行為だ。拓海のことは好きだし、もちろんお客さんたちよりも拓海の方が手つきだって優しい。でもお客さんの中にだって優しい手つきをした人はいるし、目を閉じたら拓海とお客さんの違いなんてきっと分からない。拓海の手も、唇も、大好きなのに、急に気持ちが悪くなってきてしまった。拓海とあの人たちは全然違うのに。私を見つめる眼差しだって違うのに。それなのに、私は今この瞬間、拓海とあの人たちとの違いが分からなくなっている。拓海の手が私の下に伸びた時、私はもうだめだと思った。
「ごめん」
そう言って私が拓海の手を止めると、拓海は驚いたような顔をした。
「……生理来たかも」
「……そっか、ごめん」
私は立ち上がり、生理用品を旅行鞄から取り出してトイレに入った。うずくまって、泣きそうになるのを必死でこらえた。拓海にはもしかしたら嘘だってバレているかもしれない。拓海はどう思っただろうか。私は拓海のことが本当に好きだし、拓海にキスをされるのも、触れられるのも大好きだった。それなのに、私は勝手にあの人たちと拓海を同じにしてしまっている。自分のせいだ。中途半端な気持ちで、風俗なんて始めるから。ごめんなさい、と小さな声で何度もつぶやいた。一度変わってしまった価値観はきっともう元に戻ることは無いだろうとも思った。
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