第9話 議政庁

 カールの話を聞いて、湊斗は考えさせられた。フロレンツの人徳の高さは実感している。カールの言うとおり、フロレンツならきっと良い王になるだろう。しかし、湊斗はまだアクスラントの事をほとんど知らない。そんな自分が、片方の話だけを聞いて決めつけてしまって良いのだろうか。外海人である湊斗の存在は、アクスラントにおいては大きい。自分は知らぬ間に、王宮の権力争いに巻き込まれているのだ。これから、自分の決断が思わぬ事態を招く事もあるかもしれない。

 ある日、湊斗は思い立ち、議政庁へと向かった。議政庁の敷地に入ると、すぐさま官吏たちの視線が湊斗に集中した。近くにいた官吏が、湊斗に歩み寄ってきた。

「外海の方ですね? こちらに何かご用ですか?」

「ローレンツ議政官にお会いしたいのですが」

 湊斗が答えると、その官吏が、

「承知致しました。では、お取次ぎ致します」と言って、湊斗を先導して歩き出した。

 湊斗は、一旦応接室に通され、そこでしばらく待たされた。それから、先ほどの官吏が再び現れて湊斗を連れ出し、ある一室の前まで来ると、その部屋のドアをノックした。

「連れて参りました」

「通して下さい」

 案内してきた官吏が、部屋のドアを開け、湊斗を中へ促した。湊斗が中に入ると、官吏は外に出てドアを閉めた。

 部屋は広くはなく、ドアの左手に執務机と椅子があり、ドアの前に二人掛けの背もたれ付きの椅子が置かれていた。部屋の奥には窓があり、窓の右手に書棚がある。

 ヴェルナーが執務机の椅子に座っていた。ヴェルナーは湊斗に、

「座って」と言った。

 湊斗は言われたとおり、長椅子に座った。部屋を見渡しながら、

「ここは、ヴェルナーの部屋?」と尋ねた。

「ああ。議政庁の中ではまだ下っ端だけど、警備上の理由もあってこの部屋を使わせてもらっている」

「そうなんだ、専用の部屋まであるなんてすごいね。警備上の理由って、どういうこと?」

「父が宰相だし、王女様の婚約者だから、過保護にされているだけだ」

「そっか。それはそうだよな。あ、仕事、大丈夫だった?」

「ああ。今日は書類の確認の仕事だから大丈夫だ。大方片付いたし」

 そう言って、ヴェルナーが立ち上がると、湊斗が座っている長椅子の隣に座った。そして、

「本当に来るとは思っていなかった」と言った。

 湊斗は、ヴェルナーが議政庁に来ても良いと言ってくれたのは、社交辞令だったのだろうかと慌てた。だとしたら、真に受けてやってきた自分は、図々しい奴だと思われているかもしれない。

「来ちゃまずかった?」

「いや。そんな事はない」

 湊斗はほっとして、「よかった」と胸を撫でおろした。

「ミナトは毎日どんな風に過ごしてるんだ?」

「毎日学者たちが来て、色々訊かれて、それが終わると退屈だから、あちこち歩いたりしてるよ」

「そうか。それでは時間を持て余しそうだな」

「正直、そうだね」

 不意に、ヴェルナーが視線を落とし、湊斗の右手を握って持ち上げた。湊斗は思わずドキリとした。

「王太子殿下から頂いた腕輪はしないのか?」

「ああ、うん。こないだみたいに落としたりしたら大変だから、部屋に置いてあるよ」

「していないと、王太子殿下はがっかりされるのではないか?」

「それは……、そうかな」

 ヴェルナーが湊斗の手を握ったままだったので、湊斗は恥ずかしくて居心地が悪かった。それで、書棚の方に視線を移し、

「本、見ていい?」と言って、立ち上がった。

「いいよ」

 湊斗は書棚に近付いた。

「これ、ヴェルナーの本?」

「いや、議政庁の物だ」

「へえ」

 そういえば、アクスラントに来て文字をきちんと見た事はなかった。学者たちが書いているのは見ているが、良くは見えていない。言葉はなぜか通じているが、文字は一体どうなっているのだろうと興味が湧いてきた。湊斗は一冊を手に取って開いた。そこには、縦書きで流れるようにつながった文字が書かれている。

「これは……」

 思わず、湊斗はつぶやいた。それは、歴史の資料集で見た平安時代頃の文字に似ていた。何となく読めるところもあるが、ほとんど読む事はできない。

 湊斗が文字を見つめていると、いつの間にかヴェルナーが湊斗のすぐ後ろに立ち、湊斗の肩越しに本を覗き込んできた。

「読めるのか?」

 ヴェルナーとの距離の近さに緊張しつつも、湊斗は、

「読めそうで読めないよ」と答えた。

「言葉は通じても、文字は違うんだな」

「そうみたいだね」

 湊斗は本を閉じて元の場所へ戻すと、ヴェルナーに触れないよう、ヴェルナーと書棚の間を横に移動して長椅子に戻って座った。ヴェルナーも湊斗の隣に戻って来た。

「ここでの生活はもう慣れたか?」

「うん。最初よりはだいぶ慣れてきたかな」

「初めは驚いただろう?」

「そうだね。外海にいた時は、海の中に国があって人が住んでるなんて思ってもみなかったから」

「帰りたいか?」

 ヴェルナーの質問に、湊斗は考えを巡らせた。もちろん、帰れれば良いとは思うのだが、不思議と、湊斗は絶対に帰りたいという気持ちにはならなかった。

「俺はたぶん、海に落ちて溺れた時に本当は死んでいたはずなんだ。だから、こうしてここで生きていられるだけでも良かったんだと思う。今ここにいる俺は、一度死んで生きるのをやり直してるんじゃないかって、思えてくるんだ」

「随分と達観してるんだな。そんな風にはなかなか思えないはずだ」

「そうかな」

「しかし、私もミナトと同じ状況に置かれたら、同じように考えるだろう」

「え? 本当に?」

「ああ。我が身を憐れんで、ただ帰りたいと嘆くより、現状を受け入れて道を模索した方が建設的だ」

「うん。本当にその通りだよ。暗い気持ちでいるより、ここでの生活をより良くする事を考えた方がいいよね」

「まだしばらくは外海の書を作るための聞き取りは続くだろうが、それが終わった後どうするか、ここでの生き方を考えておいた方がいいかもしれないな」

「確かにそうだね。俺はアクスラントの事をまだほとんど知らないし、文字すら読めない。まずは、ちゃんとここの事を勉強しなくちゃ。外海の事を訊かれるばかりで、俺はまだここの事をあまり訊けていないから」

「それなら、私が教えてやろうか」

 ヴェルナーの申し出に、湊斗は驚いた。本当は色々訊きたい事があるのだが、フロレンツは忙しくてゆっくり話す時間が持てないし、学者たちには訊きにくくて困っていた。

「本当に?」

「ああ。文字の読み方や、アクスラントの生活習慣、他にも色々あるだろう?」

「ありがとう。そうしてくれると助かるよ」

「じゃあ、時間がある時にここに来ればいい。私も常にここにいられるわけではないが、ここで待っていれば会えるから」

「うん。じゃあ、そうするよ」

 そう言いつつ、湊斗の脳裏にカールの言葉が蘇ってきた。これも、湊斗を味方に引き入れようという思惑の一端なのだろうか。だとしたら、あまり深入りしない方が良いのかもしれない。それでも湊斗は、目の前にいるヴェルナーの事をもっと知りたくて仕方がなかった。

《本当に危なくなったら逃げればいいよな》

 湊斗はそう思って、心に浮かんだ不安を打ち消した。

 その翌日から、湊斗は時間が空くと議政庁を訪れるようになった。そして、ヴェルナーの執務室で、ヴェルナーからアクスラントの事を色々教えてもらった。ヴェルナーは湊斗に親切で、陰謀を抱いているとはとても思えなかった。

 ある日、湊斗はいつものようにヴェルナーの執務室に入った。ヴェルナーはいる時もあればいない時もある。今日は姿がなかった。

 湊斗は書棚に向かい、本を一冊手に取った。アクスラントの文字は基本的にひらがなの崩し文字だから、文字さえ覚えてしまえば読むのは容易だった。執務室にあるのは、法律関係の書物が中心だ。外海では法律に全く興味がなかった湊斗だが、アクスラントの事を知るには興味深い教材だった。

 湊斗は長椅子に座り、書物を読みながらヴェルナーを待った。

 しばらくして、部屋のドアが開き、ヴェルナーが入って来た。そして、湊斗の隣に座り、湊斗の手元の本を覗き込んだ。

「そのうちに、ここの本を全部読んでしまうのではないか?」

「まさか、全部は読めないよ」

「議政庁で働けるようになるかもしれないな」

「そうなったら、俺がヴェルナーの仕事やってあげるよ」

「ミナトは私を失業させる気か?」

「ヴェルナーの仕事もちょっとは残しておいてあげるよ」

 湊斗がいたずらっぽく笑って見せると、ヴェルナーが湊斗から本を取り上げた。

「仕事を取られては大変だ」

「あ、返してよ。ケチ」

 湊斗は本に手を伸ばしたが、ヴェルナーは取られまいと本を湊斗から遠ざけた。こんな風にふざけ合ったりするのが自然にできるぐらい、二人の距離は縮まっていた。湊斗はヴェルナーと過ごすのが楽しかったが、ヴェルナーの方は利害のために自分と仲良くしようとしているのだろうという気持ちが常につきまとった。ヴェルナーの本心は、うかがい知る事ができなかった。

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