第2話 西の宮

 二人のいた場所の近くに高い壁に囲まれた立派な建物が建っていた。ヨーロッパの城のような造りだ。

 フロレンツが門に近付くと、両脇にいる門兵が一礼した。

 湊斗はフロレンツについて門をくぐった。門の先は石が敷き詰められた広場だった。湊斗は辺りを見渡しながら、

「ここは?」とフロレンツに尋ねた。

「西の宮だよ。アクスラントには東西南北に離宮があるんだ」

「へえ」

 その時、目の前の建物の扉が開き、人が三人出て来た。彼らはフロレンツと湊斗の姿を見て驚いたような表情を浮かべていた。

 フロレンツが近付くと、三人が頭を下げた。その内の一人が、

「気付いたのですね」と、湊斗を見ながら言った。

「ああ。風呂の用意と、あと、着る物を準備してくれ」

 フロレンツが言うと、命令された人が一礼し、

「かしこまりました」と言った。

 西の宮と呼ばれるその建物は、立派な屋敷だった。内装は、石が磨かれた床に、柱には彫刻が施され、美しい壁紙が貼られた華麗な造りだ。

 湊斗は浴室で体に付いた海水を流し、用意された服に着替えた。ややハイネックの白いシャツに開襟のえんじ色のベスト、同じくえんじ色のパンツだ。ファスナーはなく、すべてボタン留めだった。これまで来ていた服とは全く違う。演劇の時に着る衣装のようだと湊斗は思った。

 湊斗は使用人に案内され、一室に通された。その部屋にはテーブルとソファーが置かれている。どうやら応接室のようだ。奥のソファーにフロレンツが座っていた。テーブルの上には茶器と菓子が用意されている。

 湊斗を見たフロレンツがほほ笑んだ。

「そういう服も似合うね」

「そうかな?」

 湊斗は自分が着ている服を見回した。

「そこに座って」

 フロレンツに促され、湊斗はフロレンツの正面のソファーに座った。

 フロレンツがポットからカップにお茶を注いで湊斗の前に置いた。

「ありがとう」

「だいぶ体が冷えていたから、飲んで温めた方がいいよ」

「いただきます」

 優しいなと思いつつ、湊斗はお茶を一口飲んだ。お茶は紅茶とか緑茶とか、そういう味ではなく、昆布茶のような味のするお茶だった。

「ミナトはどうしてアクスラントに来たんだ?」

「分からない。友だちと一緒にボートに乗っていただけなんだ。晴れていたのに突然ボートが揺れて転覆して、俺も友だちも海に落ちた。それから記憶がない」

「そうか……。戻りたい、よな?」

「うん」

「帰してあげたいけど難しいかもしれない。誰もアクスラントから出た事はないんだ」

「そうなんだ……」

 湊斗は落胆した。

「でも、命が助かったのは運が良かったよ」

 フロレンツの言うとおり、湊斗は運が良かった。アクスラントに流れ付かなければ、湊斗は溺れ死んでいたはずだ。

「ここは海の中なんだよな……。アクスラントって、ずっと昔からあるの?」

「アクスラントがいつからあるのかは分からない。アクスラントに残っている一番古い記録は五百年前のものだから、少なくとも五百年以上は存続してるって事になる。本当に不思議だよ」

 アクスラントの起源が想像できない。一体どうして海の底に国が生まれたのだろうか。先ほど見た分厚いガラスのような壁が自然にできたとは到底思えない。何か人知を超えた力が働いているような気がした。

「フロレンツは王子様なんだよね? って事は王様がいるの?」

「うん。僕の父がアクスラントの王だよ」

「世襲制なんだ」

「絶対そうとも限らないけど、父も祖父も王だった」

「お城とかあるの?」

「うん。アクスラントの中心に王宮がある。そして、東西南北に離宮が一つずつ。今日はもう遅いからここに泊まるけど、明日、ミナトを王宮に連れて行くよ」

「王宮に?」

「うん。外海人が来たって事は、アクスラントにとっては大ごとなんだ。王様に報告をしなければならない」

「大丈夫かな?」

 湊斗は急に不安になった。珍しい人間だからと、ひどい目に遭うような事はないのだろうか。

 湊斗の不安そうな表情を見て、フロレンツがほほ笑んだ。

「心配しなくても大丈夫。外海人は貴重な情報源だから、貴賓として丁重に扱われるよ。まあ、ちょっと、色々な人に色々な事を訊かれたり、見た目で外海人だと分かっちゃうから好奇の目で見られたりはするかもしれないけど」

「そういえば、アクスラントでは黒髪とか黒い目は珍しいの?」

「うん。アクスラントの人たちはもっと薄い色をしている。濃い色の人でもミナトみたいに黒くはないな」

「そうなんだ。差別されたりしないかな?」

「それは人によるかもしれない。でも、ミナトはきれいな見た目をしているから、いい意味で珍しがられるというか、人を惹きつけると思うよ」

 フロレンツに外見を褒められたのはこれで二度目だ。湊斗は思わず顔を赤らめた。

 ふいにフロレンツが、

「暗くなってきたね」と言って立ち上がると、部屋の入口近くへ行き、壁から飛び出た小さなつまみのような物を下に下ろした。すると、部屋が明るくなった。そういえば、この部屋の天井にはランプのような形の照明器具が下がっていた。部屋に入った時は気にしていなかったが、アクスラントには電気が通っているようだ。

「アクスラントって電気が通ってるんだね」

 フロレンツが戻って来て、湊斗の正面のソファーに腰を下ろした。

「うん。通ってるよ」

 建物の雰囲気や人々の服装から、文明が遅れているのではないかと思っていたが、そうではないようだ。

「じゃあ、家電とか、電話とか、もしかして、テレビとかインターネットとかそういうのもあったりするの?」

 湊斗が尋ねると、フロレンツが首を傾げた。

「今ミナトが言った物は何一つ分からないよ」

「電気は何に使ってるの?」

「照明だけだよ」

「え? そうなんだ」

 どうやら、地上ほどの文明はやはりないらしい。

「外海では電気を他に活用しているのか?」

「うん。電気で動く機械が色々あって、洗濯とか掃除をしたり、離れた人と会話ができたり、映像が見れたり、とにかく、色々な事に使われてるよ」

「へえ。すごいな。そういう事ができるようになれば生活が向上しそうだ。方法を教えてもらえないか?」

 湊斗は首を振った。

「使ってはいたけど、どういう仕組みなのかは俺には分からないよ。言われてみれば、発明した人ってすごいかも……」

「そうなのか。ミナトは外海では何をしていたんだ?」

「高校に通ってた」

 湊斗はこの世界には高校という物があるのだろうかと思った。案の定、フロレンツは少し考えるそぶりを見せた。

「学生だったという事か?」

「うん」

「ミナトはいくつだ?」

「十六だよ」

「僕の二つ下か。外海にも学校はあるんだな。外海はどんな世界だ?」

 フロレンツは興味津々といった様子だ。

「こことは全然違う世界だよ。建物の形も全然違うし、道路があって、車が走ってて、電車も飛行機もあるし。ここは海の中だから、飛行機は絶対ないだろ?」

「ヒコウキというのは何?」

「空を飛ぶ乗り物だよ。あ、空は分かる?」

「うん。この世界の構造は学んでいる。アクスラントの外は海で、海の外には広い土地がある。海の外の世界は、空に覆われている。合ってるかな?」

「うん。合ってるよ」

「これも、過去に外海から来た人から得た情報なんだ。天蓋が海ではなく空なんだろう?」

 今度は逆に湊斗が首を傾げた。

「『天蓋』っていうのは、上に見える海の事?」

「うん。そうだよ」

「じゃあ、そのとおりだよ。天蓋が水じゃなくて空になってる。空気のある空間で、もっと上の方は宇宙だけど」

 自分で言いながら、湊斗は不思議な気分になった。これまで当たり前のように見てきた空がなんだか神秘的な物のように感じる。

「じゃあ、さっきのヒコウキというのは、その空間を飛ぶ事ができる乗り物という事か」

「そうだよ」

「すごいな。アクスラントでも、天蓋に近付こうとたくさんの学者や発明家たちが飛ぶ方法を見つけようとしたけど、成功した事はないんだ。外海人は飛ぶ術を手に入れているんだな」

「飛行機は確かにすごいと思うよ。あんな鉄の塊が飛ぶなんて、不思議で仕方がない」

 フロレンツが目を丸めた。

「ヒコウキというのは鉄の塊なのか?」

「うん。そうだよ。ものすごく大きな鉄の塊で、人を何百人も乗せて飛ぶ事ができるんだ」

「そんなに? すごいな。外海人の科学技術はすごく進んでいるんだな」

「確かに進んでいるかな」

「他には? 何があるんだ?」

 フロレンツが身を乗り出した。フロレンツは自分より年上だが、好奇心に目を輝かせる表情はまるで子供のようで、どこか可愛らしい。

 フロレンツが「そうだ」と言って立ち上がり、

「ちょっと待ってて」と部屋を出て行った。そして、しばらくして戻ると、湊斗の前にインク壺とペンと紙を置いた。

 それから湊斗に、

「話だけでは分からないから、絵を描いてよ」と言った。

「俺、絵心ないけど……」

「なんとなくでいいから」

「分かったよ」

 こういうタイプのペンは使った事がないが、映画か何かで見た事はある。湊斗はペンの先をインク壺の中に入れてインクを付け、紙に線を描きだした。

「飛行機はこんな形。電話は、家に置いておくタイプと持ち運ぶタイプがあって、こんな形。テレビは……」

 それから、湊斗はフロレンツが珍しがるだろうと思われる物を絵にしながら一つ一つ説明をした。フロレンツは終始目を輝かせ、楽しそうに湊斗の話に聞き入った。

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